・・・04.まだ憶えている ・・・ | ||
その通知に目を通した時、僕の喉はヒュッと細かな音を立てた。 真剣な顔をして文書に目を通していたせいだろう。パパ、お手紙が届いていたよ、と言ってその茶封筒を運んできたみぬきは、大きな目を精一杯見開いて心配そうな顔をしている。 「パパ、どうかしたの?」 僕をパパと呼ぶようになって三年。すっかり違和感のなくなかったその呼ばれ方に、僕は笑みを浮かべる。 「なんでもないよ。お仕事のお手紙だからね」 「そっか!」 ようやく納得したとばかりにぴょこりと頷いたみぬきは、自分の仕事を終えた喜びにかにこにこと明るい笑みを浮かべる。天真爛漫な笑顔の裏にあるものを、この子はまったく感じさせない。だからこそ、僕も笑わなくちゃと思ってしまう。 「みぬきねぇ、今日、お友達と遊ぶ約束したの!」 「へぇ、そう。お友達の家に遊びに行くの?」 「うん! それでね、これから行ってきてもいい? 宿題はまだしてないけど…」 遊びに行くのは宿題をしてから、と繰り返してきたせいか、後ろめたそうに打ち明けるみぬきに僕は助言する。 「お友達と一緒にやったらどうかな? それから遊んだら?」 「あ、そっか! じゃあそうするね! 『ビビルバー』に行く時間までには戻ってくるから! パパ、今日はご飯自分で食べてね! じゃあ行ってきまーす!」 元気良くランドセルを背負い直して事務所を飛び出して行った小さな背中を見送り、僕は、ふ、と息を吐く。 浮かべていた笑みはゆるゆると消えた。ようやく来るべき時が来たか、と言った心境で、みぬきを引き取ったその時から繰り返し繰り返し練習してきた通り、普段と変わらず笑みを浮かべていられたはずだ。 みぬきの姿のなくなった事務所で、視線は頼りなく宙を舞い、そして手の中の書類に落ちる。 時間をかけてゆっくりと読み返しても、たった一枚きりの素っ気ない事務的な文章が変わるはずもなく、僕は、震えがちになる手でそっとそれを机の上に置く。 いずれそうなると解っていた。 みぬきが僕の娘になってからずっと、郵便受けから手紙や新聞を取り出して事務所の中に運んでくるのはみぬきの仕事になっていたし、あの人はそう長く生きられなかった。 みぬきが僕の手に、あの人の死んだことを伝える文書を乗せることを何度も想定し、そして繰り返し想像し、繰り返し練習した。 みぬきの目の前でみっともなく泣かないように。 みぬきの目の前で情けなく青ざめないように。 みぬきの目の前で大人気なくも取り乱さないように。 ずっと笑みを保ち、平常心を保ち、いつもと変わらない様子を保つように練習した。 そう遠くない事だと解っていたからだ。 綾里舞子殺害の罪であの人が服役してから、僕はあの人が出所する四年後をずっと楽しみにしていた。 お母さんを殺された真宵ちゃんには悪いけれど、出所したら、あの人はもう何に縛られることなく僕の側にいてくれると思っていたからだ。だからそれまで事務所を守り、戻ってきたあの人に事務や受付なんかの内々の仕事をしてもらって、僕が法廷に立つ。だけど弁護は二人ですればいい。弁護士バッチを持たない弁護士であるあの人の知識は、僕と一緒でなら遺憾なく発揮することができる。あの人だって僕の話したそんな計画に頷いてくれたし、楽しみだぜ、なんていつもの調子で笑っていた。 けれど、運命の神様はあの人を意地の悪い呪縛の中から見逃してやろうなんて思っていなかったんだ。 刑務所の中で半年を過ごしたあの人は、ある日作業中に倒れた。 美柳ちなみが盛った毒は、あの人の身体を何年たっても蝕んでいた。 医者にそう永くはないと言われ、それでも希望を捨てずに治療をしてもらった。それでも残りの時間は少しずつ、砂時計が落ちるように減っていく。 残りの短い人生をあの人が受け入れたとしても、僕は受け入れることなんてできやしなかった。 だって、ずっとこれから先、側にいてくれるんだと思ったばかりだったから。 あの人のための居場所を、ようやく作ってあげられたんだと安心したばかりだったから。 あの人は服役囚だ。 残り短い人生だとしても、あの人は服役囚なのだ。 病院棟のベッドに仰臥したままでも服役囚で、残り短い人生だとしても、服役囚の規則はあの人を縛った。 面会は二週間に一度。 永くないんだから、少しだって、一分一秒だって側にいたいって思っているのに、僕は近付くことすらできなかった。 二週間に一度、訪れるたびに、様変わりしていく姿に打ちのめされた。 だから僕は覚悟をしていた。 二週間に一度、僕が訪れてから、再び訪れるそれまでの間に、あの人の容態が変わることだってある。 だから僕は覚悟をした。 あの人がどうなったかを、僕は直接耳からではなく、目で知ることになることも、それをもたらすのが僕の娘だってことも、僕は覚悟をした。 やつれてくあの人のこけた頬や、落ち窪んだ瞼や、力のない目、割れた唇からもれるかすかな息、骨のような指が僕に伸ばされる、その様を見ながら僕は、この人は結局何かに縛られたまま逝くのだと、薄ぼんやり思ったことを覚えている。 ぼたりと、薄っぺらな紙の上に雫が落ちる。 ぼたぼたと、それは留まることなく落ち続ける。 文書を抑える指の震えが止まらず、手で押さえこもうとしたけれどそれすらも震えて使いものにならない。涙は止まらず、嗚咽も漏れる。 そうだ。 結局あの人は、何かに縛られたまま逝ってしまった。 美柳ちなみの毒と言う名の呪縛に伏し、千尋さんを失い、その復讐のために生きた。そして春美ちゃんを助けるために綾里舞子を殺し、法の裁きを受け、罪人と言う名に縛られ、檻の中に生きた。 あの人は、何かに縛られたままだった。 何かに縛られたまま、あの人は僕を置いて逝ってしまう。 遺言を周到に準備をして、何も言わずに逝って、そして僕に死に顔も見せず、付き添うことも許さず、何もかもの処理を済ませてしまって、骨だけを託し、呪縛から逃れていく。 「荘龍さん…っ…!」 ぶるぶる震える手を押さえたくて両手を握り締めながら、僕は、溢れる涙も嗚咽も止められなかった。 だってまだ、覚えている。 この手に触れたあの人を。 いいか、成歩堂。 この身体を抱いたあの人を。 弁護士ってのは、ピンチの時にこそふてぶてしく笑うもんだぜ。 唇の端を持ち上げて笑う様を。 そう泣くんじゃない。 痩せ衰えたその時ですらも、高潔な弁護士であったその様を。 これが、永遠の別れってわけでもあるまいし。 困ったように少し眉を下げる様を。 笑えよ、成歩堂。 あの高慢なほどの自信に満ちていた、神乃木荘龍の姿を。 笑ってくれ。 僕を暖かな眼差しで見た、神乃木荘龍を。 俺は笑ってるあんたが好きだぜ。 僕はまだ憶えている。 |
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