・・・05.隠し事を暴くつもりではなかった ・・・ | ||
両手にわさわさとビニール袋を提げ、点滅し始めた横断歩道を急ぎ足で渡りきった法介は、腰の高さ程度の生垣で歩道と仕切られた公園の中に成歩堂の姿を見つけ足を止めた。 すっかり花も落ち、目に眩しいほどの葉を広げる桜の木に、動けば軽く汗ばむような日差し。ゴールデンウィークを終え、のんびりとした雰囲気の公園の中に、いかにものんびりのほほんとした成歩堂の姿はしっくり溶け込んでいるが、相変わらずのニット帽は初夏の陽気には聊か不釣合いに思える。 公園の真ん中で盛んに水飛沫を上げる噴水の側で、それを眺めるように佇む成歩堂の後ろ姿は昼の散歩を楽しむ風情で、法介はムッと唇を曲げた。 昼食を食べてから姿が見えないと思ったら、あの人は一体こんな所で何をやってるんだ。 こちらは仕事そっちのけで(そう言って胸を張れるほどの仕事もないのだが)買出しを済ませ、夕食を作る段取りをしていると言うのに呑気なものだ。 今夜は明日に備え豪勢な夕食にしようと言ったのは成歩堂で、法介の両手に下がるビニール袋はそのための食料だ。白いビニール袋の隙間からぴょこんと飛び出したネギがスーツに不釣合いだ。 そもそもいくら飄々とした成歩堂でも、今日ばかりは緊張した面持ちをしていても良いのではないだろうか。いや、むしろすべきではなかろうか。何しろ明日は、弁護士資格を剥奪された成歩堂が再び弁護士としての道を歩み始める第一歩、司法試験の一日目だと言うのに。 法介はビニール袋をぐっと握り締め、一言言ってやるべく噴水の側へずかずかと歩いて行った。足音も高く、公園の土を踏みしめる。噴水を回り込むように近付いていくと、法介の姿に成歩堂が気付いた。あれ、と言うような顔をし、すぐに困ったような表情をする。試験勉強をサボっているのがばれた気まずさだろうと思ったのだが、噴水を迂回し、声が届く辺りまで近付いた法介は、そこに成歩堂以外の姿がある事に気付いた。 最初、随分と背が高く、ずいぶん姿勢の良い老人だな、と思った。 趣味のいい深い茶色のパンツに揃いのベストを合わせている。成歩堂よりも背が高く、すらっとしている。髪は豊かだが白く、そのせいで老人と思ったのだが、成歩堂の視線を受けて振り返った顔を見て、法介はぎょっとした。 思ったよりも随分と若かったのだ。見たところ三十代後半か四十代前半。黒縁の眼鏡をかけているがダサいイメージはない。 「知り合いか?」 男は法介を見下ろしたまま、顔をそちらへは向けず成歩堂に訪ねた。成歩堂は溜息を吐くと、ジーンズのポケットに手を突っ込み答える。 「前に言ったでしょ。ウチに新しくきたオドロキくん」 なんだか気まずそうな成歩堂の声に、法介はとりあえずぺこりと頭を下げた。それを見た男が少し目を細める。 「ああ…例の弁護士坊やか。それで? 何か用かい?」 唇の端を持ち上げる笑い方は高慢だが、なぜか男には良く似合う。聊かムッとしたが、法介はビニール袋を握り締め、男にではなく成歩堂に言った。 「ナルホドさん、明日試験でしょ。なのに昼食べたらすぐどっか行っちゃうし! またみぬきちゃんに怒られますよ!」 成歩堂はそれを聞くと弱ったなぁと眉を下げ、男はクッと喉を鳴らした。 「相変わらずアンタの周りには、アンタを尻に敷くお嬢ちゃんがいるようだ。みぬきってのは…」 「前に言ったでしょ。俺の娘です。義理のですけど」 「ああ、聞いたことあるぜ。マジシャンだってな? イカす娘じゃねぇか」 「ナルホドさん、この人は?」 近付くと尚、男の容貌は異様だった。若さの割に髪が白いことだけでなく、男のかけた眼鏡越しに解るほど男の目は赤かったのだ。成歩堂なんでも事務所に転がりこんでからと言うもの、いくつかの事件に携わり、何人ものちょっと独特の人たちを見て慣れたはずの法介も、さすがにこの容貌と不遜な態度には警戒を抱かずにはいられなかった。 肩を張る法介の気を削ぐように男は笑った。聊か、気障な笑い方ではあったけれども、僅かに高慢さはなりを潜める。 「神乃木荘龍。アンタと同じ弁護士さ」 「弁護士?」 神乃木荘龍とやらの名乗った職業に法介は目を丸くするも、確かに言われてみればベストの胸に金色のバッチが光っている。驚く法介に成歩堂が情報を付け加えた。 「荘龍さんは星影法律事務所で働いてるんだ。明日の試験の前に一度会っておきたかったから呼び出したけど、うっかり話し込んじゃったんだよ。もう戻るよ、オドロキくん。みぬきに怒られちゃ叶わないからね」 まるで荘龍と法介を長く一緒の場所に止め置いておきたくないように、成歩堂は口早に言った。行こう、と法介は成歩堂に背を押され、荘龍に背を向ける。 釈然としない思いながら、歩き始めると、オイ、と呼び止められた。思わず振り返るも、呼び止められたのは成歩堂だったらしい。最初から法介など目にも入っていないような様子で、荘龍は僅かに首を傾げた。 「成歩堂、何か俺に用があったんじゃねぇのか?」 何か用って、と法介は眉を寄せた。 昼を過ぎてから姿を消していた成歩堂は、ずっとここで荘龍と話し込んでいたと言う。それなのに荘龍は何か用があったのではないかと訪ねる。荘龍と話していたと言うのは嘘で、まさかまたイカサマ賭博に手を出していたのでは…、と言う法介の勘繰りを知ってか知らずか、荘龍が続けた。 「久しぶりの対面だってのに、まさか世間話をして終わりってわけじゃあねぇだろう?」 荘龍のその口調は法介にとって高圧的以外の何物でもなかったが、成歩堂にとっては何か違うもののようだったらしい。法介の背に当てられていた手が落ち、荘龍を振り返った成歩堂の顔は、法介が今まで見たことのないものだった。 飄々と、のんびりと、苛立つほどにマイペースで、腹が立つほどに感情の乱れがないと思っていた成歩堂の顔は今、焦燥に満ちていた。泣きそうだ、と思い唖然とする法介の前で、成歩堂が掠れるような声を漏らした。 「大丈夫だって」 成歩堂の声に荘龍は目を細める。 「大丈夫だって言ってください」 なんのことだ、と法介は眉を寄せる。 成歩堂の言葉が足らず秘密主義なところは法介も知る所だが、いくらなんでもこれだけでは相手に伝わるまいと法介は思った。何をもってして大丈夫と言ってほしいのか、法介がくるまでに成歩堂と荘龍が何かを話していて、その話の延長なのかとも思ったが、荘龍の様子ではそうでもなさそうだ。 成歩堂は荘龍を見つめていた視線を下ろし、いえ、なんでも、と首を振った。 そして再び法介の背を押し、行こう、と歩き出す。みぬきに怒られちゃうなあ、あはは、と笑う声にも力がない。 いいんですか、と法介が訪ねようとしたその時、荘龍の声がかかった。 「大丈夫だぜ、コネコちゃん」 法介の背に触れる成歩堂の手にぐっと力が篭った。 「合格祝い、何がいいのか考えときな。コネコちゃんの望む通り、なんだっておごっちゃうぜ」 まさかとは思うがそのコネコちゃんとやらが成歩堂のことなのだろうか。 荘龍の口から出た言葉の意味を考え、あまりに似合わないたとえに冷や汗を書いている法介のすぐ側で、俯いていた成歩堂が顔を上げた。ちらりと見やった法介は成歩堂の表情の、先ほどまでとの違いに目を見張る。 焦燥に満ち、不安が溢れ、泣きそうに思えたその顔が、今や自信に満ちている。力強く不遜に微笑み、成歩堂は答えた。 「それなら荘龍さん、コーヒー、おごってくださいね」 振り返ることのない成歩堂の代わりに法介はちらりと後ろを振り返った。 噴水の側に佇み、こちらを、成歩堂を一心に見つめる荘龍の表情は柔らかく愛しみが滲んでいる。 法介は唐突に悟った。 成歩堂とて明日の司法試験に不安がないわけではない。一度剥奪された弁護士資格を再び手に入れるための試験を無事にパスしなければ弁護士再起への道はない。一度受かったものに二度目は落ちるなどあってはならない。不安にならないはずがない。 その不安を払拭するため、成歩堂は荘龍と会い、荘龍の言葉で大丈夫だと言って欲しかったのだろう。 成歩堂と荘龍の間に、法介の、そして恐らくはみぬきも知らぬ強い絆がある事を。 荘龍の成歩堂を見る目に篭る思いは、荘龍の言葉を求めそれに勇気付けられる成歩堂の持つ思いは、一年や二年で育まれたものではない。何年も何年も、静かに重ね、縒り合わされるごとく、育まれてきたのだ。誰に知らせることなく、知られることなく、ひっそりと。 「覚悟しな。最高のゴドーブレンド、おごっちゃうぜ」 荘龍の言葉に背を押されるように歩き出す成歩堂の背を、待ってくださいよ、と法介は追いかけた。 手の中でわさわさとビニール袋が音を立て揺れ、初夏の陽気にじんわりと汗が滲む。置いてくよ、といつもの口調で言う成歩堂に、追いつきますよ、と法介は言った。 振り返った成歩堂の顔は腹立たしいほどの自信に満ちていた。 |
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