■ The scent of lemon.

 検察庁十二階の上級検事執務室、他とは一線も二線も隔す御剣の部屋を訪れていた成歩堂は、ぐるりと辺りを見渡した。
「相変わらずだなぁ、この部屋は」
 ぴかぴかに磨かれた板張りの床に、新しい資料を入れる隙間もないほどぎゅうぎゅうに資料が押し込まれた本棚、赤い布張りのソファの側にはなぜかぴらぴらきらきらのスーツが額入りでかけられていた。窓際のトロフィーには埃がうっすら積もっているのに、そのすぐ側のトノサマンフィギュアには塵ひとつ積もっていない。毎日磨いているのだろう。うっかりそんな想像をしてしまった成歩堂はくすりと笑い声を洩らした。
「何を笑っている」
 眉間に皺を寄せ、立派な机に向かってペンを走らせていた御剣怜侍がぴくりとこめかみを引きつらせ顔を上げた。
「いや、別に…」
「嘘を吐け。いかにも何か考えていましたと言うような顔をしていたぞ」
 成歩堂は机の上に置いた書類を取り上げ、中をぺらぺらと捲って確認をしながら呟いた。
「いや、トノサマンのフィギュアは毎日ちゃんと磨いてるんだ…と思って」
「なっ!」
 顔を真っ赤にして勢い良く立ち上がった御剣は、その勢いで飛び出した椅子が後ろの棚に当たり、ティセット一式がカチャカチャ音を立てるやら、立派な花束が飾られたこれまた立派な花瓶がぐらぐら揺れるのやらには無頓着で、慌ててトノサマンのフィギュアを抑えている。成歩堂はそれを見て、またひとつ笑いをかみ殺した。
「だ、誰がそんな事を!」
 真っ赤な顔で額に脂汗を滲ませて、ぐらりと揺れたトノサマンのフィギュアを抱きしめながら言う御剣に、誰って…、と成歩堂はいささか呆れ気味に答えた。
「ちょっと考えれば解るよ。だってそっちのトロフィーには埃積もってるのに、トノサマンのフィギュアにはまったくだからね」
「なぜ私が掃除したと思うのだ! 検察庁は君の事務所とは違い毎日清掃員が掃除機を持ってうろついているだろう!」
「いや、清掃員はさすがに執務室には入れないだろ。証拠品を取り扱ってるわけだし、重要書類もあるし。掃除してるのは君だろ? 性格が現れてるな、と。ところでそれってプレミアついてるらしいね。真宵ちゃんが羨ましがってたよ。限定百体のシリアルナンバー入りで、しかも一体七万円。とてもじゃないけどお小遣いじゃ買えなくって泣く泣く諦めたって。なんでそれが七万円もするのかは解らないけどさ」
「ふっふっふ」
 ぴんと髪を跳ねさせた愛嬌のある後頭部が、なにやら不敵な笑みでくつくつと上下している。くるりと振り返った顔は今までの恥ずかしそうに紅潮したそれではなく、自信に満ち溢れた法廷で良くお見かけする例のあの顔だった。
「無論、何の苦労もなく手に入れたわけではないのだよ。予約受付日の前日から店頭に並び、予約番号一番を手に入れたのだからな! 当然シリアルナンバーも一番だと言う事を付け加えておこう!」
「…へぇ」
 書類を捲っていた成歩堂は御剣の自慢気な声を聞いていたが、あ、誤字…、ととあるページに目を留めてペンを取った。
 裁判所に提出する書類を作成していたのだが、成歩堂の事務所にある書類がどうしても必要なのだ、と電話がかかってきたのは今朝だ。どうせ依頼人もいない事だし、それなら昼から届けるよ、と返事をして足を運んできてみれば、目に付いたのはいやに綺麗に磨かれているトノサマンのフィギュア。御剣の部屋に行くのならば是非ともそのトノサマンのフィギュアがもらえないか交渉してきてくれ、と真宵に頼まれたのを思い出して話を向けたのだが、案の定御剣は勢い良く食いついた。
「……前日から並んで…ね。確か、秋葉原の一軒だけでの限定予約だったんだよな?」
「ほう、良く知っているではないか」
「欲しがってる人って結構いるんだろ? よくシリアルナンバー一番なんて取れたよな」
「当然だ! と言うか、実はかなり危険だった。私が歩いている先に、トノサマンの帽子を被った男がいたので、慌てて追い抜かして一番最初に並んだのだ。当日の早朝でもいいかと思っていたのだが、早めに行動しておいて良かった」
「ところでさ」
 ソファに腰を下ろし、バインダーを台紙にして誤字にチェックを入れて、赤ペンで正しい漢字を書いていた成歩堂は何気なく呟いた。
「その店って、確か十一時開店だよね」
「十二時間は店の前でじっと並んでいたのだ。それくらいの根気がなければとてもではないがシリアルナンバー一番は手に入れられないと言うことだ」
「その日の午前中に、僕と会う約束してたのは、当然覚えてたわけだよね、君」
「………えっ?」
 トノサマンのフィギュアに熱烈な眼差しを送っていた御剣の横顔がぴきりと凍りついた。
「そのトノサマンのフィギュアの発売日が十月三日。スケジュール帳確認した? 三日の九時に新宿駅西口で待ち合わせって書いてないかい?」
 それはもう見事に、御剣の顔色がトノサマンのフィギュアに熱い眼差しを送っていた時のほの赤い色から、マイナス四十度の世界を体験した後のような青い青い色に変わる。リトマス試験紙みたいだ。
 ぎこちなく振り返る御剣が、え、ともう一度呟いた。
 成歩堂はそれを目の端に捕らえながらも、素知らぬふりをして書類に眼を走らせていた。もちろんそれもふりだ。内心では一生懸命御剣のほうに意識を集中している。目を通しているはずの書類の中身などちっとも目に入ってはいない。
「九時に新宿駅西口で、待ち合わせ。なかなかこないし、連絡取ろうと思っても、良く考えたら君、携帯の番号教えてくれてないじゃない。だから連絡できなくて困ったんだよね」
 努めて何でもない事のような口ぶりを装いながら成歩堂は呟いた。
「え、その…あの、なんだ、それは、決して忘れていたわけではなく…」
 法廷では見られないしどろもどろの有様に、うっかり成歩堂は笑いそうになるのをぐっと堪えた。
「忘れてたわけじゃないんなら、どうしてこなかったのさ、三日九時新宿駅西口」
 ひとつ大きな溜息を吐いてやれば、御剣はぎくりと端目にも解るほど身体を強張らせる。
「何か事故でもあったんじゃないか…とかさ、心配したわけだけど…まぁ良かったよ、何事もなくて。元気で前日からトノサマンのフィギュアの予約に並んでたってだけだからね。ね?」
 顔を挙げ、にっこりと成歩堂が微笑めば、だらだらと冷や汗を流していた御剣ががばっと勢い良く頭を下げる。その勢いで後頭部で跳ねている一房の髪がぴょこんと動いたほどだ。
「すまない! すっかり忘れていた! この埋め合わせは必ず…!」
「じゃあさ」
 書類をぱたんと閉じ、赤ペンのキャップをして、成歩堂はそれを御剣に差し出しながら、尚も笑顔を崩さずに言った。
「手始めにまず、携帯の番号教えてね。でなきゃまた待ちぼうけ食らわされないとも限らないしさ」
「う、あ、す、すまない…」
「それから」
「まだあるのか!」
 携帯電話の番号を赤色の携帯電話のディスプレイに表示して差し出していた御剣が、成歩堂の言葉に愕然と叫ぶ。目を真ん丸に見開いているので、いつもより表情があどけない。成歩堂はトノサマンのストラップつきの携帯電話を受けとり、表示されている電話番号と、ついでに勝手に操作してメールアドレスも表示させる。自宅の電話番号も抜かりなく頂いた。僕の番号登録しとくね、と携帯電話と事務所の電話、ついでに自宅の電話番号も入力し、赤色の携帯電話を返却する。
「携帯電話の番号貰ったくらいで罪滅ぼしになるとでも思ってたのかい? 言っとくけどね、四時間待ったんだからね、四時間。その間に宗教勧誘から声をかけられるし、通りがかりのチンピラに因縁つけられるしで散々だったんだから」
「…と、通りがかりのチンピラに因縁……? どうなったのだ、それは」
「弁護士バッチ見せて法廷で話をつけましょうかとにっこり微笑んだら、あっさり引き上げて行ったよ。それでね、御剣」
「な、なんだろうか」
 心なしかびくついているでもない御剣は、ぎこちない仕草で大きな執務机に収めていた革張りの椅子を引き出して腰を下ろす。その目を真っ直ぐに見据えて、成歩堂はにっこり微笑んだ。
「真宵ちゃんがそのトノサマンのフィギュア、欲しがってるんだよね」
「なっ……なんだとッ?」
「七万円もするらしいじゃないか。もうすでにプレミアがついてるって。だから真宵ちゃんのお小遣いじゃ買えないってすっごく残念がってたんだ」
「何をふざけたことを言っている、成歩堂! いくらなんでもこれだけは渡さんぞ!」
 勢い良く椅子を蹴り立ち上がり、また後ろの戸棚にぶつけてぐらつくトノサマンのフィギュアを慌てて抑えにかかった御剣が、顔を真っ青にして怒鳴る。
「これは私が予約の前日から並んでようやく手に入れた大事な大事なトノサマンだ! おいそれと他所へやれるか!」
「その予約に並んでいる間、僕もずっと立ってたんだよね、新宿駅西口で」
「うっ…!」
「いや、別にいいんだよ、たかだか四時間待ってたことなんて些細なことだよ。君がそのフィギュアを手に入れるために十二時間並んでいたことに比べればね」
「……だ、駄目だ! 例え貴様の頼みと言えども、これだけは……!」
 戸棚から落ちやしないかと必死になってトノサマンを押さえている様は、見ようによってはトノサマンを放すまいとしがみ付いているように見えなくもない。ここに糸鋸刑事が入ってきたら面白いだろうなぁと思いながら、成歩堂は素っ気なく、そう、と呟いた。
「それなら別にいいんだ。真宵ちゃんには御剣がどうしてもくれなかったって言っておくから」
「そ、そうか……そうしてもらえると非常に有難いのだが……」
 目に見えてほっとした様子で、御剣は棚の上のトノサマンから手を放した。それを見届けた成歩堂は、ソファの端に寄せて置いてあった鞄を取り立ち上がる。御剣の携帯電話などの番号を入力し保存するため取り出していた青い携帯電話もスーツの胸ポケットにしまった。
「ああそうだその書類、それはコピーだから返却してもらわなくてもいいけど、一応個人情報が書いてあるわけだから、必要なくなったらシュレッダーで処分してね」
「む、もう帰るのか? そのぅ…できれば次に休みの日にでも、三日の埋め合わせに外で食事でも……」
「え、そんなの気にしなくていいですよ、御剣検事。僕達、わざわざ待ち合わせて外で食事するほど親しい間柄じゃないですし」
「なんなのだ、その他人行儀な話しかたは!」
「え、いやだなぁ、御剣検事。僕は検事さん相手に無礼な口を聞けるような男じゃありませんから。じゃあ僕はこれで失礼します、御剣検事」
「ちょっ…ちょっと待て、成歩堂!」
「なんですか?」
 ずかずかと執務室を歩き、ドアノブに手をかけたところで御剣が追いついた。成歩堂が引こうとしていたドアを押さえ、ぜいはあと息を乱しながら背でドアを隠す。
「そ、その…次に会う日を決めてもらいたいのだが…」
 勢い良く突進してきた割には、頬を染めて言う言葉にあまり勢いはない。恥ずかしさのほうが先に立っているようだ。
「そうですね。次はきっと法廷でお会いすることになると思いますよ。それまで別に御剣検事とお会いする予定もありませんし」
 にっこりと嫌味なほど完璧な笑顔を馳せて成歩堂がそう言うと、こめかみを引きつらせていた御剣がとうとう怒鳴った。
「だから、約束を忘れていたのは悪かったと謝っているではないか! その陰険な仕返しの仕方は止めろ!」
「……陰険な…ねぇ」
「あっ…いや、その…違…!」
 勢いで怒鳴っておいて、今度はまたすごい勢いで顔を青ざめさせている。
 見ていて飽きない男だと思いながら、成歩堂は顎に手をやった。
「……あれだけ待たせておいて、心配させておいて、陰険な仕返し…か。もしかして忘れてるかもしれないから言うけど、あれって僕達の初めてのデートなわけだよね? 初デートすっぽかされた僕の気持ち、解る?」
「………す、すまない…でも、その……トノサマンのフィギュアの予約が…」
 しどろもどろで言い訳をする御剣に、ふっと成歩堂は息を吐いた。
「いいけどね、別に。僕はトノサマン以下って事なんだろう? 初デートの約束を忘れる程度のね」
 ドアに背を押し付けて俯いている御剣は、唇を噛み締めている。俯いているせいでかかる髪の隙間から、御剣の目にちょっぴり涙が滲んでいるのを見て、成歩堂はやりすぎたかなとぺろりと舌を出した。
「ねぇ御剣、初デートの失敗をなかったことにしてあげてもいいんだけど」
 成歩堂の言葉に勢い良く顔を上げた御剣は、同じくらい勢い良く身を乗り出して口を開こうとして、はたと口を噤んだ。
「あ…あのフィギュアだけは……その、駄目だ」
「うん、いいよ、あれはね。だって御剣が初デートすっぽかしてまで予約しに行った奴だからね」
「う、ム…すまない…」
 またもや俯く御剣の頬に手を伸ばし、成歩堂はにっこりと微笑んだ。見るものによってはとてもたちの悪い微笑みを顔一杯に浮かべ言う。
「ただね、あれがもらえなかったって解ったら、真宵ちゃんがっかりすると思うんだよね」
「う…うム…それは…そうだろうな」
「だからさ、君、もっと安い奴でいいんだけど、何かプレゼントしてあげてくれないかな? トノサマンのフィギュア、君なら詳しいだろ? 僕はプレゼントしてあげたくてもいまいち良く解らないしね」
「解った。それくらいなら喜んで……だが、君は…その、なんと言うか……その…は、初デートをすっぽかしたのは私で、待ちぼうけを食らわされたのは君なのだし……何か…お詫びに……」
 相変わらずしどろもどろの御剣を前に、成歩堂はしばし考えた。他からすればほんの数秒の間にめまぐるしく考えた成歩堂は、じっと上目遣いで成歩堂の言葉を待っている御剣に声を潜めて言う。
「それならさ、君からのキス二回で手を打つよ」
「キッ?」
 顔を真っ赤にして上擦った声を上げた御剣に、成歩堂は思わず苦笑を馳せる。「サルじゃないんだから…」
「きききききキス二回ッ? それも、私からだとッ? そんな恥ずかしい真似ができるか!」
「あ、そう。ならいいんだよ、別に。君が嫌ならね、無理強いはするつもりはないし」
「…あ、いや……その……」
 赤くなったり青くなったりと、顔色だけでもめまぐるしく忙しい御剣を間近で見て、可愛いなぁ、と成歩堂は内心でにやついていた。だがにやついているのは内心だけで、決して外には出さない。そんな事少しでも出してしまったら、御剣は烈火のごとく怒りくるって泣きながら逃げていくだろう。感情表現が乏しいようで意外と豊かな恋人に、成歩堂は、そ、と簡単に頷いた。
「無理強いするつもりはないし、ああ、そうだ。キス二回はね、何も一度にって事じゃないんだよ。今は一回だけね。二回目は次のデートでしてよ」
 ね、と小首を傾げる成歩堂と御剣の距離は、一メートルと間が開いていない。ドアに背をくっつけている御剣と、その御剣の頬に成歩堂が手を当てているのだから、開いているのは軽く曲げた腕一本分と言うところだろう。意外と間近な成歩堂の顔を、御剣はぎりぎりと音が出そうなほど強い眼差しで睨みつけていたが、やがてふっと息と共に力を抜いた。
「今日は一回でいいのだな!」
 真っ赤な顔でそう言われ、成歩堂は得意の笑みを浮かべて頷いた。
「今日はね。次のデートで二回目」
「目を閉じろ!」
「えーなんで、勿体ない。折角君からキスをしてくれるって言うのに、どうせだからちゃんと目を開けて堪能したいって思うんだけど…」
「目を閉じろと言うのに!」
 ばしんと目の上に勢い良く手を置かれ、成歩堂は思わず呻く。むしろそれは置くと言う表現ではなく叩くと言う表現の方が良いのではないかと思うほどの勢いだ。
「ちょっと御剣、今のはさすがに……」
 文句を言っていた口に、ちゅっと軽く暖かいものが触れる。話している途中だった成歩堂は、思わず御剣の手の下で目を瞬く。
「こ、これでいいのだろう!」
 御剣の手が目の上から外れると、顔を真っ赤にした御剣が必死になって違う方向へ目を走らせていた。
 軽く触れただけのキスを求めていたわけではなく、本当はもっと濃い恋人同士のキスをさせようと思っていた成歩堂だったが、これだけで照れて真っ赤になる恋人を拝めるのなら、それはそれでいいかもしれないと思いなおした。
 ぎゅっと自分の身体を自分で抱きしめるかのように腕を掴んでいる御剣に、成歩堂はさり気なく顔を寄せた。
「ありがとな、御剣」
「れ、礼を言われるほどのことでは…ッ!」
 ますます顔を赤くする御剣の唇に唇を寄せ、成歩堂はにっこりと微笑んだ。
「キスするときは、黙ってろよ、御剣」
 額と額を触れ合わせて言われた言葉に、御剣はきゅっと唇を閉じる。ついでに目まで閉じてしまった恋人の可愛らしさに微笑みながら、成歩堂はそっと触れるだけのキスをした。
 額をくっつけたままで唇を離すと、御剣が上目遣いで見つめてくる。
「次のデートは今週末にしようか。なんか予定ある?」
「い、いや、何もない…はずだ…」
「じゃあ、もう予定入れないでよ。それから、予定が入ったらすぐに電話するように」
「うム、心得た」
「その時に二回目のキスだからな」
「…う、ウム」
 頷く御剣に、もう一度、今度は少し深いキスを成歩堂から仕掛ける。
 唇が触れ合う前に盗み見た御剣は、しっかりと瞼を閉じていた。
 検事執務室で検事と弁護士がこんなことをしてるって知ったら法廷中大騒ぎだよな、と頭の隅っこで思いながらも、成歩堂は目の前の恋人の真っ赤な顔を堪能し、またもう一度キスをした。