■ rustling the bamboo grass
 所用があって成歩堂法律事務所のドアを開けた御剣は、入った瞬間、目を丸くした。決して広いと断言できるものではない事務所には、その半ばを覆い隠すような大きく立派な笹竹が置いてあった。さわさわとエアコンの風に靡く音は涼しげではあるが、如何せん事務所にある観葉植物としては如何なものだろうかと思う。
 手にしていた茶封筒を握り締めたまま、入口で固まっていた御剣に気付いたのは、両手になにやらたくさんの折り紙を抱えた春美だった。
「わぁ、みつるぎけんじさん! いらっしゃいませ!」
「う、うむ。これは一体……? また依頼料が現物支給だったのか?」
 たまに、ごくたまーに、一年に一度か二度、三度か四度くらいは、成歩堂法律事務所には現物支給の依頼が舞い込む。内容はほとんどが、隣の家の枇杷が塀を越えてうちに入ってきたんだけど、それ?いで食べたら金を払えって言われたんだけど、どうしたらいいんだよぉ、成歩堂〜、だとか袖をぷらぷらさせながら泣きついてきた二十代後半の男の依頼だ。枇杷が林檎に変わったり、林檎が葡萄に変わったり、葡萄が梨に変わったりするが、大体において、依頼の内容はほとんど一緒だった。そして依頼料の支払いは、勝ったときのみ、争いの元の現物支給。
 今度は竹か、と青々とした笹竹に、御剣が感嘆の溜息を吐いていると、ほんのちょっぴり頬を赤くした春美がぷるぷると首を振った。
「違います、みつるぎけんじさん。これは、ナルホド君が買ってきてくださったのです」
「は?」
 なんでまたこんな物を、と目を丸くした御剣に、お、きたね、と成歩堂が笹竹を暖簾よろしくかきわけやってくる。その手にはやはり、春美と同様折り紙が握られていた。
「これは何の騒ぎだ」
「何の騒ぎって……今日することって言ったら、ひとつしかないでしょ? 七月七日だよ。七夕じゃない。やだなぁ、御剣、もしかして君、忘れてた?」
「……ああ、いや、忘れていた…と言うか……」
 御剣はぐっと眉間に皺を寄せ、人差し指を顎に走らせる。
「……法律事務所と七夕の関連がよく解らないのだが。どうひっくり返して考えても、接点が見つからん。どちらかと言えば、矢張の現物支給に思えるのだが」
「ああ……」
 成歩堂は中途半端な笑みを浮かべて、ただの七夕の笹飾りにしては大きすぎ、なおかつ多すぎるのではないかと思う笹竹を振り返った。
「…まぁ、近いものはあるかな……。あ、はいこれ。御剣の分」
 そう言って手渡されたのは、色とりどりの折り紙だった。普通の折り紙と違って半分に切られているのは、短冊にするためだろう。一緒にサインペンも渡される。
「矢張がバイトで七夕の笹売りしてるんだけどさ。間違えて大きい笹を発注しちゃったんだって。引き取り手もないし、もう売れないからって、半額で買ってやったんだ。春美ちゃんが七夕飾り、やりたがってたしね」
「はい! わたくし、学校で彦星様と織姫様の物語をお勉強したのです。それで、ナルホド君に、ぜひわたくしも、彦星様と織姫様のためにお祈りがしたいと思いまして、お願いをしてみました」
 結局押し売りされたんじゃないか、と言おうとした御剣だったが、春美が嬉しそうにきらきらした目で見上げているので、開いた口から出す言葉を変えた。
「…それは……良い事をしたな、成歩堂」
「うん、まぁね。午後には真宵ちゃんもくるからさ。だからそれ、早く書いてよ」
「…私もか?」
 渡された短冊の束は、厚さ二センチにもなる。薄い折り紙でそこまで厚みが出るというのは、ある種驚きだ。一体どれだけの折り紙が七夕と言う名目で切り刻まれたのやら、と御剣は、事務所に吐いてから何度目かわからない溜息を吐いた。
 成歩堂法律事務所との付き合いは長く、成歩堂龍一との付き合いはそれよりももうちょっと長い。一緒に過ごした期間が期間なので、うんと長い、とも言えないのが少々悲しいが、まぁ仕方がないだろう。しかしそれと同時に、足元で大きな目をきらきらと輝かせている春美との付き合いもそれなりに長いのだ。
 ここで逆らえばこの後どうなるかは、考えなくとも解る。
 御剣は大人しくソファに腰を下ろそうとして、そこは笹竹が占拠しているのを思い出した。どこに座ればいいかと思ったが、春美が直に床に腰を下ろすのを見て、御剣もそれに習う。どこから出してきたのか解らない卓袱台を使って、春美も短冊に他愛ないお願いごとを書いている。
「…………ドーナツ食べ放題……焼肉食べ放題………カレー食べ放題………? 倉院の里は金欠なのか?」
「いいえ、金欠なのはナルホド君です!」
「……味噌ラーメン食べ放題……豚カツ食べ放題………この最初のは…」
「勿論、真宵様ですわ! さぁ早くみつるぎけんじさんもお書きくださいませ! さぁさぁさぁ! 何になさいますか! オムライスですか、スパゲッティですか!」
「……食べ物限定なのだろうか…?」
 聊か不安な気持ちで呟きつつ、世界平和、だの、人類皆兄弟、だのとつらつらと書く。何しろたくさん短冊はあるのだ。どれだけ下らない事を書いても書いても書いても書いても短冊はあるし、そのうちのどれかひとつくらいは願いも叶うだろう。数打ちゃ当たると言う奴だ。
「成歩堂、貴様は書かないのか?」
 給湯室から紅茶を作って持ってきた成歩堂に声をかければ、うん、と成歩堂が軽く頷いた。
「もう昼までに大分書いたからね。ほら」
 指を差された笹を見れば、なるほど、大量の短冊がかかっている。座っている場所の近くにあったので、手を伸ばして引っ張り寄せると、成歩堂の字で『お金が溜まりますように』だとか『依頼人が増えますように』だとか書いている。
 だが、成歩堂の依頼人が増えるという事は、つまり犯罪が増えるという事であって、あまり歓迎していいようなものではない。むぅ、と眉間に皺を寄せている御剣の目に、金色の折り紙が目に入った。これには何が書いてあるんだか、と思って引っ繰り返すと、そこにはやはり成歩堂の字で『御剣とずっと仲良くいられますように』と書いてあった。
 一瞬呆気に取られた御剣も、すぐに唇を緩める。
 こう言う事を書かれて、悪い気分にはならない。
 唇に指を当てて、いつもより随分狭く感じる部屋の中を見渡し、御剣は微笑ませていた唇をにんまりと吊り上げた。
 手にしていたサインペンの蓋を開け、きゅっきゅっと音を立てて折り紙の裏に願い事を書いた。他愛ない願いごとだ。数打ちゃ当たる鉄砲の弾と同じだ。
「みつるぎけんじさん? どんなお願いごとをされたのですか?」
 卓袱台の向かいに座っている春美が、ぴょいと覗き込もうとする。その小さな頭を掌で押し返して、ふふん、と御剣が顎を上げた。
「大人には大人の事情というものがあるのだよ、春美君」
「何を訳の解らない事を仰っているのですか! 見せてください、みつるぎけんじさん!」
「ふふん、大人になったら教えて差し上げよう」
「みつるぎけんじさん! 見せてくーだーさーいー!」
 むーっ、と頬を膨らませて真っ赤な顔で、御剣の手にある短冊を取り上げようとする春美の頭には、しっかりと御剣の手が被っている。リーチの差を生かして、春美に散々悔しい思いを味合わせているのだ。
 むきーっ、と叫ぶ春美の声に、成歩堂が振り返り微笑する。
「御剣、何やってんの。春美ちゃんまで」
「だってみつるぎけんじさんが見せてくださらないのですー!」
「御剣、見せてやれよ。お願いごとくらいいいじゃないか」
 成歩堂がこちらへやってきて、春美の隣に腰を下ろす。春美が成歩堂に気を取られている間に、御剣はさっと手を伸ばして近くの笹にその短冊を結びつけてしまった。手を離せば、笹は柔軟に元の場所へ戻る。
「ああー! 隠れてしまいましたー!」
「これで見えまい」
「みつるぎけんじさんの意地悪! みつるぎけんじさんは鬼ですーっ!」
「鬼……」
 ぷっと成歩堂が吹き出す。口元を押さえているが、すぐにけたけたと声を上げて笑い出す。それをぎろりと睨み付けた後で、御剣はふんと顎をそらす。
「ああそうだ、成歩堂。これを亜内検事から預かってきた。それからこちらが、先日の告訴取り下げ状だ。依頼人に署名捺印の後、私に提出するように伝えてくれ」
「了解。そう言えば君、これを渡しにきてくれたんだろう。悪かったね、時間取っちゃって」
「いや、構わない。今日は幸い、暇でな」
「検察が暇ってのはいいことだよ。じゃあ折角だし、夕飯一緒に食べない?」
「春美君はどうする?」
 傍らを見下ろすと、頭の上で書類のやり取りをされていた春美が、ぷぅと頬を膨らませていた。
「知りませんっ!」
 ふんっと顔を背けて、さっさと立ち上がると部屋の隅っこでまた短冊にお願いごとを書き始める。あ〜あ、拗ねちゃった、と成歩堂が苦笑して、春美がこちらを向いていないのを確認すると、僅かに身を乗り出して御剣の唇の端にくちづけた。
「泊まってくだろ? 明日は、休みだよ」
 触れるだけで離れた成歩堂に、御剣は少しだけ考える素振りをして、構わないだろう、と固く答える。
「夕飯を貴様が作るのならな」
「……はいはい」
 苦笑しながら、だがその実とても嬉しそうに頬を緩めて成歩堂が立ち上がる。じゃあこれ片付けちゃうね〜、と貰ったばかりの茶封筒を手に所長室へ入って行った。
 エアコンの風に笹が揺れる音が涼やかに部屋を満たす。
 春美は怒ったまま背を向けて、黙々と自分の願いを書き込んでいる。御剣はふっと息を吐くと、また新しい短冊に願いを書いた。
 ひらひらとエアコンの風に揺れる短冊の中に、先ほど御剣が書いた文字が揺れている。
 いつまでも良きライバルでありますように。
 銀色の折り紙の裏側に書かれたそれを知るのは、とりあえず今のところ、御剣ただ一人だった。