■ Payappa. |
二回目の審議は午後からだった。一度目の法廷では有罪、無罪の判決が下せなかったからだ。些細な窃盗事件を扱うにしては時間のかかる原因は、偏におっちょこちょいで無能で勘違いで暴走する糸鋸刑事のせいかもしれない。証拠品に付着していた指紋が、みっつも持ち主不明であるにも関わらず、たったひとつ見つけられただけの被告人の指紋で、逮捕してしまったのだ。 あきれ果てる成歩堂の相手は、あの御剣で、昨日の審議に入る前に、君との審議はいつも警察に、いや、糸鋸刑事に足元を掬われる、と愚痴を言われてしまった。いっそクビにしてやりたいくらいだ…、と薄暗い顔をしている御剣を、まぁ頑張って、と成歩堂は笑顔で眺めていた。 集める証拠は集めたし、被告人のアリバイも立証できそうだ。今日の審議で無罪放免ですよ、と成歩堂は被告人に笑って言い、その被告人も検事側の証人として出廷するために、打ち合わせで検事側の控え室へ行っている。 「っつつ……」 楽なはずの審議を前に、弁護士控え室のソファに座り、腹を摩っている成歩堂を、一人がけの事務椅子に腰を下ろし、新聞を呼んでいた神乃木がちらりと見た。相変わらずの青いスーツの上着は、ソファの背もたれにひっかけてある。少し寒いくらいの室内で、成歩堂の額には汗が滲んでいた。 「どうした、コネコちゃん」 被告人が検事側の控え室に連れていかれたあたりから、成歩堂はずっと腹の辺りを摩っている。呻く声を、聞いて聞かぬふりをしていたのだが、どうやらそうもいかないようだ。審議はもう二十分後に迫っているし、これがもし重病の前触れだったら、さっさと病院に放り込んでしまって、神乃木が一人で審議を進めた方がいいだろう。 紙の擦れる音を立てながら、テーブルに新聞を置き、神乃木が振り返ると、いえ…、と成歩堂は眉間に皺を寄せている。その間も絶えず腹を摩っているので、神乃木は立ち上がり、成歩堂の顔を覗き込んだ。 「腹でも痛ェのか…?」 汗の滲んだ額に落ちる髪を上げてやろうと、神乃木が手を伸ばした。 その時だ。 「異議ありーッ!」 バンッと盛大な音を立てて、弁護士控え室の大きな両開きのドアが蹴り開けられた。 「おいおい、何事だい?」 神乃木が眼鏡をついと押し上げながら振り返ると、そこには肩で息をする御剣の姿があった。ぜいぜいと必死の形相で神乃木をにらみつけている。自慢のぴらぴらも、なんだかやけに歪んでいる。 「み、御剣検事…その…さ、裁判所ではお静かに……」 弁護士控え室のドアの外に立つ警備員が、慌てて御剣の腕を掴んでいる。だが御剣は、それを鬼気迫る表情で一喝した。 「煩いッ! 貴様は引っ込んでいろッ! 公務執行妨害で死刑にするぞ!」 ヒィッと飛び上がり肩を竦めた警備員は、御剣の剣幕に部屋の外へ飛び出して行った。 「み…御剣…。ど、どうしたんだい、一体? すごい剣幕で……」 目を丸くする成歩堂の横に腰を下ろし、わざとらしく神乃木は成歩堂の肩に手を置いた。 「クッ! どうやら検事さんは、コネコちゃんが心配でたまらねぇらしいぜ」 「異議あり! 異議あり! 異議ありだッ! 神乃木弁護士ッ! その汚い手を成歩堂の肩から外してもらうかッ!」 「なぜだい」 足を組み、高慢に顎を上げる神乃木が、ぐいと成歩堂の肩を引いた。不意のことに、バランスを崩した成歩堂が神乃木の胸に倒れこむ。それを抱きとめ、神乃木がニッと笑った。 「いいかい、コブタちゃん」 「こっ…こっこっこっコブタだとッ! 貴様、それは私の事かッ!」 「そうだぜ、コブタちゃん。アンタ、少し勘違いしてるようだが……このコネコちゃんは、アンタのものじゃねぇ、俺のものさ。なぁコネコちゃん。つまり…そう。ブタに、真珠」 ちゅっと成歩堂の額にキスをして、神乃木が笑う。それを見た御剣が、真っ赤になって地団太を踏んだ。 「きっきききき貴様! ななななんて事を! 神乃木! 意味がいまいち良く解らんが、腹の立つ! 今すぐその手を離せ! ええいッ! ぶっ殺してくれるッ!」 「クッ、できるもんなら……おい、どうした、コネコちゃん」 おかしそうに笑って成歩堂を抱きしめていた神乃木が、ふと腕の中を見下ろし顔色を変えた。いつもならこんな事をされれば、ぎゃあと騒いで大慌てで飛んで逃げるはずの成歩堂が、大人しく神乃木の腕の中に収まっている。それも一言も発さずに。さすがに変だと思った神乃木が、ぐいと顔を上げさせれば、ぎゃっ、と叫んだのは成歩堂ではなく御剣だ。 「なっ、成歩堂! 顔が青紫色をしているぞッ!」 「ううー……」 脂汗を浮かべて唸る成歩堂を、そう言やぁ、と神乃木が顎に手を当てながら見下ろした。 「アンタ、さっきから唸ってたな…。どうした、コネコちゃん」 「成歩堂! ももも、もしかして…が、癌…か。い、いや、くも膜下出血…ッ? いや、脳梗塞か!」 「……み、御剣……。君、どうあっても僕を殺したいみたいだね……」 弱々しい声を発する成歩堂の手を、真っ青な顔ですっ飛んできた御剣がぎゅっと握り締めた。 「そんなことはない! 私は君がこのところずっと忙しそうにしているから心配だったのだッ! 忙しいとぽっくり死んでしまうんだぞ! もし君が過労で死んでしまったら、私は…私は…ッ!」 「勝手に殺すんじゃねぇよ。俺のコネコちゃんを」 がつんと神乃木の拳が、御剣の頭に落ちた。ぐあっ、と叫んで頭を抑える御剣に、やれやれ、と溜息を吐いて見せ、それで、と腹を抑えている成歩堂に目をやる。 「どうしたってんだ」 「お、お腹が痛くて……」 「ふぅん、いつからだい?」 「え、えと…、昼ご飯が終わったくらい…ですかね……」 眉を寄せる成歩堂の額の汗を、ポケットから取り出したハンカチで拭ってやった後、神乃木は眉を寄せる。 「昼飯か……。何か悪いものでも食ったんじゃないのかい? 今日の昼飯は…確か…」 「えー……アンキモ、イカの塩辛、クサヤに鮒寿司、白子…」 「ウナギも食ったろう。冷奴が悪かったんじゃねぇのかい」 ううーん、と眉を寄せ、首を傾げる成歩堂と神乃木を、御剣は呆れたように眺めていたが、やがて、首を振って溜息を吐いた。 「…それらはおおよそ、昼飯に食うものではないと思うのだが。それも、いちどきに」 「そうかい? いつもこんな感じだぜ」 「いててて……ううー…やっぱりトイレ行ってこようかなぁ…」 「そうしなコネコちゃん。何なら、付き添ってやろうか?」 「それなら私が!」 「オイオイ、検事さん。アンタは俺たちの敵、そうじゃねぇのかい?」 「敵だろうがそうじゃなかろうが、私は成歩堂をその、アレだ…、そのぅ…」 もごもごと口篭り、顔を真っ赤にする御剣を、顔を顰めた成歩堂が見上げている。 「……御剣、君も何かおかしなもの、食べたんじゃないか?」 「なっ何を言う! 私はその、アレだ、そう、アレだ!」 「…何を言ってるのかさっぱり解らねぇぜ。おい、コネコちゃん。行くならさっさとトイレ行ってきな。早くしねぇと審議が始まっちまうぜ」 成歩堂の背を軽く叩き、神乃木が促した。おたおたと顔を真っ赤にして、俯いたり顔を上げたり、首を振ったりと忙しい御剣に呆気に取られていた成歩堂も、そうですね、と腰を上げ、部屋の外にあるトイレへ向かう。 「むっ、待て! 成歩堂! 私の愛から逃げるつもりか!」 「クッ、コブタちゃん。コネコちゃんの愛はこの俺のものさ」 寒気のするような台詞を聞こえないふりをして、成歩堂は部屋を出た。 途中で先ほど御剣に怒鳴られた警備員が、どたばたと走る糸鋸刑事を連れてやってくる。どうやら御剣を部屋から追い出そうと考えたようだ。賢明な判断…、と成歩堂痛む腹を抑えながらトイレのドアを開けた。 その日の審議は、かつてないほど、どうでもいい事柄で荒れに荒れた。担当弁護士は成歩堂であるのに、検事御剣怜侍の追及は鋭くしつこく神乃木へ投げつけられる。裁判長が何度も木槌を叩き、検察側は質問を成歩堂君のことから離れなさい、だとか、神乃木弁護士も、無意味に御剣検事を挑発しないように、だとか、成歩堂君、何とかしてくださぁーい! だとかどう考えても真っ当な裁判とは思えなかった。飄々とした男はそれすらも楽しんでいるようだったが、成歩堂は今度は腹ではなく胃が痛んだ。 その大騒ぎの審議から、成歩堂、御剣、神乃木の三人が揃う審議の傍聴席のチケットは、傍聴希望数過多のため、毎回抽選になったそうだ。 |