Sunny Dream Cocktail.

 小さな蹄の音は、それでも存外夜の甲板には響くものだ。音を返す物など海の上では何ひとつありはしないはずなのに、カツカツと遠くから聞こえてくるような自分の足音に、まだ海に馴染めないチョッパーは両手両足を素早く動かした。小さな歩幅に乱れて聞こえる四つの蹄の音が、自分で言うのも何だが怖い。
 夕食を終えたラウンジからは、今夜のメニューだったクリームシチューのいい匂いが漂ってきている。船員の数の割には随分と大きな鍋に驚いたチョッパーも、食い意地の張った船長の皿まで食ってしまいそうな勢いと、サンジが座る間もなく突き出されるおかわりを要求する手の早さに、鍋の巨大さにも納得した。それでも残ったクリームシチューを、サンジは明日の朝食に活用するのだと言う。何ができるのと聞いたら、パン生地を上から被せてオーブンで焼くと言う。寒い日にはうってつけの料理だ、とサンジは煙草を蒸かしながらにやりと笑った。その顔で随分うまいもんなんだろうとチョッパーは察し、楽しみだ、と言う。ラウンジのテーブルはチョッパーには高すぎてベンチに座っただけでは届かない。そのためベンチにはクッションが置かれていたが、そこから飛び降りたチョッパーのそれは本音だった。食べたばかりで満腹だと言うのに、チョッパーの頭の中は明日の朝食が楽しみで仕方がない。早く寝ればそれだけ早く朝になるかな、と後片付けを始めたサンジに追い立てられるようにチョッパーはラウンジからお暇していた。
 マストの下にある男部屋へのドアを持ち上げようとした時、右舷の方からのっそりと声がかけられた。
「おい」
「ヒィッ!」
 ビクッと肩を震わせたチョッパーは大慌てでマストの裏へ飛び込んだが、例によって頭だけをマストの奥へ突っ込む格好だ。呆れたような溜息と共に、「逆だ」と素っ気ない言葉に、チョッパーは「ゾロ」と息を吐いた。
「な、なんだよっ。吃驚するだろ」
「なんだ。吃驚したのか」
 からかうように持ち上げられる口角に、チョッパーはムッと唇を引き結ぶ。
 ドラム王国では会話らしい会話を交わしたわけではないゾロが、チョッパーはどうにも苦手だった。朝顔を合わせれば挨拶くらいはするけれども、本当にそれきりだ。喋るトナカイなんて気持ち悪いと思われてるんだろうか、とナミに聞けば、そんなことないわよぅ、とあの明るい航海士は大口開けて笑ったものだ。
「な、なんの用だよっ。おれはこれから寝るから忙しいんだぞっ」
「そりゃ忙しいって言わねぇだろう」
「う、うるせぇっ」
 マストの影に今度こそ尻を突っ込み、角と真ん丸の片目だけが覗いている。右舷の縁に背を預けていたゾロは、ぼりぼりと頭を掻きながら、ちょいちょいと左手で手招きした。
「な、なんだよっ」
「何もしねぇよ」
 ふあ、とでっかい欠伸をかます男に、そう言えば食事中だけは目を爛々と輝かせているこの男が、他に何かをしている所は滅多に見ないな、とチョッパーは思い出した。一日の内何時間かは船尾でへんてこな重石を付けたバットみたいなものを振り回したり、ジャガイモ満載の樽を背に乗せ、さらにその上にイモの皮むきをしているサンジを乗せて腕立て伏せをしているのを見た事もあるが、それ以外は寝ている。ぐーすかと一日中。そんなに寝てたら目が溶けるぞと忠告したくなるくらい、ぐーすかと。
 ビクビクと、いつでも逃げ出せるようにいつもよりも小さな歩幅で近付くチョッパーに、取って食いやしねぇよ、とゾロは苦笑する。ちょこんとゾロの前に座ったチョッパーに、クソコックのことだけどよ、とゾロは口を開いた。
「サンジのこと?」
 警戒を解くチョッパーに、ああ、とゾロは歯切れが悪い。食事が終わってから今まで寝倒していたらしいゾロの身体からは、クリームシチューの匂いがする。他にも美味しい料理はたくさんあったが、チョッパーの鼻が嗅ぎ分けたのは、一番匂いのするクリームシチューだった。
「サンジがどうかしたのか?」
 真ん丸の目がパシパシと瞬きゾロを見る。
「気を付けて見ててやってくれ」
「は?」
 神妙な顔で告げるゾロを、チョッパーの真ん丸の目は捕らえて離さない。純粋な動物特有の目で見られ、ゾロは照れたようにそっぽを向いた。
「背中の傷」
「ああ。ドクトリーヌが手当てした」
「時々、引き攣れてるみたいだ。いくらあのバァさんが名医でも、こんな短期間に治るとは思えねぇ。何でもねぇ顔してるけど、熱だって出てるかもしんねぇし」
「…なんでそんなこと」
 真ん丸の目が、さらに丸くなる。ゾロはそっぽを向いたまま、なんでもないように溜息を吐いた。吐き出す息に混じる声音は、呆れたように少し掠れている。
「そんなの、見てりゃ解る」
「…おれ、気付かなかった」
「そうだろうな」
 それが馬鹿にされたように感じたので、チョッパーはムッと眉を寄せる。険しくなったトナカイの目に気付いたゾロは、おいおい、と両手を突き出した。
「馬鹿にしてんじゃねぇよ」
「じゃあなんだよっ」
「だからアイツは、人に気付かれないようにすんのが得意なんだって言いたかったんだよっ」
「人に気付かれないようにするのが…得意?」
 甲板に二本足で踏ん張って立っていたチョッパーは、だらりと身体の力を抜いた。殴りかかるために構えていた両手も、夜風に少し乱れた帽子を直すため、頭へ持って行かれている。
 ゾロは蹄で帽子を直すチョッパーを見かねてか、ピンク色の帽子を上からポンと大きな手で押さえてやった。定位置に収まる帽子を左右にきゅっとやって心地を良くすると、不思議そうな顔をしながら、甲板に腰を下ろす。両足を投げ出して座るチョッパーに、ゾロは頷いて見せる。
「この船には、ナミとかビビとか乗ってんだろ。あいつは女にゃ弱いからな。心配かけないようにって、なんでもないふりすんだよ」
「なんでもないふり…」
「熱があっても平気な顔して飯作りやがるし、まぁ要は無茶ばっかしやがるってことだ」
「…解った。気をつける」
「騙されんなよ。言うこと聞かなかったら、あのバァさん直伝のドクターストップかけりゃいい」
 にやりと笑うゾロに、つられてチョッパーは微笑んだ。解った、と頷くチョッパーに、背中に隠していたらしい白い酒瓶をゾロはこっそり覗かせた。
「呑むか?」
「あ、それ!」
「キッチンからくすねてきた」
「サンジが探してたぞ! 吟醸なんとかがないって」
「ああ。これだな」
「いいのかよっ。また怒られちゃうぞっ」
 いーのいーの、と軽く笑い、ゾロは自分が使っていたのだろうグラスにとくとくと透明の液体を注いだ。ほら、と差し出されたそれを、蹄で器用に受け取れば、ふわりと漂う甘い香りが鼻をくすぐる。少し頭がぼんやりする酒の匂いは、麻酔の匂いに似ていないでもない。ゾロはどうするのかと思っていれば、酒瓶を直接口につけて煽っている。
「大事に飲めよ。珍しい酒だ」
「…その割にはお前、遠慮がないな」
「いーんだよ。俺のなんだから」
「でも買ったのはサンジ…」
「でも俺の」
 にやりと笑う剣豪に、チョッパーは肩の力を抜く。自分本位で生きているようなこの男でも、仲間の事はそれなりに思いやっているらしいと解った今では、なんだか親近感さえ沸いてしまう。ほれほれ、と手で急かされグラスに口をつける。グッと飲み込めば、燃えるような感触が喉を通り、チョッパーは噎せた。げほげほと涙を流しながら胸の辺りを蹄で叩くチョッパーに、ゾロが「おいおい」と苦笑する。
「一気に飲みすぎなんだよ。ちびちび飲め」
「……か、辛っ…! 苦…っ!」
「お前、酒、初めてか」
「死ぬーっ!」
「死ぬか」
 どたどたと小さな蹄からは似つかわしくなく大きな音を立てて暴れるトナカイに、ゾロは大口を開けて笑っている。チョッパーの大騒ぎを聞きつけたサンジが顔を出し、必死の形相で水をくれと言うトナカイに、慌ててキッチンからグラスにたっぷり一杯の水を携えやってくる。ほらよ、と差し出されたそれを一気に飲み、チョッパーは額を蹄で拭った。
「はー…死ぬかと思った」
「馬鹿だなぁ。一気に呑む奴があるか。こりゃ高い酒なんだぞ。味わって飲めっ」
「…高い酒…だと」
 ぴくりと動くサンジの渦巻き眉毛に、ゾロが「ああ?」と険悪な顔を向ける。
「テメェッ! そりゃ俺が必死に捜し求めた吟醸雪月花じゃねぇかッ! 米の酒だぞッ! 高ェんだぞッ! それ一本でラムが樽で買えんだぞッ! グランドラインでないと手に入らねぇんだぞッ! 何勝手に持ち出して、しかも飲んでんだこの野郎ッ!」
「おおッ!」
 振り下ろされる革靴の踵を、寸でのところで避けたゾロが、危ねぇなぁ、と飄々とした顔で言う。こめかみの辺りに血管を浮かせるサンジに、懲りもせず白い陶器を口に運ぶ男が、オイ、と顔を上げる。ああ、とゾロに負けず劣らずの険しい顔で見下ろすサンジに、ゾロは口角を持ち上げた。
「つまみ」
「…この…ッ!」
 カッと片方の目を見開き、このクソ馬鹿変態エロ剣士ッ、と唾を飛ばして怒鳴る。
「なんで俺が勝手に酒盛りしてるテメェのためにつまみ作んなきゃなんねぇんだッ、ヘボ剣士ッ!」
「あ、それから、甘い酒もな」
「はぁ?」
 再び持ち上がっていたサンジの右足は、宙でぴたりと止まる。ゾロはいつも辛い酒ばかりを好んでいて、自ら甘い酒を欲したことはない。不可解を露にするサンジに、ゾロは煽る事を止めない白い陶器を持ち上げ、側で腰を抜かしているチョッパーを指した。
「初めてなんだとよ、酒」
「はぁ?」
「これ、辛いだろ。甘くて飲みやすい奴あんだろ。ナミが飲んでる奴」
「ああ…マラスキーノか…?」
「おお、それそれ」
「けどありゃ、結構度数あんぜ? チョッパーにゃ、まだ早ェだろ」
 なぁ、と見下ろすサンジの片目に、チョッパーはよく解らないながらもコクコクと慌てて頷いている。ゾロの頭に振り下ろされるはずだった右足は、そっと音も立てず甲板に下ろされた。
「よっしゃ。チョッパーにゃこの俺様がサニードリームカクテルを作ってやろう」
「…サニードリームカクテル? なんだそれ?」
「カクテルだ」
「カクテル?」
「…要は酒をごちゃ混ぜに混ぜて新しく酒を作ったもんだ」
「薬みたいなもんか」
「そんなもんだ」
「違うッ!」
 ゾロとチョッパの頭それぞれに、サンジの踵落としが決まる。甲板に沈む二人の前にドンと立ち、カクテルはなぁっ、と大声を張り上げた。
「酒と酒との相性を計りながら作り上げてゆく神秘の飲み物だっ! ちっとでも計算を間違えるととんでもない代物が出来上がるんだ! 失敗しねぇようにレシピを覚えるのは並大抵の努力じゃねぇんだぞッ! 大体カクテルと一口に言っても、俺様が覚えているだけで一万通りのレシピがあるんだッ! 世界にはもっと一杯種類がある! カクテルは奥が深い! そりゃもうレディのように奥が深い! 寝腐れエロ剣士みたいに単純でない! 解るかっ?」
「…解らん」
 できたたんこぶを撫でながら顔を上げるゾロの目前に、またもやサンジの革靴の底が迫っていた。避けること叶わず再び甲板に沈むゾロの腹に片足を乗せ、サンジは握り拳を固めた。
「寝腐れ単純エロ剣士には解らんだろうが、カクテルは奥が深い! 神秘だッ! 一流のコックとは、一流の料理に合う一流のカクテルを作り上げて一流のレディにお出しする事ができるコックだ!」
「…カクテル作るのはバーテンダーの仕事じゃねぇのか」
「煩ェッ!」
 ガツ、とサンジの強烈な踵落としがゾロの腹に決まる。
「俺様がオールマイティだからって妬くんじゃねぇよ、クソ剣士」
ぐぇ、と蛙の潰れたような声を漏らすゾロの横で、腰を抜かしていたチョッパーは前足の蹄にグッと力を込めた。
「凄いな、サンジ!」
「あん?」
 訝しげに振り返るサンジの前で、二本の足でしっかり立ち上がったチョッパーが目を輝かせてサンジをゾロの腹に足をかけたままのサンジを見上げていた。
「サンジは一流のコックなんだ!」
「当たり前じゃねぇか。この俺様が一流のコックじゃなきゃ、誰が一流のコックだっつーんだ」
 口から抜き取った煙草を指に挟み、豪快に煙を吐き出す自称一流のコックは、チョッパーの言葉に気を良くしたらしい。ゾロを踏みつけていた足を退け、チョッパーの頭を帽子ごとぐりぐりと撫でた。
「待ってな、トナカイ。俺様が超一流のカクテルと、超一流のつまみを用意してきてやろう」
「俺も、酒」
「うっせぇ! テメェは黙ってくたばってろ!」
 ぶんと振り回される足は、身を起こしたゾロの横っ面にヒットした。声もなく再び甲板に倒れるゾロに目もくれず、革靴の踵を高らかに鳴らし、キッチンへ戻って行く。いつもの騒動を暖かいラウンジの窓からナミが覗いていたようだったが、サンジが入っていくと興味を失せたようだ。
「お、おい。大丈夫か」
 蹄の先でゾロの頭をちょんちょんと突くチョッパーに、ああ、とゾロは呻きながら身を起こす。蹴られた横っ面を摩りながら、眉を顰める。
「やっぱ背中、完治してねぇな」
「は?」
 高いだとか滅多に手に入らないとか言いながらも、サンジの置いて行った吟醸雪月花の瓶を持ち上げ、ゾロが顰め面をする。
「あのクソコックだよ」
「え?」
「蹴りに切れがねぇ」
「キレ?」
「笑って避けれる。あんな蹴り」
「けどお前、今思い切り食らってたじゃないかっ」
 革靴の踵で切られた額には血が滲んでいる。こめかみの辺りには血管がたくさん通っているから危ないんだぞ、と慌てる新米船医に指摘され気付いた傷を手の甲でぐいと拭い、ゾロは口角を持ち上げる。剣士が浮かべるその笑みは、不敵であり自信に満ちている。
「俺が避ければ、クソコックは自棄になんだろ」
「あ…」
 吟醸雪月花を口に含むゾロに、チョッパーは真ん丸の目を瞬いている。
「うちのクソコックは、お前が思ってる以上にガキなんだよ。避けたらまた突っかかってきやがる。適度に食らっときゃ大人しい。あんま動かすのもなんだしな」
「お前…」
 チョッパーの真ん丸の目が、柔らかい色に変わった。黒い瞳にラウンジのドアから漏れるランプの光が届いたのだ。オレンジ色の光に照らされ、チョッパーの目が茶色に輝く。きらきら光る動物の目に、ゾロはちらりと目を向けた。視界の端に、開いたラウンジのドアが見える。光に誘われるように振り向けば、丸い盆を器用に指先で下から支え持ち、マストの両脇に伸びている階段をトントンと軽い足取りで降りてくる。
 見ろよ、とゾロは顎をしゃくった。帽子のバッテンをそちらへ向けるチョッパーに、ゾロは右舷の縁に持たれ、脚を組む。
「いつもは柵乗り越えて飛び降りてくる奴が、それもしねぇ。相当痛んでるはずだ」
「お前…」
 真ん丸のチョッパーの目が、寒い空気に湯気を立てる盆を捧げ持つサンジからゾロへ映される。扉を閉められたラウンジからの光はすでに途絶え、チョッパーの目は元の真っ黒な目に戻っている。それを酒を呑む傍らに、ゾロはちらりと見た。
「いい奴だなぁ」
「ぶっ」
 チョッパーの感心した顔と声に、ゾロは思わず含んだ酒を吹き出していた。ついでに気管に入ったらしく、げほげほと盛大に噎せている。
「オイオイ、何の騒ぎだぁ?」
「あ、サンジ」
 捧げ持っていた盆を、ゾロの傍らに置きながら、噎せ続ける男をサンジの片目が捕らえる。真っ赤な顔で噎せているゾロの背を、片手で容赦なくバンバンと叩きながら、サンジはもう片方の手で広口のシャンパングラスをチョッパーの手に持たせてやった。チョッパーの鼻にオレンジのいい香りが届く。
「サニードリームカクテルだ」
「うわ。綺麗な色だな」
 両手でシャンパングラスを持ち、覗き込むチョッパーの横から、サンジが笑顔で「オレンジは除けて飲みな」と声をかける。オレンジ色の液体の上には、薄切りのオレンジがちょこなんと乗っている。いや、浮いている。シャンパングラスの端に口をつけるが、傾けるとオレンジがやってきてどうにもうまく飲めない。それを見かねたらしいサンジが、ひょいとオレンジを摘み上げ、ほらよ、と顎でしゃくった。
「啜れ啜れ」
 音を立てても構わないと言うサンジの言葉に、チョッパーは遠慮なくずるずると啜る。甘い香りと共に甘い味が口の中に広がった。
「これ、うまいな!」
「ンだろ? まぁ超一流のコックの手にかかりゃあ、カクテルもそりゃ飛び切りうまくなるってなもんだ。オラ、どうした剣豪! 珍しく酒に噎せたか。つまみ持ってきてやったぞ」
 バンバンと背を叩き続けられているせいで、身を起こせなかったゾロが、もういい、と掠れた声で言う。
「ああ?」
 眉を寄せるサンジに、「もういいって言ってんだよっ」とゾロはサンジの右手を振り払った。
「痛ェんだよ、さっきからバンバンバンバン! 俺は布団じゃねぇっ!」
「大して変わりゃしねぇじゃねぇか。オラ、つまみだ。食え」
 ずいとゾロの目前に差し出されるのは、湯気を立てた白い皿だ。ルフィが見れば目を輝かせそうな料理が山のように積まれている。アスパラに肉を巻きつけ茹でたそれを、ひとつ摘んだゾロが口に入れながら、うめぇな、と呟く。
「ンだろッ? 俺様の超一流の愛情たっぷりの吟醸雪月花用のアテだ! 心して食いつくせ!」
「おう」
 向かい合うゾロとチョッパーの横にどんと腰を下ろし、サンジはチョッパーが途中でやめた吟醸雪月花のグラスを持ち上げた。ゾロのようにぐいと煽りはせず、彼が言ったようにちびちびと呑むサンジが、チョッパーにも白い皿を向ける。
「お前も食えよ」
「うん」
「にしても寒ィなぁ。やっぱまだ冬島の近くって訳か。骨身に染みる寒さって奴だな」
 黒いスーツの腕をごしごしと擦るサンジが、そう言えばよ、と片目を瞬いた。
「お前、さっきなんで噎せてたんだ」
「ああ」
 ずるずると音をたててサニードリームカクテルを啜っていたチョッパーが、サンジの声にパッと顔を上げる。嬉しそうなトナカイの顔が、ゾロの手に握られている白い瓶から吟醸雪月花を注がせるサンジに向けられた。
「ゾロがサンジのこと心配し…」
「黙れトナカイッ! ぶっ殺すぞッ!」
 傍らの刀の一本に伸ばされた手が、鞘ごとチョッパーに向けられる。切っ先ではなく、鞘の先を喉元に当てられ、ヒィ、と竦みあがったチョッパーの手からシャンパングラスが飛び上がった。後ずさるチョッパーの手から離れたシャンパングラスを目で追ったサンジが手の平で受け止める。重力に従い落ちてくる液体は、元通りサンジの手の中のグラスに収まった。一滴もカクテルを零さなかった事に満足し、サンジはにんまりと笑みを浮かべる。その顔のまま、彼はゾロを見た。
「へぇ」
 眉間に皺を寄せ、けれども顔は真っ赤にし、全く迫力のない顔で凄んでいたゾロが、サンジの声にぎくりと肩を強張らせる。
「クソ剣士が、俺の心配」
「う、うるせぇッ! 誰もテメェの心配なんかしてねぇッ!」
「ほぉ。言っとけ言っとけ」
「ほ、本当だぞッ! 俺はテメェの心配なんか、これっぽっちもしてねぇからなッ! 大体エロコックの心配を、なんで俺がしなくちゃなんねぇんだよ! あっち行け、三流コック!」
「唾飛ばすなよ、汚ェな。マナー違反だぜ、剣豪」
「煩ェ煩ェ煩ェッ! 向こう行け! シッシッ!」
 左手を凄い勢いで振るゾロの顔が、真っ赤であることなどチョッパーの目にももはやはっきりと解っていた。鞘の先を押し当てられていても、不思議と恐怖は湧いてこない。にへら、と浮かんだ笑顔は、どうやらゾロに見られてしまったらしい。すっくと立ち上がった男は、吟醸雪月花の瓶とアスパラのどんと乗った皿を両手に持つと、つかつかと歩み去って行く。
「オーイ」
 にやにやと笑みを浮かべながら呼びかけるサンジの声に、煩ェッ! と一喝し、ゾロが振り返る。歩みを止めず、「テメェがどっか行かねぇなら俺がどっか行くっ」と大股で甲板をラウンジの方へ歩み去って行った。
「おーおー、ガキだね、ありゃぁ」
「…ゾロ、照れてたな」
「お、解るかトナカイ。なかなか洞察力鋭いじゃねぇか」
 ぐりぐりと上から帽子を撫でる手に甘んじながら、チョッパーは肩を少し竦めて見せる。
「ゾロもだけどな」
「んん?」
 グラスに残り僅かとなった吟醸雪月花の透明な液体を口に運びながら、何が、とサンジが片目で問うてくる。チョッパーは音を立てながら、再びサンジの手から渡されたサニードリームカクテルを啜りながら、洞察力、と答えた。
「サンジの背中が治ってないって、ゾロ、言ってた」
「…んな事は」
「ないって言うな。サンジ、まだドクトリーヌに治療してもらった傷、治ってないはずだ」
「…いや…まぁそりゃな…」
「だったらおれにちゃんと言え。おれはもうこの船の船医だ。医者の言うことはちゃんと聞け」
「…でもそんなに痛まねぇしよ」
「痛くない痛くないって我慢してたら、もっと酷くなるんだぞ。背骨は大事なんだ。歩けなくなったりするんだぞ」
「そりゃ大変だ」
「だろ。だからおれに言え。ちゃんと言え。サンジは料理を作るのが仕事で、おれは病気や怪我を治すのが仕事だ。だからおれにちゃんと仕事させろ」
 シャンパングラスを両手で抱えながら啜るトナカイの言葉に、サンジは仕方なさそうに目元を緩めた。苦笑顔は、けれどもさほど嫌がっていない。
「解ったよ、ドクター」
「解ればいい」
 小さく頷いたサンジに、満足気な笑みを浮かべ、チョッパーはシャンパングラスに残っていたカクテルを全部飲み干してしまう。
「オイ、大丈夫かよ、そんなに飲んで」
「うまいな、これ!」
 はー、と息を吐き出し、チョッパーのにこにこ笑顔がサンジに向けられる。
「さっきの吟醸なんとかより、こっちのが全然うまいな」
「そりゃそうだろ。ありゃ上級者向けだ。お前にゃまだ早いよ」
 煙草の煙を吐き出しながら、サンジが苦笑する。
「また作ってやる。初心者向けのカクテルをな」
「おう」
「ま、今日はそれで終わっとけ。飲みすぎると明日辛いからな」
「うん、ご馳走様」
 蹄で返したシャンパングラスを受け取り、サンジは銀色の盆を持ち上げる。
「さて」
 立ち上がり、チョッパーに背を向けたサンジの後ろ姿はとてもすっきりしている。力を抜いて胸を張っている感じで見ていて気持ちがいい。小さなチョッパーからしてみれば随分と背の高いサンジを見上げていると、振り返ったサンジが、にやりと笑った。
「俺はあのクソ剣豪をからかってくるよ」
「無茶はするなよ」
「しねぇよ」
 苦笑するサンジに、そうだな、とチョッパーは頷いた。
「ゾロがさせないな」
「……いや、まぁ…そうだな」
 ほんの少し顔を赤く染め、唇を歪めるサンジに、何かおかしな事を言っただろうかとチョッパーは首を傾げたが、差し当たって思い当たる所はない。不思議そうな気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。サンジはチョッパーのピンク色の帽子をぐりぐりと撫で、ほらよ、とマストの下のドアを持ち上げた。
「さっさと寝な。明日の朝食はバリ旨だぜ」
「うん。楽しみにしてる」
 サンジが持ち上げているドアの下の梯子に蹄を置くと、んじゃ、おやすみな、とサンジは笑った。男部屋にはすでにウソップがいた。何やら新しい武器と称して緑色のタバスコと格闘している。チョッパーが蹄を鳴らしながら器用に梯子を降りてくると、おお見ろチョッパー、とやはり真ん丸の目を二本足で歩くトナカイに向けた。楽しそうな顔に引き寄せられるようにウソップの手元を覗き込むチョッパーの耳に、男部屋の上を歩くサンジの革靴の音が聞こえてくる。
 カツカツと軽快に歩くサンジの足音は、どこかしら楽しそうに嬉しそうに弾んで聞こえた。