■ 常に欲しかったもの ■


「雨、雨、雨!」
 騒がしい、とルッチは眉間に皺を寄せた。
「湿気、湿気、湿気!」
 うっとうしい、とルッチはこめかみを引きつらせた。
「暑いってんだよ、畜生!」
 がぁっとばかりに怒鳴ったパウリーの後姿に、いっそ釘でも打ち付けてやろうかとルッチが思った時、人一人が通り抜けられるだけの隙間を開けておいた扉から、ひょっこりと顔を出したカクが人懐こい笑顔で片手を差し出した。その手には炭酸水の瓶が揺れている。
「まぁまぁパウリー。そうカッカするもんじゃないぞ。余計に暑くなるわい。ほれ、まぁ一服でもせんか」
「おっ、サンキュー、カク! 気が利くじゃねぇか!」
 嬉々として鉋を放り出し、作業中だった船の縁から、パウリーは身軽にカクの側へ飛び降りてきた。
 さっきまで氷の中に浸されていた炭酸水の瓶は冷たい。同じものをカクからもらったルッチは、その冷たさにほっと息を吐いた。
「まったく誰かさんとは大違いだぜ」
 じろりと横目で見られたが、ルッチは素知らぬ顔で炭酸水を口に含んだ。
 ぱちぱちと口の中で爆ぜ、喉に刺激と潤いを与える飲み物を無言で飲み干すルッチの態度に、ケッ、とパウリーが悪態を吐く。
「すかした顔しやがって」
「なんじゃ。また喧嘩か?」
 カクはおかしそうに笑いを滲ませた声で、パウリーとルッチを見比べ尋ねた。
 ドックの奥の倉庫には、普段は使わない工具だの、払いを渋った海賊が発注し、用途をなくした船だのがしまってある。昼過ぎに、緊急の仕事が入ったとアイスバーグ自らがドックへやってきて、ルッチとパウリーを呼び寄せた。どうやら至急船を必要とする商人がいて、海賊の残していったもので希望しているものと似通っているのがあれば、破格の値段で買い取ってくれるのだと言う。廃船にするよりも再利用されたほうが作り手としても喜ばしいし、会社としても利益が上がるので願ったりだ。カリファが調べたところ、二年ほど前に完成した船が条件に合うのだそうで、それを大至急、新品同様に磨き上げてくれと頼まれた。
 アイスバーグたっての頼みとあればやらぬわけにはあるまい、といきり立った パウリーに引きずられ、ルッチは午後から作業に取り掛かっていたのだが、これがまた倉庫の中は茹だるような暑さだ。外は雨で、湿気もたまり、滴る汗はタオルで拭っても拭っても収まらない。そんな中、忍耐力のないパウリーが黙って仕事をできるはずもなく、延々と愚痴をこぼしまくっているのだ。聞いている方も疲れる。
 ルッチはぐいと唇を引き結び、滴った汗をタオルで拭った。
『下らん愚痴ばかり聞かされているだけだ。ポッポー』
「下らんたぁなんだ、下らんたぁ!」
 炭酸水を瓶の半分ほど一気に飲み混んだパウリーが、いきりたって噛み付いてくる。それの間に身体を割り込ませるようにして入り、まぁまぁ、とカクが宥める。
「どうじゃ、明日の納期の時間までには間に合いそうか?」
 昼過ぎから思えば格段に美しくなった船を見上げ、カクはのんびりと尋ねた。
 ルッチも目を上げ、船腹に走る奢細な金模様を見つめた。野暮ったい海賊には不似合いな蔓草を模した金細工は、艤装職のパウリーが丹念に磨き上げた。埃が積もり、潮風に錆びの浮きかけていたそれを見事に蘇らせる腕はさすがだが、いかんせん、静かにできんもんかと思ってしまう。
「まぁなんとかな。今日は寝ずに働かにゃあ」
「そいつぁ厄介じゃのぅ」
「んでも、明日は休んでいってアイスバーグさんが特別に計らってくれたし。なんとかなるさ」
 残りの炭酸水を全部飲み干し、サンキュ、とパウリーはそれをカクの手に返した。ルッチの手の中の炭酸水はまだ半分以上残っている。冷たさを楽しむように握り締めていたら、いつの間にかぬるくなっていた。カクがじっと見つめているので、残りを飲み干すと、パウリーと同じように瓶を返す。
『ありがとう』
「いや、構わんよ。ワシももう引き上げるとこじゃ。しかし、お前さんも災難じゃのぅ、ルッチ。折角の誕生日に、こんな暑い場所で残業とはのぅ」
 瓶を二本まとめて持ち、ぱたぱたと片手を団扇のようにして顔に風を送りながら、カクは溜息混じりに呟いた。甲板へ向けてかけられている梯子を上っていたパウリーが振り返り、目を見開いている。その視線に気付いてはいたが、ルッチは素知らぬ顔で、また滴った汗を拭った。
『まぁ仕方ないさ。誕生日だろうが何だろうが、仕事には関係ねェからな』
「明日にでも、飲みに行かんか。折角じゃ、ワシが奢ってやるぞ」
『それなら、有難くそうするかな』
「でっかいケーキを注文しておいてやろう」
 かかっ、と笑ってカクが倉庫を出て行くと、急にしんと静かになる。倉庫の屋根に打ち付ける雨の音がうるさく感じるほどだ。
 ルッチは腰を下ろしていた資材箱から飛び降りると、尻についた鉋屑を手で払った。途中まで作業していた船室の内装の続きに取りかかるかと、甲板へあがる梯子を上り、マスト近くの扉に手をかけると、なぁ、と声がかかった。
 振り返ると、船べりに丁寧に鉋を当てていたパウリーが、神妙な顔をして見つめている。
「…あのさ」
『なんだ。用があるならさっさと言え。時間が惜しい』
 何やら言いづらそうに頬を指先で掻いている男に、眉間にぐいと皺を寄せてそう言うと、いやぁ、とパウリーは半端な笑みを浮かべた。
「お前、今日、誕生日なんだってな。初めて知った」
『それがどうした』
「いやさ、そうと知ってりゃプレゼントのひとつやふたつ用意してきたってのによ…。なんつーか…、悪ィなぁと思って」
 何を言うのかと思ったら。
 ルッチはふぅと大きな溜息を吐くと、マストにかけていた手を下ろし、身体ごとパウリーに向き直った。
『別にテメェが気ィ使う必要はねェ』
「気ィ使うとかじゃなくて!」
 カッと頬を赤くして怒鳴ったパウリーが、ハッとそこで口を噤む。勢いに任せ何かを言おうとしていたのを、慌ててやめたような素振りだ。無言で先を促すと、いや、とか、だって、とか、口篭もっていたが、ああもう、と観念した。
「だからっ、好きな奴の誕生日に何かしてェって思うのは当然だろ!」
 恥ずかしいこと言わせんなッ、と耳まで真っ赤にして怒鳴るパウリーに、そんなもんだろうか、とルッチは眉を寄せた。
 乞われ女と寝たことはあっても、それよりも深い関係になったことがないので判らない。恋愛感情と呼ばれるものが自分には欠落しているんだろうと、あっさり割り切ってしまっていたので、パウリーと付き合ってからも度々、彼の行動に首を捻ることがあった。バレンタインだのクリスマスだのと喜び勇んでは騒ぐ男の心境を量るには、ルッチは少々冷静すぎた。
 しかしまぁ、自分の誕生日に何かをしたいと思ってくれているらしい男に付き合ってやるのは悪い気はしない。
『何かしてくれんのか?』
 滴る汗を拭いルッチは問う。船の上に上がれば、直接風が当たらないせいで余計に暑さが増した。
「あー、ほら、なんだ。プレゼントとか…あー…デートとか」
『デートは別にいらん』
「お前なァッ! 恋人に言う台詞がそれかい!」
 明日の午後には先様に明け渡す船の、それも磨き上げた甲板で地団太を踏み、パウリーが一見怒って当り散らしている。だが良く見れば、顔は前と変わらず赤いままだし、要するに照れているのだろう。
 ふむ、と腕組みをして、ルッチは考えた。右肩ではハットリも同じように羽を組んでいる。
『ジュビリー』
「は? じゅ、ジュビ…?」
 目を白黒させているパウリーに、ルッチは腕を組んだまま言った。
『ジュビリーだ』
「なんじゃそりゃ」
『酒なんだが…一度飲んでみたいとは思ってた。まぁ無理なら別に…』
「無理じゃねぇッ! ジュビジュバだろうが何だろうが買ってやろうじゃねぇか!」
 何がジュビジュバか。
 ルッチははぁと大きな溜息を吐いて首を振った。
『ジュビリーだ、ジュビリー。何度も言うようだが、無理なら別に』
「だから無理じゃねぇって! ジュビリーだな! 覚えた! よっしゃ、楽しみにしてろよな!」
 にかっと笑って、それきり鼻歌交じりで作業を再開させたパウリーの横顔を、ルッチはしばらく眺めていたが、やがて船室へ降りて途中になっていた内装を仕上げるため鉋を取り上げた。二年放置されていたせいで、少しばかり木が荒れていたので、目立つところに鉋をかけていたのだ。
 シャッシャッと小気味良い音を上げ削りかすが足元に積もる。
 上からかすかに聞こえるパウリーの鼻歌を耳にして、もし本当にジュビリーを買って寄越したら、キスのひとつやふたつしてやろう、とルッチはうっすらと笑んだ。酒よりも何よりも、パウリーのいつもと変わらぬ笑みを向けられただけで、もうプレゼントをもらったような気持ちになる。それだけで本当はいいのだ。
 珍しいルッチの微笑を見るものはハットリを数に入れなければ誰もおらず、パウリーが知ったのなら地団太を踏んで悔しがっただろう。
 自分に向けられたパウリーの底抜けに明るい笑顔を思い出し、ルッチは蒸すような暑さをその時ばかりは忘れていた。

素敵企画を発見したのがルッチ誕の翌日と言う、あまりにも出遅れたスタートながら、それでもせめて一本は書いて祝わずにはいられなかったルッチ誕生日。おめでとう! べったんべったんに甘いパウルチを書こうとして挫折。やっぱりちょいと甘めくらいの方がパウルチっぽくていいかな、と(言う言い訳)。
ちなみに『ジュビリー コニャック』で検索したらお値段出てくるジュビリー。前に住んでたアパートの家賃が三ヶ月分払えるぜ、と理不尽を感じずにはいられない。