Too late.
 茹だるような厚さに、帆さえもしょんぼりと項垂れている。そよとも吹かない風を恨むように、ナミが苛々と足を組み替え、情けなく垂れ下がっている帆を睨み上げた。メインマストの帆がこれでは当然船は進まない。今も海流に乗ってゆったりグランドラインを漂っているだけだ。ナミが計算し尽くしてはじき出した海流に乗っているので、問題なく指針が指し示している方向に進んでいるのだが、いつもの軽快な航海ではない。
 夏島の近くを通過していた。
 夏島の夏の、それも梅雨と言う季節らしい。じめじめしていて、けれども雨は降らない。じっとり身体に纏わりつく湿気は鬱陶しいが、けれども船室にいるよりはマシと言うので、皆が皆、甲板に出ていた。照りつける太陽は強い日差しで持って、甲板にのびている男連中を照らしている。無論ナミとロビンは、ゾロに立てさせたパラソルの下で、サンジに入れさせた冷たい飲み物を啜っている。
 いつものキャミソール姿に、今日ばかりは我慢がならぬと、ナミは見ているだけで暑苦しい赤毛を二つに分けて、三つ編みにしている。その上で、首にタオルを下げていた。
「ちょっとゾロ!」
 パラソルの恩恵にあずかろうと、ロビンの足元に転がっている未来型の剣豪を、ナミは足先で蹴飛ばした。
「あんだよ、うるせぇな…。熱ィんだから、喋らすな」
「うっさい! 熱いんだから文句言うな! いいからちょっと見張り台上って、帆を膨らませてきてよ! 息吹きかけるなり、あの串団子で風送るなりして、どうにかして船進めてよ! 一刻も早くこんな海域からは脱出したいの!」
「……無茶言うな」
「大体あんた、熱っ苦しいのよッ! なんだってこのクソ暑いのに、そんな腹巻なんかしてんの! バカじゃないの、バカ! バカ! バァッカッ!」
 がんがんとサンダルの爪先で脇腹を蹴られ、ゾロのこめかみに青筋がたっていく。テメェいい加減に、とゾロが傍らに置いていた三本刀の内、赤い鞘の妖刀を持ち上げようと手を伸ばした。ガシャと音を立てる妖刀に、なによぉっ、とナミが鼻白む。デッキチェアの上で組んだ足を、組み替えた。
「…およしなさい」
 そっとゾロの手に、ロビンの白く冷たい手が重なった。とは言っても、ロビンの肩から生えている本物の腕は、膝の上の大きく分厚い本を支えているので、ゾロの手を押さえているのは能力で出した腕だ。甲板から生えている白い腕に、ゾロは眉を寄せた。
「…冷てぇ手ェしてんのな…」
「元々体温が低いのよ。あなたの手は暖かいのね、剣士さん。そんなに熱い手で、暑くないのかしら。腹巻って、普通は冬にするものでしょう?」
「俺は梅雨のあるところで生まれ育ったから、これくらいの暑さにゃあ慣れてんだよ」
「まぁ、頼もしいのね」
 ふふ、と微笑むロビンに、ケッ、とナミが悪態を吐いた。
「ケッケッケーッだ! 何よ何よあんた達! イチャイチャしちゃってさッ! このクソみたいな暑さに、頭どーかしちゃったんじゃないのッ! ケッ!」
「…ナミちゃん、はしたないわよ。一応、女の子なんだから」
「一応って何よ! これでもねぇっ! 毎月ちゃーんと生理もあるれっきとしたオンナノコなのよーだッ!」
 ふんっと勢いよくテーブルの足を蹴り飛ばしたナミを、ちらりとゾロが見上げて寝返りを打った。パラソルの影になるところからは決して出ないようにと寝返りを打ったので、一層ロビンの足元に擦り寄る事になったのだが、本人は気付いていないらしい。ロビンがうっすらと微笑して、サンジ謹製のトロピカルドリンクに手を伸ばした。
「れっきとしたオンナノコはなぁ、足蹴り上げてパンツなんざ、男にゃ見せねぇもんなんだよ」
 あーあ、と溜息を吐くゾロの前に、すっと白い腕が出る。トロピカルドリンクのグラスは暑さにうっすらと汗をかいている。白い手からそれを受け取り、ゾロがちらりと振り返ると、どうぞ、とロビンが微笑んだ。
「こんなに暑いんですもの。水分摂取しなきゃ、干乾びちゃうわよ」
「ああ、悪ィな」
「いいえ。大切な剣士さんに倒れられでもしたら、大変」
「やっぱりいいよなぁ大人の女は。優しくて、気が付いてよぅ。どっかのパンツ見えたってちーっとも気にしねぇガキとは大違いだよなぁ」
「まぁ剣士さんったら。照れちゃうじゃないの。あなたもとっても素敵よ、剣士さん。その腹巻、人とはちょっぴり違ったセンスで心惹かれちゃうわ」
 テーブルに肘をついて、ふふと笑うロビンに、またもや寝返りを打ったゾロが、ああ、とにやりと笑う。
「テメェの取り澄ました顔も、よく見りゃ可愛いよな。胸もでかいし。油断ならねぇってあたりも、まぁスリルがあっていい」
「あら、剣士さんったら」
 ふふふとテーブルの上と下で微笑み合う男と女に、ナミが手にしていたインク壷を放り投げた。しっかり蓋はしまっているものの、それはがつんとゾロの額に命中して、甲板の上を転がって行く。
「何よ何よ何よ何よ何よォッ! あんた達二人だけで何世界作ってんのよッ! このクソ暑いってのに! ずるいッ!」
 ハムスターのように大きく頬を膨らませたナミに、顔を見合わせたロビンとゾロが、ぷっと吹き出した。げらげらと遠慮会釈なく、そしてくすくすと口元を抑えつつ笑う二人に、何よぉっ、とナミが机を叩く。その顔は、茹だるような暑さのせいなのか、それともからかわれた恥ずかしさなのか、いつになく真っ赤だ。
「何よぉっ! もう! 何なのよ!」
 口を尖らせて、頬を膨らませたナミの目尻に涙がうっすらと浮いているのを見て、ゾロとロビンは軽く肩を竦ませる。
「悪ィ。からかいすぎた」
 デッキチェアに延びていたナミの健康的に焼けた足を、ぽんとゾロの大きな手が叩いた。
 むぅと睨んでくる大きなハニーブラウンの瞳から、ぽろんと零れた涙を、ロビンの白い指先が撫でる。その肩から生えている、本物の指がだ。ナミは益々頬を膨らませている。
「…なによ、二人して…」
「ごめんなさい、ナミちゃん。あなたがあんまり可愛いから、ついいじめたくなっちゃったのよ」
 茹だるような熱さに火照ったナミの頬を、ロビンの冷たい手が辿る。
「あんまり不貞腐れると、可愛い顔が台無しよ、ナミちゃん」
「…何よ、今更お世辞?」
 つんと顔をそらせるナミに、むっくりと身を起こしたゾロがあくびを噛み殺しながら言う。
「下手な世辞は言わねぇさ」
 いつになったら風吹くんだよ、と凪いだ海を眺めるゾロに、え、とナミが目を瞬く。
「俺も、その女もな」
 顎をしゃくられ、あら、とロビンが微笑む。驚いたような顔を装っていたが、すぐに彼女はナミに微笑みかけた。
「だそうよ、ナミちゃん」
 怖い顔をして、何かを考え込むように一点を睨みつけていたナミが、眉間に寄せていた皺を急に解いた。
「ゾロ」
 にこりと微笑まれ名を呼ばれ、ゾロは、あん、と眉を寄せてしまう。
「あたしをからかったこと、悪いって思ってる?」
 デッキチェアに身体を預けながら、また足を組み替えて微笑むナミに、ゾロは両手を上げて見せる。
「ああ。思ってる」
「じゃ、キスして」
「あ?」
「キスよ、キース。言っとくけど、魚か、なんてサンジ君みたいにクソふざけた質問したら、ぶっ殺すからね。人前じゃあんたも恥ずかしいでしょうし、大負けに負けて、手の甲でいいわ。そこに跪いて、キスして頂戴」
「なっ…」
「あらあら」
 随分なお姫様だこと。
 微笑むロビンに、ナミはちらりと視線を走らせる。そしてにっかりと笑った。真夏の太陽みたいな笑顔に、ゾロはしばし目を眇めてしまう。
「そうよ」
 身を乗り出してナミは笑う。
「あたしは、お姫様なんだから」
 ほら、と差し出された小麦色の手を、うううううう、と唸るゾロが恭しく受け止める。苦虫を噛み潰したような、ようやく宿敵と対峙できた時のような、そんなおどろおどろしい顔をしたゾロに、跪いて、とナミは高慢に命じた。
「ナッミっすわぁあん! トロピカルドリンクのおかわり、いっかがぁあんっ?」
 ラウンジのドアを開け、飛び出してくるサンジが、船尾で行われている甘い罰ゲームに、身体を固まらせ、絶叫する。
 ちょんと手の甲に触れた暖かく柔らかい温もりに、ナミは弾けるように笑い出した。
「ゾロ! 似合わなーい!」
「あんだとッ! テメェがやれって言ったんじゃねぇかッ!」
 恥ずかしかったのにッ、と叫んで立ち上がるゾロに、てててててててテメェッ、とサンジが掴みかかろうとする。それよりも先に、ロビンの能力の白い腕が、ゾロの身体を拘束し、彼女が悠然と身体を横たえているデッキチェアの足元に転がした。
「妬けるわね…」
 微笑むロビンの顔は、それだけで充分冗談だと伝えていたけれど、何とはなしに、嫌な予感が背筋を伝う。アイスブルーの瞳に見下ろされたゾロが、はい、と首を傾げると、ロビンは穏やかな仕草で右手を差し出した。
「私にも、キスを頂戴、剣士さん」
「ロッ…」
 がしゃんとサンジの手から、ピッチャーに作ってあったトロピカルドリンクが零れ落ちた。
「ロビンちゃんまで一体何をッ! いや、そんな! 美しい手が汚れます!」
 わたわたと慌てるサンジに、失礼ね、とロビンは冷たい視線を投げかける。
「私の剣士さんをけなさないで頂戴?」
「あら、ロビン」
 にやりとナミが笑った。能力の白い腕に拘束されながら、ゾロはああまた嫌な予感が、とそっと顔を背けるが、無論それくらいでこの受難から逃れられるはずもない。
「あたしのゾロよ。手を出さないで」
「ナミすわぁあん…」
 しょんぼりと落ち込んだサンジが、割れたピッチャーの側に崩れ落ちる。ぶちぶちと唇からはまりもに対する恨みつらみが零れていて不気味極まりない。うわ呪われそう、と眉を寄せるナミと、呪われてんじゃねぇのかもう、と自分の身体を見下ろしているゾロの頬を、ロビンの手が撫でる。
 さ、早く、とロビンに急かされたゾロの唇が、その白く冷たい手の甲に触れたかどうか。
 それは当人達のみが知る事である。