■ ごく一般的な夢

 大の男が二人寝るには、成歩堂のベッドは小さかった。ただでさえ、標準よりも大柄な二人なのだ。寄り添っているだけでも暑苦しい。幸いなことに、成歩堂の恋人は、あまりべたべたする甘ったるい行為を好まなかったので、今年の猛暑も互いの体温に辟易するということはほとんどなかった。身体を繋げた後でも、成歩堂の恋人は、あっさりベッドを降りてシャワーを浴びに行き、そのまま部屋の床に布団を敷いてさっさと眠ってしまうのだ。少しくらい、べたべた甘ったるいことしても、バチはあたらないんじゃないかなぁ、と本来はそう言うことが嫌いなはずの成歩堂が思ってしまうほどである。
 今日も今日とて、セックスこそしなかったものの、ベッドの上と、ベッドの下の布団の上で別れて眠った。そろそろ寒くなってきたのだし、恋人のぬくもりが動く気配を目覚めのきっかけにもしたいところである。
 ところが、成歩堂の目覚めのきっかけになるのは、大体において、「おい」とドスの聞いた低い声に蹴り起こされることだった。
「そろそろ支度をした方が良いのではないのか、成歩堂」
 足の先で、横になった成歩堂の背中の辺りを蹴りつけている。成歩堂は、うーん、とひとつ唸った後で、ごろりと身体の向きを変えた。
「……朝から君は元気だねぇ…」
 腫れぼったい瞼を擦りながら、それを朝の挨拶に代えると、きちんといつものスーツに身を包み、髪を整え、ついでに布団も畳んで端に寄せた御剣が、ぐいと腕を組んで、法廷さながらの高慢な顔で見下ろしていた。
「公務員たるもの規則正しい生活を、だ。成歩堂、朝食を作れ。腹が減ったぞ」
「………それくらい自分でやってよ…」
 寝転がったまま、うんと伸びをすれば、ふん、と御剣はさも当然のように顔を背ける。
「私に朝食を作らせようとは、いい度胸だ」
「作れないもんね」
 起き上がり、通常の方向にではなく尖った髪をがりがり掻き乱す。
 生きることに不器用な御剣は、他の事においても不器用だ。今まで一体どうやって生活していたんだか、と思うほどに生活能力は皆無に等しく、最近ようやく、ポットではなくヤカンとコンロを使って湯を沸かし、紅茶を入れるという芸当を身につけた。画期的だ、と成歩堂の事務所で春美に手取り足取り教えてもらいながら、なんとか習得した御剣は嬉々として叫んでいた。
 卵を焼かせれば、黒く焦げて固くなった卵の殻入りのスクランブルエッグなのか、それとも出汁巻き卵なのか、判断のつきかねるものが皿に乗ってやってくるし、味噌汁を作らせた舌がしびれそうなほどしょっからいものが出てきた。カップラーメンはお湯を沸かせるようになったから作れる、と胸を張って言うし、鍋を使うラーメンは湯を止める前に粉末スープを入れて沸騰させ、中身をコンロの上にあふれさせてしまった。
 かつて我が身に起こった食にまつわる様々なことを思い出し、成歩堂は眉を下げる。
 同じことを考えていたのだろう。
 御剣は気まずそうに顔を逸らしていたが、やがて、どんと足を踏み鳴らした。
「いいからさっさと作るのだ、成歩堂! 遅刻してしまうではないか!」
「それが人に頼む態度? まったくもう…いい加減パンのひとつも焼けるようになってよね。それから目玉焼きくらいさぁ…。あと紅茶だけじゃなくコーヒーも淹れられるようになってほしいなぁ。インスタントでもいいからさ。これって男の夢だと思うんだけど……」
 もそもそと呟きながらベッドを降り、尻の辺りを掻きながらリビングに向かう。とは言え、貧乏弁護士の家などたかが知れている。寝室に、リビングとは名ばかりのダイニング、それからユニットバスだ。せめてトイレと風呂は別のところに引越ししたい…あともう一部屋ほしい…、と成歩堂は朝からそんな事を思いつつ、コーヒーメーカーに豆と水をセットし、フライパンを取り出して卵を割り、食パンをトースターに放り込んだ。
「そうなのか?」
 成歩堂の後をついて周りながら、何をするでもなく成歩堂の手元を覗き込んでいる御剣に、まぁねぇ、と成歩堂は己の顎を撫でる。無精髭がぞろりと指先を掠めた。
「恋人が作ってくれた朝ごはんの匂いと一緒に、おはようって起こされるのは、結構夢だと思うよ、ごく一般的なね。今度、矢張に聞いてみなよ。それか荘龍さん……は駄目だな、あの人、一般的じゃないから」
 成歩堂法律事務所のもう一人の弁護士の名を、成歩堂は途中で止めた。裸エプロンが男の夢だぜ、とか言いそうな気がする。バターとジャムをテーブルに並べ、成歩堂はそこではたと手を止めた。
 ずっと後ろを付回していた御剣が、手を顎にやり、法廷で散々お目にかかった、ちょっと待て今考えているポーズを取っていたのだ。
 あーらら、と成歩堂は苦笑した。
 一般的な男の夢について、どうやら吟味しているらしい。
 これはひょっとしてひょっとするかも、と少しばかり嬉しくなって、成歩堂はインスタントスープの粉末を入れたカップに、ポットのお湯をドバドバと注いだ。スプーンでぐるぐるとかき回していると、トースターから食パンが飛び出してくる。うまく焼けた目玉焼きと一緒に皿に乗せ、冷蔵庫の野菜室に少しばかり残っていたカットサラダを盛り、成歩堂はまだ考え込んでいる御剣を呼んだ。
「食べようよ、剣。遅刻しちゃまずいんだろ」
「む、そうだな」
「じゃあ、いただきまーす…っとその前に」
 椅子を引き、腰を下ろして両手を合わせた御剣は、途中で言葉を止めた成歩堂を、む、と眉を寄せて見た。スープのカップを手に、不思議そうにしている御剣に、成歩堂はにんまりと笑ってみせる。
「朝の挨拶をしないとね、御剣。おはようとキスは、恋人の朝の挨拶の定番だと思うけど」
「何かと思えば…」
 そんなことか、と御剣は笑った。それからスープのカップを一旦置き、腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がる。身を乗り出して成歩堂の頬にくちづけた。
「おはよう、成歩堂。明日もまた朝食を作ってくれ」
「……やれやれ、君が作るんじゃないのかい」
「朝は忙しいからそんな暇はない。君がそれで良いというのなら、夜に朝食を作ってやるとも」
「威張って言うことじゃないよ、それ…」
 苦笑しながらも成歩堂は、おはよう、と言い返し、暖かく湯気を立てる朝食に取りかかる。
 いつもの代わり映えのしない朝食を取った後は、それぞれの職場へ赴き、昼からはまた法廷で一戦を交える予定だ。
 負けられないね、と成歩堂は思い、御剣を見る。そして、頬にジャムをつけたままでパンを頬張っている御剣に、思わず苦笑した。
「本当、負けられないよ」
「む、なんだ?」
 思わず呟いた成歩堂の声を聞きつけ、御剣が首を傾げる。なんでもないよ、と成歩堂は軽く肩を竦め、食パンにバターを塗った。