■ 真心求める自己愛者 ■


 珍しく定刻通りに仕事が終わり、それぞれが思い思いに帰り支度をしていると、おおっ、と木挽きの職人がどよめいた。鋸の刃こぼれがないかをひとつひとつ確認していたルッチもそれにつられ顔を上げる。海賊でもきたのかと思ったのだが、それにしてはあたりは静かだ。
『…何事だ?』
 座っていた丸太から腰を上げずに問うと、いつも破れたジーンズに破れたシャツを着ている職人が、首の辺りをぎゅっと押さえながら、驚きを隠しきれない様子で答えた。
「職長、明日は雨ですよ!」
『そりゃあいい。湿り気が欲しかったところだ、クルッポー』
「パウリーさんに女が!」
 思わず、ルッチは手にしていた鋸を取り落とした。それは小さな材木を切り出すためのものだったで、手から落ちたそれはまっすぐに足の横に突き刺さる。あと二センチずれていたら靴の上からぐっさりだ。
 ルッチが工具を落とすことなどないと言うのに、その男はルッチの機嫌が真っ直ぐ降下の一途を辿っているのに気付かなかった。
「それがまたいい女なんですよ! あ、ほら、あそこです。あーいいなぁ、何かもらってる…プレゼントかなぁ、初めて見る顔だけど…いいなぁ可愛いなぁ」
 帰り支度をしていた職人のほとんどは手をとめその珍しい光景に魅入っていた。
 一番ドックの仕切りの柵のところで、パウリーは敷地内におり、女の方は柵の向こうにいた。パウリーの顔はこちらに背を向けているので見えないが、女は頬を赤く染め、恥ずかしそうに何か包みを差し出していた。照れたように頭を掻きながらそれを受け取り、パウリーと女は何かを話し続けている。
 遠目にも、その女が世間一般で言う可愛らしい女であることが解った。
 春先に相応しい淡い桃色のワンピースに身を包み、柔らかな茶色の髪を肩の辺りで遊ばせている。白い肌に大きな目をし、細い指をしていた。手にかけたバスケットが夕暮れ時には似合わないが、女を少女めいて見せるにはいい演出だ。
「あれっ、あの子」
 職人仲間が少し高い声を上げる。夕日に眩しく水面が反射するので、パウリーと女がいる辺りが曖昧にしか見えないのだろう。目の上に手を翳し、それでもなお目を細めていた。
 ルッチは地面に突き刺さっている鋸に気付き、ぎこちなくそれを拾い上げる。刃こぼれのない完璧だった鋸は、先が折れてしまっていた。
「やっぱり。ほら、あれ、あの子だよ。一週間くらい前から、毎日来てるだろ、パウリーさんに会いにこの時間にさ」
「へーそうなのか、俺ァ知らなかったよ。じゃあ何か、パウリーさんにもとうとう女ができたのか」
「お似合いだと俺は思うね。カリファさんみたいのも綺麗でいいと思うけど、パウリーさんにゃあああいうタイプの方がいいよ。スカートだって長いから」
「なんかああしてっと、新婚夫婦みてぇだなぁ」
「お前それ、パウリーさんが聞いたら真っ赤になっちまうぜ!」
「ばっか、パウリーさんみたいなタイプはできちゃった婚で早く片付いちまうんだって!」
 ぎゃははは、と職人が大声で笑い声を上げたその時。
 バキッ、と何か固いものが折れる音が、木挽き場に響き渡った。
 思わず息を呑んだ職人が恐る恐る振り返ると、丸太に腰を下ろし、無表情に一点を(それはつまりパウリーたちであったのだが)見つめていたルッチの手の中で、鋸が真っ二つに折れていた。右手を柄に、左手で鋸歯を持っていたので、ルッチの左手からは折れた鋸を伝い、ポタポタと赤い血が滴っている。
 それでもルッチは瞬きをもせずに一番ドックを象徴する巨大な扉の側で、話に興じる二人を無表情で見つめていた。
「しょ、職長! 職長、手! 手!」
「おい誰か、救急箱持ってこい!」
 船大工の手のひらに食い込んでいる鋸の歯に、木挽き場が騒然となった。倉庫に救急箱を取りに行くものや、血を洗い流すための水を探しに行く者もいた。ルッチはその中で一人、無表情の座っていたが、一人の職人が傷の具合を見ようと手を伸ばしたとき、ふっと動いた。
「ルッチさん、手当てしねェと……うわぁ!」
 ルッチの左手を上向かせ、鋸の折れて手のひらに刺さった歯を顰めた顔で取り除こうとした職人が、手を振りほどかれてひっくり返った。
 両手に握り締めていた折れた鋸を地面に投げ捨てると、ルッチは真っ直ぐに一番ドックの巨大扉へ向かって歩く。足を一歩進めるたびに、左手から止まらぬ血が伝い落ちる。
 腹の底から静かに湧き上がる怒りと殺意は、まるで悪魔の実の力で姿を変える直前の気持ちに似ていた。
 扉にもたれかかるようにして話し込むパウリーたちの側へ寄ると、先に、こちらを向いて立っている女が気付いた。あ、と声をあげ、人懐こい微笑を浮かべ会釈するのをそら恐ろしい目で睨み下す。びくりと身体を竦め息を呑む女の蒼白な表情に気付いたのか、パウリーがようやく振り向いた。
「ん、ああ、なんだルッチ、どうし……」
 ヒュウッと空気が切れるような音がして、パウリーの頬に糸のような切り傷ができた。そしてその直後、ガツンともバキッともドスンともつかぬような重く鈍い音が、一番ドックに響き渡った。
 ぎょっと目を丸くしたのはパウリーだ。
 抱えていた包みを抱きしめたまま、自分の頬のすぐ側にあるルッチの腕をぎこちなく見た。船を作り上げる行程で鍛えられた腕は握り締めた拳でもって、パウリーがもたれていた一番ドックの巨大扉を両脇から支える支柱に突き刺さっている。ミシミシと木が根元から割れるような音と、ぱらぱらと頭上から舞い落ちる埃と木っ端に、パウリーの顔は青ざめた。
「ル、ルッチ…さん…?」
 引き攣った微笑みで、ルッチの拳のめり込んだ支柱がぐらぐらと揺れているのをパウリーは目撃した。
「ななな、な、なんだよ、おい、ルッチ! ルッチさん!」
『この女は何だ』
 きっと、この世に悪魔がいるのならまさしくこんな顔をしているに違いない、とパウリーは拳ひとつ分隙間を空けた目と鼻の先にいるルッチの無表情にぶるりと震えた。無表情には違いないのだが、おそらく、というよりも、絶対、確実に、間違いなくかつてないほどに怒り狂っている。
 パウリーと大して違わぬ体躯から滲み出る殺気は、それだけで人を殺せそうだ。
「な、なにって……何って……」
 脂汗をだらだらと流しながら、助けを求めるように四方へ目を走らせるパウリーの手の中の包みに、カッとルッチの底冷えのする怒りは沸点を通り越した。
『浮気をしたら殺す。そう言っておいたな?』
 ズボッとありえない音をたて、ルッチの腕が支柱から抜き取られた。パウリーが背を預けるそこには、ぽっかりと深い穴が開いている。いくら力が強いからってこうはならないだろう、と言うようなそれを作り出した張本人は、それを作った右手をぐっと後ろへ引き、今にも再び繰り出しそうだ。
「ま、待て! ルッチ! 誤解だ!」
『殺す』
「待てーッ! 早まるなーッ! 妹だ!」
 ヒュッとルッチの腕がパウリーの頬を掠り、今もまだぐらぐらと揺れる支柱に突き刺さった。二筋目の切り傷からたらたらと流れる血がパウリーの頬を汚していたが、ルッチは眉一つ動かさず、すっと腕を引く。
 その途端、メキメキと鈍い音を立てていた支柱が、ゆっくりと水路側へ揺らいだ。
「危ねェ、扉が倒れる!」
 誰かが大声で叫び、辺りは騒然となった。ぎゃあと悲鳴を上げて四方へ散る職人や、あわよくば町で有名な一番ドックの職長と飲みに出かけたりできやしないだろうかと扉の近くに集まっていた年頃の女たちが、きゃあきゃあと甲高い声を上げて逃げ惑う。
 一度、呼吸をする間に、ドウッと轟音を立て、巨大な一番ドックの扉がパウリの頭の辺りの高さからぽっきりと折れた。引きずられるように、もう一本の支柱と、その間にまたがる扉も水路側へなぎ倒れる。水路から盛大に水飛沫が上がり、辺りを所構わず水浸しにした。
『妹…? 容易く解る嘘を吐くな。テメェにゃ家族はいねェだろう』
「孤児院で一緒だったんだよ! 妹みてェなもんだ!」
 扉の崩壊の勢いでその場に投げ出されていた女が、埃まみれ、土まみれの顔を上げてこわごわと微笑んだ。
「あ、兄がいつもお世話になってます……」
 けふっと咳をすると、女の口から埃が舞い上がった。
「ルッチさんがお料理が上手だと聞いたので…教えてもらえたと思って……兄に相談を………」
 けふんとまた埃が舞い上がる。ピンクのワンピースも汚れて泥だらけだ。持っていたバスケットの中からは料理の本や買い求めたばかりらしい食材が転がり出ていた。
 パウリーの手から落ちた包みの中は、明らかにハットリ用と思われるネクタイやらルッチとお揃いの帽子やらの入った箱だった。蓋が開いて中身が飛び出している。
『これは?』
「兄に頼まれて、ルッチさんの鳩の服を作ったんです。私、服を作る仕事をしているので、手先が器用ですので」
『ここ一週間毎日きているそうだが』
「ルッチさんと鳩の寸法を見るためです。その、兄があなたは鳩を大事にしているから、お揃いの服を作ってやってくれって」
「あっ、馬鹿、言うな!」
 パウリーの大声にも女はひるまない。なるほど、よほどパウリーの大声にも剣幕にも慣れているらしい。
 ルッチはすっとしゃがむと、汚れた女のスカートを叩いて腕を掴んで立ち上がらせた。
『失礼、お嬢さん。お怪我はありませんか』
「おい、ルッチ! テメェ、俺のこの怪我が見えねェかッ! なんだその態度の差はッ! 大体、これどうするつもりだよ! 扉壊しちまいやがって! お前は破壊工作員か! どんな腕力してやがるんだ!」
 崩壊が一段落したのを見て、わらわらとドック内の職人や、町の物見高い連中が寄ってくる。ルッチの拳がめり込んだ箇所から、真っ二つに折れている支柱を見て、誰もがごくりと息を飲んだ。
『それくらいの傷なら舐めときゃ治る』
「こんなとこまで届くかボケ!」
 憤り地団太を踏むパウリーの顎を、ルッチはすっと左手で掴んだ。それは鋸の歯が刺さり、だくだくと血が流れ続けている手だったので、パウリーはぎょっと目を丸くした。
「お前、この手!」
 どうしたんだ、と叫ぶつもりだったパウリーは頬にぬるりと生暖かい感触が触れたのに気付き、硬直した。間近にあるルッチの顔と、頬やら首筋やらにかかる彼の吐息がくすぐったい。
「…ル、ルッチさん…?」
 思わず降参の形に両手を挙げたパウリーの頬を、ルッチは伸ばした舌でぺろぺろと舐める。
『舐めときゃ治る』
「ってお前が舐めるんかい! つーか、お前、その手何とかしろ。見てるこっちが痛ェんだよ! おら、来いッ!」
 ぐいとルッチの手を引いて歩き出したパウリーは、途中で地面に落ちていたハットリの服とそれを持ってきた女の存在を思い出したようだった。慌てて汚れたそれを拾い上げ、箱に入れた。
「あー、サンキュウな、これ。料理の話はまた。どこも怪我してねェな?」
「大丈夫。早くルッチさんの怪我の手当てしてあげて」
『どうもご迷惑をおかけしましたね、お嬢さん。この馬鹿が』
「これ壊したのはお前だろッ! あーもう…アイスバーグさんになんて言われるか……」
 ずるずると引きずるようにルッチの手を引き、パウリーは始終何か文句を言い通しだった。倉庫の中へ入って手の手当てをしている間もそうだし、汚れたハットリの新しい服を差し出したときもそうだった。赤く染まった頬は照れ隠しだと十分にルッチに伝えていたし、それだけでもうあの女とパウリーが話しているのを見て湧き上がった怒りだの殺意だのは浮かびあがらなかった。
 お礼代わりにぺろりとパウリーの頬の真新しい傷を舐めると、ったく…、とパウリーは溜息を吐く。
「お前って、本当に極端な…」
 しかし、とパウリーは続け、倉庫からも見える崩壊した一番ドックの扉を見た。
「……アイスバーグさんになんて言おう……」
 知るか、とルッチは顔を背ける。
 悪いのはすべて勘ぐられるようなことをするパウリーだ。






「ンマー……」
 翌朝、様子を見に一番ドックへやってきたアイスバーグはそれっきり言葉もないと言うように形の変わった扉を見上げた。傍らでカリファもついと眼鏡を持ち上げた格好のまま呆気に取られている。
「海賊の襲撃でもあったのか?」
「昨日はそのような報告は受けておりませんが、アイスバーグさん。木挽きの職人に聞いたところ、どうやらパウリーとルッチが騒動を起こしたようです。話には聞いていましたが、まさかここまでとは…」
「しかし早々に立て直さんと仕事にならんな」
「三番ドックの手が空いておりますので、すでに手配をしております。午後から作業に入るとのことです。ルッチとパウリーは今朝出社してきた所を捕獲しました」
 カリファに目配せされたカクが引きずってくるのは、ロープで二人まとめてぐるぐる巻きにされたパウリーとルッチだ。平然としているルッチの肩には、ご丁寧に首に縄をかけられハットリが迷惑そうに溜息を吐いている。その頭にはルッチとお揃いの帽子がある。
「何がどうなってこうなったんだ」
「やったのはルッチですよ! 俺ァ被害者です」
『見解の相違があっただけです』
「お前は見解の相違とやらで人を殺そうとすんのかッ! ああっ?」
『うるさい、クルッポー』
「単なる痴話喧嘩です、アイスバーグさん。痴情のもつれです、セクハラですね」
「ンマー…仲が良いのはいいことだ。仕事に戻ってくれ。あー…パウリー」
 アイスバーグの一言で無罪放免になったので、早速ルッチはぶちぶちと縄を引き千切っている。自分だけさっさと解放されると、まだ拘束されているパウリーを見捨て、仕事場へ行く。それへぎゃあぎゃあと文句をぶちまけていたパウリーに、アイスバーグがちょいちょいと手招きをした。
「なんスか?」
 縄でぐるぐる巻きにされたまま、芋虫のように地面を這ってくるパウリーに、身を屈めたアイスバーグがこっそりと声を潜めて言う。
「…浮気はばれんようにこっそりとしろよ」
「してませんって! ルッチに聞かれたらどうしてくれるんですか! 殺されちまいますよ!」
『俺に聞かれると、不都合が?』
 ざっと地を蹴り顔のまん前に立った足を見上げると、背中に太陽を背負ったルッチが仁王立っている。ざぁっと血の気を引かせるパウリーの目の前で、ルッチが鋸を引き上げる。
「お、おい、ルッチ、お前、それで何をするつもりだ…」
『殺す』
 ぶんと振り下ろされた鋸を、パウリーは辛くも寸でのところで転がり避けた。ざくっと地面に刺さった鋸はすぐに引き上げられて、また次と振り下ろされる。それはアイスバーグの鼻先に風圧を与え、アイスバーグとパウリーの僅かな隙間に突き刺さった。
「ころっ、殺される!」
『死ね』
「ンマー…」
 しゃがみこんだままそれを眺めていたアイスバーグが、感心したように頷いた。ちょっぴり鼻先が赤いのは、決して鋸が掠ったからだとは誰しもが思いたくなかった。
「仲が良いのはいいことだな」
「はい、アイスバーグさん。仰る通りです」
「それじゃあ仕事をするか」
「では今日のスケジュールの確認から……」
 てきぱきとカリファがスケジュール帳を読み上げ、ふんふんとアイスバーグが相槌を打つ。そうしながら一番ドックの奥へ進む二人の背後で、何かがまた壊れ、倒れる音がした。
「勘違い! 勘違いだって、ルッチ! 俺にはお前だけだって! 愛してるんだってば、信じてくれよルッチ〜ッ!」
 半ば泣きの入っているパウリーの悲鳴を聞きながら、もともとの発端を作ってしまった木挽きの職人たちは、もくもくと己の仕事をこなしている。総じてみな、決して今後ルッチの前でパウリーの女絡みの話題を持ち出すまい、と固く心に誓っていた。


猟奇的な彼女的ルッチ、パウリーを溺愛すの巻。W7公認カップル。これだけ溺愛表現していてもまだ好きだとか愛しているだとかそう言う類の言葉を伝えないルッチ。一生伝えるつもりはない。パウリーは毎日カリファのスカート丈をハレンチと言っているが、それよりもルッチに愛を囁く方が多い。むしろそれが日常。愛=全幅の信頼を寄せ慕い守り自分のすべてを捧げてもいいことだと思っているパウリーと、五年前まで愛=手段ととしか思っていなかったルッチの差。今ではどう捉えているのかは謎だが、愛=手段だけなら一番ドックの扉は壊さないだろう。手段としてパウリーと肉体関係になったのなら、公認される状況には持っていくまい。こっそり会っていた方がスリルも背徳感も増すのでパウリーから情報を引き出すのには有利。それなのに公認。愛=手段から、愛=『何か』に変わった模様。ところでこれでもパウルチと主張してていいですか。へたれ攻め万歳。