■ ONE PIECE ■

 他人を偽ることができようとも、己の心偽れぬものだと初めて知った。
 五年の歳月を費やしたのは、すべて任務を円滑に終えるため。
 綿密に計算し、情報を集め、きたるべき時へ備え準備を怠らない。
 ひとつひとつの積み重ねのその隙間に、何かが入るなどと言うことは決してありえぬはずだった。
 決行を目前に控え、アクア・ラグナの風が吹き付ける水路の奥の、それよりももっと奥まったテラスで、テーブルを囲み新聞を広げる女が鬱蒼と微笑んだ。薄暗い、闇の中にいるにふさわしい微笑みは、心地よく身を浸す。
「……浮かない顔をしているのね」
 まっすぐに見据えるアイスブルーの瞳に、何を答える必要があろうかとだんまりを決め込んだが、女は新聞に目を落としながら呟いた。
「さっきすれ違ったわ、彼に」
 女の言う『彼』が、『誰』であるか。
 あれこれと想像をめぐらさずとも、一人の姿がおのずと胸の奥から湧き上がる。いつもいつでも悪びれもなくあっけらかんと笑う太陽のような男の笑顔に、目を伏せた。
「可愛い子ね。転んだ女の子を抱き起こして、汚れを払ってあげていたわ。とても眩しく太陽みたいに笑って」
 はらりと新聞をめくる音が響く。
 風が水路の水を押し上げ、しぶきが風に乗って四方へ飛ぶ。音はひどくなる一方で、吹き付ける風にも刻一刻と潮が混じる。
 アクア・ラグナが、嵐の高潮が近付いてくる。
 黙って風の音に耳を澄ませながら、コーヒーカップを持ち上げると、女はくすりと笑い声を漏らした。ひっそりと、凪いだ水のように微笑む女は目も上げずに言う。
「……私たちのような闇に住むものは、あの子のような太陽に惹かれるのね」
「何が言いたい」
 堪えきれず唸った声に、女は静かに目を合わせた。
「私はあなた方の関係を詳しくは知らないし、知りたいとも思わないけれど、あの子を悲しませることのできるあなたを、とても立派だと思うわ。あなたほどの人ならば、きっとそうなることを想定して、五年、ここで暮らしてきたのでしょうから」
「軽蔑でもしてくれるとでも?」
「いいえ」
 女は新聞を折りたたみ、トップニュースに祭り上げられ、指名手配写真の並んだ海賊のうち、一人の写真に手を添えた。愛しげに、いとおしげに、目を細め、撫でるようにゆっくりと写真の下にある数字を辿る。
「いいえ、同情しているの」
 女とその男の関係など知りたいとも思わないが、女の告げる言葉に、いくらか共感できるものがあり、何とはなしに皮膚の裏側で女の気持ちを知る。通じるものを、女も抱え込んでいるに違いない。
「私は、目的のためなら手段を選ばず、犠牲も厭わない。あの船に乗っていたのも、そのためだったはず。時折、目的を忘れたわ。目的を忘れることのできる自分に驚き、少し嬉しかった。まだ私も人間らしい感情が残っているのだと…。あなたもそうではなくて?」
 形の良い唇がにっこりと微笑む。
 闇に生きるには邪気のない笑顔に驚き、知らず目を見開くと、女は微笑んだ自分を恥じるように顔を伏せた。
「あなた、あの子を殺せて?」
 女の口調はまるで、闇夜に浮かぶ月を取れるかと問うようなものだった。
 決してできやしないだろうと、そう言いたげな口調に、ためらう素振りなど少しも見せずに答えた。
「ああ」
 ひとつ、深く頷く。
 決して女には解らぬだろう。
 ひとつ頷く。
 その行動を躊躇わずすることに、どれほどの時を費やしたか、女には気付かれぬだろう。
 女はそっけなく、そう、と呟くと、折りたたんだ新聞をまた広げた。トップ記事から目をそらすように、市長暗殺未遂事件の記事を目で追っている。観賞用としては美しいその光景を前に、ロブ・ルッチは何度か心の中で女の問いかけを繰り返した。
 あの子を殺せて?
 そのたびに浮かぶ邪気のない笑みに、墨を垂らし塗りつぶす。
 この五年は虚偽の時間だ。
 任務を遂行するために作り上げたロブ・ルッチが過ごした、決して実際にはありえなかった夢の時間だ。
 あれは、たまたまそれに引っかかっただけの不運な男だ。
 殺すことに何のためらいを感じる必要がある。
 殺せる。
 殺せるとも。
 もしあれが我々の前に立ちはだかると言うのなら、何の躊躇いもなく、この指で鼓動を止めてやろう。
 だがもし、かち合わず任務を遂行することができるのだとすれば、かち合ったのだとしても、他の者がいなければ……。
 いや、もし、などと仮定はするべきではない。
 つつがなく任務を終えるため、ありとあらゆるすべての起こりうる事態を想定し、対処を考える。それ以外の仮定など、あってはならないのだ。
 もし、などは決して起こらない。
 心中を覗き見たかのように、女が告げる。
「太陽は暖かいわ。すべてを照らし、何かを育む。失うと、途端に世界が凍てついてしまう」
 女の目は、反らしたはずの新聞のトップ記事に向けられていた。大きな賞金額を抱く写真の男は、太陽などとは程遠いイメージがあるが、女にとってはそうだったのだろう。持ち上がる指先が、すいと写真の男を撫でた。そして、もう二度と見たくないと言わんばかりに、新聞は今度こそ折り畳まれテーブルに伏せられる。
 そして女は笑った。
 声を漏らし、アクア・ラグナの起こす風に吹かれ、引きつった声で笑った。
「離れがたいなど、愚かなことだわ…」
「……まったくだ…」
 冷めたコーヒーを口に運ぶ。一口干せば、余計に喉が渇いた。
 びゅうと吹き付けた突風に、テーブルの上にあった新聞がはらはらと音を立て舞い上がり、頁を繰り、そしてまた元に戻った。
 女はそれを食い入るように眺めている。
 ソーサーにカップをおき、取り立ててなんでもないような口調でそっけなく呟いた。
「闇の者に、太陽の光は強すぎる。我々はただ、迷い間違い光に触れ、消えぬ火傷を負っただけだ」
 女は新聞を取り上げようとした手で、カップを持ち上げた。湯気はもう上がらないカップを口に運び、コーヒーを飲み込んで囁く。
「その通りね…」
 遠いところでアクア・ラグナに対する警報の声が響いている。
 決行の刻限が近付く。
 たった五年の短い間、闇の人であるはずの己を照らした太陽に、ロブ・ルッチは別れを告げた。
 WJではなくコミックス掲載分しか知らないので、おかしなところがあってもお目溢し下さいませ。これから市長暗殺に行くので、それが『おでかけ』なのであります。と言うわけで、ルチパウルチの、解らなくてもゾロロビです。ロビンが太陽などと、小説以外に書くには小っ恥ずかしい形容しているのはゾロのことです。ルッチが言ってるのは当然パウリー。あの子は本当に可愛らしく笑うのだわ。側にいるだけであったかくなりそう。だからこそ、闇の者には心地よいのではなかろうかと。ルチパウルチ、好きだなぁ。