■ 失言のプリンスと暴言の女王

 ウォーターセブンを目指して一路進むゴーイングメリー号の船尾甲板に、珍しくもクルー全員の姿があった。普段は思い思いに好きな場所で好きなことをしているので、全員が顔を合わせるのは食事時がおやつ時、つまりは飲食関係以外にはめったにない。
 ばんと広げられたパラソルの下で、女王様よろしくデッキチェアに腰を下ろし、傍らでかしずくサンジに手指のマニキュアを塗らせ、足元にうずくまるチョッパーにペティキュアを塗らせ、ゴーイングメリー号の女王様は呑気に雑誌を捲っている。
 これまた同じパラソルの下で、ロビンが考古学の専門書を広げているが、こちらはウソップに肩を揉ませ、ルフィに古いセーターの毛糸を解かせ、それをゾロに丸めさせている。
 暇つぶしに賭けをして、勝った二人が負けた男性陣に色々言いつけているのだった。これじゃ普段と変わらねぇだろう、とウソップはロビンの肩を揉みながら思ったが口には出さなかった。誰でも命は惜しい。
「あら」
 雑誌を捲っていたナミが、ふと手を止めた。
 こっそりと横から覗き込んだサンジは、そこに大きなピンク色の文字で、『検証! あなたの彼氏の本音がこれで解る! 浮気を見抜く十の法則!』と胡散臭い文字が書いてある。
「へー…ナミさんってば、こんなの読むんだぁ」
 サンジの感心しきった声に、ロビンがちらりと目を走らせた。
 聊か馬鹿にされた気のしないでもないナミは、ぎろりと殺意を込めた目でサンジを睨み下したが、ふと何かろくでもないことを思いついたようだった。すばやく雑誌に目を走らせると、にんまりと頬を緩める。
「ねーえ、ゾロ」
 猫撫で声のこれほど似合わない女は他にいるまい、と毛糸を巻いていたゾロは思った。返事をせずにいると、ナミのクリマタクトのうちの一本が、目にも留まらぬ速さで後頭部を直撃した。
「ああっ、ゾロ!」
 慌てたサンジが立ち上がろうとすると、おすわりっ!とナミに鋭く制される。
「マニキュアがまだでしょ、サンジ君。全部ちゃんと塗ってよね。その後にネイルアートもお願いね」
「…は、はい」
 すごすごと腰を下ろし、サンジはまたマニキュアの刷毛を手に形の良い爪に向き直った。
「なんだよ」
 グラスを頭にぶつけられながらも、びくりともしないゾロが、毛糸を巻いている手を止めてナミを振り返る。そこへびしりと、手を止めちゃ駄目よ、とロビンが釘を刺した。しぶしぶ手を動かすゾロに、あのねぇ、とナミが頬を緩める。
「質問です」
「はぁ?」
「いいから質問だっつってんのよ! 答えなさい!」
 不思議に眉を寄せたゾロに、ナミが牙をむく勢いで怒鳴る。
「…なんで聞き返しただけでそんなにキレんだよ…お前カルシウム足りねぇんじゃねぇか」
「魚の骨とか、いいんだぞ、カルシウム!」
「うっさい! いいから答えろ! 断崖絶壁にあたしとサンジ君がぶら下がっています。一人を助けたらもう一人は助かりません。さぁどっちを助ける?」
 雑誌を読み上げるナミの言葉に、うわぁ、とロビンの肩を揉み続けるウソップは顔を顰める。あからさまな嫌がらせだなぁ、と聡い狙撃手は気付いたのだ。殺しても死なないようなサンジではなく、ゾロは守るべきクルーとして認識しているナミを選ぶのは当然だ。無論、ナミもそれを解っているだろう。だからこそ、サンジを引き合いに出して、サンジが落ち込むのを見ようとしているのだ。こんなの読むんだぁ、と言ったサンジへの報復だろうか。それにしては言った言葉に対して、報復の方が十倍も、二十倍も、百倍も厳しい。
 ゾロは一瞬開きかけた口を閉じ、だがすぐににやりと笑って開いた。
「クソコックだな」
「うそぉ!」
「マジで! やった! ゾロ! 大好き! ロロん! ラビュー! これが愛の差!」
 きゃっほう、と両手を振り上げて喜ぶサンジを見て、目を丸くしていたナミが鬼をも殺せそうな形相をした。
「なんでよ! こんなか弱い少女をあんた見捨てる気!」
「いや、だってよ……」
 ロビンに指摘され、止まっていた毛糸巻きの手を再開しながら、ゾロは言った。
「お前を落とした方が、世のためになりそうな気がする」
 一瞬、ゴーイングメリー号船尾甲板に、しんと沈黙が落ちた。
 だがすぐに、どっと笑い声が起きる。
「違ぇねぇ! おい、ゾロ! お前さすがだわ! さすが未来の大剣豪!」
「ゾロ、すごいなぁ! おれもそう思うぞ!」
「そうだよなー、ナミが死んだら、借金から逃げられるもんなー。その金で肉買えるもんなー」
「そ、そしたら俺、ナミさんに盗られたマイセンのティーカップ、俺のにしちゃってもいいかな! 元は俺のだし! ナミさんに脅し取られたんだよぅ!」
 きゃいきゃいと騒ぎ喜ぶ男達は、気付いてはいなかった。
 考古学の専門書を読んでいたロビンがぴくりと眉を上げただけで、それに同意しなかったことを。
 喜び飛び上がったサンジと、笑い転げたチョッパーの手から落ちたマニキュアの瓶が床に落ち、そこから流れ出ているマニキュアを、ナミが能面のように無表情な顔で見ていることを。
 男達は気付いていなかったのだ。
 静かな、いやに静かな女達の存在にいち早く気付いたのは、察しの良いウソップだった。
 ひくりと頬を引きつらせ、お、おい、とチョッパーの角を突く。
 チョッパーも背を伝う嫌な汗に気付き、じりじりと騒ぐ輪の中から遠ざかった。船尾の端っこで、ぶるぶると身体を寄せ震える二人の前で、ゆらりと立ち上がったのはナミだった。
「……この…」
 地を這うナミの恐ろしい声に、ロビンはぱたりと本を閉じ、手を生やしてそれを片付けさせた。テーブルの上に乗っていた割れ易いグラスや、陶器のカップをラウンジへ移動させた。
 ガッ、とナミの両手が、デッキテーブルを掴んだ。
 ハッと顔を強張らせたゾロが振り返るが、時すでに遅かった。
「愚か者どもがーッ!」
 ひとかたまりになってきゃいきゃいと喜んでいた男達に、怒りの鉄槌が下された。デッキテーブルが目にも留まらぬ速さで三人をふっとばした。
 ロビンは少し離れた場所に移したデッキチェアに腰を下ろし、よけておいた専門書をまた広げ始めた。ロビンの背に隠れるように、ウソップとチョッパーが身を縮めて震えていたが、その後ナミに掴まり、死にかけている他三人と同様の目に合わされた。
 これが平和なゴーイングメリー号の日常である。