■ Lover. |
最初にそれを見たとき、御剣は「荷物が歩いている…!」と叫びかけた。寸での所でそれを飲み込んだのは、その後ろにひょっこりと見覚えのある尖った頭が出てきたからだ。お、と同行していた糸鋸刑事が目を丸くする。 その尖った頭の持ち主は、両手一杯に荷物を抱えていた。ドアの前に立っていた御剣に気付くと、あ、と顔を輝かせる。 「御剣! どうしたんだい、こんな時間に。イトノコさんまで」 「成歩堂……君こそどうしたのだ。その荷物は…」 「や、どーもッス!」 「え、みつるぎけんじさんがいらっしゃるのですか!」 ぴょっこりと成歩堂の足元の荷物の影から顔を出したのは、独特の風貌をした小さな女の子、綾里春美だ。春美ちゃん、と成歩堂からは呼ばれ、御剣からは、晴美君、と可愛がられている。 「あっ、イトノコさんも! ご無沙汰しております」 小学生の女の子に、ぺこりと頭を下げられた糸鋸刑事は、頭に手を当てながら深々と頭を下げた。 「これはどーもッス! お買い物ッスか!」 春美の両手の荷物を見て糸鋸刑事が満面の笑顔で言う。それへ春美は首を振った。こちらも満面の笑顔で、頬はまぁるく赤くなっている。そこが春美のチャームポイントだ。 「いいえ、これはなるほど君の戦利品と言うものです!」 「せ、戦利品…ッスか?」 「そうです! 今日はなるほど君、パチンコと言うものと対決なさったのです! 大勝利で、持ちきれないとご連絡いただいたので、わたくし、お迎えに参ったのです!」 「パチンコ?」 ぴくりと御剣の眉が動いた。うわぁ嫌味を言われそうだ、と思った成歩堂はさっさとポケットから鍵を取り出すと、まぁ入ってよ、と大きくドアを開いた。 成歩堂法律事務所。 大通りを挟んでホテル坂東の向かいのビルに事務所を構えているおかげで、そこそこ客足はある。ホテルを利用した客が窓から見た法律事務所の名前を覚えていて依頼するというケースが多い。それもこれもここに事務所を構えてくれた千尋さんのおかげ、と亡き前所長の事を、ことある事に持ち出している。二人でいる時にでもそう言う事を言うので、御剣は実はそこが少々気に食わないのだが、まぁ前所長の綾里千尋は確かに御剣からしてみても強敵で、いい弁護士だった。 事務所は千尋が使っていたときと、ほぼ同じだ。内装などは一切手が加えられていないのだが、如何せん主の使い方が悪いらしく、書類が積みあがっていたり、奥の台所には粗いものが溜まっていたりする。 御剣がドアを持って待っていると、春美が両手一杯の荷物に視界を遮られながらもちょこちょこと入ってくる。どうもありがとうございます、みつるぎけんじさん、と礼儀正しく挨拶をする春美に、いや、と僅かに笑みを浮かべて頷いてやる。春美はそれだけでもう嬉しそうに頬を染めるのだ。可愛らしい様を眺めた御剣は、うん、と眉を寄せた。 「晴美君、今日は学校は…」 最後に入ってきた糸鋸刑事が、片手に下げていた水色のキャリアバッグを床に下ろした。なんだろう、と思う成歩堂が荷物を置いたテーブルに、どさりと茶色の紙袋を置いた春美が、にっこりと微笑む。 「もう夏休みです、みつるぎけんじさん。夏休みの間は、わたくし、なるほど君の助手としてお仕えするように、真宵様から仰せつかったのです」 「真宵ちゃんは一週間修行で山ごもりらしいんだ」 倉院の里がすでに山だと思うのだが…、と御剣は思わず口元に手をやった。 「春美ちゃんは、昨日から泊まり込んでるんだ」 成歩堂は紙袋の中から色々なものを取り出して、苦笑する。 「おかげで家も事務所もぴかぴかだよ」 「なるほど君は、ちらかしすぎなのです」 春美も茶色の紙袋の中から、色々なものを取り出して頬を膨らませる。チョコレート、食器用洗剤、シャンプー、スポンジ、ティッシュにお菓子。パチンコの景品によくあるようなものばかりだ。 「使ったら元の場所に戻せばよいだけではないですか。なるほど君は、使ったものを放ったらかしにするから、片付かないのです」 「うん、ごめん」 小学生にやり込められている弁護士を、御剣は情けない思いで眺めていたが、ああそうだ、と思い出し、手に持っていた茶封筒を差し出した。 「頼まれていた事件の調書だ」 「え、わざわざ持ってきてくれたの? 郵送でよかったのに…」 「早い方がいいかと思ってな…それに、糸鋸刑事が君に頼みがあるというので、同行したのだ」 御剣がちらりと振り返ると、事務所の戸口の所で所在無さ気に立っていた糸鋸刑事がびしっと敬礼をした。 「そうッス! 成歩堂大先生に、折り入ってお願いがあるッス!」 「合コンは無理ですよ」 成歩堂が苦笑しながら言えば、違うッス、と糸鋸刑事が大慌てで首を振る。合コン、と首を傾げたのは御剣と春美だ。 「違うッス! 一日、そのぅ…ミサイルを預かってほしいッス」 「ミサイル?」 わんっと鳴き声が上がったのは、糸鋸刑事が持ってきていたキャリアバッグだ。見れば茶色の見慣れた犬が収まっている。 「うわぁ!」 春美がぱあっと顔を輝かせた。水色のキャリアバッグに近寄って、うわぁうわぁと目を真ん丸にしている。 「犬さんです!」 「あ、ああ…そう言えば晴美ちゃんは知らなかったよね。その犬、ミサイルって言う犬なんだ」 「ミサイル…と言うお名前なのですか?」 「ああ。随分前の事件で、一度会った事があるんだよ。なっ、ミサイル!」 成歩堂も一緒に覗き込み、声をかけると、ミサイルはわんっと大声で吼えた。出してもよろしいですか、と春美が言うので、成歩堂と糸鋸刑事は慌てて机の上のお菓子を高い場所へ移動させた。猪突猛進、お菓子にミサイルが突っ込むのは目に見えている。 「そう言えば前の事件って、確か御剣の…」 成歩堂がキャリアバッグの口を開けながら言うので、御剣は慌てて咳払いをした。 「私の用はもう済んだので、失礼する」 「だめです!」 キャリアバッグの口を開けるなり飛び出してきたミサイルを抱き上げ、春美がびしりと御剣を指差す。むんと口を一文字に引き結び、眉を寄せて御剣を睨み付ける様は、法廷での成歩堂を思い出す姿だ。さすがに時折真宵と一緒に傍聴しているだけのことはある。 「異議ありですわ!」 「な、何がだね、晴美君」 「みつるぎけんじさんは、まだお茶も召し上がっていないではありませんか! 事務所にお越しいただいた以上、わたくしが点てるお茶を召し上がってからでないと、お帰しするわけには参りません!」 頬を膨らませる春美に、うう、と御剣が唸る。成歩堂は春美の腕からぶらんと垂れ下がっているミサイルを抱え上げ、玄関の鍵を閉めた上で床に下ろしてやった。ふんふんと辺りを嗅ぎまわり、そして突然一箇所へ向かってミサイルが走り出す。が、匂いの元のお菓子はミサイルの届かない場所にあったので、悔しそうにキャンキャン鳴いていた。 睨み合っている御剣と春美を他所に、成歩堂は糸鋸刑事をソファに座るように促した。 「でも、なんでミサイルをイトノコさんが? 警察犬ですよね、一応」 勝手にお茶を出すと春美が怒るので、成歩堂は糸鋸刑事の向かいに座りながら尋ねた。部屋中を走り回っているミサイルが、色々なところにぶつかっては上から物を落としてる。ああまた片付けなくちゃ…、と成歩堂は溜息を吐いた。 「いやぁ…それがッスね。明日、警察犬の特殊訓練があるッス」 「特殊訓練…ですか。それなら尚更ミサイルだって」 「それがそのぅ…ミサイルがいると、その特殊訓練は進まないッス」 「…はぁ」 「食べ物に釣られないという、特殊訓練ッス」 「ああ、なるほど……確かにミサイルには必要な訓練だけど、その場にミサイルがいたら、訓練は進みそうにないですね」 「それで、預ける先を探していたんですが、ペットホテルは金がかかって仕方がないッス。今月もやっぱり給料減らされてしまったので、金のかからない場所を探していたッス。あんたなら、きっと預かってくれると思ったんッス」 「それでは、ミサイルさんは、一晩ここにお泊りするのですか!」 御剣と睨み合っていた春美が、だだだっと怒涛の勢いで駆けつける。成歩堂は体当たりされそうになって、思わず身を引いてしまった。ソファにどすんとぶつかり、春美は期待に満ちた目で成歩堂を見上げた。 「わたくし、ミサイルさんのお世話を精一杯させていただきます!」 「…いや、まだ預かるって決めたわけじゃあ……」 「なるほど君!」 「はい?」 「一度でいいから、わたくし、犬さんを飼ってみたかったのです! すごく、すごく、嬉しいです!」 ぱぁっと花の開くような笑顔に、成歩堂は苦笑を浮かべる。真宵の勢いがいい押し切りにも弱いが、春美のこう言う愛くるしい笑顔にも弱い。そう言う自分を自覚しつつも、成歩堂は弱ったなぁと頬を掻いた。 「マンションはペット禁止だから……」 「そんな!」 「困るッス!」 愕然と青ざめる春美と、糸鋸刑事の焦った声に、成歩堂はいやいやと首を振った。 「規則は規則だから、守らないとね」 「それならば」 春美と対峙していたはずなのに、あっさり放り出されてしまった御剣は、足元にじゃれ付いてくるミサイルを抱え上げてきっぱりと言った。 「この事務所に泊まればよい」 「まぁ」 春美がうっとりと頬を染めた。 「それは素晴らしい名案です、みつるぎけんじさん! わたくし、みつるぎけんじさんに惚れ直しました!」 「ほ、惚れ…?」 目を丸くする御剣の手から、ミサイルを受け取り抱きしめ、春美はうっとりと頬を染め目を潤ませて遠い場所を眺めている。成歩堂は念のため、春美が眺める先を追ってみたが、あるのは埃がほんのり積もった六法全書だけだ。 「…わたくし、みつるぎけんじさんは、とっても冷たい方だと思っておりました…」 「ま、まぁ…当たらずとも遠からず…いてッ」 思い切り糸鋸刑事に足を踏まれた成歩堂が悲鳴を上げるが、春美には聞こえてない。 「検事はそんな人じゃないッス!」 「なるほど君は、一体、みつるぎけんじさんのどこがよろしくて、お付き合いされているのかと、日々悩んでいたのです。けれど、今日、解りました。みつるぎけんじさんは、とっても優しい殿方です。なるほど君が真宵様とみつるぎけんじさんを両天秤にかけるだけのことはあると、わたくし、はっきり解りました!」 「両天秤…?」 ぎろりと御剣の鋭い目に睨まれて、成歩堂がたじたじと顎を引いた。 「い、いや、誤解だよ!」 「しかし成歩堂、晴美君はああ言っているではないか」 「あれは晴美ちゃんの誤解だよ!」 「煙のない所に火はたたないって言うッス!」 「逆だ、糸鋸刑事。成歩堂、私は帰る」 「え、もう?」 背を向けて玄関へ歩き始める御剣を、慌てた糸鋸刑事が追いかける。 「検事局まで、お送りするッス!」 びしりと敬礼をする糸鋸刑事をちらりと見て、うむ、と御剣が頷いた。 「どうせなら検事局と言わず、私の部屋の中まで送ってもらいたいものだ」 「みっ、御剣ィっ?」 「冗談だ」 「冗談ッスか」 あからさまに落胆する糸鋸刑事の足を、思い切り踏みつけ、睨み付ける。成歩堂の気迫に負けたのか、糸鋸刑事は、そ、それじゃあ、と御剣よりも先に玄関のドアを開ける。人がきてミサイルが飛び出していかないようにと鍵をかけておいたので、内側からそれを開錠し、糸鋸刑事はこっそりと廊下へ出た。 「車を表に回すッス。五分くらいしたら、降りてきてほしいッス」 「うむ、解った」 糸鋸刑事が階段を駆け下りて行くのを聞きながら、成歩堂は玄関のドアをぱたんと閉じる。成歩堂とドアとに挟まれる格好になった御剣が、なんだ、と眉を寄せた。 「あのさ、御剣」 成歩堂は、春美がミサイルを追いかけて奥の部屋へ行くのを見届けた後で、軽く御剣の頬に唇を寄せた。 「今日、俺の家おいでよ」 「む、なぜだ」 「なぜって……俺たち、恋人だよね?」 「まぁ、そう言う関係と呼べなくもないな」 「だったら、いいでしょ。たまにはさ」 「しかし、今日はこの事務所で犬を預かるのではないのか。春美君と犬とを置いて、君はマンションに帰れるのか」 至極生真面目に言う御剣に、ああそうだね、と成歩堂は苦笑した。 「それもそっか。じゃあ、また今度、暇ができたら連絡してよ。たまには二人きりで過ごそう」 御剣は少し考え込むと、酷く気が進まなさそうに、眉を寄せ、仏頂面で呟いた。 「ここへ帰ってくる事にしよう」 「うん?」 「なるべく早く、仕事を片付ける。晴美君を連れて、どこかへ食事にでもでかけよう。パチンコで買ったのだろう?」 唇の端を持ち上げて笑う様に、うん、と成歩堂は嬉しそうに頷いた。 「まさか、あれだけとは言うまい」 机の上にちらばっているパチンコの景品を顎で示す御剣に、成歩堂はぽりぽりと頬を掻く。 「…うーん…まぁ…ざっと十万くらいは…」 「十万! ファミリーレストランで勘弁してやろうと思ったが、それだけ稼いだのなら、どこかの懐石にでも連れて行ってもらおうか。いや、晴美君がいるのなら、やはりファミリーレストランの方がいいのだろうか…。私が帰ってくるまでに決めておきたまえ」 「解ったよ…」 御剣の、形の良い唇を成歩堂は伸ばした舌でぺろりと舐めた。途端に、顔を真っ赤にする御剣を可愛いなぁと思いつつ、成歩堂は背を引き寄せる。骨ばっているちっとも抱きごこちの良くない身体を抱きしめながら、深いくちづけを交わし、成歩堂は微笑んだ。 「事務所でお泊りって、なんだか楽しそうだね」 「修学旅行のような気分になるな」 「ああ、まさにそんな感じだよ。一旦家に戻って、着替えを持ってきなよ。どうせならみんなで、銭湯にでも行こう。晴美ちゃんはきっと初めてだよ」 「それも楽しそうだな」 それじゃあ、と御剣が腕時計を見ながらドアノブに触れると、ああっ、と春美が大声を上げた。びくっと肩を竦める大人二人がそちらを見ると、春美はミサイルを抱きかかえたまま目を丸くしている。 「もうお帰りになるのですか、みつるぎけんじさん!」 「う、うむ。仕事がまだあるのだ」 「折角、お茶を召し上がっていただこうと思っておりましたのに!」 「大丈夫だよ晴美ちゃん」 にっこりと笑った成歩堂が、片目を閉じて見せた。 「御剣も今日、ここに泊まるんだ」 「まぁ」 春美は大きく開いた手で口元を覆う。ぼとっと床に落ちたミサイルが避難がましい声を上げた。 「そ、それでは……」 わなわなと顔を真っ赤にして震える春美に、御剣が、うんと首を傾げる。 「それでは、わたくし、とんだお邪魔虫ではありませんか! そうならそうとはっきり仰っていただかなくては!」 「だ、大丈夫だよ、晴美ちゃん。御剣も、ミサイルが気にいって泊まりにくるだけだから…なっ?」 「う、うむ。そうだ」 「まぁ!」 春美はうきうきと嬉しそうに頬を緩めている。 「みつるぎけんじさんも、犬さんが大好きだったのですね! それでは、わたくし、みつるぎけんじさんのお帰りを待っております!」 「私が帰ってきたら、食事に出かけよう。何が食べたいのか、晴美君、決めておきたまえ」 「わぁ! なんでもよろしいのですか?」 「うむ。どうせ財布を持つのは成歩堂だ」 「楽しみです! みつるぎけんじさん、いってらっしゃいませ!」 「ああ、行ってくる」 元気良く手を振る春美に頷き、御剣が玄関を開けた。ミサイルが奥の部屋へまた飛び込んでいったので、春美もそれを追いかけてすっ飛んで行く。それを見送った御剣と成歩堂は、一瞬顔を見合わせた後、ふと破顔した。 「まるで…」 「…夫婦みたいだね」 思っていたことは同じだったらしい。 ほんのりと頬を染めた御剣に、成歩堂は軽くキスをした。 「行ってらっしゃい、御剣」 「うむ」 御剣はぎこちなく頷くと、御剣検事、まだッスかぁ、と叫ぶ糸鋸刑事に、今行く、と怒鳴りつけた。階段を降りていく後ろ姿を見送り、成歩堂はくすくすと笑い声を零す。 「…思っていることは一緒…か」 糸鋸刑事の車の音が遠ざかって行くのを聞きつつ、成歩堂はうんっと背伸びをした。 「さぁって。仕事でも片付けちゃうかな!」 首の骨を鳴らし、成歩堂は腕を回した。 外は晴天。 うんと晴れた日の、昼下がりのできごとだった。 |