Instigate Fruit.

 手酷いやり方でサンジに裏切られた。
 別に他の男と寝ていたとか、それは生来の物だから仕方がないがどこかの女と抱き合っていたとか、そんな下らないことではない。身体のことなら、きっと、所詮それは器だけのことだから、と無理矢理にでも自分をやり込める事ができただろう。
 サンジは、ゾロを嘲笑った。
 言葉を紡ぐことが、あまり得意ではないゾロが、彼に気持ちを伝えようと、必死になったその事実を笑ったのだ。
 何馬鹿なこと言ってんだよ。マリモの癖に、俺に何が言いたいって? ああ? 俺の気持ちが知りたい? 一度や二度寝たからって、俺の恋人気取りかよ。冗談じゃねぇ。あんなの船の上でのことだろ。せっまい船の中で、テメェとセックスしたのなんざ、自分でマスかいてんのと大して変わんねぇじゃねぇかよ。何履き違えてんだよ。俺がテメェを好きだとでも、一回だって言ったかよ。頭悪ィんじゃねぇの。気持ち悪ィ。
 ゾロは、サンジが好きではなかった。
 誘ったのはサンジの方で、それに乗ったのはゾロだ。言い訳なんかしない。確かにあの時のゾロは、サンジを綺麗だと思った。ランプの薄弱い光の中で、いいだろ、と前を開いて見せたサンジの、あの青い眼差しが、捕らえて動かなくしてしまったのだ。白い肌にほんのりと叩いた赤色が、視線を釘付けにした。蜘蛛の巣に引っかかった、虫のようだった。
 綺麗な身体が好きだった。
 笑うと、可愛いと思った。
 太陽を反射させる髪が、風に靡く様を、もっと近くで見たいと思った。
 ナミは、それを恋だと笑う。
 幼い恋ね、初恋じゃない、まるで、あんたあたしより年上なのに、可愛いわね。
 男同士だと言うことを気にしない女に、ゾロは肩の力を抜く。
 何度も肌を重ねた。抱き合い、口付けを交わし、太陽のような金色の髪を指先で梳いた。刀胼胝のできた掌を見て、硬ぇなぁ、と呑気に呟く様を間近で見た。けれどサンジは、一度としてゾロに好きとは言わなかった。
 知りたいと思ったのだ。
 どう思っているか。
 ちゃんと解っているけれど、言葉にして聞いてみたいと、思った。それだけだ。
 なのに返ってきたのは、ゾロが知らなかった、彼の本音だ。
 聞かなければ良かったと、ゾロは項垂れる。
 背中を蹴り上げるようなサンジの笑い声に追い出され、ゾロは誰もいないみかん畑にいた。一人になりたかったのだ。多分、この小さな船で、今一人になれる場所は、ここしかない。
 そう思ってきたと言うのに、コツコツと軽やかなヒールの音が、ゾロを苛む。みかん畑に続く階段を、上る二つの足音に、寝転がった顔をのそりと上げれば、あら、と黒い髪の女が笑った。
「珍しいのね、剣士さんがこんな所に…」
「失せろ」
 できうる限り、凄んで見せたゾロに、女達は揃って眉を上げた。
「…ご機嫌斜めのようね」
 軽やかに、けれど密やかに笑みを馳せるロビンの横で、なによ、とナミが腕を腰に当てる。
「随分なご挨拶じゃない。あんたこそどっかに行けば。これからあたし、みかんの手入れするの。あんたは邪魔よ」
「…うるせぇ。どっか行け」
 吐き出した言葉は弱々しく、土に落ちる。
 項垂れ、頭を抱えると、ロビンが首を傾げた。
「……元気がないのね。どうかしたの?」
「うるせぇ」
「だからそれがご挨拶だって言ってんのよ」
「……頼む」
 ゾロの口から吐き出される哀願の言葉に、女達の目は揃って丸くなった。ゾロは気付かず、頭を抱え込んだまま、動かない。
「…一人に、なりてぇんだ」
 けたたましい笑い声が、足元から聞こえてきた。びくりと身を震わせたゾロを見て、笑い声に怯える必要なんてあるの、とナミは眉を寄せる。みかん畑の下は、サンジのテリトリーのラウンジだ。さっきルフィが入って行った。ウソップだっていた。面白おかしい話をして、おやつの催促をしているんだろう。もう少し待てなんて言いながら、簡単に作れてすぐに摘める奴を、サンジは作ってやるに違いない。そんなサンジを煽て喜ばせるために、ウソップがまた嘘を言った。だから、サンジは笑い声を上げる。なのになぜ、ゾロが怯える?
「……一人にしてくれ」
「行きましょう、ナミちゃん」
 ロビンの冷たい手が、ナミの腕にかかった。剥き出しの肩がその冷たさに、ぞくりと粟立つが、ナミは構わずしっかりと両足で立った。
「何があったの」
 両手を拳に握り締め、仇のようにゾロを見つめるナミを、ロビンは驚いたような顔をする。長い睫を瞬かせ、ロビンはナミの顔から、ゾロの見えない顔を覆うような腕へと視線を動かした。
 ナミが、足を一歩踏み出した。
「くるな」
 ぴしりと拒む声に、ナミはひるまなかった。
「斬るぞ」
 脅しは本物だ。ゾロの口から発せられたのは、声だけでなく殺気もだ。けれどナミは、顔を強張らせてはいたけれど、足を止める事はしなかった。カツカツとヒールが板を踏みしめる。
「ナミちゃん」
 ロビンが眉を寄せ、ゾロに近付くナミを止めようとしたけれど、結局そうはしなかった。
 ゾロの前で、ナミは立ち止まった。
 ゆっくりと膝をつき、手を伸ばす。跳ね飛ばされるんだろうと覚悟しながら、緑色の頭を覆う手に触れると、ゾロはびくりと震えた。
「……何があったの」
「…………うるせぇ」
「何があったの。言いなさい」
 あらまぁ、とロビンは目を丸くする。真剣にゾロに向かうナミは、まるで母親のようだ。小さい身体で、この船を動かしてきた女は、懐すらも広かったわけだ。
 ゾロは、ナミを突き飛ばし拒まなかった。
「………あいつが」
「サンジ君?」
「…あいつが……気持ち悪ぃって」
「何を?」
「俺を、気持ち悪ぃって。セックスしたのは、性欲処理だって。馬鹿らしい。俺は、本気で…本気で、あいつを」
「……そうね」
 ナミは微笑み、緑色の短い髪を、白く細い指先で撫でた。
「あんた、サンジ君が好きだもんね」
「……なのに、あいつは、俺を気持ち悪ぃって」
「…ひどいわね。傷付いたんでしょう。あんた、サンジ君を純粋に思ってたから」
「………俺は」
「一人になりたい? 一人で泣きたい? それともあたしに、側にいてほしい? 構わないわよ。みかんの手入れなんていつだってできるから、今日はあんたに付き合ってあげる。なんだってしてあげるわ。いいのよ、甘えたって」
 可愛らしいこと、とロビンは微笑む。
 ゾロを抱きしめ囁くナミの必死な様子は、いっそ恋ではないかと思うほどだ。違う人間を思う男を、想う恋。けれど恐らく、ナミにそんな気持ちは微塵もないだろう。兄弟みたいなの、とナミは笑ってロビンに言った。ゾロは、兄弟みたいなの。あたし達、ルフィやサンジ君やウソップみたいに、つい最近まで誰かとずっと一緒に暮らしてたってわけじゃないもの。あたしは村を買うために、海に出たし、ゾロは剣豪になるために村を出た。あたし達、人を裏切ったり、裏切られたりしながら生きてきたの。だから、こんな風に明るい船は戸惑っちゃう。でも居心地いいのよ、離れられない。あたしとゾロは似た物同士なの。あんたもね。
「あたし、あんたを裏切ったサンジ君を許さないわ」
 ゾロを抱きしめながらナミが言う。
「あんたが、どんなにかサンジ君を想ってたか、あたし、知ってるもの。きっと許さない。こき使ってこき使って、使い殺してやるわ。毎日手間のかかる料理をリクエストして、夜中に叩き起こして夜食だって作ってもらうわ。どんなに美味しいデザートを出したって、満足した顔なんてしてあげないの」
 ナミの腕の中で、ゾロが笑う。
「…それじゃあお前、ただのガキだ」
 腕の拘束を解き、ナミはぺたんと床に座る。
「あら」
 目を丸くするナミの手が、ゾロの頬を撫でた。そこに伝っていた涙を拭い取る動きに、母親じゃなくて、あれは姉ね、とロビンは目を細める。
「それこそご挨拶ね。あたし、あんたのためを思って復讐してやってるのに」
「復讐か」
「復讐よ。ささやかなね」
「…それじゃあ私も、そうしようかしら」
 ロビンは微笑みながら、近付いて行った。ゾロの隣にすとんと腰を下ろすと、気まずそうにゾロは眉を寄せる。
「大切な剣士さんを傷付けてくれたんだもの。うんと虐めてやらなくちゃ」
「でしょ? ねぇゾロ。あんたはどうして欲しい? 今日はずっと側にいてあげるわ。サンジ君がおやつって言ったって、あたし達、行ってやらないの。呼びにきたって動かないわ。あんたがここにいるなら、あたし達もここにいるわ」
「両手に花って奴だな」
「そうよ。コックさんはきっと悔しがるでしょうね」
 甘えるようにロビンがゾロの肩に頭を持たせかければ、ナミはゾロの頬から手を離し、立てた膝の上にあった逞しい手にそっと細い手を重ねる。
「歯軋りするサンジ君の顔が、目に浮かぶわ。あんた、とっても幸せ者よ。こんな美人二人に好かれてるんだもの」
「……そうだな」
「そうよ。ありがたく思いなさい。そうだ、ねぇ、ゾロ。どうせだったら一緒にみかんの手入れをしない? あんた背が高いから、高いところのみかんにも手が届くでしょ? 手伝ってよ。ずっと側にいてあげる。今日は離れないわ。だから手伝って」
「どんな理屈だよそりゃあ」
「あたしが決めたの。さぁ早く」
 ナミは敏捷に立ち上がり、明るい笑顔を浮かべながらゾロの手を引っ張る。促され、立ち上がるゾロの背を、ロビンが押した。
「案外気を使うのよ、みかんの手入れ」
「あんたもするのか」
 目を丸くするゾロの目は、少し赤い。それを笑いながら、ロビンは、ええそう、とナミが掴んで離さないゾロの左手に目をやり、空いていた右手を捉えた。ぎゅっと握ると、戸惑う目がロビンを見る。
「何かを育てるなんて、初めてよ。楽しくて仕方がないの」
「あとで三人でみかんを食べましょ。熟れてるのが丁度あるわ。他の誰も、仲間に入れて上げないの」
 数歩の距離を手を繋いで歩いた。ほらあれよ、と指をで示すのはナミでは届かないみかんだ。ゾロがナミの手を離しそれをもげば、ロビンが、その横のも美味しそうねとゾロの右手を離す。
「剣士さん、みかんの花を見た事がある? とても白いんですって。小さくて、可憐で」
「あんたみたいなの」
 ナミが笑った。
「結構強いの、みかんの花は。潮にも強いし、風にも強い。雨にだって負けない。どんどん綺麗に花を咲かせて真っ白で、青い空に映えて。気付けばいつの間にかぽとりと落ちて、みかんの実をならしてる。ねぇゾロ、あたし、あんたが大好きよ。あんたのこと、兄弟みたいに思ってるわ。知ってるでしょ?」
「ああ」
「だったら、ねぇ、早く手伝って。水をやって。草を毟るの。虫も取らなくちゃ。それが終わったら、ここで海図を書くわ。手伝ってくれるでしょ? 紙を押さえてて欲しいの。インクも足してほしいわ。定規を押さえて、ログポースを見てて。あんた、やる事たくさんあるのよ。ねぇ今、サンジ君のこと忘れたでしょ? ずっと忘れてなさい。あたし達が忘れさせてあげるわ」
「本の整理もしたいわね」
 ロビンは微笑みナミを見つめた。
「ベッドの位置も変えて、模様替えをしましょうか。船室も随分空気が淀んでいるから、大掃除なんてどうかしら。男手が必要ね」
「ああはいはい」
 ゾロは苦笑いをして、がしがしと頭を掻いた。
「いくらでも手伝ってやるぜ」
 溜息混じりに、面倒臭そうな顔を装っているけれど、照れ隠しなのがすぐに解る。
「小うるせぇ兄弟のためだからな」
「そうこなくちゃ」
 ナミが嬉しそうに笑う。
「助かるわ」
 ロビンが静かに微笑む。
 けたたましい笑い声が、足元から聞こえてきたが、ゾロは揺るぐことのない目で、みかんの木を見つめていた。腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。
「まずは…虫取りか?」
 そうね、とロビンは微笑んだ。
 ごきりと首を鳴らす男を見て、ナミが微笑んだ。
「それから、部屋の掃除もしなくちゃね」
 ゾロは腰に手をあて、溜息を吐く。
「やれやれ……今日は忙しいな」
「今日だけじゃないわよ、明日も、あさってもよ。覚悟しなさい、ゾロ。あたし達、あんたを逃したりしないから」
 くるりと指を動かす女が、さぁ早く、あそこのみかんをもいで、とせっついてくる。
 ゾロは歩き出す。
 不思議と、暗く淀んでいた心が、爽快な風に浚われ、清涼な水に洗われたかのようだった。
 ナミが笑い、ロビンが微笑む。
 ゾロは、ゾロも、笑っていた。