■ 逆転裁判 ■

 さぁとばかりに差し出された二つの手に、成歩堂は目を丸くした。
 時は二月十四日、月曜日。
 週初めの今日はしなければならないことがたくさんあるし、そうでなくても今日中に二件もの裁判を抱えているのだ。どちらも傷害に関するもので、荘龍と一件ずつ分担することにはなっているが、法廷には時間が許す限り互いに顔を出そうと言い合っていた。一人よりも二人の方が箔がつく。
 そう言うわけで、朝から法廷へ出てきたわけなのだが、開廷時間を間近に控え、なぜか弁護人控え室に御剣が顔を出したのだ。
 あ、御剣検事だ、こんにちは〜、とにこやかに声を揃えて挨拶をした真宵と春美、そして、やぁ、と軽く手を上げた成歩堂をも無視して、御剣はぎろりと荘龍を睨み、どうだったのだ、と挨拶抜きでいきなり問いかけた。どうしたんだい、と慌てる成歩堂をやはり無視し、荘龍は重々しく首を振り、まだだ、と答える。何かあったんだろうか…、と内心冷や汗をかいていた成歩堂に、検事と弁護士は揃って溜息を吐き、そしておもむろに右手を出しだしたのだった。
「…な、なに?」
 思わず後ずさりをする成歩堂に、御剣がぐいと顔を近づける。
「今日と言う日が一体どう言う日なのか、よもや忘れたわけではあるまい」
「そうだぜ、コネコちゃん。物忘れの激しいアンタの頭にも、さすがに今日と言う日の事は色濃く刻まれている事だろうよ」
 じりじりと詰め寄る御剣と荘龍に、やはりじりじりと後ずさりをする成歩堂が、頬に苦りきった笑みをへばりつけた。
「ななな、なんのことかさっぱり解らないんだけど……あ、きょ、今日ってことは、法廷のこと? 忘れ物はないと思うんですけど…」
 ちらりと荘龍を見る成歩堂に、やれやれ、と突き出す手を引っ込めずに荘龍は首を振った。
「そうじゃないぜ、コネコちゃん。これは俺たちだけの問題だ」
「…俺たち…といいますと…」
「俺とコネコちゃん、アンタとの間に育まれた愛に関する問題だ!」
「あい?」
 首を傾げる成歩堂の顔には、まだ法廷が始まってもいないのに、びっしょりと冷や汗が浮かんでいる。
「そうではないぞ、成歩堂!」
「へ。違うの?」
「私と貴様との問題だ! 幼い頃から培ったあああああ愛情がたたたた試されるときがきたのだ!」
 そんなに顔を真っ赤にして、しかもどもるくらいなら言わなきゃいいのに、と綺麗さっぱり無視された真宵が不貞腐れて呟いている。その傍らで、ソファの上で正座をしていた春美が、愛の問題なのですわ、と目をきらきらと輝かせていた。
「な、なんのこと…? て言うか、二人とも目が怖いんだけど…」
 とうとう壁に追い詰められ、他へ逃げようとした成歩堂を、油断なく御剣と荘龍が囲う。右には荘龍の腕が、左には御剣の腕があり、そして正面には隙間なくぴっちりと並んだ御剣と荘龍の身体があった。逃げるに逃げられず、これぞまさに絶対絶命と言う奴だ。
 血走った目で睨みつけられて、もとい、見つめられて、成歩堂は冷や汗と一緒に脂汗もかいた。このままでは法廷が始まる前に水分を出し切ってしまって脱水症状になってしまう。見かねた真宵が、口を挟む。
「ナルホド君。今日はバレンタインデーだよ。ほら、朝にあたし達、チョコ、あげたじゃん」
「ああ、なるほど……て言うか、それとこの状況と一体何の関わりがあるってのさ」
「オーマイガッ! 信じられねぇぜ、コネコちゃん! お嬢ちゃんがああまで言ってるってのに、アンタはまるで凍てつくチョモランマの頂上くらいに冷てぇ心の持ち主だぜ!」
 のけぞった荘龍に、意味解らないんですけど…、と成歩堂は呟いた。
「し…信じられん……。成歩堂、貴様がそんなにも無頓着だったとは……」
 わなわなと両手を震わせている御剣に、君、顔色が薄紫色をしているよ、と成歩堂は眉を寄せた。
「つまり、そうですわ、なるほど君!」
 ぴょこんとソファの上で飛び上がる春美が、にこにこ笑顔で、うぬぉう、と呻き声を上げている大の男二人を交互に見比べて明るく言った。
「お二人は、なるほど君からチョコレートを頂きたいと思っていらっしゃったのです!」
「……ああ」
 殊更大きな溜息を吐き、成歩堂は肩の力を抜いた。
 突然奇行を行う二人にはすっかり慣れっこだったが、さすがにこうもくだらないことで大騒ぎをされるとは思っていなかった。尖った頭をぽりぽりとかいた後、成歩堂はソファに置いていた仕事用の鞄の中をごそごそと漁った。
 床にもんどり打って、さながら駆除剤を噴きかけられたゴキブリのようにのた打ち回っていた御剣と荘龍が、成歩堂のその行動にぴくりと敏感に反応し、あたかも駆除剤を免れたゴキブリのようにかさこそとその足元に近付いていく。
 うわぁ、なんだかあまり見たくない光景だねぇ、と真宵は顔を顰めている。
 鞄の中から取り出した包みを確認し、成歩堂は床に這いつくばって期待に満ちた眼差しをしている二人に差し出した。
「はい、どうぞ。御剣は甘いものが好きだから、普通の生チョコにしておいたけど、荘龍さんのはカプチーノ味のトリュフにしておきました。それなら、平気でしょ?」
「クッ…さすが俺のコネコちゃんだぜ! 愛が痛いほどこのポンコツの身体に染み渡るぜ!」
「ななな生チョコ! 成歩堂からの生チョコ!」
 クリスマスのプレゼントを貰った直後の小学生、いや、幼稚園児のように床にごろごろと転がって喜びを露にしている二人を、春美と真宵は揃ってソファに座ったまま眺めている。
「…うーん、チョコひとつでここまで喜べるってのは、ある意味才能だよね」
「愛ゆえですわ、真宵さま!」
「そろそろ開廷だから、法廷に行きたいんだけどなぁ…」
 あまりの喜びように恐れ戦き、声がかけられないでいる成歩堂に、まぁまぁ、と真宵は鞄を押し付け背中を押した。
「荘龍さんにはあたしから言っておくからさ! 遅刻したら、裁判長、うるさいでしょ。先に行きなよ!」
「そうですわ、なるほど君! あとはわたくしどもにおまかせあれ!」
 ぽんと胸を叩いて見せる春美に、じゃあ後は頼むよ、と成歩堂はこっそりと弁護士控え室を抜け出した。
 後には喜びを露に床を転がりまくる大の男と、それを冷静な眼差しで見守る少女二人が残される。
 イベントごとに毎回これじゃあ、疲れるなぁ、と思いながら成歩堂は法廷に向かい、いつまでたってもこない、本日の担当検事である御剣を、裁判長と共に待つのだった。