gymnopedy.
 卵形をした小さな紫色の箱は、何度もぶつけ、何度も落とし、何度も捨てられたせいで、そこかしこに傷がついていた。複雑な模様を描く金色の蔓も、箔が取れている場所があったり、飾りそのものが剥がれ落ちて剥き出しになっていたりした。その小さな箱は、ゾロの掌に収まる大きさだったので、ゾロはいつも掌にのせて眺めていた。だが今日は、部屋の隅に設えたバーカウンターの上に音をさせないように置いていた。ゴーイングメリー号に唯一あるバーカウンターはいつも良く磨かれていたが、今は誰もそんなところに回す気などないのだろう。薄く、埃が溜まっていた。その脇にはバーボンの瓶が一本と、部屋の中に飾られていた切子細工の手に収まる大きさのグラスが並べられていた。勝手に使うと怒られるかと思ったが、不思議と今日はグラスを使って酒の味を舌に感じさせたかった。バーボンの黒っぽい瓶を持ち上げ、グラスの上に傾けると、こぽこぽと液体と空気とが触れ合い生まれる音がたった。ふわりと漂う香りに、ゾロは唇の端を少しばかり緩めていた。
 卵形の小さな箱の側面には、良く見なければ解らないほど小さな穴が開いていた。箱は、そこを弄らなければ開かない仕組みになっていた。からくり箱だ。ゾロがうんと幼い頃に、彼の遠縁の親戚がどこかへ行った土産だと言ってゾロにくれた。女っぽい華奢な箱を、ゾロは好まなかった。遊びにきていた年上の少女が、うわぁ綺麗だねぇ、と紫色の箱を羨ましそうに眺めては、頬を緩めていた。そんなに欲しかったらやるよ、とそう言って放られた箱を、彼女は大事に部屋に飾っていた。ゾロが故郷でもっとも足蹴く通った道場の、裏にある小さな家の娘だった。二階に彼女の部屋があって、いつもカーテンが端に寄せられた窓辺に飾られていた。部屋の主が夭折した後、その箱はゾロの手元に戻ってきた。娘が大事にしていたんだよ。ゾロ君がくれたものだってね。もう一度、持ってやってはくれないか。眼鏡をかけた優しい顔の少女の父は、ゾロの手に箱を押し付けた。遠縁の親戚から貰った時は両手で包むようにしか持てなかった小さな箱は、涙も拭えずにいたゾロの右手に収まっていた。
 そして今、箱はゾロの手の中に隠れてしまう。
 ぐいと唇に切子細工のグラスをつけ、酒精がもたらす酩酊と焼ける刺激を喉の奥にしまい込んだ。薄く息を吐き出すと、それは瓶とグラスから匂い立つバーボンの香りがした。
 村を出る時も、僅かな荷物の中に小さな箱をしまい込んでいた。割らないように、大切にタオルに包んで、それをそっと奥へ入れた。少女の形見は白い鞘の刀で、彼女の父がゾロに渡した卵型の箱は元々ゾロの物だった。自分の手の中へ戻ってきた箱を、ゾロはどうしても家へ置いて行く事はできなかったのだ。
 度重なる戦いに、箱は傷付き、欠け、けれども形を残してずっとゾロの手元にあった。
 ゾロは、カウンターに立てかけるように置いてあった少女の形見の刀へ手を伸ばした。鞘の鍔宛ての部分を少し押すと、飾りが開く。賞金稼ぎに海賊の首を狙い始め、まとまった金が手に入った時に、鍛冶屋に作らせた隠しだった。細かい物を保管するのが得意ではないゾロの、精一杯の対処法だ。そこには、針のように細い鍵がひとつ収められていた。持ち手の部分をつっと押すと、鍵の先がぴんと浮く。それを摘み上げ、ゾロは小さな卵形の箱をも持ち上げていた。
 掌に収まる箱の側面に空いた穴に、鍵を差し込み、ぐるぐると捩じる。箱の中で、きゅるきゅると何かが戸惑いながらも回る音がした。カチ、と鍵が回らない所まで巻き続け、ゾロは鍵をそっと抜く。カウンターに鍵を置き、卵形の箱もその側へ置いた。開いた手にグラスを持ち上げると、やがて紫色の蓋が持ち上がった。小さな卵形の、先端の部分だ。金色の飾りがたくさんしてある部分が開き、中からありきたりの妖精の姿を模したちまい人形がゆっくりと姿を現す。くるりと人形が動き始めると、ぽろぽろとそれは音を奏で始めた。
 この箱の名が、オルゴールだと知ったのは、旅に出て初めて女を抱いた時だった。ゾロの荷物の中に似合わぬ箱があるのに気付き、珍しいのね、と笑った。薄い唇の女で、綺麗な音だわ、と目を細め、しきりに箱を欲しがった。くれてやっても良かったが、やれずにもいた。
 ぽろんぽろんと、音は次第に速度を落とす。ゆっくりと、ゆっくりと、天寿を全うする人の命のように、軟く歩みを止めようとする。
 妖精が回るのをやめた時、ゾロは再び鍵を差し込んでいた。カチと鍵が止まると、再び妖精が回る。くるくると、決して靡かない裳裾を翻し、妖精が回っていた。
「…綺麗な音」
 切子細工のグラスを持ち上げるゾロの背後で、掠れた声が呟いた。
「…起こしたか」
 振り返ると、熱に潤んだ目を、ナミがゆっくりと瞬いていた。汗に濡れたオレンジ色の髪を、彼女は億劫そうに右手でかきあげ、「ううん」と首を振る。苦しそうな息を吐き出しながらも、彼女は微笑んでいた。
「…ベルメールさんが…、良く聴いてた…」
「これか?」
 カウンターで回る妖精を持ち上げ、ベッドに横たわったっきり起き上がれないナミの側へ置いた。目を閉じ、音を追う女のベッドに、ゾロは浅く腰を下ろす。
「……ジムノペディ」
「え?」
「ジムノペディ。曲の…名前よ……。なつかしいな…。うちにも、あったの。オルゴール。ベルメールさんがとても好きで…。色のついたガラスでできてたの。アーロンが来た日に、壊れちゃったけど…」
 そうか、とも言わず、ゾロは黙ってナミが呟く言葉に耳を傾けていた。オルゴールが止まり、妖精が止まる。そのままにしていると、薄く開いたナミの目が、ゾロを捕らえた。
「…聴かせて、オルゴール。久しぶりに聴くの……もっと聴きたいわ…」
 無言でゾロは腰をあげ、カウンターの上に置き去りにしていた鍵を摘み上げた。大股にベッドに戻り、その枕元で黙り込むオルゴールを持ち上げ、細い鍵を差し込んで回す。ややあって動き出した妖精に、ナミは目を細めていた。
「…素敵ね。とても綺麗…。港へ着いたら…あたしも買うわ……。ジムノペディの、オルゴール…。ベルメールさんを…思い出すから…」
「やるよ」
 乾いた唇をゆっくりと動かすナミを見つめ、ゾロは笑んだ。薄く唇を持ち上げただけだったが、それは彼にとって充分な笑みだった。
 え、と熱っぽい目を瞬かせるナミの手に、細い鍵を握らせた。触れた手は熱く、常人の体温をはるかに越えている事を、改めて感じさせる。今は誰もいない男部屋で仮眠を取っているビビが、長く熱が続くと死んでしまうと言ったのを思い出し、ゾロはぎゅっと鍵を握らせたナミの手を掴んでいた。
「やるよ、ジムノペディっつったか…そのオルゴール」
「……いいわよ、自分で買うから…」
「ガラスのオルゴールのがいいか」
「…そうじゃなくて……」
 大きく吐き出される溜息に、少し笑い声が混じっていた。
「大事なんでしょ…それ。ゾロがオルゴールなんて…似合わない物持ち歩いてるんだもの…。きっと大事な物なんだ…」
「別に、特別大事ってわけじゃねぇ。棄てられなかっただけだ」
「棄てられなかったって事は…大事ってことよ…。あたしにくれるくらいなら…サンジ君にあげて…。その方が…彼…喜ぶ……」
 目を閉じ、ナミは大きな息を吐き出した。暫く言葉の続きを待っていたが、乾いた唇が開かない。眠ってしまったのだとゾロはようやく理解し、ナミの手を離した。立ち上がると僅かにベッドが揺れる。紫色の箱を枕元に置き、彼女の手に鍵を握らせたまま、ゾロはカウンターへ戻っていた。こぽこぽとグラスにバーボンを注ぐ音に続き、カツカツと天井を歩く音がした。歩幅が広く、足音が硬いのはサンジの革靴のせいだ。ゾロが階段の先にある蓋を見上げていると、案の定天井を持ち上げたのは、サンジだった。
 相変わらずスーツをちゃんと着て、ネクタイを締めている。右手には銀色の盆があり、そこにはいくつかの皿が載っていた。彼は階段を下りながら、ゆっくり奏でられるオルゴールの音色に気付いたようだった。これは、と問うようにゾロを見つめてくる。ゾロは少し顔をベッドへ向けた。
「ジムノペディ」
「は?」
 不可解な顔をするサンジに、ゾロは笑みを馳せた。
「そう言う名前の曲だそうだ」
「……お前のオルゴールか」
「今はもう、ナミのだ」
「…あげたのか?」
「ああ」
「お前の大事な物だろう」
「…そうらしい」
「いいのか?」
 幾度となく同じ夜を過ごした男は、オルゴールの由縁を知っていたし、それに対するゾロの気持ちを知っていた。瞬く目に、ゾロは軽く首を傾げた。
「いいみたいだ」
「そんな、他人事みたいに」
 盆をカウンターに置き、食えよ、と顎で癪ってから、サンジはベッドへ歩み寄った。敷いた絨毯に吸収され、さすがの革靴も音を立てない。
「…俺が持ってるよりも、ナミが持ってる方が相応しい」
「そりゃまぁそうだろうな。オルゴールはレディの為に作られた物だからな」
「ナミはお前にやれと言った」
「へぇ」
 サンジは嬉しそうに微笑んでいる。熱に浮かんだナミの汗を、枕元のタオルでそっと拭いながら、依然カウンターから動かない男を振り返った。
「やっぱりナミさんは優しくていい女だ」
「お前、欲しかったのか」
「…いや、別に」
 笑いながらサンジは目を逸らした。再びゆっくりと、ナミが起きないように気を使いながらタオルで汗を押さえている。その細い背中を見つめながら酒を傾け、ゾロは口を開いていた。
「ベルメールさんとやらが、好きだったんだそうだ。誰か知ってるか?」
「…ナミさんのお母様だ」
「そうか」
「アーロンに殺された。ナミさんの前で」
「…そうか」
「ナミさんの大事な人だ」
「……そいつのオルゴールは、色のついたガラスのオルゴールだったんだと」
 サンジは手にしていたタオルを置き、もう動かなくなった妖精を暫く眺めた後、「そうか」と頷いた。振り返り、カウンターまで戻ってきた彼が、手をつけられていない料理に目ざとく気付き、熱いうちに食えよ、と眉を寄せる。ゾロはおざなりに頷いただけで、切子細工のグラスをしげしげと眺めていた。
「…あいつがこう言うガラスを集めるのは、そいつのためかな?」
「さぁな」
 素っ気ないサンジの言葉は、けれどゾロが持ち出す話題を嫌がっているわけではない。カウンターの裏の棚に並べられている切子細工のグラスを眺め、そうかもな、と呟いた。
「…高いもんなのか、これは」
「どうかな」
「…賞金首、二人くらいで何とかなるか」
「どうだろうな」
「いつか、買ってやるか…。色つきガラスのオルゴール」
「ジムノペディって奴じゃなきゃ駄目だぞ」
「解ってる」
「どうだかな。だがお前にしちゃいいアイディアだ」
 サンジは頬を緩め、スツールに座るゾロの前に身を乗り出した。ちゅっと掠めるように唇を奪うと、グラスを持たないゾロの手が、サンジの頬に触れた。少し眺めのくちづけの後、サンジは薄く目を開いていた。ゾロは、頬に添えていた手を離し、細い息を吐く。
「守銭奴がしおらしいと、調子が狂う。あいつは、殺してもしなないと思っていたから」
「誰だって死ぬさ。時がくれば」
「…そうだな」
「だが、ナミさんはその時じゃねぇ。まだまだこの船の金を管理してもらわねぇとな。鍵つき冷蔵庫も買ってもらわないと」
「そうだな」
「それに、お前が稼いだ金で買ったオルゴールも、貰って頂かないとな」
「お前も少し金出せよ」
「無職なんだ」
「援交しろよ、俺と」
「いいな、それ」
 再び唇を触れ合わせ、サンジは微笑んだ。
「早く飯食っちまいな。そしたら長っ鼻と見張り交代だ。目ん玉見開いて、島探せよ」
 ああ、と頷くゾロが、グラスをカウンターに置いた。それをサンジの細い手が持ち上げる。少しだけ口に含み、眉を顰めながら嚥下した。サンジは、あまり酒が得意ではなかった。
 陶器と陶器が触れ合う音を立てて持ち上げたスプーンの音に気付いたのか、「サンジ君」とナミの声が彼を呼んだ。大丈夫ですか、と微笑みを浮かべ、ナミに栄養価の高い果物を搾って飲み良いように味を工夫したジュースを彼は勧める。少し貰う、と身を起こすナミの背にカーディガンを羽織らせ、サンジは「早く」と笑った。
「早く良くならなくちゃ、ナミさん。鍵つき冷蔵庫、買ってくれる約束でしょ」
「…ええ、そうね」
 ナミの手に握らせたグラスを見つめながら、ゾロは思った。グラスに直接口をつけるナミの手は、きっと今も熱いだろう。ジュースはその温度に溶かされて温むのだろうか。
「……ゾロ」
 サンジに背を支えられながら、ナミがカウンターで食事をする男を呼んだ。なんだ、と振り向くゾロに、ナミが右手を差し出した。困惑したように首を傾げるサンジと、ナミの視線を受け、ゾロが歩み寄る。
「聴かせて、オルゴール…。ベルメールさんの好きな曲…」
「ああ」
 微笑む唇が、乾いていた。
 見上げる目はうつろだった。
 けれどナミは、回る妖精の音色に幸福そうな息を洩らしていた。
 サンジは唇を噛み締めた。
 ゾロはそんな彼を見つめていた。
 早く、と彼らは願う。
 船が進み、島が見つかり、医者が彼女を治してくれるのは、一体いつになるのか。ビビが倒れそうになるまで頑張る看病から解放されるのは、いつのことなのか。ウソップがルフィが、いつもよりも寡黙に見張り台に立ち、寒さに対する文句を飲み込んでいた。彼らが、ナミと一緒に大騒ぎできるのは、これからいくつ夜を過ごした後なのか。
 海には雪が降っていた。
 ジムノペディが降っていた。