■ 逆転裁判 ■

 四月に入ってすぐの月曜日の午後に、事務所のドアをノックするややせっかちな手に応えを返したのは、事務所の手伝いにきていた春美だった。学校が始まるまでまだ日があるし、霊媒師の修行も一段落ついたからと、三月の終わりごろからずっと泊りがけで遊びに来ているのだ。丁度年度の変わり目で忙しいこともあって、成歩堂も彼女の訪問と手伝いを歓迎していた。
「遅いわよ」
 春美がドアを開けるなり発せられた第一声に、荘龍と向かい合い、応接セットを使って次の公判に使う資料の整理をしていた成歩堂は、え、と思わず顔を上げた。
「相変わらず雑然とした事務所ね、成歩堂龍一」
「かかかかか狩魔検事! なんでここに!」
 びしりと思わず人差し指を突きつけると、春美に手土産のケーキを渡し、事務所の中に入ってきた冥が嫌そうに顔を顰めた。
「相変わらずばかばかしいほどに騒がしくも失礼な男ね、成歩堂龍一。人を指で指すと言う行為は、欧米では大変失礼な行為なのよ、改めなさい」
「あー…どちらさんだったか?」
 眉を寄せ、ぼりぼりと頬を掻く荘龍が目を細めている。眼鏡をかけていてもなお、目の悪い彼にとって、事務所の入り口に立っている冥は薄ぼんやりと輪郭くらいしか解らないのだろう。
「あなたも相変わらず失礼な男ね、神乃木荘龍。かつての同僚を忘れたとは言わせないわよ。まぁ、あなたのそのお粗末な脳みそに置き留められる記憶の量などたかが知れているのでしょうけれど」
「君こそ相変わらず絶好調だね、狩魔検事。今日は突然どうしたんだい?」
「実は私もいるのだが」
「あ、そうそう、みつるぎけんじさんもいらっしゃっているのです!」
 春美がもらったばかりのケーキを早速お皿に乗せて運びながら、声を上げる。聞き慣れた声に振り返れば、確かに戸口から見慣れた御剣がやってきた。
「あれ、どうしたの、御剣」
「む、いやなに、たいしたことではないのだが」
「なら帰りな、コブタちゃん。ここは俺と成歩堂の愛の巣だぜ」
 ふふんとコーヒーカップを持ち上げながら、例によって挑発する荘龍を綺麗さっぱり無視し、御剣は続けて成歩堂に言った。
「近々ある公判で私が扱う案件の被疑者が、以前お前が弁護した被疑者でな。弁護側からの資料も参考になるかと思って、借りにきたのだ。それで、ついでに冥がお前の事務所に行くと言うので、道案内も兼ねて連れてきた」
「ああ、そう。資料ならあっちの部屋にあるから、後で渡すよ。狩魔検事は、どうして日本に? アメリカの法曹界でバリバリ活躍してるって聞いてたけど」
 ちゃかり春美と並んでソファに座り、自分が持ってきたケーキにフォークを通している冥は、澄ました顔で答える。
「アメリカにも飽きてきたので、日本に戻ってきたのよ。明日から法廷にも出るわ」
「え、かるまけんじさん、また日本でお仕事されるのですか?」
「ええそうよ、お嬢ちゃん。怜侍がいつまでたっても成歩堂に泥をつけられないので、私が変わりに彼の鼻を明かしてやろうと思っているのよ」
「泥遊びは楽しそうですわ!」
「ええそうね、お嬢ちゃん。あなたも相変わらずのようで安心したわ」
 いまいち噛み合っていないような会話を平然と続けている女の子二人を見比べていた荘龍が、突然にやりと笑って御剣を見た。
「ってことは、このお嬢ちゃんはあんたのコレかい?」
 ぐっと親指を突き出す荘龍に、ふっと飛び切り冷静に御剣が切り返す。
「妹のようなものだ。それにその指は男の恋人を示すものだぞ、神乃木荘龍」
「おっとうっかり。それで、貴様はお嬢ちゃんに後釜譲って、アメリカでお仕事かい?」
「え、そうなんだ、御剣。頑張れよ」
「……いやにあっさりと見限るな、成歩堂…。何かやましいことでもあるのか」
「や、やましいことってなんだよ。別にやましいことなんて…」
「バミューダ海溝より深く、チョモランマよりも高く、俺と子猫ちゃんの間にやましいことはたくさんあるぜ!」
 にかっと笑って親指を突き出す、まるで矢張のような仕草をする荘龍に、ちょっとっ、と成歩堂が慌てた。
「何言ってんですか、荘龍さん! やましいことなんてひとつもありませんよ!」
「そうかな」
 澄ました顔で、春美の入れたコーヒーをうまそうに啜り、おっと、と荘龍はそのカップを遠ざけた。どうかされましたか、と春美が心配そうに眉を寄せ、ぎゅっと両手を握り締めているのを見て、またこのクソ親父は、と成歩堂がそれに関しても一言言ってやろうと腰を浮かしかけると、ぱしんと荘龍があいている手で自分の額を軽く叩いてみせる。
「こいつぁ脳天突き抜けるうまさだぜ! はみちゃんブレンド七十二号は、春休み中一番のデキだ!」
「まぁああ! わたくし、本当に嬉しいです、荘さま! 練習したかいがあったというものですわ!」
「…荘さま…? ああ、この男のことね。お嬢ちゃん、この男を荘さまなんて呼んでいるの? すると成歩堂龍一は、ナルさま? ぷっ、ばかな男のばかさ加減を象徴するかのようなばからしいネーミングね」
 口元に手を当てる冥を見て、かちんと成歩堂が顔を顰めたが、気付いているはずの冥はそ知らぬ顔をしているし、荘龍はくつくつと笑い声をかみ殺している。御剣と春美に至っては揃って同じように考え込む表情で顎に手を当て、う〜む、と唸っていた。
「ナルさまか……法廷でそう呼んでやろうか、成歩堂?」
「荘さまに合わせて、なるほど君のことも、そうお呼びするべきでしょうか?」
 ぱっと顔を上げて口々にそう言う二人に、え、いや、それはちょっと…、と成歩堂は冷や汗を掻いて後ずさる。
「あなたのばかさ加減を表すのに、それほど的確な言葉はないと思うけれど」
「狩魔検事まで! 大体、狩魔検事、何しにきたんだよ!」
「よきライバルに、復職を報告にきたのよ」
「敵情視察って奴か。やれやれ、お嬢ちゃんはよほど暇と見える」
「貧乏暇なしを身体で表現しているあなた方と違って、有意義かつ的確な時間の使い方を知っているだけよ。それにしても、ああ、随分と長居をしてしまったわね。行きましょう、怜侍。邪魔をしたわね、お嬢ちゃん」
 春美ににこりと微笑みかける辺り、案外冥も春美を気に入っているのかもしれなかった。年齢からして、年の離れた妹みたいなものだろうか。
 先に車に行っているわ、と御剣に声をかけ、冥が部屋を出て行こうとする。御剣は成歩堂から借りなければならない書類があったので、成歩堂の後に続き所長室へ向かっていたのだが、ああ、そうそう、と冥が声を上げたので、成歩堂ともども振り返った。
「明日、法廷でお会いしましょう、ナルさま」
 くすっと微笑を浮かべ部屋を出て行く冥の後姿に、成歩堂はぱかっと口を開いて、何を言っていいのやら解らないような表情を浮かべている。
 気の毒そうに眺めていた御剣も、ぽんと彼の肩に手を置き、同情感たっぷりに頷いた。
「冥を待たせているのだ、ナルさま。早く資料を貸していただきたいのだが」
「み、御剣! 君まで!」
「ほんの冗談だ」
 澄ました顔でそっぽを向く御剣に、びしっと成歩堂が人差し指を突きつけるが、顔は真っ赤で迫力はない。
「いーや! その顔は冗談じゃないね! 絶対法廷でそう呼ぶつもりだろう!」
「いや、そんなつもりは決して」
「ないって言い切れるのか! 顔が笑ってるよ、御剣!」
「いやいや、顔がにやけているのは元からだ。気にするな」
 ぎゃいぎゃいと言い合いながらも、所長室へ入って資料を探してはやるらしい。荘龍は、はみちゃんブレンド七十二号を味わいながら、ふぅん、と唸る。何とはなしに、それを眺めていた春美も長い睫を瞬いた。
「なんだか仲がいいじゃねぇか、妬けるねぇ」
「相変わらず仲がよろしいですわ。ナルさまと、ミツさま」
「ミツさまってのは、ああ、あのお坊ちゃんか。御剣のミツか」
「みつるぎけんじさんの、つるをとって、ツルさまでもかわいくって素敵だと思うのですが…」
「まぁ、お嬢ちゃんの好きに呼ぶがいいさ」
 所長室から、またぎゃいぎゃいと言い合う声が聞こえてくる。ここは法定かと聞きたくなるような大声で、意義ありだの、待っただのと叫んでいるので、やれやれ、これは長くなるねぇ、と荘龍は溜息を吐く。
 いつものことです、と春美は澄ました顔で告げ、冥が持ってきてくれたケーキの、成歩堂と御剣の分もちゃっかり美味しく頂いたのだった。
 あいかわらずゴドナルだかナルミツだか、はたまたはナルメイなのか解らない話になりました。なんでこうなのかしら私ってばいつもいつも最初に思ったのとはまったく違う話が出来上がる…。今月のテーマは『出会いと別れ』なので、冥との再会で『出会い』と言うことで。はみたんとゴドさんは、茶飲み友達兼親子って雰囲気が好きです(どんなだ)。