混乱にくちづけ

 はふ、と聞こえた溜息のような欠伸に平次は顔を向けた。背の高い書架に挟まれ、古い紙の匂いのする通路に並んで立った新一が、手にした洋書に目を落としている。片手で口元を覆い、噛み殺しきれなかった欠伸を放つ新一の目尻に、滲み出た涙が浮かんでいる。
「なんや」
 辺りに落ちた心地よい静けさを壊さぬように、平次は小さな声を新一へ向けた。
「また夜更かししとったんかいな」
 呆れたような顔をする平次こそ疲労の色が浮かんでいるが、それは仕方のない事だ。昨夜遅く、学校を終えてすぐのバイトが終了したその足で、バイクを飛ばして東京までやってきたのだ。
 高校の創立記念日と祝日とが運よく土日を挟んで思いがけない四連休ができた。これはもう工藤に会いに行けっちゅう神様の思し召しやと思うねん、と呆れ果てる幼馴染に言い訳をしながら家を出た。高速道路代をケチって下道をほぼノンストップで走り、東京の工藤邸に到着したのは朝早く。渡されていた合鍵を使って家の中に入り込み、勝手に使えと以前から与えられている客間へ入る。足音もドアの開閉の音すらも立てなかったというのに、バイトとバイクで滲み出た汗と身体にこびりついた排気ガスを洗い流そうと風呂場へ向かう平次の耳に、二階からの軽い足音が聞こえた。平次の部屋として新一には認識されているらしい客間は一階にあり、新一の部屋は二階の奥にある。ふと顔を上げれば、階段の手すりから身を乗り出している新一の姿があった。
 きたのか、と目を丸くする新一に、おう、と返事をして、おはようさん、と声をかける。おはよう、と滲むように笑う新一の顔が綺麗だったと平次は思い出し、目を細めた。朝早くであるのに寝ぼけた様子のなかった声にも気付いていた。
「工藤のこっちゃ。どうせまた推理小説読んどったんやろ」
 家の中に何もないからと喫茶店のモーニングで朝食を済ませることを選択し、そのまま杯戸町の図書館に訪れていた。借りている本を返すと言っていた新一は、そのまま新しく借りる本を選び始めた。それに習って平次も本を選んでいたのだ。
「……父さんの新作が送られてきてさ」
「え、なんで? 工藤優作の新刊、発売日は二月以上先やで?」
「父さんがフェデックスで原稿を送ってきたんだよ。誤字脱字をチェックしろとかって……俺は編集じゃねぇっつーの」
 ぶつくさと新一は呟き、またも眠そうに欠伸を放ったが、目を真ん丸にしながらも期待に満ちた目をしている平次に気付くと、あ、と声を上げて、にんまりと笑った。
「見せてやんねぇぜ」
「なんでぇな! ええやん、ちょっとくらい…!」
「関係者以外は読んじゃいけねぇんだよ。契約で決まってんだ」
「俺かて関係者やん! 工藤の恋人やもん、俺にかて読む権利が…痛ッ!」
 手にしていた洋書の分厚い表紙で思い切り打たれ、かなりいい音の鳴った腕を押さえて平次は顔を顰めた。
「何すんねん」
「な、なに馬鹿なこと言ってんだよ!」
 顔を真っ赤にしている新一が洋書を両手で持ったままで、忙しくあたりを見渡した。
「誰かに聞かれたどーすんだ!」
 小声でながら語気強い新一に、ああなるほど、と平次も狭い書架の向こうへ顔を向ける。両側から抜き取れる奥のない書架は背が高いが、目隠しにはあまりならない。男が二人、洋書の書架の間で交わす会話も姿も、場所によっては筒抜けなのだ。
 誰かに聞かれたら、と自分達の体裁を心配するのよりも、恥ずかしさの方が表立っているように見える新一に、平次はニッと唇の端を持ち上げる。取り澄ました顔は崩してやるのが楽しいし、冷静沈着な新一相手ならなおの事、そのポーカーフェイスを崩してやりたいと思うのは人の常というものだ。
「そんなん今更気にせんでもええやん」
 すっと手を伸ばし、新一がまるで盾のように持つ洋書を抜き取った。あ、と顔を上げる新一を覗き込むように、平次は身を屈める。息が触れ合いそうなほど寄った平次の顔に咄嗟に新一は身を引いたが、生憎逃げ場はなかった。借り手など滅多にないだろう洋書の書架は、図書館の最も奥まった場所にあり、尚且つ新一が好むようなものは壁際に配列されているのだ。新一が引いた足は壁に辺り、ハッと見上げた目は逃げ場のない自分の立場を察したようだった。
「なぁ工藤。キスしてもええ?」
「はぁっ? 何言ってんだ、バーロー! ここがどこだか解ってんのかっ!」
 思わず大声で怒鳴った後で、新一は顔色を変えた。どこからかわざとらしい咳払いが聞こえたからだ。案外近い、と焦る新一を見下ろしながら、平次はにまにまと笑みを浮かべる。
「ええやん、ちょっとくらい」
「いくねぇよ! どこで何を考えてんだよ!」
「そんなん、どこでもいつでも工藤のこと考えてんねんで? そやからバイト終わってすぐに東京来たんやん。健気な恋人に、ちゅうのひとつくらいしてくれてもええんとちゃうの?」
 小声で諌める新一とは違い、平次は余裕に満ちていた。焦っている新一は気付いていないようだが、咳払いは両脇に書架の並ぶ通路を挟んだ斜め向こうから聞こえてきていたし、こちらからどれだけ目を凝らしても咳払いの主の姿は見えない。こちらから見えないということは、向こうからも見えないと言うことだ。おそらく声も、ほんの少し潜めれば、ぼそぼそと何かを話しているのは解るだろうが、会話の内容をつぶさに知れるということもないのだろう。それに、聞こえたら聞こえたでいいと平次は開き直っていた。
「な、何もここじゃなくたっていいじゃねぇか。家まで待てよ!」
 新一を壁際に追い詰め、片手を書架へかけて退路を塞ぐ。身をかがめ、真実を見通す目を真っ向から見据え、平次は唇の端に笑みを乗せた。
「工藤が前におるのに、そんなん我慢できるわけないやん。な? ええやろ、ちょっとだけやし」
「ちょっとって……オイ、服部っ…!」
 ハッと息を飲んだ新一の唇に、掠めるようなキスをひとつ。
 瞬きの間に離れた平次を丸くした目で見上げていた新一の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。リトマス試験紙のように色を変えた顔を見下ろして、平次はにぱっと明るい笑みを浮かべた。
「もっかいしてもええ?」
 何を言われたのか理解しきれていないような顔は、ひどくあどけない。いつもは取り澄まして冷淡に無表情な時すらあるのに、新一は平次の前では表情豊かだ。それが嬉しいのだと思いながら、平次はじっと新一の答えを待った。
 額の触れ合う近くで、新一は左右に視線を走らせる。意味などない。ただ、逡巡する間を持たせようとしているのだ。唇が動いて、あー、とか、うー、とか意味のなさない言葉を洩らす。それでも平次はじっと待つ。
 ちらりと見上げた眼差しが、自分だけに向けられていると言う幸福感を味わうためにじっと待つのだ。
「バーロー……んなの聞くんじゃねぇよ…」
 ことりと落ちる眼差しを追いかけるように、平次は新一の唇を啄ばんだ。
 喫茶店のモーニングで頼んだコーヒーの味がする唇を舐め、その先を催促する。うっすらと目を開けば、ぎゅうっと瞑った目と平次のシャツを掴む手とに力が篭っていて、平次は愛しい気持ちが湧き上がる。
 舌を絡め、口腔を舐め、はっと詰める息を飲み込んで、感情すら交じり合えばいいのにと熱を込める。
 古い紙の匂いのする書架の合間で、こっそりと人目を忍んでくちづけを交わす。
 手のひらで新一の頬を撫で、促されるようにぼんやりと瞼を押し開けた新一の額に、唇を押し当てた。細い身体を抱きしめて、黒い髪に頬を寄せた。包み込むような抱きしめ方に、何を思ったのだろうか。新一の手が持ち上がり、平次の背に触れた。
「はっとり?」
 熱に上擦ったような声に、なんもないで、と平次は呟いた。身を離し、赤い顔をする新一を見下ろしてにぱっと笑う。
「うち帰ろ。もっとようけ工藤といちゃいちゃしたいねん」
「言ってろ、バーロー」
「帰ったら親父さんの新作読ませてや。俺かてむっちゃ楽しみにしてんねんから」
「いいけど、多分読めねぇぜ」
「なんでや? なんかトリックでも仕掛けたぁるん?」
「いや、そうじゃなくて…まぁいいや、見りゃ解る……つか、触るな」
 頬を寄せた髪を、今度は手でぐしゃぐしゃに掻き回して平次は笑う。うっとうしげに払われる手の動きが可愛らしく、思わず上げた笑い声に、またもわざとらしい咳払いが注意を促した。肩を竦めて、いつの間にやら足元に落ちていた洋書を拾い上げる。これ借りるんか、と尋ねれば、新一は唇を押さえてあらぬ方向を見つめたまま硬直していた。そちらを見やれば、書架に詰め込まれた本の隙間から斜め向こうの書架の前に立つ人の姿が見える。角度によっては見えてしまうらしい向こう側に新一は今になって気付いたようだった。真っ青な顔をして、そして真っ赤な顔で、新一は平次と書架の向こうとを見比べる。
 平次は苦笑して、帰ろ、と促した。
 手を取って引けば、他愛なく歩き出す新一だったが、すぐにバッと必要以上の力で手を振り払い、平次の手から洋書を引ったくって貸し出しカウンターへ向かう。後ろ姿が照れ隠しなのか怒っていて、家帰ったらしこたま怒られるんやろうなぁ、と平次はのんびりと笑った。
 東京と大阪とで離れている時を思えば、怒られることですらも嬉しくて仕方がない。
 図書館の入り口近くで待っていると、貸し出しカウンターに並ぶ新一の姿が良く見えた。じっと見つめていると顔を上げた新一が平次に気付く。笑みを浮かべ、ひらりと手を振れば、平次の笑みを見た新一は、ふっと顔を逸らし俯いた。その横顔が仄かに笑んでいることが、なによりも平次には嬉しい。
 簡単に手に入る些細な幸せに、平次は笑みをまたひとつ深くした。


 ちなみに後の工藤邸にて。
「なぁ工藤? なんやのこのミミズののたくったような字は…。何語や? イタリア語か?」
「……日本語」
「日本語ぉ? アホ言いなや! こんなん読めへんわ!」
「だぁら言っただろ、オメーには読めねぇって! 編集の人ですら読めねぇから、いつだってパソコン打ちなのに、何をトチ狂ったかペンなんかで書きやがって! 仕方がねぇから母さんと俺とで分担して誤字脱字チェックしてんだよ」
「……さいでっか」
 工藤優作の字はおそろしく汚かったという話。

 というわけで平新ですよバーロー! お花さんからのリクで、「ちゅうしてもええ?」な平次と「バーロー!」な新一でした。
 図書館はいいよねー。うちの近所の図書館はあんまし巨大ではないので書架は少ない。ので、大学の図書館をイメージしてみました。洋書の棚はほんとに暗くて古い紙の匂いがしてたんですよー。今気付いたけど、新ちゃんちの書斎のが一杯本ありそうだわね。