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 草木も眠る丑三つ時。
 グランドラインの破天荒な気候や風習の中にそんな言葉が存在するのかは知らないが、ともかくそんな誰もが寝静まって起きてきやしないと言う意味を、草木すらも眠ってしまっているのだよと例えられた真夜中に、ナミはごそりと寝床から起き上がっていた。昼の暖かい太陽の元に晒してたっぷり膨らんだ布団の傍らを見ると、ぽかりと一人分の空間が空いている。
「…ロビン?」
 どこに行ったのかしら、とベッドから下り、ナミは女部屋の階段を上がっていた。甲板に打ち付けるヒールの音は良く響くが、寝汚い男どもには関係がない。だが暗闇の中では寄って脱ぎ捨てた靴がどこにあるのか解らず、ナミは裸足で倉庫の中を歩いていた。決してこの女、傍らで眠っていたはずのロビンを探しに出たわけではない。目を覚ました理由を解消する為、トイレへ向かっただけなのだ。それが、トイレから出たら、嫌にすっきり目が覚めてしまった。お酒でもちょっと頂こうかしら、と甲板へ出て、月の冴え渡る綺麗な夜空を見上げ、うんと背伸びをすると、ぽきりと腕の骨が鳴った。見張り台の上にはウソップの首がかくんと垂れていて眠っているのが解る。やれやれと溜息を吐き、ナミは階段をひたひたと上がった。
「……あれ…サンジ君、まだ起きてるのかな…」
 ラウンジの明かりは煌々と灯っていた。試作品の研究とかでサンジが夜通し起きている事も多く、それならそれで何か軽いものをおなかに収めようと、ラウンジの丸窓をひょいと覗き込んだナミは、その頬に浮かべていた微笑みを硬直させた。
 ひょっとしたら、こんな時間だから、戦い以外には荷物持ちだとかたまの甲板掃除だとかにしか役に立たないゴクツブシとラウンジで、人には言われぬいかがわしい事を、ぎっちらことやっているのかと思ってこっそり覗いたのだが、そうではなかった。むしろそうであった方が楽しかったのに、とナミは固まった笑みを解凍して舌打ちした。
 ラウンジの明かりの下には、サンジとベンチでも軋ませているはずのゴクツブシがいた。夜行性の男は、その手を伸ばしていた。無駄な肉のつかない綺麗な腕は、指先までもが均整が取れていて憎いほどだ。それが、白い頬へ伸ばされている。
 サンジの頬ではなく、女の、すべらかな頬だった。
「…大丈夫だ」
 低い声が僅かにナミにも聞こえた。
「……でも」
 ロビンの黒い髪が、さらりと剣士の指先をくすぐった。俯くロビンの顔を上げさせ、剣士は少し微笑んだようだった。ナミからは、ゴクツブシの顔は見えなかったのだ。けれどロビンの顔ははっきりと見えた。少し染まった頬は愛らしく、女を実際の年齢よりもずっと若く見せていた。切れ長の目尻に浮かぶのは、小さな涙の粒。
「…こんなこと、知られたら………そう思うと、心配なのよ」
「心配しなくていい。いざと言う時は、俺が」
「……でも、そんなの…悪いわ。コックさんだって傷付くもの」
「俺が悪いんだって言えば、納得するさ」
「……可哀相よ。それはだって…嘘を吐く事になるわ」
 ガラスを通してはくぐもって聞こえる男と女の声に、ナミは目を丸くした。まぁ、と口元に手を当てるが、決して声は出さないし、気配も変えない。泥棒は気配を殺す事に長けているのだ。暗殺の得意な女相手にも、そして人の気配を読む事で剣を操る剣士相手にも、自分の存在を隠してしまうことはナミには容易かった。そっと身を乗り出す。
 ロビンの細い指先が、ゴクツブシの白いシャツに触れた。
「……ごめんなさいね」
「…お前が謝ることじゃない」
「コックさんに、謝らなくちゃ……。でも…恥ずかしいわ。あなたと…こんな事になるなんて」
「いつかはこうなるって解ってたし」
 こうなるってどうなったの、とナミは両手を口元に当てた。
 ロビンに向かってニッと笑みを浮かべた男に、ロビンは目を丸くして、けれどすぐに微笑んだ。ナミでさえ、滅多にお目にかかる事のない子供っぽいようなそんな顔だ。
「本当?」
 嬉しそうに首を傾げる女が、ゾロの首筋をすいと撫でた。
「…ああ」
 くすぐったそうにゾロが首を竦める。ロビンはおかしそうに笑い声を貰しながら、私もよ、と囁く。さらりと傾いだ髪に、ナミは慌てて頭を引っ込めた。ロビンの顔がこちらを向きそうだったのだ。どうかしたか、と問う声に、ナミは肩を竦める。いえ…ちょっと…、とロビンの訝しむ声が近付いてこないようにとそればかりを願っていた。
「なんでもないんなら…続き…やるか?」
 やるってそんな、とナミの顔が赤くなる。
「ええ…いいわよ」
 ロビンの艶っぽい声に、少し耳を塞ぎたくなった。ぎしっと床が軋む音がして、グラスか何か、瓶のようなものが触れ合う音がした。やがて、ああ、とロビンの声がガラス越しに聞こえる。ナミは床を這って中央甲板への階段へ向かっていた。
「いい気持ち……」
 囁くような声に、ああ、と男の低い声が重なる。
 ナミは顔を真っ赤にして、階段を下りた。女部屋へ戻り、ベッドの中へもぐりこみながら、にんまりと相好を崩す。ぐふふ、と笑い出しそうな女は頬を両手で抑えながら、にっかりと満面の笑みを浮かべていた。
「…おもしろく、なりそ」
 んふ、と肩を竦め、ナミは毛布を引っ張り上げる。肩まですっぽりと包まれ、早く明日にならないかしら、とうきうきした気分で目を閉じていた。
 ラウンジからは、時折床が軋む音が、明け方近くまで続いていた。





 翌朝、いつもより少しばかり早起きをしたナミは、いつの間にか隣に戻ってきていたロビンを起こさないように気をつけながら、身支度を整え、ラウンジのドアを開けていた。
「おはよう」
 白いテーブルクロスにぱりっと糊を効かせ、一輪だけみかん畑から貰ってきた白いみかんの花をテーブルの真ん中に置いた花瓶にさし、その周りにはたくさんの皿が並んでいた。人数分のフォークやナイフもセッティングされている。
「あれ、ナミさん。早いね」
「うん。早くに目が覚めちゃったの」
「ふぅん。あ、コーヒーでも飲む? それとも、ティ?」
「そうねー…オレンジティが飲みたいな」
「畏まりました、レディ」
 振り返ったサンジのよどみないサービスに甘んじ、いつもの席に腰を下ろしたナミはエプロンをきゅっと細い腰に締め、忙しくこまこまと働くコックの後ろ姿を見つめていた。湯を沸かし終えるとすぐにポットとカップを温めて、美味しい紅茶を注ぐと、そこへ一枚オレンジの薄切りを乗せ、サンジが恭しく掲げてくる。
「どうぞレディ。目覚めのティは美容と健康に欠かせませんよ」
「ありがと。ねぇ、今日はなんだか楽しい日になりそうね」
 微笑むと、サンジはだらりと顔を緩めた。
「そうですね。ナミさんがそう言うのなら間違いない。ところでナミさん、聞いてくれますか、今日の朝食のメニュウ」
「うん、なぁに」
「ビタミンAがたっぷり含まれたゴボウにレタスとハム、その他色々な野菜を加え、クルトンをかけたサラダと、こんがり焼いた固めのパン。ジャムはマーマレードとピーナッツバターを。ジャガイモのすりつぶしたのをベーコンで巻いて焼いたのが、朝食のメインディッシュです。デザートには朝のおなかに優しいヨーグルトを。ブルーベリージャムを添えてみましたが…いかが?」
「素敵、美味しそうね。スープはないの?」
「これはうっかり」
 サンジは苦笑して、自分の頬をぺちりと叩く真似をした。
「俺としたことが。勿論ございますよ、レディ。朝にポタージュはくどいので、あっさりしたコンソメのスープを。たまねぎで甘味を取って、昨日の昼から煮込んでいるので…味見、してみます?」
「んーいいわ。みんなと一緒に食べる。サンジ君のスープだもの。まずいはずなんてないわ」
 にっこり微笑むと、あああなたはまるで天使のようだ、とサンジが陶酔しきった声で呟いた。ナミはそれを軽く聞き流し、両手で少し冷めたオレンジティを持ち上げ口に運ぶ。他愛ない話をしながら、料理の続きをするサンジに付き合っていると、朝飯かーっ、と騒ぐルフィの声が聞こえてきた。あれが聞こえると、そろそろみんなが起きてくる合図だ。
「ああ…急がねぇと…」
 手を早めるサンジに、にんまりと笑ったナミが、ねぇ、と声をかけた。なんですか、とけれど振り返らずに答えたサンジに、ナミは人の悪い笑みを浮かべる。
「……いいこと、教えてあげましょうか」
「…いいこと? また何かお金儲けでも企んでるんですか?」
「失礼ね。そんなこと言う人には、教えてあげないわよ。あたしは、善意で言ってるんだから」
「ああっ」
 サンジが慌てて振り返りすっ飛んでくる。ナミの白い手をとり、そんな、と悲しい声を漏らした。
「意地悪を言わないでくださいよ、ナミさん」
「ふふ。悪いって思ってる?」
「勿論」
「じゃあ、教えてあげる」
 ナミはぱちりと片目を閉じて見せた。明るい朝の光がラウンジを照らしていて、白いテーブルクロスの上に乗っている銀のナイフが、光を反射する。サンジは目を細め、魅力的だー、と呟いていたが、ナミはそれを無視した。ぐっと声を潜め顔を近づけると、何を誤解しているのかサンジは顔を赤くする。
「いいこと。ゾロと、ロビンは秘密を共有しているわ」
「え」
「…それも、ちょっと人には言えない秘密よ…」
 ふふ、とナミは片手を口に宛てた。
「あの二人、きっと今日は二人揃って、寝不足なはず」
「…それは、どう言う意味ですか…?」
 きょとんと目を丸くしたサンジに、ナミは肩を竦めた。
「あら、解ってる癖に」
「…いえ、全然……」
「そう? でも、すぐに解るわよ」
 ふふふ、と微笑み、美味しいわこれ、とナミは紅茶を口に運んだ。条件反射のように、光栄ですレディ、と呟きながら、サンジの顔はラウンジの丸窓の向こうからやってくる、ロビンに向けられている。小さく欠伸を噛み殺しながら、寝癖の跳ねた髪を撫で付けていた。どこかしら疲れた様子が浮かぶ顔をぼんやり見つめるサンジに、ナミがくいとシャツを引く。
「いいの? スープ煮え立ってるわよ」
「ああっ」
 慌てるサンジがコンロにすっ飛び、その間にロビンがラウンジへ入ってきた。おはよういいにおいね、と言いながら席に付くと、毎朝のように競い合ってルフィとチョッパーとウソップの三つ巴が転がり込んでくる。飯っ、と叫ぶ三人をしかりつけながら、サンジはちらりとまだ来ぬもう一人のクルーのために溜息を吐いた。
「…ったくあいつは…飯時だけはちゃんとこいって言ってんのに…」
 手早くスープを配膳しながら、サンジは舌打ちをする。スープ鍋をウソップに渡し、注いどけ、と命じると、シャツの袖を捲り上げた。
「あんの寝腐れ剣士め。ちょっと待ってて下さいね、レディ達。俺が起こしてきますから」
 にっこり微笑んだサンジを、あ、とロビンが制した。立ち上がり、すでに身体は出口へ向かっている。
「いいわよ、コックさん。私が起こしてくるわ」
「え…ロビンちゃんが…?」
「ええ。コックさんは、給仕の続き、お願い」
 薄く笑うロビンを見て、なんだぁ、とウソップが素っ頓狂な声を上げた。
「珍しいな、ロビンの奴。ゾロ起こしに行くなんてさぁ。初めてじゃねぇの?」
「…何かあったのかしらね、二人」
 ふふ、と含み笑いをもらしたナミの声を、ウソップは聞き逃してはいなかった。ちらりと目を向けると、金勘定を忙しく働く頭の中でしているナミの顔があった。何考えてんだか、と思いながらも、自分に関係がないのならまぁいっか、とウソップはサンジに命じられたスープ配りに専念していた。
 サンジだけが一人、腑に落ちないような顔で、ロビンが去ったラウンジのドアを見つめていた。





 ロビンにはああ言われたが、やはりレディにそんな重労働をさせられない、と言う使命感と、ゾロを毎朝起こすのはこの俺の役目だから、と言うささやかな独占欲で、サンジはラウンジを後にしていた。エプロンを外して行くサンジを見送り、面白くなりそうね、と一人先に食事を始めているナミが呟いたが、聞いた者は誰もいない。その他三人はベーコンの取り合いをしていたからだ。
 ゾロが朝眠っているのはみかん畑の側と相場が決まっている。固い靴底の音を、何とはなしに潜めながら、多分まだゾロを起こすのに苦戦しているのだろうロビンの姿を探しながら歩いて行くと、やだ、と笑い声が聞こえてきた。
「早く行きましょうよ、朝ごはん、なくなっちゃうわよ」
 ロビンの声は、寝そべっているゾロに向けられている。ロビンの綺麗な背中を見つめ、サンジは思わず足を止めていた。ゾロの手が持ち上がり、光から顔を隠すように空へ向けられている。
「まだ眠ィんだよ。テメェだってそうだろうが。昨日は朝まで色々さ…」
「ああもう言わないで。恥ずかしいんだから」
 朗らかに笑い声を上げるロビンに、サンジは目を見開いていた。珍しい事にゾロが、ロビン相手に笑っている。
「恥ずかしいってなんだよ。別に恥ずかしくなんかねぇだろ。人間誰でもああなるさ」
「あなたはちっとも乱れないじゃない。私ばかりで…少し悔しいわね」
「そりゃ俺は、場数が違うから」
「そう。でも次は私があなたに参ったって言わせて見せるから、覚悟なさい」
「…楽しみだ」
 ふふ、と笑うロビンの横顔は、いつものようにつんと澄まして気取ってなどいない。本心から零れる笑みと、二人の間で秘密めいて交わされる言葉のやり取りに、サンジはそこから動けなくなっていた。口に咥えていた煙草から、ぽろりと灰が風に浚われスーツに付着しても、払う事もできなかった。
「……けど、あの事はコックさんには内緒よ」
 ロビンの人差し指が、彼女の愛らしい唇に触れる。ゾロはロビンを見上げていたが、空に向けて伸ばしていた手をぱたりと下ろし、ああ、と頷く。
「…まだな」
「ええ。まだよ。時がきたら、私から言うわ……だって悪いのは私……」
「言うなって。俺も、悪ィんだから」
「…いえ、私が悪いのよ。駄目って解っていながら、手を出してしまったもの。年上の女のすることじゃないのに…」
「………よそうぜ、この話は…飯ができてるってんならさっさと……」
 がばりと身を起こし、立ち上がったゾロがロビンに手を差し出した時、ハッと顔を強張らせた。そこにいたサンジに気付いたのだ。ゾロの顔色が変わった事に気付き振り返ったロビンも、顔色をなくして、口元に手を寄せている。
「…いつから、そこに…?」
 サンジはゆるゆると薄い笑みを浮かべた。
「……ついさっきですよ…レディ」
「…私達の話を、聞いていたのね?」
「いえ? 何の事ですか? 俺は二人が遅いから、てっきりクソ腹巻を起こすのにレディがてこずってんじゃないかって…オラ! クソ腹巻! 起きてんならさっさと飯くらいな! ぐずぐずしてっとルフィに食われちまうぞ!」
 乱暴に言い放つと、ああ、とゾロが頷いた。がしがしと髪をかき回しながら、行けよ、とばかりにロビンに顎をしゃくって見せる。ロビンは軽く肩を竦め、お先に、と微笑を残して行く。ゾロは動かず、サンジもだから動かなかった。何か話があるのではないかと思ったが、聞きたいとは思わなかったので、ゾロが「お前よぉ」と口を開くと、テメェは、と睨みつけていた。あ、と眉を潜めるゾロに苛立ちを伝えるため、ドンと足を踏み鳴らす。
「ロビンちゃんの手まで煩わせるんじゃねぇッ! 自分で起きて飯食えっつの!」
「あ…おお」
 目を丸くしながらも、促されるようにゾロは歩き出す。ぐるりと背を向け、まったく、とぶちぶち文句を言うサンジがゾロが近付くよりも先に歩き出すと、今日の飯は何だよ、とゾロが声をかけてきた。それに対し、ナミに返したのよりももっと粗雑に、簡略して答え、見りゃ解る、ともっともな言葉を付け加えた。そりゃまぁそうだな、と頷く剣士は、ラウンジに入るとナミの隣に腰を下ろす。美味しいわよ、とロビンが微笑めば、当然だろ、と笑みを返す。
 食事の最中も、何か親密で秘密めいた笑みを浮かべながら、二人は時々言葉を交わしていた。





 その日も、その次の日も、そのまた次の日も、剣士と新入りの考古学者の仲は気味が悪いくらいに良く、随分と長い時間を一緒に過ごしている姿を見るようになった。例えば、剣士のトレーニングの傍らに考古学者がいて、ぱらりと本を捲っている。面白い記事を発見したのか、それを示すと剣士は決して止めないはずの鉄団子を振り回す手を止め、覗き込んだ。
 二人の親密さと言ったら、鈍感なルフィでさえも気付くほどで、お前ら最近仲いいなぁ、と夕飯の最中に言って、サンジからは冷遇され、ナミからは優遇され、そしてゾロとロビンは顔を見合わせた後で、まぁな、と曖昧に笑って見せた。それと反比例して、サンジの料理の味はどんどんと悪くなる。ゾロとロビンが仲が良ければ飯がまずい。塩の配分を間違えたり、レタスとキャベツを間違えたり、挙句の果てにはナミに出された味噌汁の中にはすべてが繋がったままの大根が泳いでいた。けれどナミの機嫌は悪くならない。なぜならこの状況を楽しんでいるからだ。
 ああ面白い、と今も二人仲睦まじく、船首で本を見下ろしているゾロとロビンを、ラウンジの前の手摺にもたれ、切ない眼差しで見つめているサンジを、ナミはラウンジの中から見つめていた。
 航海はこうでなくっちゃ、と嫌にうきうきした顔で家計簿をつけているので、チョッパーは気持ち悪いと言って近付かない。
 はぁと溜息を吐くが、チョッパーと同時にサンジも溜息を吐いていた。手摺に肘を乗せ、顎を預けながら、すぱすぱと煙草を吸っている。昼寝もしないで楽しそうに笑っているゾロを見て、うっかり涙が零れてしまう。
 俺達って…、と楽しかった過去の日々が蘇る。
 終わりなのかなぁ、と喧嘩していた懐かしい思い出が蘇る。
 出会いはバラティエだった…、と愛すべき魚の形をした奇怪な海上レストランを思い出した。
 あいつは格好良かったなぁ、と黒刀を操る男に大傷を与えられ、涙を流した元海賊狩りの姿を見た。
 アーロンパークじゃ一緒に戦って…、と初めての共同作業を思い出し、胸が痛くなる。
 ココヤシ村じゃ一緒に飯だって食ったし、と立食パーティの喧騒を懐かしんだ。
 グランドラインに入ってからは、巨人のいる島で離れ離れだったり、チョッパーを拾った島でも離れ離れだったり、けれど狩り勝負をしたり、アラバスタのお姫様を助けるために砂漠を旅したり、色々楽しかった。面白かった。話も一杯したし、そう言えば、ビビが仲間になってから、サンジとゾロは仲間と言う枠を超えた付き合いを始めたのだ。キスもしたし、抱き締め合った。随分長い間一緒にいるように思えるけれど、本当はそんなに長い間じゃなかったのだ。
 遊びだったのかな俺の事…、とロビンの髪を撫でているゾロを見つめた。じわりと浮かんだ涙が止まらなくて、顔を覆おう。
 切ないなぁ、と煙を吐き出した。
 その後ろ姿を、やっぱりナミがにんまりと笑みを浮かべ、チョッパーが心配そうに、そしてウソップはそんなナミとチョッパーを見比べて溜息を吐いていた。





「蛾がついてんぜ」
「え?」
「あ。蝶だ」
 ロビンの髪にすいと手を伸ばし、それを女の鼻先に寄せて見せた男は、蛾も蝶も一緒だよな、と掌を開いた。中からひらりとモンシロチョウが飛んで行く。どこで生まれこの船に乗っているのかは解らないが、恐らく生息地はみかん畑だろう。そちらへひらひらと飛んで行く愛らしい蝶の姿を見送りながら、ゾロは首を傾げた。
「蝶と蛾の違いってのはなんだ」
 ロビンは膝の上に広げていた本が、風にページを繰られそうになったので、両手で押さえながら肩を竦めた。
「さぁ何かしら」
「汚いかそうでないかってだけか」
「さぁ…調べておくわ」
「お前でも、知らないことあんだな」
「当たり前でしょう。私は考古学者。昆虫学者じゃないのよ」
 モンシロチョウの行方を目で追っていたロビンはラウンジの前にサンジがいるのを知り、眉を潜めた。ゾロも気付いたのか、少しだけ表情が曇る。
「……そろそろ、言わなくちゃね…」
「…ああ」
「……最近、まともな食事が出てこないもの。やっぱり、ショックだったのよ…」
「それじゃあ、もうあいつは知ってると?」
「大切なものなのよ」
「……だな」
「今日、言うわ」
「俺から言う」
「いえ、私から言うわ」
 ロビンは本を閉じた。
「……私から、言わなくちゃ。そして、謝らなくちゃ」
 立ち上がると、重い本をゾロが取り上げた。片手に抱えながら、なら早い方がいい、とラウンジへ向かって行く。自分の方へ歩いてくる男に気付いたサンジが、慌ててばたばたとラウンジの中へ引っ込んで行った。
 当然でしょうね、とサンジのその反応を浮かべた自嘲的な笑みとともに見送りながら、ロビンは溜息を吐く。
 ラウンジへ向かうのが、とても憂鬱だった。





 入ってくるなり、ちょっと席外せ、と命じられたナミとチョッパーとウソップとルフィは、とりあえずラウンジから出た。チョッパーとルフィは、ウソップが気を利かせ、釣りでもするかと誘っていたので、大小さまざまな背中を並べて甲板でまったりしている。ナミは、じっと壁に張り付いていた。
 突然、今は一緒にいたくない二人を前にしてしまったサンジは、新しい煙草を探りながら、何の用だ、と硬い声を発していた。
 その険悪な様子に、ロビンとゾロは顔を見合わせる。
 ロビンがそっと一歩足を踏み出した。
「私、あなたに謝りたくて」
「…あなたに、謝っていただくことなんて…ありませんよ」
 薄く笑みを浮かべるサンジに、いいえ、とロビンは首を振った。
「あなたももう解ってるんでしょう? 何も言われないのは、返って辛いのよ」
「…何言えって…言うんですか…」
 消沈した面持ちに、ゾロとロビンは、やっぱりと息を吐いた。
「サンジ、悪いのは俺なんだ」
「いいえ、ゾロじゃないの。私がいけないのよ。あの時、つい出来心で」
「でも実際に手を出したのは俺だから、悪いのは俺だ」
「違うわ。ゾロが手を出してなかったら、私からそうしてたもの」
 ロビンはそっと頬に手を当てた。
「だって…とても魅力的だったんですもの……」
 恥ずかしがる素振りに、ああ、とサンジは目を閉じる。
 魅力的なのは誰よりも自分が解っている。ゾロは誰よりも強いし、逞しいし、それに優しい。無骨だけれど何か安心させてくれる。セクシーで、彼を前にしたら魅力的だなんて思わないはずがない。同性である自分ですらも惹かれたのだ。異性のロビンが惹かれないはずもない。
 とうとうお別れか、とサンジは息を吐いた。煙塗れのそれは、ごすんと音を立てて床にでも落ちそうなほど重かった。
「……いいんですよ…レディ…。誰だって、そう思います」
 そこで納得しちゃ駄目よ、とドアの外でナミが拳を握り締めていた。もっと泣き喚いて本妻の意地ってもんを見せてくれなくっちゃ面白くないわっ、とまるでハーレクインの世界を求めるような事をナミは思う。
「ごめんなさいね、コックさん。でも、どうしても私の口から謝りたかったのよ…。それに、嘘は吐きたくなかったの」
「残酷ですね、あなたは…」
 サンジは微笑みながら顔を上げた。煙草を唇から抜き取ると、深く息を吸い込む。煙に汚染されていない新鮮な空気を吸い込めば、何かが変わるような気がしたのかもしれない。
「……残酷ですよ、レディ」
 サンジ君、かわいそう…、とナミは本気では思っていないことを思いながら、鼻を啜った。
「テメェ、そんな言い方ねぇだろ! 悪いのは俺だって…」
「いいの!」
 ロビンを酷く言われたからか、怒り出したゾロの胸を、ロビンの白い手がそっと押さえた。
「だって本当のことだもの。あなただって、解っているくせに」
 じっとゾロを見上げるロビンの眼差しは、真剣でとても熱を帯びている。白い頬もどこか綻んで見え、なんだか目も潤んで見えた。本当に恋する乙女と言うような表情に、サンジは打ちのめされる。それを見下ろすゾロも、精悍な顔だちをしていた。
 俺のことは気にせず、どうか、お幸せに。
 サンジがそう言おうと口を開きかけると、ロビンがはっと息を飲んだ。
「…ロビンちゃん?」
 糟粕になった顔立ちに、どうしたのかと眉を寄せると、ロビンは口元を抑え、うっと呻く。苦しげな表情を見て、ゾロが、あっと声を上げた。
「オイ…お前、まさか……」
 ロビンの細い肩に触れる手は、けれどそれを掴むことはなかった。ロビンが身を翻し、シンクに駆け寄ったからだ。身を追って、胃の中のものを全部吐き出しているロビンの背を、ゾロがありえないような優しい手付きで撫でてやっている。心配そうな横顔が、サンジには遠く思えた。
「……ロビンちゃん…」
 水道の水を流し、口を濯ぐロビンが、ゾロの渡したタオルを受け取りながら、ごめんなさい、と呟いた。
「…いけないことだって…解ってたけれど、でもどうしても私……」
 ナミはラウンジのドアに、ぺたりと背をつけて目を丸くしていた。
 ロビンのあれは、つわりだ。間違いない。色々な島を旅してきたけれど、つわりの症状は万国共通だ。おなかに赤ん坊が入った最初の頃は、何を食べても戻してしまったりするのだ。それが、ロビンに! とナミは両頬を抑えた。生まれたら抱っこさせてもらおうっ、と喜ぶナミとは打って変わり、サンジは地獄にでも突き落とされた方がマシだという顔をしていた。
「いいんだ……」
 サンジは喚き出したい気持ちを堪えながら、微笑んでいた。
 どうか、おなかの中の子供と一緒に、どうか、三人で幸せに。
 そういわなくてはいけないと解っていながらも、言葉が出てこない。はらはらと涙がこぼれてきてしまう始末で、困ったようにゾロとロビンが顔を見合わせていた。駄目だこれでは、とサンジは顔を拭う。こんな格好悪い引き際ではなくて、もっと小説のように格好良く去りたいのに、と思っているサンジの側へ、二人が歩み寄ってきた。
「悪い」
 ゾロがぺこりと頭を下げる。
「……ごめんなさい」
 口をタオルで覆いながら、ロビンがサンジの腕に手を添えた。
「そんな…泣くほど大切だなんて…思わなかったの」
 ロビンはサンジの頬を拭う。抗いたいのに力が入らず、サンジはされるがままだった。
「…そんな、泣かないで…ね、お願いよ、コックさん。声を上げずに泣かないで頂戴。いっそ罵られた方が気が楽よ」
 さらさらと頬を拭うロビンの手は優しく、いつもなら喜ぶべきところなのにとサンジは悔しく思った。何度も呼吸を繰り返し、心を落ち着かせようとする。そうしながら、頭では違う事を考えていた。次の島で下りようと、船を下りてしまえば、二人の幸せな姿を見なくて済むし、失恋に泣く無様な姿を見せなくていい。そうだそれがいい。そうしよう。そうした方が、二人と、そして生まれてくる子供のためなのだと、サンジは心決めた。
「ゾロ…俺な……」
 船を下りるよ、と言うよりも先に、ゾロが、けどな、とサンジの肩に手を置いた。
「マジで、酒に合うんだよ」
 酒、とナミは首を傾げた。
「あ?」
 サンジは、思わず眉を寄せていた。
「…どうもな…米の酒には欠かせねぇって思うんだよな」
「………米の……酒?」
 サンジは首を傾げた。
 ロビンが申し訳なさそうに少し肩を竦める。
「タレが美味しいって、解ってるから…つい」
「……………タレ?」
「肉がねぇとどうにもなんねぇって解ってんだけど………なぁ?」
「ええ…タレだけでもと思ってしまって」
「肉? タレ?」
 は、と訳が解らず混乱するサンジを尻目に、ゾロとロビンは互いが互いを庇うように身を寄せ合っている。
「瓶にな、指突っ込んで舐めてるうちにな、うっかり床に落としちまってよぉ」
「ごめんなさい、コックさん。あの時私、少し酔ってたのよ…」
「秘伝のタレだって言ってたから、大事なもんだとは思ってたが…そんな泣くほどのもんだとは思わなかったんだよ」
「そうだって知ってれば、私たちだって自重したのよ。けれど酒飲みに、あのタレはとても魅力的なのよ…ねぇ?」
「ああ。米の酒にはどうしても必要だって、俺は思う」
「私もよ」
 米の酒?
 タレ?
 秘伝のタレ?
 クエスチョンマークばかりが頭の中に浮かんでいるサンジは、ハッと我に返った。そして脱兎のごとく勢いで、ゾロを突き飛ばし、シンクの下の収納扉を開き、ガシャンドカンと中にしまっていある鍋やフライパンを放り出し、その奥にしまっている小さな壷を探していた。両手に収まるくらいの小さなものだが、それが、ない。小さいとは言っても、決して見落とすようなものでもなく、うっかり紛失してしまうようなものでもないのに。
 焦ってだらだらと汗を流すサンジに、ロビンがどこからともなく生やした腕で、そっと赤い陶器の欠片を差し出した。ぎしぎしと、軋むような音をたてそうなほどぎこちない動きで振り向いたサンジが、目の前の手の上に乗っている陶器の欠片を見て、かっと目を見開いた。
「ああああああああーッ!」
 ラウンジの中の息詰まるようなやりとりに耳を済ませていたナミが、がたっと思わずドアから飛びのいた。
 くわっと見開いた目は、ロビンが能力で出した手から奪いとった陶器の欠片を見下ろしていた。
「…こ、こ、こ、この、このっ…このっ……壷の…か、欠片はッ」
「ごめんなさい」
「悪い」
「落として、割ってしまったのよ」
「なかっ…なかっ……中身…は…ッ?」
 ぶるぶると両手を震わせているサンジが、わなわなと尋ねると、ゾロはふいと顔を背けながら、いやなぁ、と口篭った。
「こぼしちまったもんはどうしようもねぇしな…」
「捨てたのかっ」
「だって仕方がなかったのよ。戻すなんてできなかったし」
「捨てたんですかーッ?」
 サンジは壷の欠片を放り出して頭を抱え天を仰いだ。
「作り方はおろか、原材料すら極秘のクソジジイの焼き鳥のタレを! 捨てたんですかーッ?」
「悪い」
 ゾロが軽く謝ると、サンジはがくっと脱力し、その場に倒れ伏した。
「お、オイ!」
「………タレが…」
 慌てて抱え上げたゾロの腕の中で、ぴくぴくと料理人の身体が細かに震えていた。
「……焼き鳥…が……」
 よほどのショックだったのか、綺麗にブラッシングされていたはずの髪までもがなぜかぼさぼさで、ロビンはそれをせっせと撫でてやった。
「………秘伝の…タレが……」
 つ、とサンジの頬を涙が一筋伝わる。
「……………タレ…が…」
 がくんとサンジの首が仰け反り、あら嫌だ、とロビンが眉を寄せた。
「よほどショックだったのね…気を失ってしまったわ」
「…こいつ、料理に命費やしてるからなぁ…」
「悪い事しちゃったわね……」
「仕方ねぇよ。やっちまったもんはよ。とりあえずこいつ、寝かさねぇと…」
「船医さんに見せた方がいいわ。私、呼んでくるわね」
「じゃあ俺はとりあえずここに」
 酒飲み達はいつの間にか意思疎通を図る術を身につけていた。頷きあうと、ロビンはさっと立ち上がり、ゾロはラウンジの戸棚の一番下に収納されているサンジの仮眠用毛布を引っ張り出し、ベンチに寝かせた細い身体に被せていた。ぷるぷると震えながら、タレが、タレが、と呟くサンジを痛ましそうに見つめながらも、あれはうまい、と答えている。
「あら、ナミちゃん…どうしたの?」
 ラウンジのドアを開けて、チョッパーを呼びに行こうとしていたロビンは、そこでぐったりと項垂れているナミを見つけ、眉を潜めた。
「…あなた…貧血?」
 そっと身を屈めたロビンに、顔を上げたナミがくわっと食ってかかる。
「脱力してんのよッ! アホじゃないの、あんたらッ! てっきりもっとややこしい事になってると思って楽しみにしてたのに! 大体さっきのは何よ! ええっ? ロビン! なんでさっき吐いたのよッ! ゾロの子供ができたんじゃないのッ?」
 え、とロビンは目を丸くした。
「さっきは…ちょっと二日酔いで」
「二日酔いッ?」
「このところ、ずっとゾロと飲んでたから、とうとう二日酔いになっちゃったのよね。ほら、米のお酒って案外度数が高いでしょう? 調子に乗りすぎてしまったわ」
「…冷静に判断してんじゃないわよッ!」
「やぁねぇ、ナミちゃん。もうヒステリー? 皺が増えるわよ」
 ああいたいた船医さん、と釣竿をたらしながらも、依然一匹も魚を見ていない三人のところへ、ロビンは駆け下りて言った。サンジがショックのあまり倒れた事を知ると、大変だ、とチョッパーがラウンジへ駆け込んでくる。医療道具を、と叫ぶチョッパーにウソップが、合点俺が、と叫んで男部屋へ走って行った。大丈夫かサンジ、とルフィがサンジを、いや飯を心配してラウンジへ駆け込んで行く。
ルフィが通り過ぎたその横で、退屈な航海を彩りのある楽しいものに替えてくれる面白いことがあって、これからも続くのだと、魔女の本性で思っていたナミは、己の淡い幻想を打ち砕く下らない結果に、唇を噛み締め呪詛の言葉を呟き続けている。
 とある日の、ゴーイングメリー号の出来事だった。