何番目かの愛


 どうやら白哉が読書を好むらしい、と知ったのは、白哉に割り当てられた隊舎の掃除をするようになってからだった。
 しかも白哉の好むのは何やら小難しい古文書のような本で、カビの匂いがしそうなものばかりだ。扱いも難しそうなそれを、白哉は書見台に置き、ゆっくりと、一字一字、噛み締めるように文字を辿る。執務室で流れるような速さで報告書を読むのとは雲泥の差のそれを見た時、恋次は、ああ、この人らしい、と思ったものだった。
 白哉は庭の見える部屋で、静かに書物を捲る。
 恋次は決して書物の類は嫌いではない。だが恋次が好むのは白哉が好むものよりもよほど気安く、ぞんざいにそこらに投げ出しても解けたりしないようなもので、畳の上に引っくり返って読めるようなものだ。扱いに困るようなものははなから手に取らないし、近づきもしない。
 だが白哉の捲る書物の、はらり、はらり、と風の音にさえ紛れそうな細かな音は嫌いではなかった。そして書見台に向かう、すんなりと伸びた白哉の背を眺めていることも嫌いではなかった。
 ぼんやりと戸口で佇む恋次に気付いたのだろう。白哉が僅かに顔を傾け、振り返るような仕草をする。
「どうした」
 座敷に満ちた静けさを壊さぬ密やかな声に、恋次ははっと目を瞬く。
 掃除の合間の手を止め、茶を入れ、座敷へ戻ったところだったが、静かなその様子に二の足を踏んだのだ。気後れした事を知られるのは恥ずかしいと、恋次は片足を浮かせ、座敷についた足の踝の辺りをこりこりと爪先で掻いた。
「や、茶ァ淹れたんスけど、なんか、邪魔しちゃ悪ィかなーと……」
「構わぬ」
 白哉は僅かばかり微笑んだようだ。ふと抜けるような息に、あ、笑った、と恋次は嬉しくなる。ここへ、とばかりに傍らを示され、いそいそと近付く様はまるで犬のようだ。白哉の手が示した場所へ膝を付き、盆に載せた茶を出す。今度こそちらりと視線を向けた白哉は、湯飲みの内に揺れる僅かに濃い緑を見て、仄かに笑みを浮かべた。
「よもやまた茶葉を手掴みで計ったのではなかろうな」
 恋次は途端にぶすくれた顔で唸った。
「もうそんなヘマしねぇよ」
 白哉はまた僅かに笑みを深くし、頂こう、と手を伸ばす。すっきりとした指先が湯呑みを取り、口元へ運ばれるのを見るともなく眺め、恋次は足を崩し胡坐をかいた。
「うまい」
 ぽつりと呟かれる声に、でしょ、と恋次は胸をくすぐられる。
 六番隊に赴任してすぐ、茶を淹れよと告げられた恋次は、痺れるほど濃い茶を出した。十一番隊では茶など淹れたこともなかったし、淹れたにしても安い茶葉を使っているので、大量に茶葉を投入しないと色味が出なかったのだ。白哉は何も言わず、いっそえぐいとも言える茶を飲み干したが、それから一切、恋次に茶を出せとは言わなくなった。茶でも、と腰を上げれば、良い、と白哉が手で制す。誰か、と彼方へ向かってかけられる声に、密かに悔しい思いをしていたのだ。
 隊舎にある白哉の部屋の掃除をするようになってから、茶の淹れ方を覚えた。茶にも銘柄があるのだとも知った。
 白哉のために何かできることが楽しくて仕方ない。そしてそれによって白哉の頬に色が浮かぶことが嬉しい。
 双極事件以降、傍目には気付かれずとも表情豊かになってゆく白哉に、恋次はただただ胸を暖かくするばかりだ。
「今日はいい天気ッスね」
 白哉の傍らでそんな事を言えば、庭に目を向けた白哉が、うむ、と口元を緩める。最近になって恋次も手を加えるようになった庭木を眺めているようだ。その視線が庭をぐるりと取り囲む生垣を辿る。庭に一本植えられた木に向かい、僅かばかり眇められた。
「梅か」
 ふっくらとふくらみ、気の早いものはすでに赤い花弁をほころばせている。恋次が庭師と相談して新たに入れた植木だ。
 梅を見やる白哉の目が、何を思い出しているかは恋次には手に取るように解る。双極のあの丘で、義妹の手を手に、その胸の内を打ち明けた白哉の言葉を、恋次はかすかにではあるが聞いていた。
 だからこれは、半ば意趣返しだ。しても詮無い嫉妬を持て余し、八つ当たりする事も叶わず、せめて梅に纏わる記憶を塗り替えられればいいと選んだ。
「ええ、できた実で梅干でも漬けようかと思って」
 恋次がしれっとそう言うと、白哉は強張っていた頬の力を僅かに抜いた。
「そうか」
「ええ。隊長も手伝ってくださいよ。梅の実集めんの、結構大変なんスから」
「そうか」
「ええ、そうッス」
 ずずっとわざと音を立てて茶を啜れば、梅を見やっていた竜胆の瞳が恋次を振り返る。
「恋次」
「はい」
「そう妬かずとも良い」
 まっすぐに、この竜胆の瞳に映ることが面映い。ばれてたか、と、それでも恋次は逸らさず、その瞳を見返した。そしてそのまっすぐな眼差しに柔らかい色合いを見つけ、知らず詰めていた息を零す。どうやら詮無い嫉妬を咎められているわけではないようだ。
 白哉の手が伸ばされ、恋次の頬に触れる。湯飲みに触れていたせいで常は冷たいそれが暖かく、恋次には何か不思議だった。
「もっと近くへ」
 白哉の言葉に目を瞬くと、白哉は何かおかしそうに目を細めた。
「そこはくちづけるには遠い」
 恋次は一瞬呆気に取られ、だがすぐに破顔した。
「ずぼら」
 恋次が笑いながらそう零せば、白哉は素知らぬ顔で返す。
「貴様の気が効かぬだけだ」
 それでも恋次はずいと身を寄せ、啄ばむように触れる唇に瞼を閉じる。
 くすぐるように唇の表皮が触れ、伺うように唇が開き、濡れた息が絡む。何度か繰り返したそれに上がった息を吐き、恋次は甘えるように白哉の肩に顔を伏せた。
「隊長」
「なんだ」
 高く結んだ髪が時折落ちる襟足に白哉の指が触れる。後れ毛を梳く指が優しく、恋次は目を伏せる。
「まだ本読むんスか」
「ああ」
 鼻先をくすぐる白哉の香に誘われるように、恋次はねだってみた。
「そんじゃ、膝枕してくれよ」
 一瞬、驚いたように瞬きが止まり、恋次はかぁと頬が熱くなるのを感じた。だがもう今更引っ込みなどつかない。ただただ恥ずかしさを紛らわすため、子どものように、白哉の袖を掴んだ。
「そしたら大人しくしてるから」
 白哉の肩が動き、恋次は顔を上げさせられる。赤くなった顔など見られたくもないのに覗き込まれ、不貞腐れたように口を歪めれば、存外楽しそうな目に出くわした。
「随分と図体のでかい子どもだな」
「うるせぇよ」
「だが、構わぬ」
 頬をさらりと撫でた手のあとを追うように、唇が頬に触れる。
「私の膝をねだるのは、恋次、貴様くらいのものだ」
 恋次は目を伏せ、白哉の肩に顔を埋めた。ぎゅっと、閉じた瞼の内に浮かんだ涙に、どうか気付かないで、と願いながら、決して届かないと思っていた背中にきつく手を回す。
 この人の一番が誰か、恋次はよく知っている。二番が誰かも知っている。自分が何番目にあるのかは知らないが、そうそう遅い方でもないだろうとも思っている。
 だから、たとえ膝に頭を乗せる、たかだかそれだけのことだろうと、この人の一番をもらえたことが震えるように嬉しい。
「膝枕がほしいのか、それとも抱き枕が欲しいのかどちらだ、恋次」
 からかうような声音には愛うそれしかなく、恋次は少しスンと鼻を鳴らした。
 答えず、動かず、ただただ肩に顔を埋める恋次を不可解に思っただろうに、いや、それともそれすらもお見通しだったのかもしれないが、白哉はそれ以降何も言わず、恋次の好きにさせていた。
 恋次はただ白哉の肩に顔を埋め、温もりを感じ、そよぐ風にすら掻き消えそうな、はらり、はらり、と言う紙のすれる音を聞いていた。


『恋次の休日』番外編みたいな? しかしほのぼのした話が書きたいのに、なぜいつも薄ら哀愁漂う話に…。恋次は兄様が好きで好きでしょうがないけど兄様の自分に向けられる愛情がさほど大きくないと心底から信じているといい。でも兄様の愛は朽木家に届けられる金平糖よりも多いのよ。