■ 自己本位が告ぐ時 ■



五年前



 遠方の島から己の持つ造船の技術を高めるべくガレーラに入社したいと申し出てきた。
 それがカリファからアイスバーグに告げられたルッチの経歴だった。
「ンマー…、聞いたことのない島だな」
『自給自足の何もない島ですんで』
 肩にハットリを乗せたままそう言うと、眼鏡をかけていたアイスバーグがぎょっと目を見開いた。
「ンマー! しゃべる鳩たァ珍しいな! カリファ!」
 社長室の大きな机の側に控えていたカリファが、眼鏡をずりあげながらてきぱきと答える。
「はい、アイスバーグさん、すでに手配はできております。試験を受けさせました所、一番ドックでもやっていけるようですので、一番ドックのパウリーに話を通しておきました」
「さすがだな、カリファ。相変わらず仕事が早い」
「恐れいります」
「そうだ、当面の部屋だが」
「それもすでに手配をしております」
 幼少時代の訓練やら、今までこなしてきた数々の任務からしても、カリファは恐ろしく適応力の高い女だ。だが、アイスバーグが言うよりも前にすべてを察し、何もかもの手配を済ませていることには驚いた。そこまで気の回る女だったろうかと思いながら、カリファを眺めていると、その視線に気付いたのか、アイスバーグが言った。
「これはうちの美人秘書のカリファだ。解らないことがあったら彼女かパウリーに聞くといい」
『解りました、世話になります』
 ぺこりとルッチが頭を下げると、肩のハットリも頭を下げる。それを見てまた、ンマー、とアイスバーグが喜んだ。意外と単純な男だと言うのがルッチの、アイスバーグに対する第一印象だ。
「カリファ、パウリーの所まで案内してやってくれ。パウリーにはドック内の案内をするように」
「はい、アイスバーグさん。すでに外で待たせております」
「ンマー、そう言うわけだ。ルッチ、これからよろしく働いてくれ」
 さっと右手を差し出すアイスバーグに、ルッチは軽く頷いて右手を差し出したが、それよりも先にハットリが進み出て羽根で握手をする。
「ンマー! これはこれはご丁寧に!」
 こんな男が社長で大丈夫なのか、それよりもこんな男が本当に古代兵器の設計図を所有しているのか、とルッチが訝しんでいる間に、カリファが社長室の扉を開き、外で待っていたらしい男を呼び寄せた。
「ルッチ、これがパウリー。しばらくあなたの面倒を見る一番ドック、艤装、マスト職の職長です」
「これたァなんだカリファ! あっ、テメェ、またそんな格好を! 足を出すなと何度言やァ解るんだ!」
「失敬な。私が足を出そうと出すまいとあなたには関係ないでしょう、パウリー!」
「そうはいくか! ここは男の職場だ! 女がちゃらちゃら歩いてるってだけでも胸クソ悪ィってのに、その上ハレンチに足まで見せやがって!」
「それなら明日はキャミソールで出社しましょうか」
 ついと眼鏡を持ち上げ勝ち誇ったように微笑むカリファに、騒々しい男は地団太を踏んだ。
「テメェ、喧嘩売ってんのか!」
 日に焼けた金髪にゴーグル、職人らしいズボンとジャケットを身に纏い、腰のベルトには作業中を抜け出してきたのか、今も工具袋やら金槌やらがぶら下がっている。器用にも葉巻を吹かしながら怒鳴る男に、ハットリがけほんと咳をした。
「まぁその辺にしておけ、パウリー…。新しい職人が入ったんだ。一番ドックに入るから、お前がしばらく世話をしろ」
「あ、はい、解りました。パウリーだ、よろしくな」
 差し出された手に握手を返したのは、またもやハットリだ。
『こちらこそよろしく頼む。俺は鳩のハットリ。こいつはロブ・ルッチだ』
「あ、こりゃご丁寧に…ってオイ! 鳩がしゃべってる! アイスバーグさん、こいつすげぇ!」
「ンマー! やっぱりお前もそう思うか!」
 肝心のルッチを置き去りに、羽根を広げあれやこれやとポーズを取るハットリを取り囲み、アイスバーグとパウリーが目を輝かせている。ハットリに魅入っている二人をカリファが力ずくで遠ざけた。
「さぁパウリー! さっさと新人をドックに案内しなさい! アイスバーグさん、次の仕事が控えておりますので、鳩と遊ぶのはその後になさって下さい!」
「ンマー、カリファ! そうがみがみと怒鳴るな。折角の美人が台無しだ…」
 カリファに首根っこを引っつかまれたパウリーが、そうだそうだ、と声を上げるが、カリファは無言でそれを睨み下ろし、ピンヒールで嫌と言うほどパウリーの尻を蹴り上げた。
「ぎゃあ、て、テメェ、カリファ!」
「さっさと出て行きなさい、パウリー! あなたもです、ルッチ!」
 むんずと掴んだハットリを投げつけられ、慌ててルッチはそれを受け止めた。カリファの勢いに部屋を追い出されると、一歩廊下に出た彼らのすぐ後ろでバシンと力いっぱいドアが閉められた。
「テメェ覚えてろよ!」
 社長室のドアに向かってああだこうだと少ないボキャブラリーを駆使し怒鳴っているパウリーを、ルッチは横でじっと見つめていた。
 その視線に気付いたのか、拳を振り上げていたパウリーが振り返る。そして気まずそうに辺りに視線をさまよわせた後、ニッと唇を持ち上げる。
「パウリーだ。よろしくな、ハットリ!」
『…ルッチだ。こいつの名前は、ロブ・ルッチ。ハットリは俺の名前だ』
 肩に止まったハットリが答える。羽根を人の手よろしく使い、ルッチを指差すハットリの言葉に、パウリーは目を何度か瞬かせていたが、ふいに顔をくしゃくしゃにして笑うと、そっかそっか、と頷いた。
「そんじゃまぁよろしくな、ルッチ」
 向けられる笑顔が、まるで太陽のように温かいとルッチは思った。眩しく目を細め、差し出された手を取ると、ぐっと力強く握り締められた。大きく、船大工特有のごつごつとした手をしているが、まるで火傷しそうなほどに熱い。包まれたルッチの冷たい手をじんわりと暖めるようだ。
 握り締めた手を見下ろし、パウリーが目を瞬いた。
「…お前、船大工にしちゃあ綺麗な爪してんだな……」
 まじまじと見つめられ、思わず手を振り払う。船大工の基礎知識は潜入捜査をする上で不可欠だ。実技も知識に伴わなければ意味がない。それなりに重ねてきた訓練も、本当の船大工の目から見れば不自然に映るのかもしれない。一月二月の実技訓練では足りなかったかとルッチは焦った。
 だが、突然手を振り払われた事にも気を悪くした様子もなく、パウリーはさっさと歩き始める。
「こいよ。とりあえずはドックの中を案内すっからさ。あ、そーだ。お前、今日、仕事はけた後付き合えよ。酒でも飲もうぜ」
 返事がないことにも気にをせず、パウリーは本社ビルから出ると、一番ドックへ向かって歩き始める。その途中ですれ違うウォーターセブンの住人に、パウリーは気安く声をかけられている。それへいちいちと答えるパウリーの顔から笑みが消えることはない。
 ルッチはその半歩後ろを歩きながら、こっそりとパウリーの手を見た。ルッチの冷たい手をしっかりと握り締め、暖かさを移そうとした手指の爪は割れ、欠け、黒ずんでいる。木を撫で摩るように作業する船大工の手だ。確かにそれに比べればはるかにルッチの爪は綺麗で、とても船大工のそれとは思えなかった。





三年前



 ガレーラの職人として潜入してからすでに二年がたった。潜入捜査中は怪しまれる行動は慎むべきとして、最初の半年はまったく連絡を取り合わなかった他の三人とも、この数ヶ月は表向きでも知り合いになったので、頻繁に連絡を取り合っている。特にアイスバーグの秘書として、最も彼に近い場所にいるカリファとは綿密に情報を交換し合っていた。
 顔を合わせるのはブルーノの酒場だ。
 閉店時間ぎりぎりに訪れ、酒を飲みながら他の客がはけるのを待つ。人がいなくなればブルーノが店を閉め、場所を酒場の中から奥の部屋へ移動し、それから今後の行動について相談し合うのがいつしか決まりごとのようになっていた。
 部屋にはテーブルがあり、その上には山のように料理が並べられていた。壁に直接打ち付けられている飾り棚の上では、ハットリが羽根を畳み、こっくりこっくりと船を漕いでいる。
「例の物の場所は解ったか」
 スコッチのグラスを手にルッチが問うと、眼鏡をついと押し上げカリファが首を振る。
「いえ、まだ。彼が持っていると言うのは確かなのだけれど、場所までは…。意外と用心深い人だわ」
 アイスバーグの秘書のカリファが、ブルーノの酒場に訪れるのは聊か不自然があるので、カリファは軽く変装をしていた。表向きのイメージからは着そうにないジーンズにカッターシャツ、ジャケットを羽織り髪を下ろしている。万が一誰かにカリファだと気付かれても、目立ちたくないから変装しているのだろうと思えるような格好だ。
 テーブルに並ぶ料理に手をつけながらカクが口を開く。
「他の誰かに渡してあると言うことはなかろうな」
「そうなると、一番可能性が高いのは職長の誰か……パウリー、ルル、タイルストン」
「タイルストンは除外しても良いだろう。あの解りやすい男が、アイスバーグから大切な何かを受け取って平静でいられるとは思えん」
「そうなると、ルルかパウリーじゃな」
 チキンのヨーグルト煮込みをフォークで突き刺し、カクのちらりと上げた目がルッチを見た。一月前に皆がいるガレーラの食堂で、ルッチがパウリーに大声で告白されていたのを現場におり、見聞きしていたからだ。その場はルッチがパウリーを殴り飛ばし笑い話で終わったのだが、その後もパウリーが回りに知れぬほどこっそりと、けれど熱烈にアプローチをしているのをカクは知っていた。
「お前さん、パウリーと付き合ったらどうじゃ」
「男に抱かれる趣味はねェ」
 ぐっと眉間に皺を寄せ即答すると、いや、そこまでは言っとらん、とカクが苦笑する。
「晴れて恋人同士ともなれば、あのパウリーのことじゃ。お前さんを部屋に招きたがるじゃろう。それとなく部屋を調べるいいチャンスだと思うがのぅ」
「それはいい考えだわ。本当なら私がと思ったんだけれど、パウリーはどうやら女嫌いのようだし、告白されているのならそれを利用しない手はないかと」
「それとも、何か問題でも?」
 カクの探るような眼差しに、いや、とルッチは首を振った。
 それが了承と取られ、話はルルを対象に調査を進めるにはどうしたらいいかと言う話になる。
「私が見たところ、パウリーの方がより、アイスバーグさんには信頼を得ているようだわ。社長室に呼ばれる頻度、仕事の後の付き合い方から見て、まず例の物を預けるのはパウリーの方が確率が高い」
「それなら、こうしたらどうじゃ」
 チキンのヨーグルト煮込みをすべて食べつくしたカクが、生ハムのたんまり乗ったグリーンサラダにシーザードレッシングをたっぷりとかけながら言う。
「パウリーを調べ、何もなければルルを探るんじゃ。まだ時間に余裕はあるからのぅ」
「妥当な提案ね」
「俺はそれで構わねェと思う」
 黙りこくっていたブルーノも口を挟むので、ルッチは仕方なく溜息を吐きつつ答えた。
「それじゃあそう言う方向で進めよう。カリファ、アイスバーグから情報を引き出すのを怠るな」
「当然です」
 すいと眼鏡を押し上げ答える女の優等生じみた顔に、ルッチはまた溜息を吐く。
 面倒なことになった、と他には知られぬ程度に息を吐き、グラスの底に残っていたスコッチをすべて飲み干した。





 一年前



 雨が窓ガラスを打ちつける音で目が覚めた。
 まだ薄暗い中で瞼を押し開ければ、まず一番に金色の髪が視界に飛び込んでくる。暖かい腕が身体を囲っていて、この関係が始まった最初には、抱き人形よろしく己を抱きしめるパウリーの腕から、彼を起こさずに抜け出すのに苦労をしたが、今では容赦なく蹴り飛ばす気遣いのなさを覚えた。身を起こすと、ずるりと力のない腕がベッドに落ちる。今日はそれで抜けられたが、そうでなければみぞおちを蹴りつけるだけだ。
 素っ裸で歩く趣味はないので、床に落ちていたバスタオルを腰に巻いた。
 ハットリは飾り棚の上で眠っていて起きそうにもないし、起こそうとも思わない。ルッチは素足のままで窓ガラスに近寄り、荒れ狂う海を眺めた。
 裏町の中の裏通りにあるルッチの部屋からは、海がよく見えた。アクア・ラグナが明日にも近付くと予報が出ていたが、ルッチはまだ避難をしていなかった。この町で生まれ育ったパウリーが、昼過ぎから準備をすれば間に合うと言ったからだ。彼はよく潮と風を読む。
 薄暗い海が唸り轟音を上げるのを窓辺で眺めていると、ベッドから呻き声が聞こえた。
 そう広い部屋ではないので、離れても同じ部屋にいれば互いの気配は容易く解る。
 ルッチの部屋は、寝室とダイニングがひとつずつあるだけの小さなものだ。寝室にはベッド以外のものはなく、生活感に欠ける。ほぼ休みなく働いているような状態なので、そうであっても特に怪しまれなかったが、ルッチの真意は違う。どうせ離れ行く島だ。余計な物を増やしても仕方がないと思っていたのだ。その割に、台所周りは充実している。
 パウリーの寝言のようなむにゃむにゃとした要領の得ない声に振り返ると、広いベッドの上で、パウリーの左手がぱたぱたと辺りを彷徨っている。いなくなったルッチを探して枕の下にまで手を突っ込んでいるが、そんな所に誰が潜り込むというのだ。
 思わずルッチは苦笑した。
 パウリーの左手のぱたぱたは、しばらくすると諦めたのか、それとも気が収まったのか、はたまたは再び完全に寝入ったのか、ルッチがいつも眠っている辺りを掴んで止まった。
 爪は割れ、木の渋が染み込み黒ずんだパウリーの指先には傷が多い。
 ルッチが眠っている場所のシーツを握り締めているパウリーの手と、ルッチは己の手とを見比べた。
 会って初めての日に綺麗な爪だと形容されたルッチの爪も、今やパウリーと同じく割れたり欠けたりしている。手もごつごつとして、船大工の手になった。
 時折、このままこの生活が続きやしないかと思うほど、毎日が充実している。
 ルッチはそれ以上自分の考えが及ぶのを恐れるように頭をぶるりと振るい、雨の叩きつける窓辺から離れた。
 ベッドに上がり、パウリーの手を持ち上げる。その下に潜り込むと、すぐさまパウリーの腕が巻きついた。
「…テメ、どこ行ってやがった……」
 眠そうに掠れた声が耳元に響き、ルッチが目を瞬き振り返ると、パウリーがじっと薄闇の中でルッチを見つめている。いつもはゴーグルで止めている髪も寝乱れぼさぼさだ。
 身体ごとそちらへ向き直り、ルッチが手を伸ばして金色の髪を梳いてやると、パウリーは気持ちよさそうに目を細めた。
『雨が強くなってきた』
 ハットリがいなくとも腹話術で話すルッチに、もはやパウリーは慣れてしまっている。ルッチの手がするがままに任せ、視線をベッドからも見える窓へ移した。
「予想よりもえらく早ェな…。日が昇ったら、準備しねェと間に合わねぇかもな」
『内側から麻を詰めて、閉じこもるか』
 常ならば外から麻を積め、万が一の浸水に備え、ドックへ避難する。それを内側から施し、アクア・ラグナをこの部屋で過ごすかと問うルッチに、そうだなぁ、とパウリーはのんびりと答えた。
「それも面白ェかもなァ」
 ルッチは首を伸ばし、パウリーの額に唇を寄せた。
 軽い音を立て離れるルッチの唇を、今度はパウリーから重ねくちづける。目を閉じ、舌を絡ませくちづけを交わすと、ルッチはそのままきつく抱き込まれた。
「とりあえず」
 頭の上でパウリーの声が聞こえ、額に触れたパウリーの胸から振動が響く。
「も一回寝て、起きてから考えよう」
 それきり、聞こえるのは寝息と、触れた肌から直接響く心音だけになった。
 この男と身体を重ねるようになってから、人の隣で眠る心地よさを始めて知った。
 ルッチは目を伏せ、パウリーの胸に額を押し付けていたが、やがてそのぬくもりに誘われるように眠りに落ちた。





 半年前



「もう時間がない」
 ブルーノの酒場の閉店後、酒場ではない奥の部屋に集まり、重苦しい空気を纏ったカクが呟いた。
 ウォーターセブン潜入に約束された時間は五年。それがもうすぐそこまで迫ってきていた。
 スコッチを飲みながらルッチが目を細めると、カクテルグラスを弄んでいたカリファが答える。
「アイスバーグさんが持っている可能性が高いと、私は思うわ」
「パウリーに託していると言う可能性はないのかのぅ」
 カクの探る視線にルッチが目を眇める。
「家捜ししたが何も出てこねェ。話を向けても何の事か解らねェようだった」
「するとパウリーの線はなしかのぅ」
「いっそ、力尽くで吐かせると言うことも考えなければ…」
 カリファの冷静な言葉に、ルッチは内心で目を向いた。それとなく伺えば、特に何を思っているでもない様子でカクテルグラスを傾けている。しかし、指先が世話しなくカクテルグラスの淵を撫でていた。カリファがアイスバーグに懸想していることはルッチだけが知っていた。それを知ってどうこうしようと思わなかったのは、ルッチもまた同じような気持ちを抱えているからであり、任務に直接支障がなければ目を瞑ることも可能だと考えていたからだ。
 長い睫を瞬かせたカリファの目が、不意にルッチを見つめた。
「それも視野に入れ活動する時期だとは思うが…うまく立ち回らねェと俺たちが罪を被ることになる。すべては秘密裏に」
「となると罪を被ってくれる誰かが必要じゃのぅ。海賊辺りが妥当だと思うんじゃが」
 席を外していたブルーノが酒場のドアを開け、両手に大きな皿を持ってやってくる。良いにおいを立ち上らせるそれを小さなテーブルの上にどんと置き、エプロンを外し椅子に座る。ブルーノの体躯からすれば小さな椅子が、ぎいと傾いできしんだ音を立てた。ペンネアラビアータに早速かぶりついたカクの鼻先に、トマトソースがくっついている。カリファがそれをハンカチで拭ってやった。
「けれど一概に海賊とは言っても、そう言う行動を起こしてもおかしくない連中を選ばなければ……能無しでは返って怪しまれてしまうわ」
「そう都合よく海賊がくるわけでもないしのぅ…」
「顔を隠すだけなら仮面でもできる」
 ブルーノの言葉に、それも最もだと頷いた。
「幸いまだ時間はある」
 例えそれが一年に満たない時間だとしても、今すぐ行動に移すというのよりはいい。
 空になったグラスにスコッチを手ずから注ぎ入れ、ルッチは言った。
「何も手立てがなければ仮面で顔を隠し、強行に。そうでなければ慎重に事を運ぼう」
 そうすれば、そうするだけ長くこの町にいられる。





 一ヶ月前


 瓶の底に少なく残っていたスコッチをグラスに注ぎ入れる。一息にそれを飲み干し、新しい瓶に手を伸ばし、封を切ろうとしたがそれよりも前に瓶を取り上げられた。
「うぉい、飲みすぎだぞ、お前」
 後ろからひょいとそれを取り上げたのは、仕事帰りに立ち寄ったらしいパウリーだった。嗅ぎ慣れたパウリーの汗の匂いが近く、ルッチは顔を上げた。重くなった瞼を瞬いて見上げると、ンマー、と誰かの口調を真似してパウリーが台所を見渡した。
「どんだけ飲んだんだ、おめぇは」
 台所には小さなテーブルがあるが、そこに乗り切らなかった酒瓶は床に転がっている。昨日今日出たのではない空瓶をパウリーはひとつずつ拾い上げ、流しへ置いた。がらんがらんと騒々しい音は、アルコールにどっぷりと漬かった頭を揺らす。
 いつになく甲斐甲斐しく働くパウリーをぼんやりと見上げているルッチに、そのパウリーの手のひらが伸びる。額に触れた大きな手のひらは、いつものように温かかった。
「具合悪くして寝込んでるってカリファから聞いてきたってのに、具合悪ィってのは二日酔いかよ」
 カリファの余計な気回しに眉を寄せる。
 二日前の話し合いで、この町に居を置くのも長くて後一月と言う話になった。任務に与えられていた時間が制限まで来ていることも確かだが、それ以上にアイスバーグの警戒が日増しに強くなっている事がまず第一の理由だった。事情を知らされていないのか、政府の役人が立ち代り入れ替わり毎日やってくる。そうされればされるほど、こちらが動きにくくなる。
 準備は着々と進んでいる。
 アイスバーグを襲撃し、力尽くで設計図の場所を聞き出す。彼の手から誰かに渡っている可能性が高いのは、カティ・フラムとパウリーだ。カクの調査でルルは除外された。万が一の場合はパウリーを殺すことも視野に入れなければならないと、飛び切り冷静なカリファが言ったので、当然だと頷きながら、内心では様々な感情が交錯していた。
 あれだけは殺したくはないと言う思いと、誰かに殺されるくらいならばいっそ己の手で仕留めようと言う相反する気持ちだ。
 昨日、一番ドックが休みだったことを幸いと、一日飲み明かした。
 任務のためにアルコールに慣れさせた身体は、一日と一晩飲み続けても酔えず、今朝になっても酔いは訪れなかった。適当に言い訳をしておいてくれとカリファに宛てた手紙をハットリに託し、そのまま、延々とグラスを傾け続け、昼過ぎから頭が揺れるような感覚になった。
 それでもまだ足りない。
 とにかく、前後不覚になるほどに酔って、何も考えられなくなってしまいたかった。
 地を離れることが寂しくなるなんて、五年前の自分に考えつきなどしただろうか。
 誰かを本気で、心底から愛しく思ってしまうなんて、任務に着く前の自分に予想しえただろうか。
 何もかもすべて、この男が悪いのだ。
 太陽みたいな笑顔を浮かべ、暖かい手でルッチの冷たい手を取り暖めてくる。抱き合ってぬくもりを分け与え、離れがたくする。
「うぉーい、大丈夫か、ルッチ〜?」
 目の前で手を振る能天気な男にすべてをぶちまけてしまえたら楽になるだろうに、とルッチは思い、できもしないことを夢見る愚かさに少し笑った。
『うるさい』
「うるさいたぁなんだ、うるさいたぁ…心配してきたっつーのに…」
 額にパウリーの手が触れる。そのまま額から頬に撫でるように動く手の暖かさが心地よく、うっとりと目を閉じると、パウリーの唇が額に触れた。
「お前、猫みてェだな」
 腕を伸ばし、パウリーの首を掻き抱いた。
 ぎゅっと抱きしめると体温の高い身体がルッチの身体を覆う。突然のことに驚きながらも、戸惑うことなく背を抱きしめ返す手のひらの感触に、目を伏せルッチはパウリーの肩に顔を伏せた。
『……お前が悪い……』
 囁くと、なんでだよ、とルッチの身体を抱きしめたまま、パウリーは憤る。本気ではなく、他愛ない言葉遊びの延長のように彼は笑い、殊更強くルッチを腕の中に閉じ込めた。
 お前が悪い。
 ルッチは心の中で繰り返す。
 何もかも。





 五日前。



「本部から連絡があったの」
 突然の召集にブルーノの酒場へ駆けつければ、カリファが仕事帰りそのままの格好で告げた。
「ロングリングロングランドに、麦わらの一味がいるそうよ」
「麦わらの一味? 聞かねェな…海賊か?」
「イーストブルー出身の海賊で、船長はモンキー・D・ルフィ。一億の賞金首よ」
「ほぅ、珍しく骨のありそうな奴じゃのぅ。ロングリングロングランドからログを辿ると、次はこの島じゃのぅ」
 パエリアをスプーンに山盛り救い上げ、カクが目を瞬く。大きく口を開き一口で頬張るカクの前に、ブルーノがジャガイモの冷たいスープを置いた。
「その中にニコ・ロビンがいると、青キジが情報を。アイスバーグさんは寝室にニコ・ロビンの手配書を貼っていらっしゃるから、顔をご存知のはず。本部からそれを利用できないかと」
「例の、海賊に罪を着せるって案を使えるって事か」
「いっそアイスバーグさん襲撃を大々的に、島全体を巻き込んでやってしまえば、我々がそれに乗じて消えても問題にはならないのではないかしら。例えば、本社ビルを潰してしまうとか」
「本社にはワシらの履歴書やら何やら残っとるんじゃろう。火事で燃やしてしまえばいい」
 パエリアに入っている殻付き海老の殻を取りながらカクが言えば、カリファも頷いた。
「我々のだけ抜き出すことは可能だけれど、それでは不自然になってしまうから、火事と言う案には賛成だわ」
「そろそろアクア・ラグナの季節だ」
 部屋の隅にある戸棚からスコッチの瓶を勝手に抜き出し、ルッチが言った。
「アクア・ラグナがくる日には住人全員がドックに避難だ。目撃者も少なく済ませられる。重なればなお好都合だ」
「ウォーターセブンでログがたまるには七日必要じゃから、麦わらの滞在中に事を起こすのは容易い…か」
 スコッチの封を切り、ルッチはグラスを使わずにそれを飲んだ。喉を焼く酒に少し咽る。
「それなら、そうとして進めよう。ニコ・ロビンに接触するのは…」
「俺がやる」
 ブルーノは億劫そうに口を開いた。
「接触する前にお前らの顔が割れちゃ、厄介だ。それに俺の能力は役に立つ」
「では私が本社に起爆剤を。動き回って一番怪しまれないのは私だわ」
「被り物が必要だな。顔を見られちゃまずい」
「そうね、それも手配するわ」
「では決行は、麦わらが島に着いたその日じゃな。それまでにようよう準備をしておかんとな」
「抜かりなく」
 もらっていく、とスコッチの瓶をブルーノに見せれば、簡単に彼は頷いた。
 それを手に、ルッチは誰よりも早く酒場を出た。

 



三日前。



 切れかけていた調味料を買い足そうとしてやめた。
 明日の約束をしようとしてやめた。
 新しい船を建設する仕事のミーティングに、忘れていたふりをして出なかった。
 来年の誕生日の話をまともに聞けず、パウリーと喧嘩をした。
 一方的に怒鳴って出て行ったパウリーを窓から見送って、ルッチは拳を握り締めた。
 これ以上嘘を吐きたくない。
 せめてもの義理立てだと言えば、パウリーは信じただろうか。
 むしろ逆上するだろう。
 容易く想像できる様子に、ルッチは少し笑った。
 このまま喧嘩別れしてしまおう、とルッチはハットリに言った。
 クル、と喉を鳴らすハットリが指先に乗る。首を傾ける愛らしい仕草に目を細め、それがいいと言われているのだと思い込んだ。
 そして僅か十分後、ノックもなしにドアを開け、ごめんと乱暴に言い放ったパウリーに、ルッチは別れを切り出せなかった。





 二日前



 キスをした。
 セックスをした。
 それ以外なにもしたくなかった。





 一日前 昼



 麦わらの一味が島へきた。
 今夜、作戦が始まる。
 仕事終わったら飲みに行かねぇ、と笑うパウリーの誘いをルッチは断った。
 そんじゃあまた今度な、と言う男にルッチは答えられなかった。
 今度なんて、二度とこない。
 パウリーの歩み去る背中を見送り、噛み締めた唇に血が滲む。





 十分前



 かつての師を足元に見下ろし、ルッチは被り物を脱ぎ落とした。重く圧迫していた牛の被り物を床に落とすと、かすかに足元に振動が響く。肩に止まったハットリが、クルクルと喉を鳴らし、髪をかき上げ帽子を被れば、いつもと変わらぬロブ・ルッチの出来上がりだ。
 驚愕に目を見張る男に話をしながら、頭の中では社長室に留め置いた男のことが気にかかった。
 いたぶるふりをしながら急所を外した。
 聡いカクなら解るだろうが、それ以上の致命傷を与える事などできず、戦っている場合ではないと言うそれらしい理由で殺すことを免れた。
 すべては任務を遂行するため。
 目的のために手段を選ばず、五年求め続けた設計図を手に入れる。
 そして速やかにこの島を離脱する。
 正体を知られる前に。





 五秒前



 壁が壊れ、飛び出してきたのは社長室に留め置いたはずの麦わらだった。何をどうしたのか抜け出し、ここまで辿り着いたらしい。
 そして、できた穴の向こうから、驚愕の表情を隠しもせず、流れ出る血におぼつかない足取りでやってくるのは、麦わらと同じ方法で留め置いたパウリーだった。
 見開いた目が、戦慄いた唇がまっすぐにルッチを見つめていた。
 彼の中でさんざめく様々な思いがすべて余すことなく伝わってくるようで、ルッチは深く息を吐く。
 腹に力を込め、決して彼の前ですらもその目的のためには動かさなかった唇を、言葉を発するために開いた。
 聞かせたくなかった言葉を、声を、ルッチは話す。
 その場から逃げ出したくなる気持ちを押さえ、五年偽り続けた真実を明かすために、彼の中へ築き上げた五年間のルッチからの気持ちをすべて偽りと取らせるため、ルッチは震えそうになる声を励ました。
 パウリーの眼差しが、痛かった。


前作のあとがき(?)で書いたルッチの愛=手段から愛=『何か』に変わる時間を書いてみたかった。んですが、なんとなく失敗くさい。私が書くとすべてが根暗になるので嫌だ。明るい人生歩みたいものだ(とルッチも思ってたらいいな)。しかし暗くなりがちなCP9ですが、長官が長官なので暗くなりようもないのかもしれない。でなきゃルッチ、潜伏生活中で発狂しちゃうかもしれないよ。だって普通あーゆー組織ってスペシャリストばかりが集まるので、みな無口そう(K的スペシャリスト観)。あーゆー長官と接していたせいで、「あー世間にはいろんな人がいるんだなー」と幼心に達観してたらいいな。ところでルッチはいくつから酢パンダの下で働いているんだろう。唯一見てきた大人があれじゃあかわいそうだ。いや、好きなんですけどね、酢パンダ。