Dance with me.
 それは、アッパーヤードの戦いから無事とは言えぬ形で生還し、各々の傷を船医ではない医者に癒された後の、そのまたいくばくか後のことだった。
 小型トナカイは焦げた毛皮をがりがりと掻きながら忙しくまだ傷の癒えないクルー達の世話を焼いている。やはり焦げだらけの狙撃手は、壊れた船を直すのに必死だ。同じく焦げていたコックは、縮れた髪を摘んで切ってしまうか未練たらしく伸ばし続けるかと悩みながら、消化のいい食事を作り続けている。船長はコックが作った飯を食らい、狙撃手の邪魔をして、トナカイの手伝いをした。航海士は、女部屋から出てこない。
 顔に、雷を受けた考古学者の目が、二度と光を映さないのだと知っているからだ。
 極度の光と電流は視神経を焼き切った。
 あの秀麗な彫りの深い顔には大きな傷が走り、縫い合わせたり薬を塗ったりしても歪な跡が残るのだと言う。
 女なのに、とゾロは言った。
 それを聞きながら、サンジは黙々と消化しやすい食事を作る。口を動かすだけで、目の辺りにある傷に痛みが走るロビンのためにだ。
 側にいたのに守れなかった、とゾロは言った。
 悔しそうに言う男に、俺もどっこいどっこいさ、とサンジは慰めの言葉をかける。俺はナミさんに守られたよ。男なのにさ。おどけたように笑うと、生きているならそれでいいと、ゾロは己に言い聞かせるように言う。
 ナミが何度か泣いたが、決してロビンの前では泣かなかった。
 ゾロの胸を借りて泣き、チョッパーを抱え上げて泣いた。船長の麦藁帽子を引ったくって泣いて、狙撃手の背中に縋って泣いていた。
 ロビンが夢見る真実を語る石を見つけても、彼女は自分自身の目で、それを読むことはできない。ロビンの夢が、叶わなくなったのだ。
 心配しないで、とロビンは微笑んだ。
 二度目にゾロが見舞いに行った時だった。
「最初から諦めてきたものを、この数ヶ月、再び夢見たと言うだけのこと。諦めは最初からついているのよ。気にしなくてもいいのに」
 顔の大半を包帯で巻かれた女は、動かすだけで痛むはずの口元をほころばせた。
「それより、剣士さん」
 片手を伸ばし、恐らくはゾロがいると思っているのであろう見当違いの方向に指先を彷徨わせる。ゾロは、身体を浮かし、そこへ移動した。触れた指先を甘受するように、なんだ、と低い声で告げた。
「本を読んでくれない? 退屈で仕方がないの。本棚にある絵本を、読んでいただけないかしら」
 ゾロは一瞬押し黙った。
 それをロビンは、違う意味に取ったのだろう。恥ずかしいの、とからかうように尋ねる。その指先を、ゾロは握り締めた。
「…無理だ。俺は、字が読めねぇ」
「あら…それじゃあ仕方がないわね。ところで…ねぇ、剣士さん…。ナミちゃんは、まだ泣いているのかしら」
 ゾロは握った指を、そっと布団の中に戻した。寝かされている女は天を仰いだまま、小さな声で呟く。
「あの子は優しい子だわ。泣けない私の代わりに、泣くの。けれどもう泣かなくていいのに…私はちっとも悲しくなんてないんだもの」
「放っといてもあいつはそのうち、嫌でもまた守銭奴に戻る。今ぐらい大人しいオンナノコにしといてくれ」
「借金の取立てにこられるから?」
「ああ。そうだ。容赦がねぇ」
「それは困るわね。剣士さん…私は、どうしたらいいのかしら」
 ロビンは布団からまた手を出した。それは胸の上でゆっくりと組まれて行く。傷付いた指先を、ゾロはじっと見た。
「……私は、この船には負担になるだけね…」
 ぽつりぽつりと、小さな声で呟く本音を吐露する相手が自分だけだと言う事を、ゾロはとっくに知っていた。それはゾロがロビンに対して未だ警戒を解いていないからだ。信用をしていても、警戒し続ける男に、ロビンは自分に与えられる以上の信頼を置いていた。
「八千万近い賞金首が、目が見えないだなんて…格好の獲物だわ。小さな船には、重すぎるわね…」
「一億の首も乗ってる」
「どこか、静かな島で降ろしてもらおうと、考えているのよ…」
「駄目だ」
「私の能力があれば、一人でも生活して行ける…。ログが示さないような小さな島…そんな所が見つかれば、私はそこで降りたいと思っているの」
「許さない」
「あなたが、世界一の称号を手にする瞬間を見られない。それが一番、悲しいわ……。コックさんが望む、奇跡の海を見る事もできず、ナミちゃんが書き上げた海図を見る事も叶わない。船医さんが、小さな手で持ってきてくれる花や虫が、どれだけ可愛いか、あなた知ってる? 狙撃手さんが私のために、不思議なデザインのペンやインク壷を作ってくれるの。私はここで、かけがえのないものをもらったわ」
「ずっとそうすればいい」
「……すべてを守るには、私は非力すぎる」
「俺が守る」
 刀の柄を握る固い指先を、ゾロは布団の上に置いた。躊躇った後、腹の上で組まれている傷だらけの手に触れさせた。子供が、不思議な何かに触れるような恐々とした仕草を、ロビンは受け入れた。傷に触れないように、白い肌をなぞる指を、ロビンは甘受した。
 息を飲み唇を噛み言葉を殺すゾロは、衝動に駆られて彼女を抱きしめたかった。火傷だらけの身体を掻き抱き、その黒い髪にくちづけをし、大丈夫だ、と繰り返し囁きたかった。剣を己の道と決め、女だ恋だ愛だのと生暖かなものをすべて捨て去ったゾロには、ロビンをそうしたいと思う自分の感情が何なのか解らなかったけれど、理屈など抜きにして、そうしてやりたかった。泣けない女の代わりに、見えない女の目になってやってもいいと思っていた。
「……あなたの夢は、大剣豪になること」
 ただ手の甲に指を辿らせるだけのゾロの気持ちを、ロビンは受け止めたのか、穏やかな声で呟いた。
「ああ」
 絞る声に、ロビンは息を吐く。
「その夢に、自分の身すら守れない女など、邪魔になるだけよ。あなたには、私など必要ではない。ただ一時の同情に流されず、あなたはあなたが目指したもののために生きなさい」
 強張ったゾロの指を、ロビンは一度強く握り締めた。そんなにしては、折角塞がりかけていた手の傷が開いてしまうのではないかと、危惧してしまうような強い力だ。渾身のと言ってもいいような力は、だが、すぐに抜けた。するりとゾロの手を離すと、目を見開き言葉を吐き出せずにいるゾロに、ロビンは微笑みかけた。
「行きなさい、剣士さん。あなたはここに留まってはいけない」
「なんでだ」
「行くのよ」
「なんでだよ」
「私はあなたに必要ではない」
「それを決めるのは俺だ!」
 思わず荒げた大声に気付き、蹄の音が近付いてきた。チョッパーが慌てたように女部屋のドア蓋を持ち上げ、どうした、とかわいらしい声を上げて飛び込んでくる。その場に流れる、微妙な雰囲気に気付いたのか、何かあったのか、と小さな声で尋ねるが、ゾロは振り返れない。
「俺の夢に女が必要だと思ったことはねぇが、それがあって阻まれるような俺の夢でもねぇ! テメェ一人守れねぇで、何が大剣豪だ! 何が夢だ!」
「今の私に、生きる意味などないのよ。どうしてそれを、察してくれないの」
 怒鳴りつけ、仰臥するロビンを見下ろすゾロを、まるで見えているかのようにロビンが手を伸ばす。罅割れた手は僅かに宙を模索して、ゾロの喉に触れた。それを辿り、傷の癒えていない頬や顎に触れ、かさぶたの浮いている唇を抑えた。
「……優しい子。私のためになどと、考えてくれなくてもいいのに」
「俺のためだ」
「同情を、愛情と取り違えては駄目よ」
「俺のために、生きろ。テメェの夢が何かなんて知ったこっちゃねぇ。目が見えなくなってそれが叶わねぇなんて、俺には興味がねぇ。テメェはただ、俺のために生きろ。生きる意味がないなんて、軽々しく言うんじゃねぇ! 生きてぇのに死んだ奴を、俺は知ってる」
「剣士さん」
 ロビンの頬に雫が落ちた。一瞬暖かだったそれは息を吐くうちに冷え、ロビンの頬を濡らす。ロビンは己の頬を拭わずに、ゾロの骨ばった顔を撫でた。ロビンの手に巻かれた包帯に、それは吸い込まれ消えて行く。
「私はあなたに、何もしてあげられなくってよ」
「してもらう必要はねぇ。飯はコックが作る。船が壊れたらウソップが直す。俺の怪我や病気はチョッパーが治す。船を港に導くのはナミだ。テメェはただ、座ってりゃいい。俺が、大剣豪になるその瞬間を、何が何でもその目で見ろ。耳で聞いて、その鼻でミホークの血の匂いを嗅げ。手で、世界一になった俺を確かめろ。それがテメェの使命だ。生きる意味だ」
「…まるで子供の恋愛のようね」
「おう。俺はガキだからな」
「………けれど、とても、魅力的だわ」
 ロビンはゾロの肩を軽く押した。身を起こし、乱暴に頬を拭ったゾロは、鼻を鳴らした。気まずそうにベッドに腰を下ろし、溜息を吐く。ただじっと、部屋の隅っこに固まってそれを見ていることしかできなかったチョッパーに気付くと、ばつの悪そうな顔をした。照れ隠しにか、髪をがりがりと掻く。
 ロビンはゆっくりと身を起こした。まだ安静にしていなくちゃ駄目だ、とチョッパーが思わず叫ぶと、平気よ、とロビンは薄い笑みを浮かべる。顔の半分を包帯で巻かれた女はそれでも美しい笑みを浮かべる。
「剣士さん」
 ロビンの手は宙を彷徨った。目の見えないものの仕草はチョッパーに悲しく映る。おれが治してやることができたら、と小さな胸の中で悔しく思う船医は、項垂れた。俯いて溢れた涙を一生懸命に擦る。
 宙に漂う手を、ゾロは握り締める。無骨で大きな右手を、ロビンは大事そうに両手で包み込んだ。一瞬口を噤み、呼吸を二度繰り返した後で、ロビンは口を開いた。
「あなたは、あなたの道を生きなさい。私は……そう、残念ね。子供の恋愛は魅力的だけれど、興味はないし、もううんざりだわ。あなたは一人で、自分の道を行きなさい。あなたは、そうできるのでしょう。私など必要ないのでしょう」
「……必要だ」
 掠れた男の声に、ロビンは唇を綻ばせる。
「つまらない男」
 ロビンの両手が開き、ゾロの手が、布団の上に落下した。ロビンは腕を組み、唇を震わせる。忙しく言葉を紡ごうとしている唇は笑っているが、ゾロには、そしてチョッパーには、彼女が泣きたがっているように思えて、仕方がない。
「なんてつまらない男なの。あなたなど大剣豪の器ではないわ。こんな女一人に囚われて、一人で歩く事もできないなんて。こんな女を守ろうとするだなんて。本当にお子様の感情ね。甘いだけで、何の実も結ばない下らないものよ。私にはそんな下らない感情、必要ないわ。出て行って、剣士さん。あなたに私が必要ないように、私にあなたは必要ないのよ。本も読めないあなたが、私に何ができると言うの。早く出て行きなさい。早く。行きなさい」
 ゾロはただじっとロビンの包帯に覆われた顔と、震える唇と、自分を抱きしめるように組まれた腕を見ていたが、息を吐き出し、立ち上がった。傍らに立てかけられていたが、ゾロが激昂し立ち上がった時に一本は床に転がっていた、三本の刀を掴み上げ、歩き出す。階段のすぐ側に立ち尽くしていたチョッパーの頭をぽんと押さえ、ゾロは無言のうちに階段を上がった。部屋を出て、女部屋のドア蓋をいつもの彼らしい仕草で乱暴に閉めた。ドンと船の揺らぐような音をたて、ドア蓋が閉まると、ロビンは口元に手を当てる。そして、彼女の唇からは、小さな声が零れた。
 チョッパーは帽子の下に納まった耳をぴくと動かせて、その言葉を聞いた。
 許して。
 丸い獣の瞳に見つめられているとロビンは気付いていないのだろうか。何度もその言葉を呟き、自分自身を抱きしめている。チョッパーは足音を立てて、ベッドの側に寄った。ロビン、と彼女の名を呼んでベッドに登る。ぎゅっと、傷付いた彼女の身体を抱きしめると、ああ、とロビンはチョッパーを抱きしめた。ピンク色の帽子にロビンの懺悔が吸い込まれ、チョッパーはようやく、初めてロビンに抱きしめられた事を気付くのだ。けれど嬉しいとはちっとも思わない。あの透き通る氷の青に似た瞳に見つめられ、微笑まれ、その膝で抱きしめられたいと思っていた。優しく、支えるようにだ。なのに今チョッパーは、縋るように抱きしめられている。悲しいな、と鼻を啜った。
 それを聞きつけたロビンが、泣かないで、と呟いた。
 まるで自分自身に言い聞かせているような、細く弱い声だった。