阿散井恋次の好きなもの


 阿散井恋次はたい焼きが好きだ。
 甘いものは大抵好きだが、その中でもたい焼きは別格扱いの好物だ。見れば目が爛々と輝くし、手にしているのが部下なら横からひょいと手を伸ばして掻っ攫うのもやぶさかではない。むしろたい焼きを手にしているのが甘いもの嫌いの上司なら、食べないッスよね、と率先しておこぼれを預かろうとする。
 恋次はたい焼きなら何でも食べるが、餡子はつぶあんよりもこしあんがいいと思っている。よく練られ、舌触りが良く、甘みがほどほどに押さえられているものがいい。尻尾まで餡子が入っていることは勿論だが、皮は外側だけがかすかにぱりっとしていて、中はふんわりしているものいい。大きさには特に重きを置いてはいないが、小振りのものは高級感があり、お貴族様がお持たせに使うような一級品であるから滅多にお目にかかれない分、ありがたみが増す。なんでも大きいものの方が好きだが、たい焼きだけは別だ。手のひらに隠れてしまうほどのものがいい。
 そもそも恋次が甘いものを好むようになったのは、瀞霊廷に入ってからだ。
 流魂街では、特に戌吊のような最下層に近い地区では、甘いものはおろか、酒や煙草の趣向品など僅かもなく、生活に必要最低限の水ですらも奪い合うことがざらだった。仲間達と戌吊の外れに細々と畑を作り、自分達が食べるに足るか足らぬかの中でなんとか生きていた。
 そんな中で、恋次はたった一度だけ、たい焼きを食べたことがあった。
 それは尸魂界を百年か二百年に一度の猛暑が襲った年の夏で、すべてのものが干上がり、野菜はおろか草一本ですらも地上から姿を消した夏のことだった。井戸は枯れ果て、疫病が蔓延し、僅かな食料を奪い合うために殺し合いが頻発した。体力のないものがまず死に、疫病に冒されたものが死んだ。そして僅かな食料のために力のあるものも死んだ。
 恋次達は無益な争いに巻き込まれぬよう、身を寄せ合って襤褸小屋の中でじっとしていたが、夜ですらも蒸すような空気が消えず、昼ともなれば日陰にいてすらも肌が焼きつくような熱波の折だ。仲間内でもとりわけ小柄だったルキアと、同じほどに小柄だった少年がまずやられ、動けなくなった。目は落ちくぼみ、ルキアの元から白い肌は青白くなり、血管が浮き出て唇がひび割れた。もう一人の少年の方は意識すらも朦朧とし、このままでは明日をも知れぬ有様だった。
 何か滋養のある食べ物か、果物か、でなければせめて水だけでもと恋次達は方々を探し回ったが、とうに刈りつくされた木に実はなく、浚い尽くされた井戸に水はなかった。
 このままでは仲間が死んでいくのを手をこまねいて見ているしかなく、恋次は決意した。他所の地区に行けば水は手に入るだろうが、たかだが二つ三つの地区を越えただけでは戌吊と大して代わらないだろう。
 恋次が考えたのは、瀞霊廷への塀を越えることだった。
 熱波で流魂街が荒れ果てていることは中央にも届いているらしく、常はない塀がしかれていた。恋次はそれを越えようと考えた。無論、昼の日中からそんな暴挙を犯すほど恋次も馬鹿ではない。門番は屈強で、正面切って門に向かっても、そもそも時間がかかるばかりで実りはない。恋次は夜陰に乗じて塀を越えた。
 おそらく、どこの地区でも同じような状況だったから、塀を越えるものは多くいたのだろう。
 あっさり掴まってしまうかに思えた恋次だったが、誰に咎められることもなく塀を越え、瀞霊廷へもぐりこむことができた。
 瀞霊廷は恋次にはまるで別世界のようだった。
 新しい建物に、整備された道、整えられた植木に、広場には蛇口を捻れば水が溢れる管があった。道端で死んでいるものはなく、野良らしいネコですらも丸々と太っていた。
 水を手に入れたらすぐに戻るつもりでいた恋次だったが、瀞霊廷のそのさまを見て欲が出た。
 何か食べ物を手に入れようと考えたのだ。
 辺りを伺いながら、どこをどう歩いたのか、人に見つからぬようにと物陰から物陰へと移り歩いていたせいで、恋次は随分と瀞霊廷でも奥まった場所へ迷い込んでいた。店らしきものはなく、畑らしきものもない。せめて果物の成る木でもあればと思ったのだが、季節は夏だ。木が実をつけるのは概ね秋頃だ。それらしいものがあるはずもない。
 何かないかと彷徨っていた恋次の鼻先を、ふと甘い香りが漂った。
 恋次はその甘い香りに誘われるように、傍らの塀を越え、己の鼻を頼りに匂いを辿った。甘い香りは小さな庭の片隅から漂っていた。近付いていくとそれは白い花を咲かせた木だった。恋次の背丈をとうに越す木には、白い一重の花が咲き乱れ、しかも具合のいいことに、いくつかは実を結んでいた。
 恋次の手のひらに収まるような先の尖った丸い実はまだ青かったが、もう熟しているのだろうと恋次は思った。鼻を近づけるとその実からも甘い香りがしていたからだ。
 こんなに甘い香りは流魂街では嗅いだことがなく、瑞々しく張りのある実を見るのも初めてだった。こんなにも甘い香りを放っているのだから、さぞや甘い味のする実なのだろう。大きさもほどよく、恋次が持ってきた袋に詰めれば恋次達が三つずつ食べてもまだ余りそうなほど持って帰れる。
 恋次は夢中でその実をもいだ。
 次から次へと麻袋に放り込み、そしてその途中でふと手を止めた。
 ひとつくらい、ここで齧っていってもバチはあたるまい。
 塀を越えて腹が減っていたし、喉も乾いていた。
 果物は腹を満たすにも喉を潤すにもお誂え向きだ。
 恋次はごくりとつばを飲み、その実に口を近づけた。歯を立て、瑞々しいその実を齧ろうとしたその時、じっとしているだけでも汗が滴るような熱を帯びた空気が、キンと冴え渡り冷えた。
「止めよ、小童」
 珍しい果物に浮かれていた恋次を刺し貫く冷たい気配は、凍りつく恋次に尚も語りかける。
「その実から、手を離せ」
 実に歯を立てる寸前で凍りついた恋次は、冷や汗を滲ませながらぎこちなく振り返った。
 小さな庭に面した縁側に、この屋敷の主と思しき人の姿があった。
 闇夜にうまく隠れていると思い込んでいた恋次を、屋敷の主は静かな眼差しで見据えていた。
 恋次は震え上がった。
 瀞霊廷に無断で入り込んだものには重い処罰が与えられると知っていたし、縁側に立つ屋敷の主人の動かぬ表情は情け容赦ない冷酷なものに見えて仕方なかった。
 処罰は恐れてはいなかったが、ルキアたちに果物を持っていけない事は恐ろしかった。恋次の帰りを待っている彼らの命は、文字通り恋次の手の中にあったからだ。
 恋次が屋敷の主人から発せられる目に見えぬ霊圧に押しつぶされそうになっているのを知ってか、知らずか、屋敷の主人はやれやれと言うように溜息を吐いた。
「聞こえなかったのか。その実を、離せと言ったのだ」
 恋次の手は、恋次の意に反して口元まで運んでいた果物を取り落とした。ぼとりと音を立てて足元を転がった果物は、恋次が傍らに置いていた麻袋にあたって止まる。それを見遣った屋敷の主人がつと柳眉を寄せた。
「よもやその袋に、その実は入ってはおらぬだろうな」
 恋次が答えられずにいると、屋敷の主人は僅かに顔を動かした。恋次は気付いていなかったが、縁側には屋敷の主人らしき男の他に人がおり、どうやら従者のようだった。従者は縁側から庭へ降り立ち、凍りついたように動けずにいる恋次の傍らの麻袋を持ち上げ、ひっくり返した。ばらばらと零れ落ちる実に血相を変えたのは恋次だった。
「何すんだ! 折角集めたのに…!」
 恋次がそう文句を言えば、従者が呆れた声を漏らした。
「阿呆め。人様の庭から実を盗んでおいて、この盗人が。何が折角集めただ! ここは貴様のような野良犬が足を踏み入れてよい場所ではないわ!」
 強く蹴飛ばされ、恋次はその場に転がった。麻袋が投げつけられ、再び蹴り上げられたところで屋敷の主人がひそりと声を上げた。
「止めぬか」
 従者はよく飼い慣らされた犬のように足を引いた。三度腹を蹴り上げられるところだった恋次は、飛びのき、辺りに散らばった実に手を伸ばした。麻袋一杯の未を持って帰るつもりだったが、この際、ふたつみっつでもいい。ルキアたちの口に入る分だけでも懐に突っ込んで、逃げ出すつもりだった。
 だが、恋次の手が実に触れる寸前、再び冷え渡った霊圧が恋次の身を押した。
「その実に触れるな、小童」
 ずしんと地面にめり込みそうなほど重圧をかけられ強張る恋次に、屋敷の主人が問うた。
「その木の名を知っておるのか、小童」
 屋敷の主人は恋次が実をもいだ木を見やり、答えなど最初から期待していないような様子で言った。
「夾竹桃。わずかな樹液で人を死に至らしめる毒樹だ。その木が成す実も例外なく、毒に満ちている」
 恋次は愕然と白い花を咲かせる木を見上げた。白い花は闇夜に美しく映え、甘い香りはこんなにも恋次を誘っている。瑞々しい実は屋敷からの明かりを僅かにてろりと反射させ、今にも水が滴りそうではないか。
 だと言うのに、屋敷の主人はこの木は毒に満ちていると言う。
「そんな……」
 恋次ははなから口にできぬものを嬉々としてかき集めていたのだ。そして弱りきったルキアたちに食べさせようとしていた。屋敷の主人に見つからなければ、今頃飛び跳ねるほどの心地で戌吊へと戻っていただろう。きっとうまいから食ってみろって、と言って恋次が差し出した実を、ルキアたちは一片の疑いもなく口に運んだだろう。
 恋次ががくりと膝を折れば、それを憐れに思ったのか屋敷の主人は静かに続けた。
「毒樹ではあるが、扱いによっては薬にもなる。故にこの奥庭に育てているのだが、よもや食そうと忍んでくる愚か者がいようとは……」
「白哉様、このこそ泥、いかがしましょう」
 恋次を蹴り上げた従者が畏まってそう問うと、白哉と呼ばれた屋敷の主人が僅かに首を傾げた。
「さて…。隊に突き出してやろうにも我が家に忍び込まれたとあっては、恥をさらすに等しかろう。かと言って盗人を見過ごしたとなるも恥。野鼠が駆け抜けたと見過ごすのが一番だろう。そなたは下がれ。ここはもう良い」
 白哉に軽く手を動かされ、従者は不承不承腰を上げ、庭を出て行った。
 残されたのは縁側に佇む白哉と、夾竹桃の側に腰を抜かしたようにへたり込む恋次だけだった。恋次の目の前に転がった実や花からは、恋次を馬鹿にするように甘い香りが漂っており、その匂いに改めて気付いた恋次の腹はぐぅと盛大な音を立てた。
 恋次は恥ずかしかった。
 そして、口惜しかった。
 ルキアたちに僅かなりとも水をと瀞霊廷に忍び込み、ここまできたのだからと欲を張って毒樹の実に手を伸ばし、家人に見つかり、お情けで見逃すと言われたその直後に情けなくも腹が鳴った。
 部屋から漏れ出る明かりに照らされた白哉が、呆れ果てた眼差しをしているのが解った。
「飢えておるのか、小童」
 驚いたような声音に、恋次は唇を噛み締めた。
 当たり前だ。飢えてなどなければ、瀞霊廷の奥にまで忍び込んで毒樹の実に手など出してはいない。馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。
 そういつもの調子で啖呵を切れれば良かったのだが、どうしてか白哉を前にすると気持ちは折れた。
 白哉が男にあらざるほど美しいことは遠目にも良く解ったし、白い頬や滑らかな肌、そして一本一本丁寧に梳り、油を塗りこんだかのように艶やかに光る黒髪は戌吊では一度として目にしたことがなかったからだ。身にまとう着物も一見地味な色合いをしていたが、僅かに光沢があり、金がかかっていることは一目で知れた。恋次が纏う襤褸のように汗や泥に染み汚れ、擦り切れ、何度も繕ったようなものとは雲泥の差だ。
 白哉とはまさに天と地とほども差のある己の姿を見られていることすらも恋次にはたまらなかった。
 唇を噛み締めたまま答えない恋次を見下ろし、白哉は何を思うのか、少し待て、と呟いた後、部屋に引っ込んだ。縁側の奥にはいくつか部屋があるらしく、僅かばかりの時も置かず戻ってきた白哉は手に何かの包みを持っていた。
「持って行け。知人が寄越したが、私は甘いものは好きになれん」
 白い手が差し出していたのは大人の両手に乗る大きさのものだった。恋次が呆気に取られていると、白哉はおもしろそうに目を細めた。
「そら、いらんのか? 瀞霊廷でも一番と名高い店のたい焼きだそうだ。この機を逃せば二度と口に入らぬやもしれぬぞ」
 その馬鹿にした物言いに、恋次はカッと頬を染めた。
「ば、馬鹿にすんな! 施しなんかいらねぇよっ!」
 思わず立ち上がり食ってかかると、白哉はますますおかしそうに笑った。
「ほう、盗みはするが、施しは受けぬと言うのだな」
 白哉の目が夾竹桃を見やり、恋次はぐっと唸った。確かに白哉の言う通り、夾竹桃の実を盗もうとしていたのは恋次だ。その恋次が施しはいらぬと突っぱねたのがよほど白哉の気に入ったらしい。白哉は身を屈め、包みを足元に置いた。
「では、これはここに置いておくとしよう」
 白哉はそう言うと、縁側から光溢れる部屋へ戻るため踵を返しかけ、ああ、とその足を止めた。
「くれぐれもすぐに手を洗えよ、小童。夾竹桃の毒は実にも花にも宿る。その手で水をすくって飲めば、その水はもはや毒水ぞ」
 それきり白哉は恋次に背を向け、部屋の中へ入っていった。ぴしゃりと障子の閉まる音がしたから、縁側へは戻ってこないつもりなのだろう。それでも恋次は用心深くそのままその場所で百を数え、辺りの気配を探りながら、そろそろと縁側へ近付いて行った。
 部屋からの光に当たらぬよう用心し、息を潜めて包みに手を伸ばす。
 夾竹桃の香りとは違う、柔らかな仄かな甘い香りが鼻をくすぐる包みだった。思ったよりも重く、恋次は落とさぬように両手で抱えた。急いで庭を抜け、入ってきたのと同じ生垣の隙間を潜って外へ出ようとしたところで、恋次は足を止め、縁側を振り返った。
 そこに白哉の姿はなかったが、部屋の中からこちらの気配を探っているのだろうと思った。恋次は明かりの漏れる部屋に向かって勢いよくがばっと頭を下げ、同じほど勢いよく顔を上げると、庭を飛び出した。
 その後、どうやって戌吊まで戻ったのか、恋次は実はよく覚えていない。
 気付いたときには懐に包みを抱え、片手に水の入った壷を持ち、瀞霊廷と流魂街を隔てる塀を乗り越えていた。壷に水を汲む時に白哉の言いつけ通り手を洗ったらしく、恋次の両手は濡れていた。
 恋次が持ち帰った水とたい焼きは仲間達の喉を潤し、腹を満たしたが、ルキアとともに臥せっていた少年は、その次の日に死んでしまった。ルキアよりも衰弱していた彼には、水も、甘いものもとうに遅すぎたのだ。
 少年と最後に共に食べたその甘い食べ物は、今まで恋次が口にしたどんなものよりも美味かった。正直に言うと一口頬張った瞬間涙が零れたほどだ。
 だから恋次はいまだにたい焼きを食べるたび、あの熱波の夏を思い出す。
 死んだ仲間の少年と、夾竹桃と、白哉を思い出し、そして恋次は思うのだ。もっと強くなって、仲間を守れるような男にならなければと。
 かつての仲間は死んでしまったけれど、ルキアがいる。死線を共に潜り抜けた新たな仲間がいて、慕ってくれる部下がいる。真央霊術院では目もあわせられなかった白哉の側に並び立てるような力も得て、思いがけないことに、わずかばかり心を預けられた。あの夏よりもたくさんのものを両手に抱え、それらをひとつ残らず取りこぼさぬようにと恋次は誓う。
 阿散井恋次はたい焼きが好きだ。
 その中に秘められた思いは、誰に知られることなく過ぎ去ってゆくけれど、恋次はたい焼きを手にするたび誓いを新たに口へ運ぶ。
 そして恋次はたい焼きの甘さと、ほろ苦い悔恨を飲み砕くのだ。




 兄様と恋次の出会いを妄想していたら楽しくなってしまいました。原作ではルキアに養子の話が舞い込んだ辺りが初顔合わせの場ですが、それより十年ばかし前にこんな事があったらいいなーと。ちなみに緋真さんとの婚儀の予定が立ち始めた頃の設定です。でもってちょこっと続きもあったりして。こちらからどうぞ。