■ ひとつのくもり ■


 造船所の休日は不定期だ。
 仕事の依頼が舞い込めば、区切りが付くまでは手を止められず、また止めるつもりもない輩ばかりが集まっているので、ガレーラはいつも何がしかの音が響き渡っている。
 ルッチは、たまの休日をウォーターセブンの街中を歩くことに費やしていた。
 ブルに乗って水路を移動するのではなく、己の足で歩くのだ。
 それなりに有名になってしまった職長であるから、人気の多い道を歩くと必ず声をかけられる。若い女であったり、小さな子供であったり、年寄りであったりと色々だが、ルッチはそれに素っ気なく、だが、おざなりにならない程度に答える。小さな子供は鳩を手に乗せたがり、若い女はルッチの次の休みを知りたがった。年寄りはルッチの大きな手を見ては感動しきりと昔の話をしようとする。
 それらの相手をするのは、多少面倒ではあったが、嫌な気持ちではなかった。
 過去にそう言う経験がまったくないからだ。
 戸惑う気持ちも多々あるが、かと言って順応しきれないと言うほどでもない。同じ環境に育ったブルーノが酒場の店主をしているように、そして元来人付き合いの苦手なルッチがこうして人の話を聞いているように、誰であろうとこの町には溶け込める。
 仮の場だとても、ルッチはウォーターセブンが嫌いではなかった。決して好きではないが、嫌いではなかった。
 人の中を抜け、裏道を通り、ルッチは歩く。
 やがて、整然とした水路に面した言わば大通りではなく、ごみごみと込み合い、建物が折り重なるように建てられ、誰かの家の廊下が誰かの家への近道であるような場末の匂いのする場所へ辿り着く。入り組んだ通路は、水路を渡ったり、または建物の中を通り抜けたりしなければならず、迷い込んだ者には優しくないつくりになっていた。
 そこをルッチは迷う素振りもなく、しっかりとした足取りで歩く。肩に止まるハットリは、これからルッチがどこへ向かうのかを知っているようで、クルルと喉を鳴らしただけで、取り立てて騒がしくはしなかった。
 いくつかの建物をやり過ごし、水路にかかる壊れかけた橋を渡ると、他よりはずいぶんましな建物があった。
 概観は大通りに面しているそれらと遜色ないほどに美しく、いくつかの窓辺には美しい色の花の鉢が並んでいた。
 上から数えて二段目の、左から一つ目の窓。
 ルッチが見上げるそこに花はなく、水路を挟んだ向かい側のビルとの間に一本のロープが結ばれ、何枚ものシャツが並んでいる。ダーツの的のような柄の、どれもこれもが同じシャツだ。よくもまぁあんなに同じシャツを買い込んだものだと、思わず笑みを浮かべずにはいられない。
 上から数えて二段目の、左から一つ目の窓のある部屋に住むのは、ガレーラの一番ドックの職長のうちの一人、パウリーだ。今日は一番ドック全体が休みだったので、おそらくは部屋にいるか、もしくは飲みに出かけているだろう。借金取りに追いかけられていないとも限らないが、ここまでくる道のりの中で、借金取りにルッチが声をかけられなかったので、どうやら今日は催促にはあっていないようだ。
 ルッチは、時折こうしてパウリーの部屋を見上げた。
 部屋を訪ねるわけでもなく、何かをしかけるわけでもない。
 周りの気配に十分に気を使い、誰にも気付かれていないことを確認してから、そっと見上げる。
 そうして、窓の中にいる人の気配を探るのだ。
 今日もまだ、あれは生きていると確認する。
 ずいぶん前にカリファが言った一言が、ルッチを柄にもなく臆病にしていた。
 何の偶然だったかはもう忘れたが、カリファがアイスバーグのシャツの取れたボタンを縫い直しているところにかちあった。
 丁寧な手つきで、しっかりと一針一針糸を通すカリファの姿に、思わずルッチは目を細めていた。他に誰もおらず、ハットリに働いてもらう必要もなかったので、ルッチはその日、実に何ヶ月かぶりに己の声を発したのだった。
「そうしていると、まるでお前がアイスバーグに入れあげているようだな」
 はっと顔を上げたカリファの、薄く染まった頬の色に、ルッチは驚いた。
 まるで図星を当てられたかのように慌て、馬鹿を言わないで、とせわしない手で眼鏡をずりあげる。そのくせ、膝の上に置いたシャツを床に叩きつけたりはしなかった。
「……本気か、カリファ」
 唇を噛み締め、俯くカリファに瞠目すると、あなたこそ、と強張った声が、ルッチを見ずに切り返した。
「あなたこそ、ずいぶんとパウリーに入れ込んでいるようだけれど」
「誰よりもアイスバーグに信頼されている男だ。取り入って損はないだろう」
「ではあなたは、その時がきて、パウリーを迷いなく殺せるのね?」
 整ったカリファの顔が、苦痛にか歪む。ルッチは眇めた目で見下ろし、もちろんだ、と頷いた。
 何度か迷ったようだったが、結局カリファは口にした。
 開いたり閉じたりしていた唇に、うっすらとかみ締めた歯でできた傷があった。
「……カクとブルーノが話しているのを聞いたの。あなたが、パウリーに本気になっているのだとしたら、早めに彼を、始末しなければならないって。あなたの逡巡が一瞬の判断ミスに繋がるのではないかと」
「ふん、余計な心配を……」
「でも私も心配だわ。パウリーと一緒にいるとあなた、とても寛いだ様子だから、心配だわ」
「俺の心配をする前に、自分の心配をしたらどうだ、カリファ。アイスバーグは所詮、我々の標的に過ぎない」
「パウリーもそうよ」
 カリファは話しながらも、ボタンの縫い付けを再開した。一針一針、カリファの人となりを表すかのように丁寧に針が生地とボタンとを縫いとめていく。
「パウリーも標的に過ぎない」
「…だからこうして、俺が取り入っている」
「本気で彼を思っているくせに」
 鋭く乾いた音がして、カリファの針を持つ手が止まった。決して優しくはない手で叩かれたカリファの頬が見る見るうちに赤くなる。ルッチは知らず動いた左手をぐっと握り締めた。
「……図星ね」
 普通の女なら、泣いたり喚いたり、ぽかんと阿呆のように口を開けたりするだろうに、そうされてもまだ、カリファは冷静に呟いた。哀れみを帯びた目でルッチを見上げ、はかないような微笑を浮かべる。
「もし、あなたが本当に彼を大事に思っているのなら」
 カリファは腫れ始めた頬に頓着せずに、止まっていた針を動かす手を持ち上げた。
「彼に深入りしないことだわ、ルッチ。あなたのささやかな愛情が、彼を傷つける……。馬鹿馬鹿しくも皮肉だわ。私たちは、誰かのために動くけれど、私たち自身のためには心ひとつ動かしてはならないだなんて。気持ちを、誰が止められるというの」
「自分で止めろ、カリファ。任務上、あれを殺さなければならないのだとしたら、己の手でしとめろ」
 あれは、アイスバーグでありパウリーだった。
 カリファの手の中でひとつのボタンが質の良いシルク地に縫い付けられていく。その静かな作業が終わるまで、ルッチはカリファの側にいて手元を見つめていた。何を言うでもないルッチを、カリファは愚かな恋に身を投じている自分を、もしかしたら見張るためにいるのかもしれないと思っただろう。しかしルッチはそうではなく、ただなんとなく、それを見届けなければならないような気がしたのだ。
 何かを残すことのできるカリファと、何も残すことのできない自分との差を、改めて思い知りたかったのかもしれない。
 それ以来、僅かな不安を抱けばルッチは、こうして裏路地へ足を踏み入れていた。
 カクやブルーノが本気になれば、自分を出し抜きパウリーを手にかけることなどたやすくやってのけるだろう。そうなった後で彼らを責めることはできない。それなら、最初から見届けたかった。
 立ち尽くすルッチの肩から、羽根を広げたハットリが羽ばたき青い空へ舞い上がる。パウリーの部屋の窓から続く洗濯物の間をするりと抜け、まるでそれを楽しむかのように降下したり上昇したりする。ああ、そんな事をすればパウリーに見つかってしまう、とルッチが顔を顰めた時、がらりと窓が開いた。
「やっぱりハットリじゃねぇか!」
 洗濯物の上に羽根を休める白い鳩を、部屋の窓から顔を出したパウリーが手招く。髪はぼさぼさでシャツは皺だらけでだらしない。起きたばかりだというのが一目で解る。
「なんだ、今日はルッチの野郎と一緒じゃねぇのか?」
 クルクルと喉を鳴らすハットリが物陰に潜むルッチをちらりと見た。ルッチが動かないのを知ると、ハットリは差し伸べられたパウリーの手に飛び移った。
「どうせあの野郎のことだから、まだ寝てんだろ。おい、ハットリ、飯食ったか? 俺ァこれから朝飯なんだ。お前、ちょっと付き合え」
 窓を開けたまま、パウリーは部屋の中へ引っ込んだ。ハットリも一緒に消えて言ったので、おそらくはパウリーの朝食のおこぼれに預かっているのだろう。何度か訪れたことのある雑然としたパウリーの部屋の様子を思い出し、ルッチは背を向けた。
 背中で、開け放たれた窓から聞こえるハットリの鳴き声と、パウリーの笑い声がかすかに響く。ルッチはそれを聞きながら、来た道を戻り始めた。おそらくは朝食を取ったあと、パウリーがハットリを連れ、家にやってくるだろうから、それまでに戻っていなければならなかったのだ。
 大通りに出ると、珍しくハットリを連れず歩くルッチに子供たちがわらわらと寄ってくる。鳩はどうしたの、と尋ねる子供にルッチは答えず少し微笑んだ。
 それは『仲間』の誰も目にしたことのない、優しい微笑みだった。
 
 乙女系ルッチ…! ありえなさに書き終えた後に愕然とした私。初パウルチで勝手が掴めなかったのも一因かと思うのですが、非常に敗北気分です。むしろもういっそ敗北宣言。次こそ必ずや雄々しいパウルチを! デンジャラスビューティーかつロンリーウルフなルッティを! パウルチとは銘打ってはいますが、パウルチパウで、リバありで!! 唐突ですが本誌のルッティが非常に未練たらったらに思えて仕方がない。パウリーはまるで亭主関白ぶりが過ぎて嫁に逃げられた駄目親父みたいだ。「里帰り」ってあんた…よりにもよって「里帰り」!!! 「こんな思いをするのは云々」!!! 愛しすぎるわパウリー! 愛しき駄目親父だわ! 嫁がいないとパンツの場所も解らないのよ! 駄目親父がもっと駄目になる前に早く帰ってきてルッティ〜っ!