■ Spring has come | |
冬が終わり、春がくる。 おだやかな日差しは、小さく区切られ、鉄格子のはめられた三十センチ四方の窓の向こうにあった。高く灰色の壁は辺りへ威圧感を与える。それを緩和する為に、塀の外には桜並木が広がっている。周辺住民から寄せられる苦情への、行政の苦肉の策か。あんな背の高い木を塀のすぐ側に植えるなど、さぁ脱走しなさいと言っているようなものだ。 愚かな、と囚人服に身を包み、独房の壁にもたれ、肌に当たる春の光に神乃木荘龍は唇をうっすらと開いた。 葉桜院での殺人事件に関し、あやめへの判決が下った翌日には、すでに神乃木荘龍は検事と言う肩書きではなく、被告人という名で呼ばれるようになっていた。荘龍の憐れな身に対する同情か、それとも綾里真宵の命を助けた感謝からか、成歩堂は当然のように弁護人の名乗りを上げたが、荘龍はそれを断わった。あの男なら、当然自分の罪を軽くしてくれるだろう。罪状を殺人ではなく、過剰防衛、もしくは正当防衛にまで軽減してくれるかもしれない。けれどそれは、荘龍の望むものではなかった。確かに荘龍にはあの時、綾里舞子の身を借りた美柳ちなみに、殺意があったからだ。裁判長の目を欺く事はできても、己の心を欺く事はできないと、荘龍は検察側が述べるがままの罪を受け入れる覚悟ができていた。 成歩堂は残念そうに、解りました、と呟き、項垂れながら帰って行った。それきり会っていない。いや、会って言葉を交わしてはいないが、予備審議の傍聴席に、ぼんやりとした彼の姿を見た。傍聴席の最前列に、恐らくは綾里真宵と並んで座り、淡淡と進められる裁判を、じっと食い入るように見つめていた。 最高裁で下された荘龍への罰は、懲役四年。殺人罪としては比較的軽い。荘龍自身が、殺人罪を適用する事を強く望んだ。それを最高裁判所は、罪を重く受け止め深く反省していると見なし、殺人罪としては最も軽い三年の懲役を課した。裁判官の中にも、殺人罪とではなく過剰防衛、つまりは傷害致死が妥当なのではないかと言う声もあったそうだ。現に、綾里真宵は彼女個人の気持ちとして、最高裁判所の証人喚問に応じ、荘龍がいなければ自分が殺されていただろう事を訴えていた。ただ、荘龍自信が明確な殺意があった事を告白したので、やむなくの殺人罪と言う結果になった。死体への偽装工作等は、あやめが自ら行った事として、彼女が罪に問われたが、灯篭の周りの雪を取り除いたこと等が、証拠隠滅と判断され、懲役一年が付け加えられた。ふたつの罪をあわせ、懲役四年。人を一人、殺した事を考えると、酷くあっさりしたものだ。 いっそ死刑にしてくれればよかったのに、と荘龍が吐き捨てるように呟けば、結審後一番最初に面会にやってきた少女は、頬を真っ赤にして膨らまし、頭が飛んで行くのではないかと思うほど強く首を振った。 「そんな事言わないでよ、神乃木さん! あたし、神乃木さんの罪が軽くってホッとしてるんだから」 紺色の和装の少女の傍らで、背が面会のための机に届かず、ぴょんぴょんと飛び跳ねている幼い少女が声を張り上げた。 「そうですわ! わたくし、ゴトーけんじさんが帰ってこられるのを、今から首を長くしてお待ちしております!」 「おいおい、お嬢ちゃん」 顔は見えないが、声であの奥の院に閉じ込められ、べそをかいていた少女だと荘龍には解った。 「俺は、あんたの叔母様を殺しちまった野郎だぜ」 荘龍の皮肉にゆがめた笑みを、春美は目にしなかった。できなかったからだ。ぴょんぴょんと飛び跳ねる春美を見かねてか、看守の一人が踏み台を持ってやってきた。面会席には椅子があるだろうに、と荘龍は思ったが、どうやら座ると逆に高さが足りなくなるようだ。やっと机の上に顔を出し、春美はにっこりと笑った。 「でも、ゴドーけんじさんは、真宵様を助けてくださいましたから」 「そ、そうだよ! あたしを助けてくれたんだからッ!」 「それになるほど君も、毎日のように仰っています」 春美は恥ずかしそうに少し俯き、頬を染めた。 「ゴドーけんじさんにごちそうになったコーヒーは美味しかったと。わたくしもそう思います! 奥の院で、わたくしに下さったコーヒー、本当に美味しかったのです。わたくし、うまれて初めてコーヒーを飲みましたから!」 「そりゃあ光栄だな。お嬢ちゃんの最初の一杯を、俺が入れた事になるのか」 「はい! なるほど君、あれからわたくしにもコーヒーを下さいますが、ゴドーけんじさんに頂いたものより、まったく、全然、さっぱり、すっごく、おいしくありません!」 「…は、はみちゃん……それ、言いすぎ…」 真宵が目を真ん丸にしている。春美は頬をぱんぱんに膨らませていたが、真宵に言われて失言に気付いたようだった。あっ、と驚いた顔で口を覆っているが、もう遅かった。荘龍はくっと喉の奥で笑いを噛み殺そうとしたが、目を白黒させている春美を前にしては、我慢ができず、とうとう吹き出して笑ってしまった。看守が目を光らせ、騒がないようにと注意をした。ああすまん、と片手を上げてやりすごし、荘龍は息を吐く。分厚いガラスの向こう側では、真宵と春美が揃って同じ表情をしている。鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな顔だ。 「お嬢ちゃん、まるほどうはコーヒーを入れるのが、下手なのかい」 「えっと…それはそのぅ………はい。とっても」 「クッ、そりゃあいい。あんた、あんたの最初の一杯が俺のコーヒーでよかったぜ。カップの中の闇に対する感情は、最初の一杯で決まるのさ。うまいか、まずいか…。二度と飲むまいと思うか、もう一度と思うか…。味覚を決めるのは、何でも最初の一杯さ」 「…相変わらず、どういう意味だか解らないよ」 真宵が顔を顰めている傍らで、春美は眉を寄せて首を傾げていたが、ふとパッと顔を輝かせた。こくりと小さな顎を頷かせ、頬を染める。 「はい、確かに、なるほど君のコーヒーを一番最初に飲んでいたら、きっと二度とコーヒーは飲みたくないと思っていました!」 「こっちのお嬢ちゃんは飲み込みが早ェぜ」 「ううっ、なんだか悔しいなぁ…。あたしの初めてのコーヒーは、なるほど君がいれた奴なんだよね……すっごく苦くて濃くってしょっぱいの」 「……それは、砂糖と塩を間違っただけじゃねぇのか」 「んー、そうなのかも。それよりさ、神乃木さん! 刑務所を出たら、あたし達と一緒にミソラーメン食べに行こうよ! なるほど君の事務所の近くにね、すっごく美味しい味噌ラーメンを食べさせるお店があるんだ! エビチリもオススメだよ! その頃にはきっとなるほど君もいっぱしの弁護士になってると思うから、奢ってもらおうよ!」 ころころと笑う真宵に、荘龍は答えなかった。答えられなかった、と言う方が正しい。成歩堂と荘龍の本当の意味での関係を知らなかった真宵には、推して測る理由もなかったのだろうが、荘龍は懲役を終えても、成歩堂には会うまいと思っていた。 酷く、彼を傷付けた。 成歩堂に近付いたのは、かつて愛した女の復讐をする為の手段ですらなかったのに、荘龍は彼を好ましいと思ってしまった。弁護に必死になる姿、被告人を遮二無二信じようとする姿、一生懸命なのに、どこかおっちょこちょいで見当外れで、稚拙な弁論。だが、真実を暴き出す力を彼は持っていた。そう、まるで、綾里千尋のように。 そして荘龍は、成歩堂を綾里千尋のように、愛したのだ。 困惑する男を宥め、迫り、甘え、絡め手で我が物にした。 美柳ちなみへの復讐をするための、手段として。 それは成歩堂龍一への復讐でもあったはずなのに、抱きしめて、コネコちゃんと囁いてやれば、かちんこちんに固まる。愛しているぜ、と嘯けば、冗談言わないで下さいよ、と怖い顔で荘龍を見た。けれどその目は、期待に満ち溢れていた。荘龍の言葉を信じるそんな成歩堂を見れば、胸が疼いた。検事と弁護士なのに…、と眉間に皺を寄せながらも、荘龍の白い髪を撫で、成歩堂は呟いた。こんな関係になっちゃって…ゴドーさんが後悔しなきゃいいんですけど、俺はいいんですよ、今更失うものなんて、何もないから。唇の端を持ち上げて微笑む成歩堂の言葉に、喉の奥が焦げ付きそうになった。 復讐が終われば、すべてが終われば、この温もりを手放さなければならない。いや、これは自ら離れていくだろう。裏切り者と罵られるのだろうか。それとも、泣くのだろうか。 終わらなければいい。 復讐などなかった事にして、このまま、ぬるま湯のような幸福に浸っていたい。 終わればいい。 すべてが、すべてを終わらせてしまいたい。そして、早く、あの愛した女の場所へ行きたい。強く美しく高潔だった女が庇護する場所で、成歩堂への気持ちも含めた全てを忘れてしまいたい。 悩む荘龍を置き去りにして、美柳ちなみと綾里君子のおぞましくも恐ろしい計画は着々と進んで行く。荘龍に、立ち止まっている暇はなかった。 そして、綾里舞子が霊媒した美柳ちなみの体内深くに刃を突き刺したあの時、荘龍は確かに達成感を感じていた。これでようやく、すべてが終わると、安堵した。 成歩堂には悪い事をした。 一生許されなくても構わない。 むしろ、許されずにいるほうが、いい。 法廷で真実を明るみに晒した成歩堂が、自分をずっと憎み続ければいいと、荘龍は思った。彼が自分を憎んでいるその間は、彼の中で確かに自分が息づいているのだからと、自分勝手な事を思った。 忘れられたくなかったのだ。 あの、綾里千尋に似た魂を持った男に。 綾里千尋とはまったく別の愛し方をした男に、忘れられたくなかった。 「あの、神乃木さん?」 黙り込んだ荘龍に、気遣わしそうに真宵が声をかけた。ハッと顔を上げれば、どうかしたの、と心配そうに眉を寄せている。いや、と首を振り、荘龍は薄い笑みを浮かべていた。 この少女らが、ここへ足繁く通ってくる間は、成歩堂も自分の事を、忘れられないだろう。ただ、それは、少女らにとって良いこととは思えなかった。 面会の時間が終わりに近付いている事を、看守が知らせた。後五分です、と告げるのは、真宵と春美の側にいる看守だ。荘龍も検事として何度か顔を合わせている看守だったが、いつもはもっと怒鳴るように声を張り上げる。相手が幼い子供達だから、丁寧な言葉を使っているのだろうか。 「あのっ、ゴドーけんじさん」 机に手をついて、精一杯身を乗り出す春美に、なんだ、と顔を向ければ、春美は赤く染めた頬をにっこりと微笑ませた。 「わたくし、いま、コーヒーをいれる練習をしているのです!」 「…へぇ、そりゃあいい。お嬢ちゃん、あんたが、まるほどうの味覚を矯正してやるといいぜ」 「今度こちらに窺うときは、わたくしの入れたコーヒーをお持ちします!」 一瞬呆気に取られた荘龍も、すぐにゆるく首を振って見せた。 「ここはあんたみたいなお嬢ちゃんがくる場所じゃねェのさ。さっさとまるほどうのところへ帰って、ここへは二度とこない事だ。いいな」 「そんな!」 面会時間の終了を告げる看守の言葉と、春美の泣きそうな声は重なった。荘龍はゆっくりと腰をあげ、じゃあな、と幼い二人の訪問者に手を上げ、面会室を後にした。 もう二度とあの少女はこないだろうと思っていたのに、それから何度も春美は訪れた。隔週ごとに決められている面会の日に、真宵と共にやってきては、ぺちゃくちゃと下らない事を喋って帰っていく。ここは幼稚園じゃねぇぜ、と言ってやれば、真宵の方が目を丸くして、それくらい解ってるよ、と答えていた。真宵が一緒でない時には、糸鋸刑事が一緒だった。居心地が悪そうに部屋の隅っこでじっとしているが、何か成歩堂から言い含められているのか、一切春美の話に口を挟もうとはしない。 荘龍にとって春美の訪問は、囚人である自分の立場を一瞬でも忘れられる時だった。心安らぐと表現すればいいのか、それとも、気が紛れると表現すればいいのか、どちらともつかないものだが、決して嫌な気分になるものではない。 だが、荘龍には解るのだ。弁護士であり、検事であった彼には、こうも頻繁に刑務所へ出入りする少女を、周りの大人たちがどんな目で見ているのかが、手に取るように解る。後ろ指を差されるようなことを自分がしているのだと、早く春美が気付くべきだと思っていたが、幼い子供にそれを伝えてもきちんと伝わらない事も解っていた。 荘龍は、春美の五度目の訪問の時に一通の手紙を差し出した。春美は目を丸くしたが、それを受け取るとまじまじと白い封筒を見つめ、首を傾げている。 「…これは?」 「まるほどうに渡してくれないかい、お嬢ちゃん。とても大切な事が書いてある」 もう春美を刑務所へ寄越すなと言う内容だった。理由は、書かなくても解っているだろう。 それを春美はぎゅっと握り締め、はい、と頬を真っ赤に染めて頷いた。自分が誰かの役に立つ事が、もっとも嬉しいと身体中で伝える幼い子供を眺め、荘龍はふっと目を伏せる。マスクの下での事だから、きっと春美にはわからなかっただろう。 成歩堂へ手紙が渡れば、春美は二度とこないはずだった。 それなのに次の面会日には一人でやってきて、神妙な顔で茶色の封筒を差し出した。 「これを、なるほど君から預かって参りました。ゴドーけんじさんに、お渡しするようにと。あと、お返事を聞いてくるように、と」 手紙は一度、看守が検閲する事になっている。春美の側にいる看守がそれを受け取り、ざっと目を通すと、今度は荘龍の側にいる看守が受け取り目を通した。頷く看守から、開封済みの封筒を受け取り、荘龍は手紙を開く。視神経を患っている荘龍に読めるようにと、それは普通からすれば大きな文字で書かれていた。封筒の中から出てきた手紙が、数枚に及ぶのはそのせいだ。 読むか、読むまいかと一瞬逡巡した後、春美の期待に満ちた目に急かされるように、荘龍は一枚目の手紙に目を走らせた。
奇妙な事に、その手紙は追伸と書いてあるにも関わらず、その下にあるべき追伸の文章が書かれていなかった。そそっかしい成歩堂のことだ。書き忘れたのか、それとも紙が足りずに裏にでも書いたのかと、手紙をひっくり返して見たが、そこに何かが書かれているわけでもなかった。第一、折り畳まれている状態を最初に見ているのだから、裏に何も書かれていないなど、解っている。 眉を寄せる荘龍に、春美がわずかに身を乗り出した。 「何と、書かれているのですか?」 「……なんて事はねぇ、世間話さ」 「そうですか……それで、あの、お返事は…? わたくし、なるほど君にお返事をしなければならないのです。ゴドーけんじさんのお返事を聞いてくるようにと、何度も言われましたので…」 心配そうに俯き、ちらりと見上げる春美に、荘龍は溜息を吐いた。 「そうだな……了解した、とでも伝えておいてもらおうか」 「はいっ!」 途端にパッと顔を輝かせ、にこにこと笑みを零す。 「早速伝えて参ります! きっとなるほど君、わたくしが出てくるのを、首を長くして待っておられるでしょうから!」 慌しく踏み台から飛び降りる春美の姿に、荘龍は胸がざわめいた。春美の口調はあたかもそのドアの向こうに、成歩堂がいるかのようだった。思わず、頭で考えるよりも前に、身体が反応していた。 ガタンと椅子を蹴って立ち上がった荘龍を、看守が驚いたように見た。刑務所の中で荘龍は、模範囚だった。黙々と与えられた作業をこなし、声を荒げる事もなく、誰かと馴れ合うわけでもない。ただ、隔週に一度の面会の日に訪れる、幼い少女を待っているだけの服役囚だ。それが立ち上がったと思ったら、バンとアクリルの仕切り壁を叩いた。 「……成歩堂がいるのか」 ドアノブに手をかけていた春美が、驚き振り返る。目を真ん丸にした少女が、ぎこちなく首を動かした。 「は、はい。いつも、外で待ってくださってます。わ、わたくし一人では、心配だからと」 「……成歩堂が…」 ドアの向こうに、あの男がいる。 春美が訪れる面会にいつも付き添い、部屋には入ってこず外にいる。では、今までずっと、彼は側にいたというのか。春美が嬉々として喋る話に耳を傾けている荘龍が気付かなかっただけで、彼はずっと側にいたのか。 どくんと血液が逆流するような錯覚に襲われた。手の先が冷たくなり、自分の呼吸が耳のすぐ側で聞こえるようだった。 「ゴドーけんじさん…? あ、あの、なるほど君、呼んで参りましょうか?」 春美のおずとした声に、荘龍はハッと我に返った。知らず握り締めていた拳が痛く、開いて見れば、掌に爪の跡が残っている。指先でそこに触れると、ぬるりと滑ったので、血が出たのだろう。だが、痛みは感じなかった。 「いや、いい」 「でも、ゴドーけんじさんは、なるほど君に会いたそうな顔をなさっておいでです」 「……それでも、いいんだ、お嬢ちゃん。俺には、会う資格すらねぇ」 「……ゴドーけんじさん…」 ドアに貼りついた春美が、泣きそうな顔をした。荘龍はそれから目を逸らし、悪ィが、と声を張り上げる。 「今日はここらで失敬するぜ、お嬢ちゃん。気を付けて帰るんだぜ」 「はい! また再来週、お邪魔いたします!」 頬をまぁるく赤くして、春美がぴょこんと頭を下げた。ちょんまげのような髪が、春美の頭の動きと同時に、ぴょこりとお辞儀をする。それを見届け、荘龍は看守を促し面会室を出た。 あのまま、面会室にいたなら、アクリルのあの透明な壁を壊そうと遮二無二暴れていたかもしれない。年甲斐もなく、そして恥外聞なく、成歩堂の名を呼んだかもしれない。透明な壁と、閉ざされたドアを隔てた向こう側にいる男を求め、殴り続けたかもしれない。 二度と会わないと決めたくせに、成歩堂の名を聞いただけでどうだ。 我を忘れそうになる。 足早に面会室を後にする荘龍の横を、独房まで送り届ける義務のある看守が、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。検事として何度か顔をあわせたことのある男だ。囚人となった荘龍をどう思っているのかは解らないが、以前よりも砕けた話し方をするようになった。 「アンタも隅に置けないねぇ」 独り言のような言葉は、リノリウムの床を歩くふたつの足音と共に、狭い廊下に反響した。昼でもなお薄暗い廊下には、鉄格子がかけられた窓がいくつか並んでいるが、明り取りの意味はあまりない。窓のすぐ側には作業所の壁があるからだ。通常の光でもまだぼやけてしか見えない荘龍の目に、その薄暗い廊下はまるで闇のように映る。自然と遅くなる足取りに、看守は益々調子に乗って声をかけてきた。 「あの手紙、あんたのコレからかい。あんな熱烈なラブレターじゃなぁ、こっちまで当てられちゃうよ」 成歩堂からの手紙は、看守が検閲を済ませている。内容は知っているはずの看守の言葉に、荘龍は眉を顰めた。 「…ラブレター…だと? 何のことだ?」 「オイオイ、とぼけなさんな。それに罰当たりなこと言っちゃなんないよ。人を殺して懲役くらったアンタをだよ、待ってるだなんて書いてくれてんだよ。ラブレター以外の何物でもないだろうに」 とうとう足を止めた荘龍を、看守は振り返った。荘龍から看守は闇に紛れまったく見えなかったが、看守には荘龍が動揺している様が手に取るように解る。荘龍の右手が、ぐっと何かを握り締めるように、拳の形になった。 「…何か、書いてあったのか……?」 「何かって…何言ってんだ、アンタ。あんなにはっきり書いてあったじゃないか。あの春美って嬢ちゃんのこと以外に、赤いペンで、しっかりとさ」 「あ…赤いペン、だと?」 荘龍がカッと目を見開いた。 それは、荘龍には見えぬ文字だ。見えぬ色だ。赤い色を認識しなくなった目を、成歩堂自身が法廷で暴いて見せた。それなのに、手紙に赤いペンで文字を書いた。 「…それは…追伸…か」 「ん? ああ、そうだ。ほら、ここにしっかりと」 春美が託した手紙を、看守が預かっていた。検閲を済ませたとは言っても、持ち物のリストに加えられていないので、一度看守が預かり、きっちり記録に残した後で、荘龍の元にそれは届けられる。その手続きをすでに荘龍は知っており、看守が部屋から出る際に荘龍からそれを取り上げてもとりたてて何も思わなかった。看守は胸ポケットから手紙を取り出して、それを荘龍に差し出した。だが、荘龍の震える手は、まったくの方向違いへ差し出される。泳ぐ指先に、看守があっと声を上げた。 「アンタまさか、目が見えないのか」 「…見えないわけじゃない。視力がひどく弱く…赤い色が見えないだけさ。なぁアンタ。悪いが、赤い文字で書かれたのを、読んでくれねぇか。どうしても知りたいんだ。いや、知らなければ、ならない」 「なんだい、大げさだなぁ…。『追伸。あなたが帰ってくるのを待っています。あなたの居場所は、いつまでもあの事務所に』だとよ。ラブレター以外の何に読めるってんだ。アッ、おい!」 突然荘龍が踵を返し、壁に手を当てながら元きた道を戻り始めたのに気付き、看守が慌てて追いかけてきた。ぐいと肩を掴み、止まれ、と大声で命令するのを、荘龍は振り払う。 「どこ行くんだ! そっちは面会室だ!」 長い廊下の先に光が見える。いくつも連なる面会室の前を照らす蛍光灯が、昼でもなお暗い部屋を照らすため、煌々とつけられているからだ。そこへ出れば、荘龍とて春美との面会に使った部屋がどれかはすぐに解った。 「止まれ! 戻らんと懲罰房行きだぞ!」 腕にしがみつき、声を荒げ必死に独房へ戻そうとする看守を引き摺ったまま、荘龍はそのドアを開けた。大きく押し開けたドアの中は、先ほど荘龍が出てきたのと同じように、アクリルの壁が部屋の真ん中をわけ、そこを囲むように机が置かれ、椅子が並べられている。荘龍がいる側、つまりは囚人側には余分に事務机と椅子がひとつずつ部屋の隅に置いてあった。 明るい蛍光灯に晒されて、その部屋は酷く寒そうに見えた。がらんとして、人気がない。 誰もいない。 アクリルの向こうには、椅子がひとつぽつんとあり、部屋の隅には春美のための踏み台が用意されている。春美の度重なる面会が、いつもここであるのは、あの踏み台のせいだった。 白く、寒々としていて、誰もいない部屋。 すべてを置いてきたのは荘龍であるのに、なぜか、荘龍自身が置き去りにされたような気分だった。 「おい、こら! いい加減にしろッ!」 面会室に入ったすぐの所に立ち止まり、茫然と部屋の中を見つめている荘龍の腕を、看守が乱暴に引いた。 「面会時間はとっくに終わっとるんだ! 面会人はとうに帰ったよ! あんたもさっさと自分の独房に戻ってくれ。俺の仕事が片付かんよ」 本来ならば、さきほどこの看守が言った通り、規律違反で懲罰房行きか、もしくは反省室行きなのだろうが、看守にはそうさせるつもりもないらしい。とにかく荘龍が独房に戻ればそれでいいと言う雰囲気に、荘龍は強張らせていた身体から力をふっと抜いた。 「…すまねぇな…」 「突然走り出すんで吃驚したよ。よっぽどラブレターに感動したってのかい。アンタらしくないねぇ」 「これでも俺は情熱家でね……ん?」 看守の軽口に付き合うように唇の端を持ち上げた荘龍が、ふと面会室の面会人入口にある鞄に気付いた。黒いリュックサックには見覚えがあった。綾里春美が、なるほど君から頂いたのです、と嬉しそうに見せていたものだ。黒なんてお譲ちゃんにはまだ早すぎるんじゃねぇのか、とからかうように言えば、わたくしももう小学生ですもの! 立派な大人の仲間入りですわ! と頬を膨らませていた。 「…おい、看守さん。ありゃあ、あのお譲ちゃんの忘れ物のようだが」 「ああ、本当だ。後で受付に届けておこう」 「すまねぇな、世話をかけ……」 苦笑する荘龍に、看守も鞄を忘れて帰った少女のそそっかしさに笑みを浮かべていると、閉じられていた面会人入口のドアが、カチャリと音を立てて開いた。途端に飛び込んでくるのは、青い色彩だ。 青いスーツに、荘龍には見えない色をしたネクタイ。意思の強さをそのままに表したかのような尖った髪。背の高い身体には、見た目よりもがっしりと筋肉がついている。しっかりとした身体を捩じりながら後ろに顔を向けている成歩堂が、笑いながら人差し指を突きつけていた。 「まったく春美ちゃんってば、なんだって鞄を忘れたりするんだい」 「だってなるほど君も悪いのですよ! わたくしが一生懸命お話をしているのに、全然聞いていらっしゃらないから!」 「だからって鞄は忘れないだろ、普通、鞄は………あ…」 荘龍が息を止めていたことに、成歩堂気付いただろうか。 部屋に入ってきた春美が、あっ、と声を上げるのを見て、成歩堂も振り返った。アクリルの壁を隔てたすぐ側に、荘龍が立っている事に気付くと、その目を見開き硬直する。 「ゴドーけんじさん! 戻っていらしたのですね!」 春美が嬉しそうにアクリルの壁に駆け寄ってくるのを、荘龍を部屋の入口で待っていた看守が苦笑いを浮かべて見ている。 「嬢ちゃん、鞄を忘れちゃいけないね」 「あっ、お、お気付きでしたか…。わたくし、なるほど君に教えてもらうまで、まったく気付いていませんでした」 「それを持ったら、すぐに帰るんだよ。面会時間はとっくに終わっているんだからね」 「はい!」 春美と看守が、アクリルの壁を隔て話しているのを、荘龍は何とはなしに聞いていた。 だが、それは耳には入っているけれども、頭の中にまでは入ってこない。 荘龍は、ただじっと、成歩堂を見つめていた。 視力の弱い荘龍には、成歩堂がどんな表情をしているのかまでは解らないが、全身を緊張させているのは解る。荘龍とて同じだったからだ。 葉桜院あやめの、殺人罪に関してのみの無罪判決を成歩堂が勝ち取ってから、初めて、まともに顔を合わすのだ。 「………看守さん。悪いが、少しでいい。時間を、もらえないだろうか」 「何言ってるんだ。もう面会時間は終わってるんだぞ。早く引き上げないと駄目だ」 「頼む。二分でいい」 だが、と渋る看守の声を遮るように、成歩堂が身を屈め、春美の鞄を掴み上げた。 「神乃木さん」 春美に鞄を背負わせて、そのついでのように名を呼ばれただけだった。 それなのに、荘龍は全身に電流が走ったかのように目を見張る。指先が震えているような気がして、ぐっと拳でそれを握り込んだ。 「僕達、すぐに帰りますから。神乃木さんも、戻ってください」 「弁護士さんの言う事は聞くもんだよ、あんた」 看守が荘龍の肩を親しげに叩く。口篭り、答えられないでいると、短く息を吐き、看守は背を向けた。 「外に出てるから、すぐにくるんだ。いいな」 ドアを開け放したままだったが、看守は面会室を出て行った。規則ではありえない事に、成歩堂が苦笑する雰囲気が伝わってくる。 「甘い看守さんだなぁ。逃げられたら、どうするんだろ」 成歩堂はそう言って春美の頭にぽんと手を置いた。 「春美ちゃん、ロビーで待っててくれるかな?」 「えと、はい! わかりました! それでは、ゴドーけんじさん、また再来週にお伺いいたします!」 「…あ…ああ」 荘龍が唸るように声を発し、軽く頷くと、春美はぴょこんと頭を下げて、開けたままだったドアから飛び出していった。それを見送った成歩堂が、こちらを向く。どきんと心臓が飛び出しそうになり、荘龍は、彼に会いたい一心で看守の腕を振り切りここまでやってきたはずなのに、一歩、足を引いた。成歩堂から逃げ出すように。 「……お久しぶりです」 成歩堂の声に、荘龍は答えられなかった。 何度か息を繰り返し、呼吸を整え、荘龍はようやく、ああ、と掠れた声を漏らす事ができた。目を見開き成歩堂を見つめるが、ぼやけた視力では輪郭しか判別できない。笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか、蔑んでいるのか。表情が、雰囲気としてしか解らない荘龍は、とにかく、成歩堂に何かを伝えなければならないと必死だった。 逡巡し、逡巡し、黙りこんだ荘龍をどう思っているのか、やはり一言も発しない成歩堂を見つめ、荘龍は口を開く。 「…好きだ」 すまないとか、悪かったとか、彼の気持ちを欺いた事への謝罪の言葉を伝えるはずだったのに、開いた口から零れ落ちたのは、そんな間抜けな告白だった。 かぁと赤面する頬を、荘龍は感じていたが、取り繕う事もないだろうと開き直った。 「……アンタを、好きな気持ちは本物だった」 「今更…」 成歩堂がぽつりと呟いた。溜息混じりの声に、心臓を鷲掴みにされたような気になる。 「…今更、そんな言葉を、僕が信じるとでも?」 「思わねぇ…俺も、さすがにそこまで、あつかましくはねぇぜ」 「手紙、読みました?」 成歩堂が一歩、アクリルの壁に近付いてくる。椅子の横に立ち、手を伸ばせば届きそうな距離に、彼はいた。二人を隔てる壁さえなければ、抱きしめる事もできる距離だ。 「僕はとにかく、春美ちゃんがしたいようにさせてあげたいんで、申し訳ないんですけど、しばらく春美ちゃんに付き合ってやって下さい」 「アンタは…もうこないのか。お嬢ちゃんの面会に、付き添ってきてると聞いたが…」 成歩堂はふっと息を吐いた。 「…会いたくないだろうと思ったので」 「俺が…か?」 「ええ」 成歩堂ががらっと椅子を引いた。そこへどすんと腰を下ろし、大きな溜息を吐く。成歩堂の身体の中の空気が全部、外へ抜け出てしまうのではないかと思うほどの、大きな溜息に、荘龍は足を踏み出した。椅子には座らず、アクリルの壁に手をついた。 「…もう二度と会うまいと、思っていた」 「でしょうね。そうだと思ってましたよ。だから僕も会わずにいたんです」 「だが……なぜかな。アンタがそこにいると知ったら、会いたくて仕方なくなっちまったぜ」 「だったら、僕はもうここへはきません」 成歩堂が顔をあげ、そう告げた。ある程度覚悟して想像していた言葉だったが、実際に聞くとずしりと重く腹に圧し掛かる。荘龍は唇をぎこちなく微笑ませ、頷いた。 「…その方がいい」 早くしろ、と看守が焦った口調で声をかけた。面会の時間が終わってすでに十分以上は立っているだろう。荘龍が独房に戻らないとなれば、逃走の恐れがあると取られても仕方がない。融通をしてくれた看守にも迷惑がかかる。 荘龍は、アクリルの壁に触れていた手をぐっと握り締めた。 「…じゃあな、成歩堂」 俯いた成歩堂の姿をじっと見つめ、荘龍は目を閉じた。そして成歩堂に背を向ける。 面会室の入口に立っていた看守に、待たせたな、と声をかけ、重い足を動かした。 「四年後、この事件で思ったこと全部を、ぶちまけてあげますよ。面と向かってね。それまで会いません。次に僕があなたに会う時は、あなたを迎えにくるときです」 成歩堂の言葉を、荘龍は背で聞いた。 立ち止まり咄嗟に振り返ると、成歩堂は椅子に座ったままこちらを見つめているようだった。 「…なんだって…? 今、アンタ、何て……」 「四年後、ここにあなたを迎えにくるって言ったんですよ。それまで、あなたには会いません。これが僕からの、あなたに対する復讐だ」 「…復讐…だと?」 「ええ。千尋さんの敵を打つために、僕に近付いた。僕に嘘を吐いた復讐です。いってらっしゃい、神乃木さん。僕はあなたを、あの事務所で待っていますから」 さぁ早く、と看守がとうとう荘龍の腕を掴んだ。荘龍はそれに抗わなかった。いや、抗う事ができなかったと言う方が正しい。頭の中の機能はすべて停止していて、物事を考えることができない。看守が促すままに面会室を出て、あの暗い廊下を歩いた。 成歩堂を振り返る事ができなかった荘龍に、看守はぶつぶつと文句を言った。二分って言っただろうに、と言う彼に、ありがとうともすまないとも伝えられず、荘龍は気付けば独房に戻っていた。 簡素なベッドに腰を下ろし、ゆっくりと、成歩堂が言った言葉を反芻する。 待っていると。 四年後に迎えにくると。 彼はそう言った。 会わないのは、成歩堂に嘘を吐いた荘龍への復讐だと。 つまりそれは、復讐などと言う名をつけてはいるが、成歩堂は荘龍を許しているという事だ。その上で、四年の服役を終えた荘龍を待っているという。 なぜだ。 荘龍は考える。 なぜ、あそこまで寛大になれるのだろうか。 成歩堂の気持ちを裏切った荘龍を待ち、あの事務所に居場所を作ってくれている。綾里千尋が立ち上げ、成歩堂が作り上げたあの事務所だ。荘龍にとってどこよりも居心地がよく、安らげた場所だった。意味もなく訪れては成歩堂をからかい、事務所に持ち込んだコーヒーセットの一式を取り出して、コーヒーの香りで事務所を満たした。それも復讐のためだったはずなのに、いつの間にか、あそこは荘龍にとって本当に必要なものになっていた。失いたくないものだ。そこに、成歩堂がいるのなら、尚更、もうこないでくださいと言われたくない場所だった。 そこに成歩堂は、荘龍の場所を作ってくれる。成歩堂自身の心の中にも、荘龍の場所を残してくれる。 自惚れてはならないと、思った。 それはきっと、荘龍の身を哀れんでの行為だ。成歩堂の恩師、千尋への復讐のためだけに生きた荘龍に同情しただけの、成歩堂の一時の感情からのものだ。 四年たてばきっと、事務所に荘龍の場所はなく、成歩堂は迎えにもこないだろう。 自惚れてはならない。 信じてはならない。 四年は長く、一人の気持ちを変えるには充分な時間だ。 期待し過ごし、高い灰色の塀から出たときに、そこにない人の姿に落胆することくらい目に見えている。 期待してはならない。 だが、この震える手はどうだ。常よりも倍ほども早いスピードで鼓動する心臓はどうだ。脈打つ血はどうだ。成歩堂の言葉に、歓喜する心は、何だ。 生暖かいものが、頬を伝う。 震える手で口を覆うと、堪え切れなかった嗚咽が指の隙間から零れ落ちた。 |