バラード





「はい、コレ」
 ぽんと渡されたものを反射的に受け取った王泥喜は、渡した人物と渡されたものとを思わず見比べた。
 目の前にはにこにこといつもの笑顔を浮かべる牙琉検事がおり、王泥喜の手の中にはCDケースがある。しかもパッケージの切られていない新しいものだ。ジャケットはブルーを基調にした波のようなデザインに薄く紗のかかった女性の横顔。
「あ、ラミロアさんだ」
 しばらく考えこんだ後、唐突に目を瞬いたのは、ジャケットの写真のラミロアが被っていたのが、ガリューウェーブのコンサートで被っていた藍色のヴェールではなく、濃い深みのある桃色のものだったため、一瞬誰だか解らなかったからだ。
「そう。おデコくん、きみ、ラミロアさんの歌は好きなんだろう? 僕のロックは嫌いでもね」
 笑顔の中にちくりと棘を紛れさせる響也に、ラミロアを巻き込み、ガリューウェーブを解散に追い込んだ事件が起こったその日のコンサートの幕間でのことを今だに根に持っているのか、と王泥喜は唇を引き結んだが、どうもそう言う意図ではないようだ。
「それ、日本では未発表の曲ばかり集めたアルバムなんだ。手に入れるのは苦労したけど、おデコくんの好きそうな曲がいくつも入っているからさ。聴くといいよ」
 言われてCDを裏返してみれば、確かにどこにも漢字もひらがなもカタカナもない。さすがに値段と思しきものは数字で書かれていたが、それ以外の文字はきれいさっぱり王泥喜には解らなかった。
 そしてそれ以上に解らないのが、響也がこのCDを寄越す理由だった。
「あの…どうしてこれを?」
 CDを渡すだけで用は済んだのか、鼻歌を歌いながら、王泥喜がくるまでの間に広げた書類を片付けている響也は、時折かかる女の子の声ににこやかに手を振っている。解散したとは言え、やはり根強いファンがいるらしい。二分と空かず明るい悲鳴がどこかで聞こえ、裁判所の喫茶コーナー前は用もないのにたむろする女の子で一杯だった。
「だから言ったろ? おデコくんの好きそうな曲がいくつも入っているってさ」
「それはさっき聞きましたけど…。ラミロアさんが僕にって?」
「いや? 僕が買ったよ? ボルジニアから取り寄せたんだ。検事特権で」
 日本での未発表曲ばかりを集めたアルバムなので、ラミロアが気を使ってか好意からか送ってくれたのだろうかと安易に考え尋ねてみた王泥喜だったが、あっさりと、そしてやや不思議そうにそれを否定した響也にますます不可解な思いは募るばかりだった。
「全然懲りてないですね。でも、なんでです?」
「だってキミ、ラミロアさんの歌みたいなのは好きだって言ってたじゃないか」
 はぁ、と王泥喜は目を瞬かせた。
「確かに言いましたけど…」
「だからだよ」
「……いや、意味が解んないんですけど。なんで俺にくれるんです? ラミロアさんから言付かってくれたんなら、まぁなんとなく解るんですけど…」
「きみに音楽を好きになってほしいからさ」
 にこにこと微笑み、邪気の欠片すら感じられない響也に、王泥喜は何をどう反応して良いのやら解らない。
 ラミロアのCDを、それも日本では未発表の曲ばかりを集めた入手の難しいCDをわざわざ検事特権で取り寄せてまで王泥喜に寄越す理由が解らない。確かに響也は理由を口にはしたが、それは王泥喜にとってまったく納得できる内容ではなかった。
 音楽を好きになってほしいから。
 そんな理由で、七面倒な思いをしてまでボルジニアのCDを取り寄せるなど、物好きにもほどがある。
 困惑し、言葉もない王泥喜に気付いたのか、響也は依然変わらぬ笑顔で言った。
「僕の曲は嫌いみたいだけど、ラミロアさんの曲は好きなら、ラミロアさんの曲を好きになって、たくさん聞いてほしいよ。いつになるか解らないけれど、ラミロアさんと一緒に曲を作りたいと思ってるんだ。きみが聞いてくれるような、バラードをさ。その時に音楽を音が苦なんて表現してほしくないからね。その時のための先行投資かな」
「…先行投資……」
 ますます話の内容が理解できなくなってきて、王泥喜は顔を顰める。CDを渡すことと、いつか作るかもしれないバラードに対する先行投資の繋がりがまったく見えないのだ。
 響也はその表情で王泥喜の心中を察したのか、くすりと微笑むと、王泥喜が難しい顔をして見下ろしているCDを軽く指先で突いた。
「いつか僕がきみにバラードを渡して、きみが聞く時に、音が苦じゃ僕の作ったバラードがかわいそうだ。きみのためのバラードがきみに愛されるための先行投資だよ」
 つまり自分の作った曲への理解を広めるための布石みたいなものか、と王泥喜は安易に考えた。
 そのためにはまずは好きそうな曲から聞いていけと言う事だろう。突き詰めていけばなんともナルシストなことだと王泥喜は思ったが、口は出さず、そうですか、と軽く顎を引いた。
「じゃあ、ありがたく頂いておきます」
 ありがとうございます、とぺこりと頭を下げた王泥喜を、響也は聊か不満そうな顔で見つめている。かと思ったら、気まずそうに視線をずらし、うーん、と唸り声を上げた。
「なんです?」
「伝わってないのかなぁ…。あのさ、おデコくん。解ってないようだから一応言っておくけど、僕はいつかきみのためにバラードを作るって言ってるんだよね」
「え、そうなんですか?」
 目を丸くする王泥喜を前に、気まずそうな響也の顔が一転し苦笑じみたそれに変わる。よくころころと表情の変わる人だな、と思う王泥喜の前で、響也は苦味を帯びた笑みそのままで告げた。
「解ってないようだから言っておくけど、バラードってほとんどが恋愛の曲なんだよね」
「へぇ、そうなんですか」
 王泥喜はちらりと喫茶コーナーの壁時計を見上げた。
 渡したいものがあるからと裁判所で呼び止められ、一緒にいたみぬきを先に帰らせて喫茶コーナーに立ち寄っていたので、みぬきがやや心配だったのだ。心配なのはみぬきそのものではなくて、夕飯の買出しも済ませると言っていたみぬきだ。割とアバウトな彼女は料理に関してもアバウトで、次から次へと得体の知れないものを作り出す。さすがに成歩堂親子の胃袋が心配になっていた王泥喜は、成歩堂なんでも事務所に勤務し始めてからと言うもの、三食を共にするようになっていた。今日はビーフシチューが食べたいです、と言っていたので買うべきものを伝えはしたが、またワインの代わりにぶちまけられたバルサミコ酢のせいで酸っぱいビーフシチューを食べるはめにならないとも限らない。
「解ってないようだから更に言っておくけど、きみのためにバラードを作るよって言うことはね、つまりきみを愛しているよって言う意味があるんだよ、音楽業界じゃ」
「へぇ、そうなんですか」
 早く帰らないと、と思う王泥喜は、ほとんど響也の話を聞き流していた。
「……もうちょっと簡単に言った方がいいのかな? 僕はきみが好きだって言ってるんだけど」
「へぇ、そうなん……なんですって?」
 早く話が終わらないかなぁ、と思っていた王泥喜は、危うく聞き流しかけた言葉にぎょっと目を剥いた。王泥喜の表情を前に響也はようやくほっとしたように笑う。
「良かった。時計ばかり気にしてるから、僕の話なんてどうでもいいのかなって思っちゃったよ」
「あ、すみません。ちょっとみぬきちゃんに夕飯の買出しを頼んじゃって……」
「へぇ、彼女、料理するんだ。そうは見えないけどね」
「得体の知れないものばかり作るんですよ。酸っぱいビーフシチューとか、ゴムみたいに硬いオムレツとか。だから俺が作ってるんですけどね」
「じゃあ早く帰らないと、また酸っぱいビーフシチューになっちゃうわけだね」
 響也は微笑みを保ったまま、立ち上がった。テーブルの上の書類と一緒に裏返しにされていた伝票を取り上げる。
「あ、俺の分は」
「いいよ、コーヒーくらい」
「でも」
「あ、そうか、検事と弁護士がそれじゃ駄目なんだっけ……」
 うーん、面倒だなぁ、と考え込む響也が意外と常識を慮っていることに、王泥喜は思わず笑みを浮かべた。常識とはかけ離れた世界の住人だと思っていたので、そう言うところは好ましく映る。
「じゃあ次にコーヒー飲むときは、俺がオゴリますよ」
 名案だとばかりに言い放った王泥喜を、響也は曰く言いがたい表情で振り返る。
 憤りのような、悲しみのような、困惑のような、喜びのような、様々な感情が入り混じった表情に、響也の後に席を立った王泥喜は途惑った。なんて顔するんだ、と目を丸くする王泥喜に、響也は静かな微笑を浮かべて告げる。
「きみは、僕の話や、僕自身のことなんてきっとどうでもいいんだろうね」
 喫茶コーナーの入り口にたむろしている女の子から、一斉に黄色い悲鳴じみた溜息が漏れる。話の内容が聞こえない彼女らは、牙琉響也の切なげな微笑に胸を撃ち抜かれていることだろう。
 響也はそれをちらりと振り返り、明るい笑顔で軽く手を振った。喫茶コーナーの前は阿鼻叫喚の騒ぎだ。浮ついた空気を満足気に見やった響也は、次いで王泥喜に微笑む。今度はファンの女の子に向けるのと同じ、明るい笑顔だった。
「じゃあね、おデコくん。また法廷で」
 ひらりと身を翻し、颯爽と会計へ向かう響也の後ろ姿に、向かう先がレジじゃなきゃかっこいいんだけどな、とその時でなければ王泥喜は思っただろう。
 だがその時の王泥喜にはそんな事を考える余裕はまるでなかった。
 目の前で微笑んだ響也の、切なげな苛立たしげな微笑みが目に焼きついて離れなかったし、何より、彼の告げた言葉で頭が一杯だったからだ。
 きみは、僕の話や、僕自身のことなんてきっとどうでもいいんだろうね。
 悲しげに告げた言葉の意味に、王泥喜は途惑い、罪悪感を覚える。
 それが何に由来しての言葉なのか、いくら鈍い王泥喜にでも、あれだけ簡単に言われたのだから解っている。だからこそ途惑う。去り際の響也は、そんな感情など微塵も感じさせなかったからだ。
 王泥喜は手の中のCDを見下ろして溜息を吐いた。
 事務所に戻ったらみぬきと一緒に聞こうと思ったそれが、響也の言葉ひとつでひどく重く感じ、響也と次に法廷で会うときに、どんな顔をしていればいいのか、王泥喜には解らなかった。


 このお話は同人誌『ゆったりと優しすぎるメロディー、気づけば増していく胸のいたみ、うるさくてかなわない心音、ぼくはきみがすきでした。』に一部改正し掲載しております。『ゆったりと(長すぎて略)』は、このお話を序章としたお話です。