■ おでこにキス

 検察庁十二階、上級検事執務室一二〇二号のドアを手の甲で何度かノックし、成歩堂は中からの応えを待ったが返事がない。腕時計を見るが、約束を取り付けていた時間に間違いはなかった。いないのかな、と思ってドアを開けると、部屋の壁際に寄せられている赤いソファの上に、手すりを枕に横になっている御剣の姿があった。音を立てないように静かにドアを閉め、板張りの床を歩く。どうしてもコツコツと靴底の音が鳴ってしまうが、さすがに靴を脱いで歩くというわけにはいかないだろう。
 足音を殺したつもりで近付いたのだが、顔を覗き込むと、じっと目を瞑っていた御剣がふっと瞼を開いた。部屋の明るさに瞳孔が追いついていないようにしょぼしょぼと何度か瞬き、見下ろしている成歩堂に気付くと慌てて身を起こす。
「す、すまない。もうそんな時間か…」
「うん、今来たとこ。その様子だと書類の準備は…」
「いや、済ませてはある。済ませてはあるのだが、眠気に勝てず横になったので、順に束ねてはいないのだ。しばらく待ってくれたまえ」
 ソファから立ち上がり、執務机に向かおうとした御剣の髪の一筋が、見事にぴょこんと飛び跳ねているのを見つけて、成歩堂は笑いをかみ殺しながら手を伸ばした。
「ム、なんだろうか」
 擦れ違いざまに手を伸ばされた御剣は、まだ眠気の勝っているような顔で首を傾げている。いささか寝乱れている髪を手ぐしで整えてやると、ほんのりと頬を赤くした。
「すまない」
「面白い案件抱えてるって聞いたけど」
 御剣が現在抱えている案件の話は、成歩堂も糸鋸刑事経由で情報を仕入れていた。なんでも凶器と思われる刃物が密室から部屋の鍵と一緒に発見されたらしく、どうやってそれをその中に入れ、鍵を閉めたのかで揉めているらしい。死体が密室にあったのではなく、凶器が密室にあったのだ。
「…何が面白いものか…」
 こめかみに青筋を浮かせた御剣が、目頭を押さえながら呻く。
「立体模型を使って延々トリックを考えているのだ。糸鋸刑事はまったく役に立たないし、そう言うトリックが好きな鑑識課の課長はこんなときに有給休暇だ」
「じゃあトリック解くのに夕べは徹夜ってわけ? 大変だねぇ、検事さんも」
「まったくだ」
 成歩堂はチェス台の上に駒を退けておいてあった密室の模型を見つけた。まだ裁判にもなっていない事件なので、気軽に近付き、模型を覗き込む。
「壊すなよ」
 執務机に向かい、山積みにあっている資料の中から、提出するものを選んで順番どおりに並べていた御剣が眉間に皺を寄せて言う。法廷ならば怖い顔で威厳も出るのだろうが、何しろ寝起きの腫れぼったい顔だ。それに寝癖も結局治らなかった。あまり迫力はなく、どちらかと言えば膨れ面をしている子供のようだ。
「壊さないよ」
 成歩堂は密室の模型の屋根を持ち上げて、中を覗き込む。驚くほど精巧にできていた。
「へぇ…こんな風になってるんだ………ああ凶器はこれか…」
 ふむふむ、と顎を指先で撫でながら、模型を眺めていた成歩堂は、添付されていた資料にいやな名前を見つけて顔を強張らせた。
 被害者の女性が現在付き合っている相手の名前が、資料に書き込まれている。勿論その相手の指紋や毛髪などの痕跡は密室の中から見つかっており、現在最も有力な容疑者と言う所のようだ。今のところは重要参考人と言う枠組みの中に納まっているが、最も容疑者に近い重要参考人だ。
 被害者の女性の恋人の名前は、矢張政志。
「……またコイツか…」
 成歩堂がげんなりと溜息を吐けば、御剣も同じく大きな溜息を吐く。
「いい加減に何とかならないものだろうか…。おそらく警察のデータベースで使用頻度の最も高い一般人だと思うのだが」
「……また僕が弁護するのかな」
「それはどうだろうか」
 まとめた書類を茶封筒に納め、きっちりと封をした上で御剣はそれを成歩堂に差し出した。ヤッパリ矢張とはまったく関係ない事件の書類だ。
 御剣は模型を一瞥し、赤いソファにどっかりと腰を下ろした。隠し切れない疲労は、何も夜通しの謎解きのせいでもないらしい。
「捜査員全員の一致した意見だが、あの男にこんな入り組んだトリックは考えられまい。よほど単純なトリックでない限り、あの男が被告人として法廷に出ることはないだろうな」
「そりゃ良かった…と言うべきか何なのか……しかしよく恋人の死ぬ男だね。事件の陰にってどころじゃなくなってきたな」
「なら我々も近付かない方がいいだろう。そうでなくともお互い、色々と事件を呼び込むたちのようだからな」
 ふっと自嘲気味な笑みを浮べるのは、弁護士と検事でありながら共に留置所入所経験があるからだ。ついでに言えばどちらも被告人として法廷に出廷済みだ。
 思わず顔を見合わせて溜息を吐き、成歩堂はチェス台をソファの側へ寄せた。御剣の隣に腰を下ろし、どうせだからと謎解きに挑戦してみる。
 完全に施錠されたアパートの一室の、少し開いた引き出しの中に凶器は入っていた。凶器はバタフライナイフで、それが入っていた引き出しはバタフライナイフを滑り込ませるには十分な幅が開いていた。
 引き出しからは矢張の指紋が検出されている。
 声に出して資料を読む御剣の説明に、成歩堂は思わず頭を抱え込んだ。
「…いっそ刑務所に放り込んでもらった方がいいんじゃないのかなぁ…。そしたらきっと事件が減るよ」
「そうなったらそうなったで恐ろしいものがあるがな…。さぁやってみたまえ、弁護士君。我々が知力を尽くしても解けなかった密室トリックを解いてみるがいい」
 ふんぞり返って命じる御剣を溜息混じりに横目で眺め、お前ね、と成歩堂は呆れ顔だ。
「僕は謎解き専門の人じゃないんだけど。ちなみに鍵は?」
「凶器と同じ引き出しから見つかっている。合鍵はなし、死体はひょうたん湖側のボート小屋付近で見つかっている」
「…へぇ…またあそこか…。確かに夜は人通りが少ないからね…。ふーん…このドアも閉まってたのか……。鍵を閉めてから、鍵を引き出しにまで入れなくちゃいけないわけか……」
 模型を覗き込んでいる成歩堂の側で、事件概要をまとめた紙を読み上げるだけ読み上げた御剣は、くあ、と大きな欠伸をしている。一部屋ずつ取り外し可能な模型を、取り外したりまた組み立てたりと、半時間ほど黙って熱中していた成歩堂は、とうとう腕組みをしてうーんと唸った。
「なぁ御剣、これって本当に合鍵なかったのか? 言っちゃなんだけど、矢張が隠してるとかって事は……御剣?」
 ふと横を見ると、一緒に模型を眺めていたはずの御剣がソファに埋もれるようにして眠っている。昨日は徹夜で謎解きに挑戦していたと言うのだから、よほどの寝不足なのだろう。先ほどの居眠りでついた寝癖ものそのままに、少々息苦しそうな体制ですぴすぴと寝息を立てている様は、本当に同い年なのかと思うほどあどけない。
「……まぁ…徹夜だって言ってたしね…」
 やれやれ、と苦笑を馳せ、成歩堂は寝苦しそうな御剣の襟元のぴらぴらを緩めてやった。途端にすぴすぴからすうすうへ寝息を変えた御剣に、またひとつ笑みを深め身を乗り出す。御剣の向こう側にある肘掛に手を乗せ、身体を支えながら顔を屈めた。
 眠っている時ばかりはご自慢の眉間の溝もない。そことおでこの真ん中にちゅっと音をたててキスをした成歩堂は、そのままの体制で御剣の寝顔を見つめていたが、ふっと息を吐いて身を起こした。
 本来なら書類だけを貰って帰る予定だったのだが、この後に入っている予定は特にないし、一晩中頭を悩ませた御剣の代わりに、少しくらいは時間を割いて考えてもいいだろう。
 事件概要を書き記した書類を手に、再び密室の模型に向かう成歩堂の側で、ソファに埋もれるようにして眠っていたはずの御剣は、薄目を開いて成歩堂が模型に向かっているのを確認する。それからこっそりと成歩堂の唇が触れたおでこに手を伸ばし触れて、薄い笑みを浮べると、また瞼を閉じて、今度こそ本物の寝息をすうすうと立て始めた。