No shake noble things
 天気が良くて、比較的気候も安定している昼下がりに、船尾で本を広げている女は、時折歌を歌っていた。黒い髪を風に遊ばせながら、物心つく前からもっていたと言う悪魔の実の能力で具現化した腕で風にさらわれそうになる本のページを抑えながら、途切れ途切れの歌を歌っている。
 特に気になると言うわけではなかったが、女が晴れた日に甲板で歌うのは、決まってその歌で、だからだろうか。嫌に耳について離れなかった。
 その歌は何だ、と振っていた鉄の重りを甲板に下ろし、振り返り問うと、眩しそうに目を細める。
「なに?」
 首を傾げると、強く吹いた風が帆布をはためかせた。麦藁帽子を被った髑髏が翻り、ばさりと大きな音とともに影を、一瞬女の上に作る。だがそれはすぐに、女の黒い髪へ注ぐ日差しを遮るのを詫びるように、元の位置へ収まっていった。
「風で聞こえなかったわ。何か言った?」
 口元に薄い笑みを張り付かせ、女は本を閉じる。分厚くて茶色い本の背表紙には、金色の文字で生半可な知識しか得ていない人間には解読しきれない文字が書いてある。ナミが持て余したのを、女が引き取っていたのだ。
「…歌が、気になった」
「歌? ああ…私が歌っている奴ね? 邪魔だった?」
「いや、そうじゃない」
 首を振り息を吐くと、じゃあどうして、と女はおかしそうに目を細める。夜の色をした眼差しが、太陽の光を反射する甲板の眩しさなど物ともしないように、見据えてくるのが居心地が悪く、また居心地がいい。相反した気持ちは同じところから発生して、矛盾しているけれど、彼にとっては正論だった。
「聞いたことのない歌だ」
「そうでしょうね」
 深く笑うと、それだけ年を重ねた女の目尻にはうっすらと皺が浮かぶ。多分、この船の食材を預かる男は、そんな事を言おうものなら即座に足を繰り出し、レディに向かって皺があるなんて口が裂けても言うんじゃねぇこのトウヘンボク、などと怒鳴りつけてくるだろう。女と料理の事となると目の色を変える男は、幸運な事に今はラウンジの中で午後のティタイムとやらの準備に没頭している。
「この歌は、うんと昔に滅びた国の歌よ」
 女は謎かけをするように笑う。座りなさい、と示されたのは椅子ではなく、床だ。デッキチェアは生憎女が座っているものひとつしか、今は甲板に出されていなかった。ゆっくりと歩み寄り、同じほどにゆっくりした動作で腰を下ろすと、女はまた深い笑みを浮かべた。夜の色をしているとばかり思っていた瞳は、光の角度によってか、それとも本来の色がそれなのか、ほんのりと緑色を帯びていた。
「クロコダイルと手を組むよりも前に、私が見つけた文献が、滅びた国の歴史を示す物だったのよ。それを紐解いて行くうちに、滅びた国が今現在ではどこの国、どこの島に属するのか解ったわ。興味があったから行って、古代にゆかりのある遺跡を巡り…そこにあった壁画や、今もそこに住む、滅びた国の民の末裔と思われる人達の話を聞いて、調べたの。歌は、遺跡に刻まれていたわ。国の民の末裔に問うと、古くから伝わる民謡だと言っていたけれど、実際は子守唄だったの。壁画に、音程や歌詞が…それはもう途方もなく長い時間が過ぎてしまっていたから、所々欠けてはいたけれど、書かれていた。私は復元し、記憶した。それがこの歌よ」
「欠けていたのは、お前がいつも歌わない場所か」
 あら聞いていたの嫌だ、と女は笑う。
「そうよ。想像するしかない箇所は膨大だわ。途切れ途切れ歌うしかないけれど、素敵な旋律だから、私は好き」
 微笑み、女はデッキチェアの上で膝を抱えた。帆布がまたざわめき、女の上に影を落とす。ふと顔をそちらへ向ければ、見張り台よりもずっと向こうに、黒い低雲がひとつ浮かんでいた。パシリと光る青白い閃光が見て取れる。
「一雨きそうね」
 釣られるように低雲を眺める女が、素っ気なく呟いていた。どうでもいいわと言いたげな様子に顔を向けると、それに気付いたのか、女が笑顔を取り繕う。
「……すべてを知りたいとは」
 先を目で問うと、女は唇元を緩めていた。
「思うわ」
 けれど、と女は素早く唇を動かす。遠い所で、雷鳴が轟き、ラウンジで料理人の話相手をしていたナミが飛び出してきた。ここからは身体半分しか見えないが、忙しく雲と船との距離を計り、風の方向を知り、空を見上げ湿度を身体に感じている。問題ないと、最終的に判断したのだろう。ナミは雲が光を放つのに背を向け、ラウンジへ戻ったようだった。
「けれど、この歌はもうすべてを復元させられないのよ」
 抱えた膝の上に、形のいい顎が乗る。
「歌詞も全てを計り知る事はできないわ。なぜ国が滅びたのか…なぜ歌は遺跡に残されたのか。歌は私達に何を伝えるのかしら。いつか知ることができたらと、私は思っているわ。滅びた国の末裔が、まだどこかにいるかもしれない。文献によると、船出したと記されているから、この広いグランドラインのどこかに、末裔の子孫がいるかもしれない。そこではこの歌が代々語り継がれているかもしれない」
 女は目を細め、船の側を通りすぎて行く黒い低雲を見つめていた。
「…夢ね。私の大きな夢」
 雲の下には雨があり、雷が轟いているが、船は青い空の下にあり、甲板も乾燥している。
「時間に埋没した歴史を、全て知りたいと思うのは…歴史家である私の、大きな夢だわ」
 おやつの時間だと、ラウンジから料理人の土間声が飛び出した。船首甲板で昼寝をしていた船医と船長と狙撃手が、飛び起き我先にとラウンジへ駆け込んでいく。その騒動で、少し船が揺れた。
「歴史は壮大よ。たくさんの人の人生の縮図だわ。そのすべてを知るのは不可能かもしれないけれど、せめて歌だけはと思うの」
 ラウンジから、金色の髪がひょっこりと顔を出す。姿を現さない女を捜しての事だろう。程なくここへもやってくるだろう男の足音を聞きながら、俺は腰を上げていた。帆布がはためき、何度も陰を落としていた。
 女は天を仰ぐように空を見上げ、帆布の音を聞くように目を閉じる。頬を嬲る風に気持ち良さそうに唇を緩め、やがて開いた。緑の瞳がくるりと光を反射するのを見つめながら、口を開く。
「……俺は」
 料理人の固い靴底の音が、一歩一歩近付いてきていた。ああロビンちゃん、ティタイムの準備ができましたよ、と淀みない言葉を紡ぐ料理人が、ちらりと視線をくれるのを感じながら、見上げる緑の瞳に口を開いていた。
「…あの歌は好きだ」
 見開いた目に、生え揃った綺麗な長い睫が、何度も往復し、やがて微笑む。にっこりと、やっぱり笑うと皺ができる目尻を緩め、女は首を傾げた。
「……いつかあなたに全てを聴かせてあげたいわね」
 さらりと流れる黒い髪が綺麗だった。
 料理人の手を借りて立ち上がり、歩き始めた女の背中に、そう願いたいな、と言葉を発し、その後をゆっくりと追う。
 黒い低雲は、船の後方はるか遠くにあり、相変わらず雷鳴を轟かせていたが、その音は波間に消え、いつの間にかなくなっていた。
 帆布がはためき、帆綱がしなる。
 次の島までは、まだ昼夜を過ごさなければならないようだった。