探偵達の鎮魂歌 |
瞼を開いて一番に見えたのは、白い天井だった。一目見ただけで、ああ、病院だな、と察することのできる解りやすい色に目を瞬き、ゆっくりと身を起こす。ずきりと走った左足の痛みに呻き声を上げ、思わずその声が誰かに聞こえやしなかっただろうかと辺りを見渡した。 部屋には自分一人だけしかおらず、その事にまずほっと息を吐く。事情と気性を知る隣家の博士は、人が居ては熟睡できぬ自分を気遣って個室を頼んでくれたらしい。年月には勝てず老朽化が伺えるものの、十分に清潔にされている室内は広いとは言い辛かったが、一人きりの静けさに勝るものなどない。 息を吐いた新一は、そっと己の唇に触れてみる。 自分の体温以外のぬくもりがまだそこにあるようで、あの長い指が触れたように自分の唇を撫でてみた。 姿の見えぬ依頼人から、脅迫とも呼べる方法で依頼を受けた。謎を解く過程で大学へ赴き、腹が減っては戦ができぬと主張する誰かさんのために食堂で軽い食事を取った。まずいまずいと言いながらカレーをかっくらっていた平次の傍らで、新一はコーヒーとトーストを頬張った。ただの食パンにバターとジャムを塗っただけで、これだけで二百円も取るなんて暴利じゃねぇのか、とぶつくさ言いながらも食べ終えると、ふいと唇の端に暖かいものが触れた。驚いて振り返ると、あーあー、と呆れた目が新一を見下ろしていた。 「口の端に食べかすなんかつけて…ガキやないんやから…」 平次の言葉に向かいで紅茶を飲んでいた白馬がくすりと微笑ましげに笑む。 「子供じゃないって、子供相手に言う言葉じゃありませんよ、西の名探偵さん」 「お? あ、あー! そりゃそやな。いやマッタク」 だははは、とあからさまに胡散臭い笑顔で誤魔化そうとする平次はおそらく白馬の存在を忘れていたに違いない。いつものように工藤と呼びかける口を閉じ、あーあ、とまた苦笑を馳せた。 「ジャムも付いてんで」 唇をすいと撫でた指先に、トーストに塗りつけてあったマーマレードが付着していた。平次はそれを当然のように己の唇に運び、ぺろりと舐めて、うわ、甘っ、と顔を顰めた。新一は眉を寄せて、ジャムなんだから甘いのは当たり前だろうが、とぼやいた。 仄かに熱を持った頬を気取られぬように俯き、アイスコーヒーのストローをくわえた。ずるずると音を立てながらストローで啜る新一の側で、あ、ほんでな、と平次が白馬に何かを話しかけていた。 あの時平次は、何を白馬に尋ねていただろうか。 ベッドの上でぼんやりとそんな事を思い出していた新一は、側にない平次の姿に眉を寄せた。 新一も怪我人ではあるが、平次のほうこそ怪我人だ。清水玲子のワルサーに打たれた足や腕は確かに出血をしており、レッドキャッスルを出る際に新一を負ぶっていたせいで余計に悪化したはずだ。 ここが病院なら、平次もどこかに個室を宛がわれているだろう。 そう考え至った新一は、ベッドを滑るようにして下り、ひょこひょこと足を引き摺りながら引き戸の入り口へ近付いた。松葉杖はまだ用意されていないが、がっちりと固定された足は指先を床に付けるだけで痛む。部屋を抜け出し、それなりに往来のある廊下を壁に縋って歩いていると、こらっ、と後ろから突然叱られた。 「駄目じゃないの、勝手に病室から出ちゃ!」 驚いて振り返ると、そこには見知らぬ看護婦の姿があった。今時珍しくもないが、髪を茶色に染め、可愛らしいピンク色の花のピンで髪を纏めている。顰め面を装って、看護婦は新一の額をぺしっと指先で突いた。 「どこに行くつもりだったの、江戸川君? 骨にヒビが入ってるんだから、せめて今日一日はじっとしてなきゃ駄目よ。ほら、病室に戻って…」 追いたてようとする看護婦の手に抗って、新一は慌てて壁に縋った。 「は、服部平次の病室は、どこですかっ?」 口早にそう言うと、あら、と看護婦は目を丸くした。 「僕と一緒に病院にきたと思うんですけど…」 精一杯いたいけな小学生を演じてみせれば、看護婦はいとも簡単にあっさりと教えてくれた。 「服部君ならそこの病室よ。でも、まだ麻酔が効いてるはずよ。銃に撃たれたって言うのに、遊園地なんかで遊んだせいで傷が悪化して熱持ったりしたもんだから…って言っても君には解んないか。要するに、服部君はまだ寝てるのよ。お見舞いするのなら、明日にしなさい」 傷が悪化した、と言う言葉に、新一は眉を寄せた。 遊園地で確かにスーパースネークに乗り、元太が取り忘れたVIPパスのせいで大騒ぎをしてはいたが、多分悪化したのは新一を負ぶったせいだろう。 だから、一人で歩けると言ったのに。 むぅ、と唇を曲げる新一の表情をどう捉えたのか、看護婦は大きな溜息を吐いた。 「仕方ないわねぇ。ちょっと顔見たら、すぐに病室に戻るのよ? いーい?」 平次の病室だと示した部屋の引き戸を開け、看護婦は足を引き摺る新一を中へ入れてくれた。 カーテンの閉じられた中で、平次は静かにベッドの上で仰臥している。閉じられた瞼がぴくりとも動かず、確かに麻酔が効いているようだった。 看護婦は新一が病室に入ると、すぐにどこかへ行ってしまった。 閉じられたドアをちらりと振り返って確認し、新一はひょこひょこと足を引き摺りながらベッドに近付いた。 平次の顔を覗き込もうとして、身長が足らないことに気付く。 高校生の身長であったのなら楽にできることが、小学生の身体ではそうできない。新一はベッドを回り込んだ向こう側に置いてあった椅子に乗り、それを伝ってベッドに上がった。 そっと顔を覗き込むも、苦しそうな様子はない。片手で体重を支え、もう片方の手で額に触れてみるが、それほど高いというわけでもない。熱が出たと看護婦が言ってはいたが、解熱剤でも処方されたのだろうか。 静かに呼吸を繰り返し、顔色もいい平次の様子にほっと息を吐いた。 腕に巻かれた包帯もきちんと医師の手当てを受け、血も滲んでいない。 自分よりもはるかに多くの傷を負った平次の身体を見下ろし、新一は自分がふがいなかった。 自分は、いつも平次に庇われてばかりだ。 盾で銃弾を防ぎながらも、飛び出した平次は打たれ、それでも新一を守ろうと身を張った。手にしていた武器をそのまま振り下ろさず、新一が使えるようにと天井へ突き刺した。そして清水に向かって盾を突き出し走り、足にも傷を負った。 新一は毛布の上に投げ出されていた平次の手を見下ろした。 小さく縮んだ新一を、平次は決して子供扱いはしない。だが彼は、いつも新一が気付かぬほどさりげなく助けてくれる。 新一は大きな手のひらに、そっと手を触れさせた。 小さな子供の手は、平次と比べるとなんとも小さく無力で頼りにならない。平次の手を包み握り締めることも叶わず、人差し指を掴んだ。手の中にある暖かさに、思わず目頭が熱くなる。 守られてばかりでなく、守りたいと思う。 助けられてばかりでなく、助けたい。 だが、この身体ではそれもままならない。 知恵や知識はあっても、いざと言う時の盾にもならない小さな身体は、役に立たないことこの上ない。 新一は平次の大きな手のひらに、額をくっつけた。 「……早く、元に戻りてぇよ……」 大事なものを、守れるだけの力を持った身体に戻りたい。 呻くように告げた言葉は、誰に聞かれることもなく、静かな病室の中に霧散する。 新一はしばらく、縋るように平次の指を握り締めていた。 熱いくらいの暖かさに目を覚ますと、身体の右半分だけがなにやら暖かい。何だろうとぼやけた頭とぼやけた視界で見下ろせば、自分の手のひらを枕に、小さな身体が窮屈そうに寄り添っていた。 「うわっ、なんやの!」 驚いて跳ね起きると、足と腕が焼けるような痛みを訴えた。呻かなかったのは側にいたのが新一だからだ。惚れた奴にそんなみっとみないとこ見せられるかい、と脂汗を滲ませながら痛みを堪え、どうにかこうにか息を整える。 それから平次は、改めて傍らで寝入っている小さな身体を見下ろした。 新一は平次の手を枕にし、その手の人差し指をなぜか握り締めている。安らかな顔をして眠っているが、左足に包帯を巻き、痛々しいことこの上ない。 だが、寝顔はあどけなく、平次は思わず頬を緩めた。 掴まれている右手を動かすわけにもいかず、身体を横にして左手で髪を撫でた。 目に届く範囲だけをざっと確認しても、新一に左足以外に怪我らしいものはない。擦り傷もなく、平次はじんわりと滲み出てきた安堵に息を吐いた。 今度もまた、守ることができた。 新一は自ら危険の渦中に飛び込んでいく。自分はそうではないとは言いがたいが、自分のことなどはどうでもいいと平次は思っていた。傷付くことには慣れているし、傷付いてどうのこうのと騒ぐほどのものでもない。 だが、新一は違う。 新一は色んなことに十分すぎるほどに傷付いた。人を救えなかった、殺してしまったと悔い、それが二度起こらぬように自分を戒めている。たくさんの色んなものを背負い、たくさんの色んなものに気を張り、たくさんの色んなものを守ろうと全身全霊をかけている。 だから、新一は傷付いてはいけない。いや、傷つけさせてはならないのだ。 自分が側にいる限り、新一を傷つけさせないと、平次は思っていた。それが、自分の存在理由だからといつの頃からか思い込んでいるほどだ。 左手でそっと髪を撫で、ぬくもりが側にある愛しさに思わず笑む。 「……もうちょい、ちっさいままでおってな」 新一が元に戻ることを切望しているのは知っているが、今のままであれば平次が助けることができる。だから、もう少し、ほんの少し、このままでいてほしい。 勝手な願いだとは思いながら、平次はそう口にする。 本人に聞かれたら、それこそ足蹴にされそうなものだ。 だから平次は新一が眠るその時にこっそりと願いを告げる。 気付かれぬように祈る願いは、平次がひとつだけ隠し持つ新一への裏切りだった。 後ろめたい思いを持ちながらも、あどけない寝顔を眺めていた平次は、軽く病室のドアをノックする音に、開いてるでー、と小さな声で返事をした。からりと引き戸を開けて顔を出したのは、新一に平次の病室を教えた看護婦だったが、平次がそれを知るはずもない。 「やっぱりここだ」 看護婦は平次のベッドで眠っている新一を見つけると、まったく、と言うように溜息を吐いた。 「すぐに戻るようにって言ったんだけど、今見たら姿がないから、もしかしたらまだここかと思って」 「くど…いや、コナンのことか?」 平次が掴まれていない方の手で、眠る子供を示して見せれば、看護婦は呆れたような顔をして頷いた。 「そうなのよ。服部君のお見舞いに行くんだって言うから、病室に入れてあげんたんだけど…でも、眠ってるのならまだいいわね。一応、江戸川君も安静にしてなくちゃいけない身体だからね。だけど、服部君、随分この子に懐かれてるみたいね」 新一の握り締めた平次の手に気付いたのだろう。看護婦がくすくすと笑うので、平次はなんだか照れくさくなってへらりと笑みを浮かべた。 「そうやと嬉しいんやけど……。あ、そうや。すんませんけど、なんかかけるもん貸してもらえません? このままやと風邪引きよるかもしれんし……せやけど俺は動かれへんし」 平次が被っている毛布をかけてやってもいいのだが、新一は平次の毛布の上に横たわっているので、そうするにはまず新一をどかさねばならない。片手を取られたまま、新一を起こさずにそれをやってのける自信はなく、平次は看護婦にそう頼んだ。看護婦が二つ返事で部屋を出て行き、しばらくするとブランケットを持ってきた。子供の小さな身体だ。ブランケットを二つ折にして被せれば、十分に隠してしまえる。 「目を覚ましたら、ちゃんと病室に戻るように言ってね」 「そらもう」 「それじゃ、お大事に。大人しく寝てなさいよ」 しっかりと釘を刺す看護婦の仕草が幼馴染に似ていなくもない。女っちゅーのはかなわんなぁ、と呟きながら、平次は新一を見下ろした。普通の音量で話していたにも関わらず、新一は目を覚ましそうにない。寝息も静かで、随分と深い眠りに入っているようだった。 穏かな寝顔を見ていると、こちらも眠くなってくる。それに子供の体温は高いのだ。それがぴたりと寄り添っているのだから、眠気を誘うのも当然だった。 平次はふわぁと大きな欠伸をすると、新一の髪をぐしゃぐしゃと左手で掻き回し、ごろりとベッドに横になる。片手を取られたままなので随分と窮屈ではあるが、嫌ではなくむしろ嬉しいくらいだ。身体を横にし、手を枕にする新一を抱きこむように背に左手を回す。 傍らのぽかぽかと暖かいぬくもりを感じながら、平次は毛布を引っ張り上げ、またひとつ欠伸をし、それから目を閉じた。心地よい眠りはすぐに訪れる。 一日方々を駆けずり回って事件を解決した探偵たちは、誰に邪魔されることなくつかの間の休息に身を沈めて行った。 |
というわけで平新です。平新なのか? まだキャラがうまくつかめてないせいで、曖昧な部分多々ありですが。コナンの姿の時は新一を『コナン』と書いたほうがいいんだろうか…でも身体はコナンでも中身は新一だしなぁ。難しいなぁ。 それにつけても平次の関西弁をもっと書きたかった。やっぱ関西出身ってことで、関西弁にはちょっとときめきを覚えます。関西でも地方によっては微妙に言葉が違うので、私は京都風なんだよなぁ…『〜どす』とは言わないけれど(笑)。なんや妙なとこあっても見逃したっておくれやす。 そんなわけで白黒に引き続き白馬萌えの卯月さんへ(笑)。 |