First Love
 バロックワークスとの戦いを終え、二日が経った。
 クロコダイルから毒を貰ったルフィは、一応解毒薬を飲まされたものの、まだ熱が引かず、チョッパーとビビが交代で寝ずの看病を続けている。
サンジは王宮の厨房へ案内してもらい、様々な調味料や調理器具、食材や調理法に目を輝かし、忙しく手を動かしてメモを取っている。これはどう言う風に使えるんだ、と果物を指差して王宮お抱えのコック達からうまい使い方や、悪い食い合わせなんかを学んでいた。
 ナミは、ネフェルタリ・コブラの後をくっついてまわり、国の歴史や成り立ち、大図書館に眠っている蔵書の数々に埋没している。復興に忙殺されるはずのコブラも、どうやら小さな知識人の相手は楽しいらしく、いくらイガラムが呼びこようが、いや後で、の一点張りだ。朝から晩まで大図書館に篭っているので、政務が成り立たないとイガラムがぼやいていた。
 ウソップはいくらでも手が足りないだろうと言って、王宮の修復作業の参加している。朝から晩までトンカチを握り、それはもう見事に壊れた壁を直してくれるものだから、王宮に呼び出された大工達が喜んでいた。
 そしてゾロは、いくらチョッパーに諌められようとも、ひとり鍛錬に励んでいる。王宮の天辺に登って迷走してみたり、はたまたはウソップが死闘を繰り広げた遺跡の辺りで汗を流してみたりと、船にいるのと変わらない生活を送っている。まだ抉られた傷は痛むはずなのに、涼しい顔で王宮の廊下を闊歩し、迷子になり、通りかかった兵士または女官に連れられ皆が寝泊りしている部屋まで連れてきてもらっている。
 降り続いた雨は、二日目の朝には止んでいた。
 強い日差しが沙漠を乾かし、また元のさらさらとした大地に、そして乾燥した空気に戻っている。
 昼の暑さが嘘のように涼しい夜、喉の渇きを覚えて起き上がったゾロは、部屋の隅に置いてある水差しから直に水を飲み、ふとバルコニーにいるビビに気付いた。長い髪を下ろし、アラバスタの民族衣装を着ている。今日はどこかの町に挨拶に行くとかで、午後から姿を見かけなかった。
「帰ってたのか」
 バルコニーに通じるガラス戸を、ぎいと押し当てると、弱い風に髪を揺らしていたビビが、ハッと振り返った。思わず身構えてしまうのは、長い間、バロックワークス社の中に潜伏していたせいだろう。この王女は、普通なら負わなくていい苦労を負ってしまった。けれど、いつか、それがこの国を治める時の役に立つ。イガラムが、ふと漏らしていた言葉を思い出し、ゾロは王女の隣に立つ。
「今日は、どっか行ってたんだろ」
「ミスターブシドー」
 ほっと息を吐き出したビビは、少し微笑んだ。
「ええ、そう。覚えてる? 砂族のほら、砂を走る大きな船を持った部族」
「ああ。変なパラソル頭に生やしてるおっさんと…変な女がいたな」
 重厚な手摺に身体を預けると、そう、とビビは目を細め、月が浮かぶ沙漠の空に目をやった。
「内乱は終わりましたって、挨拶に行ってきたの。それから、協力してもらえるようにって」
「協力?」
「だって、あの人たちの船、とても大きいでしょ? 沙漠を移動するのに、あの大きな船はとっても貴重。たくさん資材が運べるから」
「ああ…そりゃそうだな…。で、どうだった?」
「勿論喜んで、ですって。あなた達がまた遊びにきてくれないかって、待ってるみたい。どうせなら、あなた達を連れて行けば良かった…」
 ルフィが目覚めれば、また海に出るであろう海賊達を前に、ビビはそこはかとない淋しさを常に感じているようだった。グランドラインの海のどこに、アラバスタ王国を飛び出していく海賊がいるのか解らない。幾多の困難が、小さな海賊船を待っている。再び、無事に見えることができるのかどうかも、解らない。終の別れと言ってもいいような別離が、もうすぐそこにあるのだと、ビビは解っているようだった。
 ぎゅっと寒そうに剥き出しの腕を自分で抱きしめ、ビビは目を細める。そして、ハッと目を大きく見開いた。ぱっと水色の髪が飛び跳ね、笑顔がゾロを見る。
「そうだわ、ミスターブシドー! 少し、出かけない?」
「出かける? どこへ?」
「どこだっていいわ。砂舟があるの!」
「…砂舟……?」
 顎に手を当てるゾロは、暫く考えた後、頭にパラソルを生やしていた大男達の顔と、彼らがもっていた小さな船を思い出した。ヨットのようなそれは、風を利用して沙漠を走る。ルフィとビビが乗って資材を取りに行った。
「…ああ、あれか」
「ええ、そう! 今日貰ったのよ、新しいのを友好の印に。それで今日は帰ってきたの。ミスターブシドーを乗せたいんだけど、いいかしら?」
 身体の後ろで手を組み、にこにこと笑っている王女の笑顔を、壊せるわけがなかった。ゾロは軽く肩を竦め、いいぜ、と頷く。
「俺も一度、乗ってみたいと思ってた」
「良かった! じゃあ王宮の前で…」
 待ってて、と言おうとしたビビは、ゾロの迷子壁を思い出したらしい。ぴたりと口を閉じ、にこりと笑う。
「一緒に行きましょう。ミスターブシドー。迷子になられたら、探すのが大変だもの」
 さぁ早く、とビビはゾロの手を取った。
 無骨で大きな手を、彼女はぎゅっと握り締める。皆が寝静まっている部屋を抜け、廊下を進み、ゾロがもうどこを通ったら元の部屋へ戻れるか解らなくなった頃、彼らは王宮の裏口へ到達していた。広い庭を過ぎ、アルバーナを載せている断崖に這うように作られた階段を降りる。吹き付ける砂風から守るように、断崖の下に掘られた小さな穴に、砂舟は置かれていた。王宮の所有物である事を示す紋章が、その砂舟の舳先に焼き押されている。
 それをずりずりと引っ張り出すビビを手伝い、ゾロはちらりと王女の楽しげな表情を窺った。皆を心配させまいと作ったものではない、心底から楽しげなものだ。航海の最中はよくこれをみた。だが、アラバスタ王国に上陸してからは、あまり見られなくなってしまった笑顔だ。
「さ、乗って、ミスターブシドー! うんと飛ばしたい気分なの!」
「おい、飛ばすってどこへ行く気なんだ」
「船を見に行きましょうよ。ゴーイングメリー号を」
「お前、メリー号は対岸に…」
「あら、こちら側からだって、ちゃんと見えるのよ。さっ、早く!」
 ゾロが片足を突っ込むや否や、ビビはパンと帆を張った。吹き付ける風をうまく掴まえる帆は大きく膨らみ、砂舟を飛ぶように前進させる。
 危うく船から落ちかけるゾロが、慌てて縁に掴まると、気を付けて、とビビが笑う。
「この船、結構スピード出るのよ!」
「てゆーか、ちゃんと乗ったか確認してから帆を張れッ! 落ちかけたッ!」
「落ちたら置いてっちゃうわよ! 戻ってこれる? ミスターブシドー!」
「テメェが拾いに戻ってこいよ!」
「あはははっ、じゃあ落ちた場所から動かないでね! ミスターブシドーったら、すぐどこかに行っちゃいそうなんだもの!」
 ごうごうとうねる風で、言葉がよく聞き取れない。張り上げる声に、喉が少し痛んだが、ビビは構わずに怒鳴るように言った。
「あなたのこと、きっとずっと忘れないわ!」
 帆を動かすロープを巧みに操り、ビビは決して進行方向から顔を逸らさない。水色の髪が夜風にたなびくのを見ながら、ゾロは眉を寄せた。
「お前、ここに残るつもりなのか…」
「ここは私の生まれた土地なの! 私が育った土地! あなたに見せたかったの、ミスターブシドー!」
 空を覆っていた雲が、徐々に徐々に晴れて行く。所々しか垣間見えなかった星が、静かな沙漠を照らし始めた。月と星とが浮かぶ中、砂の海を走る船を、ビビは操る。
「見て、すごいでしょう! 本当の海みたいでしょう!」
 さらりと流れた髪と一緒に、船尾に座っているゾロの頬に、雫が落ちた。晴れた空から雨が降ってくるわけもなく、ゾロはそれをただ拭い、じっとビビが示す地平線まで続いていそうな沙漠を見た。
「海のように流れがあって、海のように嵐もあるの! 私は、ここで生きて行くの!」
 大きな山に差しかかった。船が頂まで登り詰め、大きく風を孕んだ帆が鳴いた。船が浮き、うわ、とゾロが慌てるよりも先に、船は沙漠の上をまた走る。
 船はとても早いスピードで沙漠を走った。時折舞い上がる砂塵が、頬を擦り腕を叩くが、決して不快なものではない。ゾロはゆったりと腰を下ろし、月に照らされた沙漠を見た。
「酒でも持ってこりゃあ良かったなぁ…」
 いい景色だ。
 微笑むゾロをちらりと振り返り、ビビは微笑む。
「帰ったら、用意するわ」
「いや…船に多少積んであるはずだ。ちょっとくらいパチっても構わねぇだろ」
「ふふふ、ミスターブシドーったら…また、サンジさんに怒られるわよ」
「その時はその時だ」
 砂丘を下り、また砂丘を登り、平坦の場所をビビは的確に見つけ走って行く。生まれた土地をこよなく愛する王女は、沙漠にも愛されているらしい。流砂もなく、砂に隠された岩盤に道を遮られることもなく、二人を乗せた砂舟は、サンドラ河の河口に辿りついた。
「早ェな」
「だってカルーよりも早いのよ、砂舟!」
「おい、ビビ! このままだと河に突っ込むぞ!」
 河に向けて進路を変えない王女に焦ったゾロが立ち上がりかけるが、大丈夫、とビビは頷いた。
「砂舟は、船なのよ、ミスターブシドー! 河だって、へっちゃら!」
「へぇ…そりゃすげぇな……うちにも一台欲しいくらいだ」
「ナミさんならきっとすぐに操り方、覚えるわ。何ならこれ、譲りましょうか」
「いや、これはお前が持ってろよ。お前に贈られたもんだしな。それにこの先、沙漠の国があるかどうかも解らねぇ」
「…そうね。それもそうだわ…。河に入るわ!」
 船は飛び上がるように沙漠から、サンドラ河の中へと着水した。沸きあがる飛沫が服を濡らし、顔を濡らす。冷たい雫に、ゾロは頭を振るった。
 船は、大きな河の中央を進んだ。風を掴まえて走るのは、海賊船と変わらない。
やがて麦わらの髑髏マークが描かれた愛すべき船が、見えてくる。
「早ェもんだな…。あんなに苦労したってのに…もう着いちまった」
「言ったでしょう。カルーより早いんだって」
 ビビは笑いながら、船を岸につけた。ゾロが船を陸に引っ張り上げれば、河の流れに流されてしまう事を心配しなくて済む。水が決してかからない場所に船を運び、どすんと置いた振動に気付いたのか、クンフージュゴン達が顔を出した。クォッ、と鳴くクンフージュゴン達に周りを囲まれながら、船へ戻れば、ビビは懐かしそうな顔をして甲板を見渡した。
「…なんだか不思議。ほんの少し、船を離れていただけなのに、もう何年も離れていたみたい」
「酒、探してくる」
 マストを見上げている王女を残し、ゾロは階段を上がった。ラウンジに回りこみ、その酒は調理用だ、こっちはレディ達用のリキュールだ、テメェの日本酒はあっちだ、触るな馬鹿、とうるさいコックのいないワインセラーから、勝手に酒を引き抜いた。アラバスタのひとつ前に物資補給のために寄った島で見つけた芋焼酎を引っ張り出す。コックの食費から落としてもらおうと思ったのだが、余計な金は使わないというので、一計を案じたゾロが、ナミに芋焼酎あるぞと申告し、まんまと手に入れたのだ。欲しいわぁ芋焼酎、度数の割には飲みやすいのよねぇ、やっぱり和食には焼酎って感じがするし、ああ船で焼酎が飲めたらどんなにいいかしらん。身をくねらせるコックは喜び勇んで芋焼酎を買いに市場に舞い戻った。焼酎は一人二本ずつとナミと取り決めていた。島を出手すぐにゾロは二本飲みきってしまったので、残っている一本は、ナミのストックだ。だが、とゾロはそれを引き抜いた。
 ビビと飲んだと言えば、情に厚いあの女は許してくれるだろう。
 グラスを持ち、ラウンジのドアを蹴り開け、甲板へ行くと、ビビの姿が見えない。どこに行きやがった、と辺りを見渡していると、こっちよ、とビビの声が空から降る。
「そっちに行くわ。外は寒いから、ラウンジで飲みましょうよ」
「どうせなら、そこのみかん、いくつかもいできてくれ」
「ナミさんに怒られちゃうわ」
「構わねぇ」
 ゾロはラウンジに戻り、白いテーブルクロスの上にグラスを置く。すぐにやってきたビビの腕の中には、?いだばかりの熟れたみかんが抱えられていた。
「あら、芋焼酎?」
「ああ。お前、これ好きだろう」
「ええ、大好き。焼酎って海に出てから初めて飲んだのだけれども、案外飲みやすくてびっくりしたわ。サンジさんが言っていたけど、お蕎麦で作った焼酎もあるんですってね」
「ああ。俺の生まれた地方じゃあったな」
「一度飲んでみたいわ」
「見つけたら、送ってやるよ」
 ゾロがこぽこぽと音を立てて、何の変哲もないグラスに焼酎を注いでいると、ビビは目を丸くしたまま固まっていた。
「…どうした」
 ほら、とグラスを差し出せば、あ、ありがとう、とビビは慌ててそれを受け取る。ゾロの斜め向かいに腰を下ろし、ビビは微笑んだ。
「……あなたが、大剣豪になったなら、その名声は、アラバスタにまで届くかしら」
「…届くだろうさ。テメェの国は、なんとかって会議にも出てんだろ。だったら、届くさ」
「そうね…ルフィさんが海賊王になっても、きっとその噂は聞こえてくるわ。ナミさんが、世界地図を完成させても…きっと」
 がぷりと酒を飲むゾロに、ビビは笑いかける。
「不思議ね。この船にいるのに、こんなに静かなのって、初めて」
「いつも誰かは騒いでるからな」
「この船に乗っていた数ヶ月…本当に短かったわ。あっと言う間だった」
 舐める程度に焼酎を舌に乗せ、ビビは微笑んだ。ラウンジの壁にかけられたウソップ作の絵、同じく食器をしまうために取り付けられたウソップ作の棚。元の棚がルフィの乱暴で壊れてしまったので、余った資材を使ってウソップが作ったのだ。ビビも手伝った。色を塗って…、ウソップともめたことがあった。可愛らしいピンク色がいいと言ったビビに、オイオイここは海賊船だぜ、ピンクってのはなしだろう、とウソップが反論したのだ。じゃあ何色にするのよ、とビビが頬を膨らませると、んんー、とウソップは腕を組んで考える。ほら御覧なさい、考え付かないじゃないの、ピンクに決まり! 笑ってペンキの蓋を開けるビビに、待て待てまだ考えている、とウソップが食い下がる。すったもんだの末、戸棚は何も色を塗らず、ただウソップが模様を書いただけに留まった。つまんないの、と頬を膨らませたビビに、ウソップはまだペンキを塗るところはたっぷりある、と手摺を指差す。嵐や乱闘に手摺の色ははげかけていた。いい天気だからついでに塗っちまおう、と白いペンキを持ち出したウソップとビビ、ウソップに腹を蹴られて置きだしてきたゾロとで手摺のペンキを塗り直した。
 ベンチだって何度作りなおしたか解らない。その度にビビはウソップの助手として、チョッパーが仲間に加わってからはチョッパーも助手として、トンカチを手にしたものだ。
「……懐かしいわ」
 何に対しての言葉なのか解らないが、ゾロは黙ってグラスを傾けた。
「…ずっとこの船に乗っていたい」
「そうすればいいだろう」
 間髪入れず返った言葉に、ビビは目を見張り、だがすぐに微笑む。
「…私は、この国の王女だもの。父の跡を継ぐのは、私しかいないもの」
「期間を決めて、また戻ってこれば…」
「ミスターブシドー」
 一時でも、一緒に航海をすればいい、とそう言おうとしたゾロの言葉を、ビビは遮った。
「またこの船に乗れば、帰れなくなっちゃう。離れられなくなっちゃうわ」
 ビビは、グラスを両手で握りしめて微笑んでいた。
「ありがとう、ミスターブシドー。今日、ここにこれて、良かった」
「……残るのか」
 ほんの少ししか減っていないビビのグラスに酒を注ぎ、ゾロは問う。
 静かで、明かりすらつけていないラウンジに、その声は良く響いた。時折波の音が聞こえ、外からはクンフージュゴンの掛け声が小さく聞こえてくる。
 ビビは目を伏せた。
「………ここは、私の国だもの。この船から離れたくないと思うのと同じくらいに、この国とも離れたくないの」
「…そうか」
「あら、引き止めてくれないの?」
「引き止めて留まるような女じゃねぇだろ、お前はよ」
「あははっ、正解」
 はぁとビビは溜息を吐いた。また一口、酒を飲み、微笑んでキッチンを見る。磨き上げられたシンクには、いつも煙草を吸っているコックがもたれていた。
「…この地で生まれ、この地で育って…これからもきっと過ごして行くんだわ…。誰かと恋に落ちて結婚して、子供を生んで、子供を育てて。子供の面倒も見なくちゃいけないけど、国の面倒も見なくちゃいけないわ。また内乱が起こったら、私、切れちゃうかも。先頭切って反乱軍に殴り込みかけちゃいそうね。案外また、あの人が反乱軍のリーダーやってるかも。ねぇミスターブシドー。大剣豪になったら、アラバスタにきてくれないかしら。ペルやチャカみたいに、この国を守ってくれないかしら」
 冗談の切れ端のように呟くビビに、ゾロは目を伏せた。
「無理だな」
「そうよね。ミスターブシドーってば、あの王宮で迷っちゃうもんね。いざって時に迷子になってる剣士なんて、役に立たないかも」
「お前、ナミに似てきたなぁ…嫌な性格」
「あらっ、ありがと! 褒め言葉として受けとっておくわ!」
 ナミの口調を真似るビビに、ゾロはぷっと吹き出した。げらげらと笑っていると、澄ました顔を装っていたビビもけらけらと笑い出す。
「あーおかしい……」
 滲んだ涙を拭いながら、ビビは言った。
「あなたが好きだったわ、ミスターブシドー」
 ゾロの手が、焼酎の瓶を持ち上げ、グラスに注ぐ。カツンとグラスと瓶とが触れ合う音がして、こぽこぽと液体が注がれる音が響いた。その仕草を眺めながら、ビビは笑いながら言う。
「ウィスキーピークで守ってくれた。リトルガーデンでは自分の足を切り落とすだなんて無茶をしかけて、それから、ドラムでは寒中水泳なんて馬鹿な事を」
「…お前、馬鹿にしてんのか、それとも昔を懐かしんでんのかどっちだよ」
「でもね、ミスターブシドー。あなたと会えて本当に良かった。あなたから学んだこと、たくさんあるの。リトルガーデンで、生き抜くって事が、勝ち抜くって事がどれだけ大変か解ったし、諦めないって事も理解したつもり。あなた達は、私の先生みたいだわ」
「随分出来の悪い先生だな」
「……あなたと…あなた達と、同じ船に乗れて、同じお酒が飲めて、すごく幸せ。私、あなた達が大好きよ」
 ぽろぽろと零れる涙を、まるで誤魔化すようにビビは笑う。民族衣装の肩に落ちた水色の髪を払い、ビビはぐいとコップを煽った。まるで自棄酒のようだ。そう思いながら、ゾロは静かにそのグラスに酒を注いだ。
「約束してね、ミスターブシドー」
 グラスを満たす透明な液体を見つめながら、ビビが言う。
「…私を、忘れないで……」
 半分ほどまでグラスが満たされた時、ゾロはその手を切り上げた。
 白いテーブルクロスに瓶を置き、ゾロは持ち上げた自分のコップを、ビビが握り締めているそれにカツンとぶつける。澄んだいい音が、ラウンジに響いた。
「…忘れねぇよ」
「約束よ…」
「ああ」
 微笑むビビの唇が、ありがとう、と形作る。
 それを眺め、ゾロは酒を飲んだ。
 動乱が鎮まり、抉れた傷を癒し始めたアラバスタの土地に、風が走る。
 今は人気のないゴーイングメリー号が、再び船員達の元気な命で活気付く時、その時に、ビビはもう、この船にはいないのだろう。
 ビビを積み忘れたまま、ゴーイングメリー号は海へ出る。二度と、会えぬかもしれぬ航路に、ゴーイングメリー号は乗り出していく。
 見送るビビを、見送るアラバスタ王国を、この船はきっと忘れないだろう。
 そしてこの夜に、淋しげに微笑んだ王女の涙を、ゾロは決して忘れられないだろう。
 その夜、明け方近くまで、二人はラウンジで酒を飲みながら、静かに語り合った。過去のこと、これからのこと、互いのこと、クルーのこと、様々な話をした。数ヶ月と言う長い間、共にいたにも関わらず、知らないことはたくさんあった。それを補うように話し、日が昇る前に、彼らはゴーイングメリー号を降り、再び砂舟に乗り込む。
 サンドラ河を登りながら、頭を出した朝日に照らされるゴーイングメリー号を振り返ったビビの顔は、一生忘れられそうにない。
 差し込む朝日に目を伏せ、ゾロはそう思った。
***for Shiki Shinobiya***