・・・01.息苦しいほどの愛しさ ・・・ | ||
ごそ、と側で動く気配に、荘龍は目を覚ました。完全な覚醒ではなく、夢うつつの中にいて、それでもぱしぱしと目を瞬いている。視力を補うための派手な玩具がなければろくに物を捕らえることができないので、荘龍の部屋は素っ気ないほどに物がない。それもまた自己防衛のうちのひとつだが、最近、その部屋に物が増えつつあった。 他所から持ち込んでくる輩がいるのだ。 視界の端でぼんやりとした塊が動いているのを捕らえ、荘龍は手を伸ばした。捕まえられると思うよりも前に手にぬくもりが触れ、計らずもそれは『触れる』のではなく、手の甲で『叩く』ような格好になってしまう。 「いてっ」 小さな悲鳴に、荘龍は目を閉じた。 「……お前か」 しゃがれた声に、僕ですよ、と明け方の侵入者は不貞腐れた声を洩らす。 「他に誰か入ってくる人でもいるんですか」 裸でも過ごせるほど暖かい室内に、外気をいまだ纏わせている成歩堂の腕はスーツの感触に包まれていた。身体を横に向け、顔があるんだろうなと思う辺りに向かって話す。 「今まで仕事かい」 青いスーツを脱ぎ、床に落とす成歩堂が、ええ、と応える。それをぼんやりとした脳裏で聞きながら、スーツを床に落とすなんて物臭な奴だと荘龍は考える。明日の朝、皺だらけのスーツを前に途方にくれる様がまるで目に浮かぶかのようだ。 「ちょっと厄介な依頼を抱えちゃいまして…家に帰るよりこっちのが近いから、ベッド半分貸してくださいね」 するりと横に滑り込む成歩堂の身体は、長時間外を歩いてはずなのに暖かい。腕の中に納まるそれを抱きしめながら、時折荘龍は泣きたくなる。 暖かいからだ。 暖かいことば。 あたたかいいのち。 荘龍が眠って過ごした間に逝ってしまった彼女が失ったものをすべて、成歩堂が持っている。抱きしめても成歩堂が彼女に代わることもなく、そして彼女が戻ってくることもない。 だが、それとはまた別に、このあたたかいいのちに救われている自分がいる。 なにひとつ与えるものなどない、むしろ奪うばかりの自分に、成歩堂はたくさんのものを与える。 キスやセックスなど形で表せるものではない。 心に溜まる、目に見えないものだ。 息が触れ合うほど側にあってもまだ、はっきりとは見えない成歩堂の顔がふと近付く。唇と頬のぎりぎりの境に触れたぬくもりに、何度か目を瞬くと、成歩堂が笑う気配がした。 「またあなたが相手のような気がします」 「……厄介な依頼とやらかい?」 「ええ…なんだかいつも……難しい依頼はあなたが相手みたいだから」 荘龍が検察庁に訪れる少し前に、御剣と言う検事がアメリカに発ったと聞いている。成歩堂絡みの厄介な法廷はもっぱら御剣の担当で、彼がいなければ太刀打ちできる相手もいないのだと、最近では御剣とやらに渡るはずだった案件が荘龍に回される。腑抜けた奴らばかりだと、荘龍は瞬くのも億劫な気持ちで呟いた。 「手加減はしねぇぜ」 成歩堂と言葉を紡ぐことは荘龍にささやかな安らぎを与えるが、今は眠気の方が勝っている。今にも閉じそうな瞼を留めるように、成歩堂が身を乗り出した。 「ええ、そんな事望んじゃいませんからね。ねぇ、ゴドーさん」 「…ん?」 成歩堂の指が、荘龍の頬を辿る。くすぐったい指先に鼻先で笑えば、成歩堂の指は見えない目の縁を辿り、枕に落ちる髪を撫でた。耳にいくつか光るピアスに指を這わせ、成歩堂は秘密めいた声で話す。 「………あなたに会いたくて家を出てきたって言ったら、笑いますか」 成歩堂の言葉を頭が理解した途端、おそらくは心臓の近くにあるのだろう心が軋み、痛みが身体を鈍く走った。顔を顰め呻き声を洩らすまいとする荘龍の表情をどう捉えたのか、成歩堂は額を荘龍の肩の辺りに押し付ける。 「…家に帰ったんです。でも、なんだかあなたに会いたかったんです…」 暖かいからだ。 「馬鹿みたいですね、子供じゃないのに」 暖かいことば。 「だけど我慢できなくて、きちゃいました。明後日には法廷で会うかもしれないってのに」 あたたかいいのち。 「……ゴドーさん?」 顔を上げる成歩堂の気配を感じ、荘龍は目を閉じた。それより他にできることなどなかった。 「………寝ちゃいました…?」 覗き込む気配と、じっと見つめる気配。そして不意に頬に触れた柔らかな感触は間違いなく成歩堂の唇だ。何か祈りでも込めるかのように長く触れた唇は、触れたときと同じ唐突さで離れてゆく。そして変わりに肩に成歩堂の頭の重みが乗る。 部屋の明かりが消され、成歩堂の息が寝息に変わる頃、ようやく荘龍は閉じていた目を開いた。 白み始めた空の明るさが解る部屋の中を定まらない眼差しで眺め、自分の腕を枕に眠る成歩堂を起こさないように見下ろした。 暖かいからだ。 暖かいことば。 あたたかいいのち。 成歩堂は、奪うことしか、壊すことしかできない荘龍に、色々なものを与え満たしてくれる。それらを惜しみなく与えられるたびに、荘龍は泣きたくなる。 あどけない顔をしている成歩堂の額にくちづけを落とし、荘龍はぼやけた視界の中にしか見えない成歩堂の顔を見つめた。 どんな結果が待っているとしても、できるなら傷付かないでくれ、と身勝手な願いを込め、もう一度くちづけると、腕の中のぬくもりを縋るように抱きしめ目を閉じた。 |
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