■ それが私の愛と言う ■



 一番ドックの外、水路脇の歩道から聞こえる大騒ぎに、ロブ・ルッチは巨大鋸で丸太の切り出しを行っていた手を止めた。本来なら二人の職人が左右から鋸を引き板を切り出してゆくのだが、ガレーラカンパニーでも精鋭の集まる一番ドックでは、よっぽど巨大なガレオン船用の木材でない限り、ほとんどが一人の職人の手で行われた。少し離れた場所でルッチと同じ作業をしていた一人も手を止め顔を上げ、滴る汗を首にかけていたタオルで拭いながら苦笑する。
「またパウリーさんだな」
「借金取りに追われてるんだろう」
「仕事場にいねぇ時は大体追い回されてるからな」
 ははっ、と軽く笑って、騒動が近付いてくるのを耳にしながら、職人はまた自分の作業へ戻った。
 丁度側を通りすぎたパウリーの部下が、弱ったように顎を掻きながら、工場内敷地と歩道とを仕切る柵の向こうを眺めてぼやいている。
「参ったなぁ…確認してほしいことがあったってのに…」
『急ぎの用か?』
 肩にハットリを乗せ問うと、カンナを手の中で弾ませていた艤装職の男が溜息を吐いた。
「や、まァいつも通りッス」
『つまり急ぎの用か』
「他なら俺だって判断できんスがね、打ち合わせに行った職長でねぇと判断できねぇことだったんで。まァあれが終わって戻ってくるのを待ちます」
 ルッチは手にしていた巨大鋸を、切り出しの終わった材木の上に置いた。
『俺が行こう』
 職人はぎょっとしたように目を丸くした。
「ルッチさんが?」
『俺も打ち合わせに出てたんでな。なに、こっちはそう急ぐもんでもねェ』
「すんません、助かります」
 男がへこっと頭を下げるのへ、ハットリが羽根をぱさぱさと振った。
『気にするな、クルッポー』
 ルッチの指示の元、切り出しを行っていた部下に続きをやっているように言い置いて、ルッチはその男を伴って艤装職の集まる倉庫へ向かった。ほぼ仕上がっているブリッグ・スループの周りに、仕事の手を止めた艤装職の連中がたむろしていた。図面を見て、ああだこうだと言い合っているようだが、どうも思い切れないらしい。
 ルッチは内心で溜息を吐き、あの野郎、最低限の指示くらい出して行きやがれ、と今も借金取りと追いかけっこをしているに違いない男に呆れ果てた。一番ドックの艤装職を纏める男が無責任では話にならない。
「ルッチさんがきてくれた」
「ああ、すんません、助かります。船室に何か特別な仕掛けがいるって聞いてたんですが、俺らには解んねェんで」
 ブリッグ・スループは小型船で非常に小回りが利くので戦闘艇に使われる。この依頼も船団を持つ海賊からだったが、海賊の割りには礼儀をわきまえているのか、払いはいいしケチはつけない。おまけにこれが始めての依頼ではなかった。
『砲弾棚を作りつけるって注文だったな、あと船底に隠し部屋が欲しいそうだが』
「ああ、それか…」
 艤装職の男が図面を見下ろして溜息を吐いた。
「この船底のが、一体何のための空間かと悩んどったんです。ここにこんな無意味な空間があるのはありえねぇっすから、塞いじまっていいもんかと。そうと解りゃ話は早ェ。早速取りかかります」
『パウリーの指示はねェのか?』
 わらわらと辺りに散り、船の上に飛び乗ったり、材木を一まとめにロープでくくり、それを船内へ運び込み始めた職人を眺め、図面に外見からはそぐわないほど小さな字を書き込んでいた男が、ああ、と苦笑顔を上げる。
「パウリーさんはいつも現場で指示しますからね。事前の打ち合わせもする事にゃあするんスが、うちの職じゃあ途中で変更ってのが多々あるもんで、そうなると現場現場です。今回もそのクチだったもんで」
『つまり、指示を出さずに追い掛け回されてるって事か。それでよく一番ドックの職長と名乗ってられるもんだ』
 腕を組み、むっつりと唇を引き結ぶルッチの肩で、ハットリも同じように羽根を組んで憤りの表情を浮かべている。職長の危機、とでも思ったのか、男は慌てて付け加えた。
「でも、それも滅多にねェことで! いつもはきちんとやってくれてるんで!」
『当たり前だ、クルッポー。そうでなけりゃ社長も黙っちゃいねェだろう』
「ルッチさん! こっちお願いします!」
 倉庫に大声を上げて駆け込んできたのは、先月一番ドックの木挽き職に昇格したばかりの男だ。今はとにかく何をやるにも一番ドックで働けることが嬉しいらしく、始終どたばたと走り回っている。ンマー元気がいいのは良いことだ、とアイスバーグが感心していたのを思い出し、ルッチは頷いた。
『すぐに行く』
「あ、ルッチさん、すみません、助かりました!」
 艤装職に声をかけられて、軽く右手を上げれば、ハットリも同じように右の羽根を上げた。
『気にするな、クルッポー』
 木挽き職の男に急かされ、ルッチが倉庫を出ようと足を向ける。すると、大きく開け放たれている入り口から、盛大に葉巻から煙を巻き上げてパウリーが入ってきた。
「いやー、今日も見つかっちまったぜ」
 悪びれもせず、笑い声を上げて堂々と入ってくる男に、ルッチは思わずむっと眉間に皺を寄せた。
「職長! 職長がいねェと進むもんも進まねェよ!」
 船の上から大声で怒鳴る男に、あー悪い悪い、と言葉だけの謝罪を放った後で、パウリーがようやくルッチに気付いた。
「よう、ルッチ! お前またなんでこんなとこに? まさか俺に会いにきたってのか?」
「しょ、職長、ルッチさんは俺らで判断できねェ所を教えてくれたんで……」
 パウリーのあまりと言えばあまりな物言いに、慌てた艤装職の男が両手を振り回してパウリーに進言した。それを聞き、にかっとパウリーは笑みを浮かべる。
「おう、そうか、悪ィなルッチ! え…おい、ルッチ?」
 いつもなら何かの言葉を、例えそれが罵りだろうとも、憎まれ口だろうとも、はたまたはただの穏やかな世間話だろうともしていくルッチが、側に寄るパウリーに一片の視線もくれず倉庫を出て行った。無視されたパウリーは、その場で足を止め、なんでぃ、と不貞腐れたように顔を顰める。
「何が気に入らねぇんだか」
「今のは職長が悪いッスよ」
 図面と向かい、職人がそう言うと、葉巻の煙を吹き上げ、パウリーは首を傾げる。
「そうかねェ」
「船底の隠し部屋や砲弾棚を教えてくれたのはルッチさんだ。職長が指示をくれなかったもんで、俺たちにゃあ判断できなかったで」
「ああ…そう言えばそうだな…。うっかり指示したつもりでいたぜ。悪かったな、手を止めさせた」
 がりがりと頭を掻いて誤る神妙な顔で謝るパウリーは、ちらりと倉庫の入り口を見た。すでにルッチの姿はなく、真っ青な空の下、忙しく立ち働く職人の姿が見えるだけだ。木挽きの新人が呼びにきたと言うことは、資材の切断場の方へ行ったのだろう。そこは、倉庫の中からでは見えない場所にあった。
 うーん、と唸ったパウリーは、だがすぐに、まぁいっか、と呟いた。いいのかよ、と思う職人の手からさっと図面を奪い取ると、さぁちゃっちゃっと仕事するぞ〜、と声を張り上げて、船内へ飛び移る。船室へ消えていく職長の姿を見送り、ルッチに助けを求めた職人は、いいのかねぇ…、と倉庫の入り口を眺めていた。





 むっつりと唇を引き結び、眉間に皺を寄せて、まるで親の敵のようにプレートを睨むルッチに、誰もが恐れをなして近付いてこない。ただでさえ一番ドックの職長として慕われながらも、一方で圧倒的な強さや鉄壁の無表情で他の職長よりも疎遠されているルッチである。望んで近付き、不機嫌なルッチに放しかけようとする輩はおらず、その分、ルッチは己の考えに没頭することができた。
 考えるのはパウリーのことだ。
 元からだらしのない奴だとは感じていたが、仕事に関してはきちんとしている男だと思っていた。そうでなければ一番ドックの職長になどなれるはずもなく、アイスバーグにあそこまで信頼されるわけもない。
 だと言うのに、今日のパウリーの低落振りはどうだ。
 借金取りに追われていることにとやかく言うつもりはない。彼がギャンブル好きで借金まみれだと言うことは、ガレーラだけではなくウォーターセブンの常識だし、それが彼の人間性を否定する要素にはならないからだ。
 ルッチが苛立ちを感じているのは、なぜ借金取りに見つかるような場所へ行ったかだ。
 借金取りもあれで場を弁えていて、ガレーラのドック内には決して立ち入らない。アイスバーグの人徳のなせる業か、それとも相手が海賊だろうとも容赦なく叩き伏せる職人の強さに萎縮しているのか、パウリーに返済を迫るのはドック外だと決まっているようだ。朝や夕方の出勤帰宅途中に追い回されるのは別に構わない。しかし、さっきは就業時間中だった。休憩時間でもなく、仕事が始まったばかりでもない。パウリーが自らドック外へ出なければ、ああいう事態には陥らなかった。
 しかも、自分の部下に指示も出さずに場を離れている。
 管理職の自覚がまったくない、何か問題があったらどうするつもりだ、とルッチはプレートの上に整然と並んでいる食事の皿を見下ろし思った。
「ずいぶん不機嫌そうじゃのぅ」
 呑気な声と共に、がらりと隣の椅子が引かれる。顔を向ければ、ルッチと同じプレートを持ったカクが腰を下ろしていた。
「食堂で浮かべる顔ではないじゃろう。他の者がみな怯えとる」
『うるさい』
「飯も食わんで、何を考えとったんじゃ」
 ガレーラカンパニーの食堂は広く、誰でも好きな時間に食事が取れるようになっている。納期の差し迫った時期や、依頼が多数舞い込んでくる時期になれば、コックも二十四時間常駐する。うまい食事がうまい仕事の手っ取り早い活力剤になると信じているアイスバーグの計らいで、ガレーラのコックは飛び切り腕のいい連中ばかりだった。今日もまた、手がけているガレオンの納期が迫っているので、ドックに残る職人が多く、コックもガレーラに残っていた。
 ルッチも木挽きの職人ともども居残りを決めていて、夕食をとりにやってきていたのだが、結局一口も食べず、ただ悶々と考え込んでいたのだ。
 カクは皿にどんと乗った唐揚げを頬張り、ちらりとルッチの肩でこっくりこっくりと居眠りをしているハットリを見た。
「落ちそうじゃぞ」
『ハットリの目の前で唐揚げを食うとは、いい度胸じゃねェか』
「ワシャ鳩は好かん。食うなら鶏じゃ。そう言えば、パウリーが探しとったぞ? えらい剣幕じゃったが、お前さん、何かしたんじゃなかろうな?」
 むっとルッチは眉を寄せ、答える代わりにプレートの上のパンを鷲掴み、半分を口に放り込み、半分をハットリのために小さく千切ってやった。肩から降りたハットリが、プレートの側に詰まれたパンくずをせっせと突き出す。
『俺は何もしちゃいねェ』
「昼間のことかのぅ」
『誰に聞いた』
「噂じゃ。パウリーがひなかに借金取りに追い回されとると聞いてのぅ。何をしに外に出たものやらと思っとったんじゃ」
『俺が知るか』
 海老とアボガドのサラダをフォークでぐさりと突き刺し、この厄介な話し相手から一秒も早く開放されようとスクープふたつ分のサラダを一口で頬張った。巨大なウィンナーのボイルにマスタードをたっぷり塗りつけて食べ、オニオンスープをごくごくと飲む。じっとプレートを睨みつけ過ごした時間があまりにも長かったせいで、スープはぬるいと言うよりもむしろ冷たいと表現した方がいいような温度になっていた。
「おお、早いな」
 突然がっつき始めたルッチを、もともと丸い目をもっと丸くしてカクが驚く。
 答えずにデザートのガトーショコラまで平らげ、さっさとプレートを持って立ち上がる。
『先に行く、ポッポー』
「ワシにまでポッポは付けんでいいわい。本性を知っとるだけに、薄気味悪いわい」
 小さな声で呟くカクの声を、聞こえなかったふりをして、ルッチはプレートや空になった皿を食器の返却口に押し込んだ。
「おっ、いたいた、ルッチ! テメェ、探したじゃねぇかッ!」
 皿についていたマスタードが指につき、食堂の隅にある水道で手を洗っていると、どかどかと騒々しくパウリーがやってきた。今は見たくねェ面だ、とルッチは滅多に開かない唇をことさらきつく引き結ぶ。
「なぁオイ、ちっとテメェに話があんだけどよ」
 鉄壁の不機嫌面にも気付かないのか、無神経にも真正面に立ち、下から覗き込むようにルッチを伺うパウリーを、食堂にいたカク以外の職人はみな、命知らずな、と恐れ戦いた。普段外で二人のいざこざを見るには楽しいが、できれば食堂ではやらないでほしいかな、と言うのがコック連中を始めとしたガレーラの一般的感想だ。
 ルッチが無表情に立ち尽くしていると、おい、とパウリーの眉間にもぐっと皺が寄る。
「なぁ、聞いてんのかよ。話があるっつってんだろ」
 ルッチはじっとパウリーを睨みつけていたが、やがてふいと顔を背け、そのすぐ側を通り抜けた。食堂の外へ向かうルッチの後姿を、あまりと言えばあまりの反応に呆気に取られていたパウリーは、ハッと我に返って慌てて追う。
「おい、ちょっ…ルッチ! 待てよ、おい!」
 無言のまま食堂を出て行くルッチを、何だか理由は知らんが怒っとるのぅ、とカクは眺めていた。
 昔からそうだ。
 己の思考に没頭するとき、心底怒りを感じているとき、計り知れない悲しみを得るとき、ルッチは口を閉ざす。ハットリを介してすらも言葉を発さないので、親しくない者が見れば、どの感情が彼の中にあったとしても一概に怒っているのだと感じるようだ。
 けれどともかく、今はそれであっている。
 どうやらルッチは心底怒っている。
 ふぅむ、とカクは山盛りの唐揚げを頬張りながら首を傾げた。
 ルッチが怒っていることは容易く知れるが、一体何に対して怒っているのかは想像ができなかった。





「ルッチ! 待てよ、ルッチ!」
 大声を上げ後ろを追いかけてくるパウリーの存在を、ルッチは頭から全部無視した。夕暮れに落ちても煌々と明かりを灯し、遅れがちな作業を続けている職人が、パウリーの声に顔を挙げ振り返る。
 いらん注目を集めやがって、とルッチは顔を歪めたが足を止めることはしなかった。
 まだ手付かずの丸太が転がる木挽き場へ向かうと、明かりはついていたが人は誰もいなかった。当然だ。ルッチが木挽き職の休憩時間を告げ、みな食事へ出かけている。大体は休憩時間のぎりぎりまで食堂で寛いでいるので、あと半時間は戻らないだろう。
 食堂を出てくるんじゃなかったか、と後悔したがすでに遅い。仕事をしてパウリーをやり過ごそうと巨大鋸に手を伸ばしたが、それを掴む前に腕をパウリーに取られた。勢いのまま、山と詰まれた丸太に背を押し付けられる。驚いたハットリがバサッと盛大に羽音をたて飛び立った。
「なに無視してやがんだよ!」
 成形前の丸太は木を切り出したままだ。ささくれ立った木の表皮が背中に触れ、ざらりと皮膚の剥ける感触がした。その程度のかすり傷に痛みは伴わず、ルッチは無表情のまま目の前で憤るパウリーを見た。一旦空へ舞ったハットリが、側に戻ってくるのを待ち開かない唇で問う。
『……なんだ』
「何が!」
 パウリーを無視し続けたルッチに、彼の怒りも相当募っていたらしい。相変わらず興奮すると話が混乱する男だ、とルッチは冷静に分析していた。
『話があるそうだが。手早く済ましてくれ。仕事がある』
「他の連中は」
『休憩だ』
「お前は」
『仕事だ』
「……休憩しねェのかよ」
『生憎、納期が迫っている。このままでは遅れる。少しでも早く仕事を進めるべきだ』
「…なんでお前、そんな話し方なの」
 腕を丸太に押し付けられたまま、のしかかるように身体を寄せるパウリーが、まじまじとルッチの顔を見つめている。怒りはどこへ消えたのか、子供のようなあどけない不思議なものを見るような目をしていた。
 ルッチは内心で舌打ちをする。
 怒りを押さえつけようとして、つい地が出たらしい。
 ふいと顔を背けると、まぁいいや、とパウリーはようやくルッチの腕を放し、ポケットから引っ張り出した一枚の紙切れを差し出した。
『なんだ』
 眉を寄せそれを見下ろすと、受け取れよ、と無理やり手を引っ張り上げ、上向かせたルッチの手に紙が押し付けられる。指先に触れたその質感からして、紙切れは画用紙のようだ。四つ折にされたそれを開かずにいると、パウリーは葉巻の煙を盛んに吹き上げながら、画用紙を指差した。
「誕生日なんだよ、今日」
『……誰の』
「あー…ほら、裏町にある孤児院、覚えてるか? 去年のクリスマスにアイスバーグさんに頼まれて、プレゼント持ってったろ。あそこの子」
 ガレーラの社長であり、ウォーターセブンの市長であるアイスバーグは彼自身の境遇が関係しているのか、クリスマスには必ずウォーターセブン中の孤児院にプレゼントを贈っていた。四番ドックの連中に手伝ってもらってな、と言われたプレゼントの中身は、木製のおもちゃで、海列車を模したものや、ねじを巻いて水に浮かべれば走る船もあった。大半はアイスバーグの手製だと言うそれを、ルッチはパウリーと二人、裏町の孤児院に届けに行ったのだ。
 思い出した、と頷くと、パウリーは嬉しそうににかっと笑う。
「そこの子とさ、たまに遊んでるんだ。で、今日誕生日の子がいたから、プレゼント渡しに行ってきた。そしたら、それをお前に渡してくれって」
『…俺に? なぜ』
「クリスマスプレゼントのお礼だとよ」
 馬鹿馬鹿しい、と思わず笑いそうになった。
 クリスマスプレゼントを持って行ったのは、確かにルッチとパウリーで、それがそのまま彼らのプレゼントであったのならお礼を頂く理由もあるのだろうが、あの中身はすべてアイスバーグからのものだ。パウリーがきちんとそれを説明していたし、それがどうしてルッチ宛てのお礼を書くに至るのか。
 それでもじっと見つめてくるパウリーの視線の強さに押されるように、ルッチは画用紙を開いた。
 一枚の画用紙には実に抽象的な線が走っている。生成りの画用紙に白いクレヨンで丸があり、黒い棒っきれがふたつ飛び出している。丸の中の黄色とふたつの黒い小さな丸と、それの側にある人物画らしい絵に、ああ、とパウリーが嬉しそうな声を上げる。
「こいつぁ力作だな!」
『……何がどうなってるのか解らないんだが…』
「これがハットリで、こっちがお前だろ。なんせこれ描いたの、こんくらいの子供だしなぁ」
 パウリーが自分の太股辺りを手のひらで示して見せる。
『なぜ俺なんだ。普通ならアイスバーグさんだろう』
 触れれば手につきそうなほど強くクレヨンで描かれた画用紙を、ルッチは元通り四つ折りにした。感動の薄い奴だなぁ、とパウリーは呟いた後で、そりゃお前、と答えた。
「ハットリを触らせてやったじゃねぇか。あいつ、動物好きなんだ」
 そう言う瑣末なことを、パウリーは驚くほど良く覚えている。思わず目を見開いたルッチに、な、とパウリーはやわらかい微笑を近付ける。
「今度、一緒に行かね? 孤児院。楽しいぜ。ガキがいっぱい駆けずり回って、うるせェの。一日中遊んだらクタクタになっちまうくらいなんだ。あいつらってすげェ体力あるんだ。俺も、ガキん頃はああやって遊びまわってたなって思ってさ。童心に返るっつうの?」
 背中に触れている丸太の感触が妙に気になった。ささくれだった表皮に傷つけられた背中は、血を滲ませているだろうか。もしそうならこいつが気に病むんだろうなとまるで関係ないことにルッチは思いを馳せる。抱き合うとき、ベッドの中で背中に触れるパウリーの指先は優しい。木っ端を削り船を作り上げる職人の手なので大きく固く、無骨ではあるが、それが優しい。
 ルッチはそんな事に必死に思いを巡らせた。
 そうでなければ、己の幼少時代を思い出しそうだったからだ。
「な、ルッチ、行こうぜ、一緒に」
 小さな子供がそのまま大きくなったかのような男が、にっと笑ってルッチを抱きしめる。
『ガキは、嫌いだ』
「好きになるさ」
『わざわざ、そのために仕事を抜けたのか』
 暑苦しい男の肩を押し戻し、丸太から身を起こす。身体についた木っ端を払うと、あぁまぁ、と曖昧な答えが返ってくる。
「あ、言っとくけど、アイスバーグさんの許可はきちっと取ってあっからな!」
『指示も出さず…か。いい気なもんだ』
 自分の都合で好きなことができて、と言外に匂わせた言葉にパウリーは気付いたのだろうか。バツの悪そうに頭を掻いて、パウリーの葉巻の煙が届かない場所へ移ったルッチの側に寄る。一応、風下に立っているつもりなのだろうが、吹き溜まりになる木挽き場では意味がなく、時折ルッチの顔に葉巻の煙が被った。
「あー…まぁ、その…あれはだな…うん、助かったよ。ちゃんと指示してったつもりだったんだが…忘れてたみてぇで……なんつーか、助かった、うん。ありがとな」
 答えず眉間に皺を寄せていたルッチは、手にしていた画用紙をパウリーの胸に押し付けた。思わず受け取ったそれを見下ろし、パウリーはぐっと険しい顔をする。
「なんだよ」
『お前が持ってろ』
「なんで。折角お前に」
『クレヨンの匂いが、駄目なんだ。苦手で』
 決して嘘ではなかったけれど、それは画用紙をパウリーに押し付けた本当の理由ではなかった。子供を連想するものを身近な場所に置きたくなかったのだ。例えそれが、船大工のロブ・ルッチに当てられたお礼だとしても。
「それなら、預かっとく。なぁルッチ」
 画用紙を開いて汚い線の抽象画を眺めているパウリーが、突然顔をあげ、にっと唇を持ち上げる。
「妬いたか?」
『何に』
「うわ、即答かよ。休憩時間でもないのに外にいるなんて一体どう言うことかしら〜とか、誰かに会いに行ってるのかしら〜とかさ! ねェのかよ、お前には!」
『ねェな』
「……即答かよ。くそ…浮気しちまうぞ…」
 がっくりと肩を落としたパウリーは手の中の画用紙に気付くと、それをここへくるまでにしまっておいたポケットの中に戻した。その一連の仕草を眺めていたルッチはおもむろにパウリーのジャケットの胸倉を掴み引き寄せる。
「うわっ、なんだよ!」
 突然のことに目を丸くして慌てるパウリーに、ルッチは言った。
『覚えておけ。俺は嫉妬はしねェが、もしテメェが他所を見やがったら、迷わずテメェを殺してやる』
 目を真ん丸にして、崩れたバランスを戻すために振り回した両手を中途半端な形で止めて、パウリーが硬直している。
 ふん、と息を吐いて胸倉を押し戻せば、固まっていたパウリーは動きを止めたまま小さな声で呟いた。
「それを世間じゃ嫉妬って言うんでねェの……?」
『勘違いするな』
 話し込んでいるうちに休憩時間が終わってしまったようで、ぞろぞろと食堂から職人が戻ってくる。ルッチの機嫌が昼から悪かったのを知っている連中ばかりなので、今戻りました、とそれだけを言っていつになくさっさと仕事に取りかかる。
 ルッチもそれにならい仕事をすべく、巨大鋸を手にしながら、いまだ固まり続けるパウリーを見た。
『俺は自分のものに手を付けられるのが嫌いなだけだ』
 馬鹿は放っておいてさっさと仕事を片付けてしまおうと未形成の丸太に取り掛かった。すでに切り出し線は引いてあるので、形を作るだけでいい。巨大鋸を丸太の上に掲げ、そう言えば馬鹿が静かだなと振り返る。
 変な格好で固まっていたパウリーは、何かを考え込むようにぶつぶつ呟いていたが、やがてパッと顔をあげ、満面の笑みを浮かべ飛び掛っていた。咄嗟に蹴り倒そうとするルッチの真正面からがばりと両腕を回し、ぎゅうぎゅうと尋常でない力で締め上げる。いや、抱きしめる。
『何だ、放せ、馬鹿野郎!』
「ルッチ〜! 愛してるぜ〜!」
『何なんだ、突然! とうとう頭に虫でも沸いたか』
「いやー、俺ってばいつのまにかルッチのものになってたみたいだなー! まぁ安心しろよルッチ! 俺ァ浮気はしねェ! ルッチ一筋だからな!」
 頬ずりまでしてくる男を引き剥がそうと渾身の力を込めるが、いつになくしぶとくしがみつくパウリーの力は半端ではなかった。
『放せ!』
「照れるなよな、ルッチ!」
 パウリーさんがルッチさんを襲ってる…、と木挽き職の連中がぼそぼそと囁きあっているのがルッチの耳にまで入ってくる。覚えてろよ貴様ら、と仕事の手を止め、とち狂ったパウリーの戯言と愚行に魅入っている職人を睨みつければ、彼らはそそくさとまた自分の仕事に戻る。
 いっそもう殴ってでも引き剥がしてやる、とルッチが拳を握り締めると、うっとうしいほどに張り付いていたパウリーは殺気を敏感に察したのか、ぱっと飛びのいた。
「じゃあな、ルッチ! 愛を確かめ合ったところで、俺ァ仕事に戻るわ!」
『確かめ合う愛など存在しないが』
「今度の休み、一緒に孤児院行こうな! 絶対だからな!」
 ぱたぱたと手を振って木挽き場から離れるパウリーを、あまりの唐突さに思わず見送ってしまった。そうと気付いたのは、木挽きの職人がぽそぽそと、ルッチさんがパウリーさんを見送ってる…、愛確かめ合ったんだ…、と囁きあっている声が聞こえたからで、ルッチは地面に転がり落ちていた巨大鋸をがっしと掴むと、無言で丸太につきたてた。
『…仕事をしろ。貴様ら、丸太の代わりに挽かれてェか』
 わっと声を上げて職人が持ち場に戻る。一見生真面目に仕事をしているように見えるが、その実、ちらちらと投げかけられる視線を感じるし、小声で囁きあう声も聞こえる。
 ああ畜生、とルッチは眉間に皺を寄せた。いつもよりも深い皺には誰も気付かない。
 明日の朝にはきっと、一番ドックだけに留まらず、ガレーラ中にパウリーとのことがふれられているに違いない。畜生、と口の中で呟くと、丸太の上で羽根を畳んでいたハットリが、平常心を失うルッチをからかうようにクルクルと喉を鳴らした。

 
パウリーは孤児院の出じゃないかと勝手に想像してます。引き取られた先が船大工で海列車開通前だったので非常に苦労してパウリーを育てたのではなかろうかと。その恩に報いるイコール船大工になると言う図式がパウリーの中にあり、気付けば造船所で働いていた。ガレーラができる前に養い親(アイスバーグの年の離れた同僚だといい)が死に、天涯孤独の身に。例え苦労だらけの生活でも大事にされてきたので、人を愛すると言うことや愛情表現を知っている人だと思う。人を愛する事に一生懸命になれる人。逆にルッチは幼少時代が幼少時代だったので、愛情表現が屈折していて、愛し方も屈折している。集団で成長してきたので自分だけのものに執着したがるタイプで、自分の浮気は許せても相手の浮気は許せないタイプ。自分の玩具が人に取られると、奪い返さず壊す協調性ゼロの幼少時代を過ごしたに違いない。そんなルッチに惚れられた(告白はパウリーが先でも落ちたのはルッチが先だと思う)パウリーの末路がアイスバーグを助けようとしてルッチに殺されかけた社長室。でもそれがルッチの愛情表現。……だったらいいなぁ(願望)。