・・・02.残影・・・ | ||
星影法律事務所から回ってきた刑事事件の資料に一通り目を通し、頭の中に必要事項をすべて叩き込んだのは、日付が変わる直前だった。例によって時間がなく、成歩堂が今睨めっこしていた資料も、明日の朝一番に開く法廷のものだ。突然舞い込んだ依頼だったので、資料を読む時間すらままならなかったのだ。 手が空かなくて担当ができないと、星影大先生自らが茶封筒と共に、被告人の妻である女性を伴って、成歩堂法律事務所を訪れたのは今日の昼だ。丁度、成歩堂法律事務所は抱えていた離婚調停の案件も終え、別口で抱えていた殺人事件の裁判も無事に終わったところだったので、何度も世話になった星影法律事務所の、それも星影先生自らのお願いとあれば引き受けないわけにはいかないと快く引き受けたのだ。その場で星影先生と被告人の妻から話を聞き、留置所へ行って被告人からも話を聞いた。 事件はチンピラに絡まれた妻を助けようとした夫が勢い余って相手を殺害してしまったと言う単純なものだった。被告人自ら罪を認めていること、目撃者が大勢いること、証拠物件が揃っていることから、完全無罪を主張するのではなく、正当防衛を主張する方向で話が進められることになった。 事件のあった現場を周り、事務所に戻ってきたのは夕方すぎで、コンビニのおにぎりで夕食を済ませて、それから延々と資料を読みふけっていたのだ。さすがに背中が軋み、腰が暴力的に痛んでいる。 これは早く家に帰ってあったかい風呂にたっぷり浸からなければ、と帰り支度を整えた成歩堂は、灯かりを落として帰ろうとした足を止めた。 向かいのホテルバンドーの明かりを受け、下ろされてはいるもののブラインドの隙間から光が差し込んでいる。薄暗い部屋と、そこに映し出されるしましまの影は、否が応でもこの事務所で起こった忌まわしい出来事を思い出させた。 事件から、もう七年がたつ。 綾里法律事務所だった成歩堂法律事務所には新たに弁護士が加わり、今ではあの頃と同じように、弁護士が二人いる法律事務所になった。 千尋の妹の真宵も、倉院の里で家元として立派にやっていて、時折春美と一緒に遊びにやってくる。家元の真宵よりも、まだ高校生の春美の方が身動きが取りやすいらしく、春美一人で遊びにくることの方が多いくらいだ。 時間はたち、人も変わり、事務所も変わる。 あの時にはなかったものが増え、あの時にあったものが減ってゆく。 それでも、成歩堂はこんな風にふとした瞬間瞬間に、今まさに成歩堂がいる所長室で起こった事件と、その時に目にした光景を思い出すのだ。 ぬくもりが残っていた千尋から奪われてゆく体温を思い出すのだ。 灯かりのスイッチに手をかけたまま、成歩堂はぼんやりと窓の下を見つめていたが、事務所の入り口で聞こえた物音にハッと我に返った。 「なんだ、やっぱりまだ帰ってなかったのか」 合鍵で入ってきたのは、銀縁の眼鏡をかけた荘龍だ。機嫌の良さそうな彼は笑みを浮かべ、片手に下げたコンビニの袋をちょっと持ち上げながら所長室の入り口で佇んでいた成歩堂に近付いてきた。 「どうせまたそんな事だろうと思ったぜ。コンビニで肉まん買ってきてやったぜ…?」 「え、あ!」 予想だにしていなかった荘龍の登場に、成歩堂は思わず所長室の部屋の灯かりをつけてしまった。咄嗟の行動ではあったが、あの光景を荘龍には見せたくないと思っての判断だった。 だが、荘龍にはそれは不可解な行動に移ったらしい。 眉を寄せ、僅かに首を傾げた。 「帰るつもりだったんじゃねぇのか?」 薄い笑みを頬に貼り付けて、成歩堂は近付いてくる荘龍を押し返した。背中を押され、おい、と荘龍が眉を寄せる。 「いきなり声かけるから、驚いてつけちゃったんですよ。肉まんですか? 嬉しいなぁ。丁度お腹空いてたんですよ。そっちのソファで食べましょうよ。僕、お茶入れますね」 ぐいぐいと、半ば乱暴に荘龍を事務所のソファに押しやって、成歩堂は所長室の灯かりをつけたまま、給湯室へ逃げ込んだ。心臓がばくばくと音を立てていて、落ち着かなければと何度も呼吸を繰り返す。滲み出た汗を拭い、心臓が元の速さで動き始め、ようやくお茶を入れるために身体を動かした。 洗ってある急須と湯飲みを取り出して、茶葉を入れる。ポットに残っていたお湯を急須に注いで事務所に戻った成歩堂は、所長室の灯かりが消えているのにぎくりと身体を強張らせた。 事務所を見渡しても荘龍の姿はない。お茶の用意一式をテーブルの上において、所長室へ駆け込めば、荘龍は戸口にもたれたまま、明かりのついていない所長室の窓の辺りを眺めていた。 思わず、成歩堂は息を飲む。 窓の下をじっと見据える荘龍の眼差しは真剣この上なく、そこで何があったのかを確実に知り、そうした上で見つめているようだった。ホテルバンドーのネオンの灯かりに照らされた横顔は冴え冴えとして、まるで本当に、そこにあった千尋の遺体を前にしているかのようだった。 「そそそ荘龍さん! お茶の準備ができたんで、肉まん食べましょうよ!」 上擦った声を不自然なほどに明るくして声をかければ、ああ、と荘龍が振り返る。あの顔の大半を隠すマスクをしていないせいで、荘龍の表情は手に取るようにわかった。 疲れたような、それでいて安らいだような不思議な顔で荘龍が微笑む。 「……千尋が最期に見たのがこんな景色なんて、素っ気ねぇもんだぜ」 「…荘龍さん……」 「あんたが看取ったんだろう?」 思いの他、柔らかな口調で尋ねられ、成歩堂はぎこちなく首を振った。 「あの…俺は…違います。その…俺が来た時にはもう、千尋さんは…亡くなっていて」 「…そうか」 「……ごめんなさい」 ぽつりと小さな声で謝った成歩堂を荘龍が振り返り、穏やかな顔で笑う。 「何を謝ってんだ。あんたが謝る必要なんざ、欠片もねぇぜ」 「でも」 「ただな、味気ねぇ最期だったと思っただけさ。頭殴られて、はいサヨウナラか……殺しても死なねぇコネコちゃんだと思ってたんだがな」 壁にもたれたまま動かない荘龍の背中を、成歩堂はじっと見つめていた。広い背中が、こんなときばかりは小さく見える。 千尋が息を引き取ったその場所には、今も、そしてこれからも何かを置くことはない。所長室も模様替えなどは行わず、きっとずっとこのまま、千尋が使っていたその時のままで成歩堂が使い続けるだろう。まるで、いつか千尋が帰ってくるのを待っているかのように。 ゆらりと荘龍の背中が動く。 足音も立てず静かに、彼は窓の側へ歩み寄った。 すっとしゃがみこみ、寸分違わず千尋の寄りかかっていた場所に右手を触れさせる。その行動に、成歩堂は驚きはしなかった。荘龍のことだから、何度も法廷記録を読み返したのだろう。千尋の事件の資料は、今もこの所長室の戸棚に保管してある。 昔そこにあった千尋の髪を辿るように、荘龍の手が壁を撫でる。 「……呆気ねぇもんだぜ…」 成歩堂はそれ以上見ていられなくて顔を背けた。 逃げるように、いや、実際言葉通りその場から逃げ出した。 あれは紛れもなく、荘龍と千尋の逢瀬だった。誰にも邪魔できないものだった。 事務所のソファに埋もれるように腰を下ろし、ばくばくと鳴る心臓を鷲掴むように押さえた。後ろめたさや羨望や後悔や悔恨で頭が混乱している。爆発しそうだ、と頭を抱え込んだとき、ふっと暖かなぬくもりが頭を抱える成歩堂の手に触れる。驚いて顔を上げれば、千尋のいた場所を見つめていたそのままの顔で、荘龍が見下ろしていた。 「肉まん、冷めちゃうぜ」 ふっと微笑する荘龍を、成歩堂はぽかんと間の抜けた顔で見上げていたが、おもむろに額にくちづけを寄越されて、目を瞬く。言葉が出ずに戸惑っていると、荘龍は成歩堂の隣に腰を下ろして、コンビニの袋を開けた。途端に広がる肉まん独特の香りが成歩堂の緊張を解す。 手のひらに乗せられた暖かな肉まんに、成歩堂は少しだけ微笑んだ。 「……いただきます」 「明日は本番だ。早く寝て、疲れを取ることだぜ」 「ええ…そうですね」 「それが終わったら、墓参りに行きてぇんだが……ついてきてくれるかい?」 こぽこぽと音を立て、急須のお茶を湯飲みに注いでいた成歩堂は、荘龍の言葉に少し手を止めた。差し出した湯飲みを受け取り、荘龍が目を細めている。急かすでもなく、答えを待っている。 随分渋いお茶を飲み、成歩堂は目を伏せた。 「…そうですね。このところ忙しくて、全然報告にも行けてないし」 「肉まんでも持ってくか」 「千尋さんはあんまんの方が好きですよ」 「そいつぁ知らなかったぜ」 思いの他暖かな荘龍の声に、大きく息を吐き出すと、身体の中で淀んでいたものがすべて出てゆくようだった。 荘龍が知らず、成歩堂が知っていることがあることを不思議な感覚で捕らえながら、成歩堂はいささか冷めた肉まんを食べる。うまいはずのそれが、ひどく味気なく思え、成歩堂はそれを飲み下すように渋いお茶を飲み干した。 |
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