Close to you.
 船首に持ち出した白いデッキチェアに腰を下ろし、目を閉じると、強い風が頬を嬲る。今日は特に気候も風もいいから、随分距離が稼げそう、と航海士のお嬢さんが朝食を食べながら嬉しそうに話していたのを思い出した。
 あの子の目は猫みたいにくるくると良く動く。グランドラインの気紛れな天気みたいに、忙しく機嫌を変える。それと一緒に、目の色も変わる。機嫌が良かったり、悪かったり、拗ねていたり、不貞腐れていたり、具合が悪いのなら、本人は隠しているつもりでもすぐに解ってしまう。優秀な船医の小さなトナカイさんも、どうやら航海士の元気な目の訴えにはすぐに気付いているようだ。少しでも調子が悪そうなら、無理はさせないようにとずっと張り付いている。決して無理矢理に寝かせようとはせず、大事があればすぐに助けてやれる体勢を取っている小さな船医を見て、ああこう言う医者もいるのね、と酷く感心した。普段は陽気な船長さんや、発明好きな狙撃手と一緒に下らないことで転げまわっているのに、そう言うことだけはしっかりしている。
 昼食を終えて、天才的な腕前でいとも容易く様々なデザートを用意してくれるコックさんが、おやつと叫ぶまでの時間のこの船は、いつも静かだ。文字通りぱんぱんに、まるで風船でもそのお腹の中に入ってるんじゃないかしらと思うくらい膨らませた船長や、やっぱり膨らんだ腹を上にして、日干しのようになっている狙撃手や、小さな船医が、並んで甲板で昼寝をしている。ぽかぽかと照りつける太陽の光に気持ち良く、彼らの鼾が聞こえていたけれど、それらは風に乗って今はもう聞こえない。はためいた洗濯物の音も、上を目指す剣士が振り回す鋼鉄の重りが空を切る音も、全てが風の中だ。
 気持ちいい。
 太陽は心地良くて、風も優しい。髪は風に浚われてしまうけれど、鬱陶しく頬に被さらないのがいい。うっかり、眠ってしまいそうだ。
 伸ばした足をデッキチェアの上で組み、腹の上に両手を重ねた。
 目を閉じると、瞼が赤く染まって見える。
 この船に乗って初めて、風が気持ちいいのだと知った。
 海軍に、そして賞金稼ぎに、時には海賊に、命を狙われるようになってから、一度として船の上で心を休めたときはなかった。船の下は海だ。悪魔の実の能力者に、船の外へ落ちることは死を意味する。だから一度して、船の上で心を落ち着かせた事はない。一時手を組んだからと言って、命の保障までもが、必ずされるのではない。誰だって八千万近い懸賞金を欲しがるし、お金にだって目が眩む。命は、自分で守らなければならなかった。
 けれどこの船は違う。心から安らぐ事ができる。目を閉じ、うっかり寝入ってしまっても、気付けば身体にかけた覚えのない誰かのジャケットがかかっていたり、日差しに眠りを邪魔されないように、陽気な船長さんの大事な麦藁帽子がさしかけられていたりするくらいだ。側のテーブルになかったグラスは汗をかいていて、中で揺れる薄い金色の飲み物は、躊躇いもなくそれを口に運ばせた。眠って乾いた喉を癒す飲み物はとても甘く、優しさを孕んでいる。
 仲間として、招かれていると、そう思うことができた。
 無理矢理に船に乗ったのだから、歓迎されていなくても仕方ないとは思っていたけれど、懐に抱え込んでしまえば、全幅の信頼をあの船長さんは置いてくれる。他の仲間達も、そうだ。
 ただ、高みを目指す剣士さんだけは、まだ本当の信頼を置いてはくれていないようだけれど。
「気配を殺して、近付かないで頂戴」
 目を閉じたままそう呟くと、階段を上がったところで立ち止まっていた上背のある剣士さんの気配が、舌打ちをした。
「敵だと思って、うっかり攻撃しちゃいそうよ」
「負けねぇ」
 打てば響くように、はっきりと告げられる言葉に、微笑が浮かんだ。
「そうね。あなたはとても強いそうだから、きっと私、負けちゃうわね」
「どうだかな」
 硬い安全靴の底が甲板を踏み、近付いてくる。目を開き、飛び込む空の青さの眩しさに何度も瞬きながら、すぐ側に立った剣士さんの仏頂面を見上げた。
「あら、あなたは私に勝てないの?」
「自信はねぇな」
 益々仏頂面になる顔がおかしくて、思わず口元を押さえた。
「珍しいのね。世界一になるんでしょ? 私に勝たなくちゃ、世界一にはなれないわよ」
「あんたは剣士じゃない」
 硬く引き結んだ唇が真一文字になっていて、彼の意志の強さを表している。寝そべっていたデッキチェアから身を起こし、側に立つ剣士さんに向き直ると、剣士さんは一歩足を引いた。
「それで、何の用?」
 相変わらず警戒心を解かない剣士さんに微笑みかけると、居心地が悪そうに、携帯していない刀がいつもある辺りを手で探った。
「別に。ただ…どうしてるかと…」
「あら、気にかけてくれたの? それとも、何か企んでないかって心配してくれたの?」
 意地悪な問いかけをした事を、少し悔いながら見上げていると、仏頂面の剣士さんは、ふいと視線をそらした。
「どっちもだ」
「じゃあ、私が退屈してやしないかって、気にかけてもくれてるのね。嬉しいわ、ありがとう」
 呑気な顔をした羊が見つめる水平線を睨みつける剣士さんの横顔は、見間違いでも自惚れでもなく、ほんのりと赤くなっている。日に焼けた浅黒い肌は、まだ子供っぽさを残す彼の顔を、とても精悍に、そして男らしく見せている。デッキチェアに伸ばしていた足を下ろし、きて、と隣を示すと、水平線を睨みつけていた剣士さんが、驚いたように瞬いた。
「…座ってって言ったの。聞こえなかったかしら?」
「…ここでいい」
 自分の足元を見下ろす剣士さんに、思わず微笑を浮かべる。
「どうして? 刀を持っていないあなたに、襲いかかったりしないわよ。それに腕力だけなら、あなたに分があるわ」
「…そうじゃなくて…。さっきまで鍛錬してたから、汗臭ェんだ」
「気にしないわよ。それよりも、ねぇ、風が気持ちいいのよ。座って? それとも、私の側には、いたくない?」
 ずるい言い方をしていると言う自覚はある。まだ子供の顔をしている彼よりも、十年も余分に生きている。口先だけでなら、まだまだあどけない剣士さんに勝つ自信はあった。
 吹き付ける風がごうと音をたて、髪を浚おうとする。頬に被った髪を、さらりと右手でかき上げると、じっと考え込むように怖い顔をしていた剣士さんが、一歩踏み出した。ずかずかと、まるで甲板を踏み抜きそうな勢いで近付き、どすんと腰を下ろす。風にのって、僅かな汗の匂いが届いた。けれどそれは多分の水の匂いにかき消されている。ここへくる前に、彼はシャワーを浴びてきたのだろう。汗臭いというのは、ここから逃げようとする言い訳だ。
 デッキチェアに座り、片足を椅子の上へ上げた剣士さんが、水平線に顔を向けている。その横顔が和んでいるのを見て、少し嬉しくなる。
「ね。風が気持ちいいでしょう」
「ああ」
 僅かな、ほんの微細な唇の動きで、彼が微笑んでいるのだと解った。ねぇ、と呼びかけると、振り返ったその顔からは、今まで抱いていた警戒心だとか、猜疑心だとかは消え去っていた。
「触れていい?」
 訝しんだ剣士さんの顔に、できるだけ優しく見えるようにと微笑を作る。
「あなたの傷に、触れてもいい?」
「…傷って……」
「やられたでしょ? Mr.1に。血だらけだったって、ナミちゃんが言ってたわ。貧血でふらついてたって。血を一杯流したのなら、傷跡も残っているでしょう? まだ痛むの?」
「…いや、もうあまり…」
「治りが早いのね。チョッパーが驚いてたわ。驚いてたって言うよりも、怒ってたわよ。あなたは、ちっともじっとしてないって。医者の言う事を聞かない悪い患者だって」
「チョッパーはなんでも大げさに言う」
「でもアラバスタから出てから、大人しくしている所、見たことないわよ」
「だから、もう治ってる」
「じゃあ見せて」
 唇を噛み締めて見つめると、剣士さんは少し驚いたように目を見張った。けれどすぐに息を吐き、シャツに手をかけた。素敵なコックさんが散々趣味が悪いと称していたシャツは、彼の手にかかりするりと隠していた肌を露にする。
 まず目についたのは腕よりは色の薄い背中だ。綺麗に背骨が浮いていて、思わず手を触れさせると、驚いた顔が振り返る。肩甲骨の上に乗った筋肉に添って手を這わせると、居心地悪そうに大きな背がもぞもぞと動いた。
「背中に傷はないのね」
「背中の傷は、剣士の恥だ」
 手持ち無沙汰を誤魔化すように、脱いだシャツを剣士さんは大きな手で畳む。
「…どうして、背中の傷は恥なの?」
 背に這わせていた手をそっと外すと、ゆっくりと目がこちらを向く。強い光が灯る目が、瞬いて見つめる様に思わず見入る。
「背中に傷があると言うのは、敵に背を向けたって事だ。それは逃げたって事だ。世界一になるのに、逃げるなんて許されねぇ」
「へぇ…凄いのね」
 瞬き見つめると、浅黒い肌が照れ臭そうに少しだけ赤くなった。
「いつかあなたは、世界一になるのね」
「そのつもりだ」
「…見たいわ」
 微笑み、伸ばした手を、剣士さんは避けなかった。熱く鼓動を脈打たせる胸に走る傷は数多い。袈裟掛けに胸を切った傷に指を這わせると、剣士さんの強い目が、少し細まった。
「それは、鷹の目につけられた傷だ」
「鷹の目…王下七武海の一人ね…。話は聞いた事、あるわ」
「強ぇんだ。すげぇ」
「でも、勝つんでしょう?」
「ああ」
「見たいわ。あなたが、世界一になる瞬間を」
 抉るようにできた傷もある。それに指を這わせると、それはアルバーナで、と低い声が教えてくれる。
「…アルバーナ…。Mr.1に負わされた傷?」
「腹に壱って書いてあったな」
「Mr.1ね。まだ癒えてないわね、この傷は。かさぶたになってる」
「でも痛まねぇ」
 そう、と呟き、それを撫でると、くすぐったい、と呟く口と同じに腹も振動する。指先に触れる僅かな動きに目を細めた。指先に触れるのは、血の色を滲ませたかさぶただ。けれど、確かに息付いている。生きている証に、それは暖かい。
 安堵する。
 こうして、生きているのだと、安心する。
 てのひら全体で、胸に走る傷に触れた。オイ、と牽制するように剣士さんが唸る。けれど聞こえない振りをして、肩に額を寄せた。
「オイ。何やってんだ」
「…眠いの」
「は?」
「眠いのよ」
「いや…あの…だから…」
 強い風が、髪を嬲る。それは時折冷たさを感じるほどだ。けれど、額に触れる広い肩の温もりは優しく、また手に触れる鼓動は確かに生きて、ここにいる事を照明している。
「しばらく、付き合って…」
「はぁ?」
「…眠るのに。…あなた、ずっと眠ってるじゃない……」
「いや…まぁ…寝てるっちゃ寝てるが…」
「寝ましょう…。こんなに風が気持ちいいんだから…眠らなくちゃ、嘘よ…」
 額を押し付けていた肩が、大きく上下した。擦るように頬を当て見上げると、溜息を吐いた横顔が、諦めたように遠くを見た。
「…こんなとこ、あのグル眉に見られたら…」
「厄介な事になる?」
 少し目を閉じて笑うと、ああ、と低い声が頷いた。
「でも気持ちいいわ」
 溜息のように、大きく息を吐いた彼が、ああ、と頷いた。低い声は鼓膜を震わせ、心に染み渡ってくる。気持ちいい。それは、風ではなくて、この暖かな剣士さんの温もりと、声だ。うとうとと、本当に眠気を誘われ風に嬲られていると、急に剣士さんが動いた。驚いて顔を上げると、精悍な顔を子供っぽく歪め、いい事を思いついたとばかりに目を輝かせている。剣士さんのこう言う顔を見るのは初めてだけれど、それはあの船長さんや小さな船医さんと大きな違いはない。
「こうしたら」
 ぐいと腕を引かれ、強い力にバランスを崩す。デッキチェアから転がり落ちそうになった身体を引き寄せたのは、大きな手だった。デッキチェアの足を乗せる側に腰を下ろしていた剣士さんは、強引に身体を割り込ませ、デッキチェアに横になる。広くないデッキチェアに寝そべり、見下ろす視線をしっかりと受け止めながら、悪戯に笑う。
「もっと良く眠れる」
 横になれ、と促す剣士さんが、腕を差し出してくれた。デッキチェアの背もたれの部分に伸ばされた腕に思わず顔が綻んだ。
「腕枕?」
「昼寝にゃ、枕がつきもんだろ」
「じゃあ、あなたは?」
 枕は必要ないのかと問いながら、身体を横たえると、思いの外デッキチェアは二人分の身体を許容するスペースがあった。露になっている傷に手を這わせると、早速眠気をもよおしたらしい剣士さんが、大きな欠伸を噛み殺しながら、瞬きを繰り返す。眠る直前の犬のような仕草だと思うと、どうにも可愛らしい。
「…そりゃ…抱き枕だろ」
 本当に抱きしめる気などないくせに、そんな風に言う。
 可愛らしさに微笑みながら、目を閉じ、もう寝息を立て始めている剣士さんに少しばかり身を寄せた。腕枕ではなく、肩に頬を押し付けると、太陽の光と剣士さんの温もりに、強い風に冷やされた身体が和らいで行く。
 多分、もう少しすれば、素敵なコックさんがおやつの時間だと呼ばわりながら、昼寝をしている仲間達を起こしにかかるだろう。文句を言いながらも、きっと剣士さんの姿を探し、ここへやってくる。素敵なコックさんは、デッキチェアで寄り添う二人を見て、どんな顔をするのだろうか。その顔を見たいと思いながらも、きっとその顔を見ることはなく、彼の大声で目が覚めるのだ。
 だからそれまでの僅かな時間、温もりを側に眠ろう。
 この船に乗る限り、自らの命を一人で守る必要なんて、ないのだから。