■ Love Love Love
「羞恥心と言うものはないのかしら、あなた達には」
 ビルの間をすり抜ける冷たい風に乱されながらも、狩魔冥は機嫌が良かった。それはいつもより遅い足の運びや、振り返る顔がにこやかに微笑んでいる事、振り返らずとも見える髪をかけた耳がほんの少し赤くなっている事を見れば、容易に伺い知れた。
 冥の半歩後ろを歩く成歩堂が、ポケットに片手を突っ込んだまま、軽く肩を竦めて見せる。左手には大手デパートの大きな紙袋が二つ、下がっている。決して重そうではないけれど、充分に厚みのあるそれと同じものをひとつ、冥を挟んで成歩堂と並んで歩く御剣も持っていた。
「折角日本に帰ってきたのだから、ただ仕事をして帰るだけじゃつまらないって言ったのは、狩魔検事、君だろう?」
「ええ、でも」
「コートを新調したいから、デパートについてきてくれと言ったのも、冥、君だ」
「確かにそうよ」
「次の休みは、御剣と買い物に出かけるって言ったら、一緒にくるって言ったのも、狩魔検事、君だよね」
「ええそうよ。煩いわね、二人して。何よ」
 頬を子供っぽく膨らませて、眉間にきゅっと皺を寄せる。法廷では間違っても見せないその表情を、成歩堂が事の外、気に入っていると冥が知ったら、どんな顔をするのだろうか。成歩堂は自然と緩む頬をそのままに、大きな目を瞬かせる冥を見下ろした。
「確か、御剣と僕もコートを新調するって、出がけに言ったよね?」
「ええ聞いたわよ」
 つんと顎を逸らす冥に、御剣がやれやれと両手を広げて見せた。
「だったら、こうなる事くらい予想の範囲内だし、最終的に判断を下したのは君ではないか。それに店で試着をしてはしゃいでいたのは、誰だったかな? 今更何を…」
「異議あり、よ。怜侍」
 振り返った冥は立ち止まり、御剣の目前で人差し指をぷらぷらと動かして見せた。つられて立ち止まる成歩堂の脇を、紺色のトレンチコートを着た中年の男が、やや迷惑そうな顔をしてすり抜けていく。大通りの歩道とは言え、乱雑に置かれた自転車が通行を妨げている。そこへ体格のいい男が二人、並んで立ち止まっているのだから、歩道はさらに狭くなっていた。冥は気付いて歩き出し、今度は振り返らずに言う。
「店で試着をしてはしゃいでいたのは、私ではなく成歩堂龍一と店の従業員よ。まったく、二人して他の客の迷惑も考えずに、よくもあれだけ騒げるものね。次々に押し付けられるこちらの身にもなって頂きたかったわ」
「異議あり、狩魔検事。君も充分に楽しんでいただろう? それに、君に似合うものはたくさんあったから、ひとつに決めるのだって大変だよ」
 成歩堂が笑いながら言えば、当然よ、と冥は切り返す。
「狩魔は完璧をもって良しとする。それは衣類にも当てはまることよ」
「やれやれ。どこまで行っても、君たちは法廷から離れられないようだな」
 御剣は呆れた顔をゆるく振り、溜息を吐いた。
 デパートに入っているとあるブランドの店で、冥は新しいコートを買った。白とアイボリーの間のような、優しい色合いのコートは、細身の冥にとてもよく似合っていた。それまで着ていたものは本皮のジャケットで大人っぽいものだったから、冥のイメージを一転させるそのコートを、誰よりも真っ先に、それがいいよ、と言ったのは成歩堂だった。冥は少し自分には子供過ぎて似合わないと思っていたが、成歩堂がしきりに勧めるし、御剣も、いいんじゃないか、と頷くものだから、結局そのコートにしていた。思いついたのは、ほんの悪戯心だった。御剣に預けていた、それまで着ていたコートを受け取りながら、あなた達、と二人を見比べて言ってやったのだ。
「どうせあなた達もコートを買いにきたんでしょう。それだったら、同じものになさい。私たちが三人揃って同じコートを着て、法廷に出向いたら、きっと一騒動起きて面白いわ。確かここ、メンズも展開していたはず」
 目を丸くして顔を見合わせる男二人に、俄然商売魂を燃やした店員が飛びついた。
「お二人とも背が高くていらっしゃるから、丈の長いものがお似合いになります!」
 ついさっきまでは傍観者だった二人が、今度は着せ替え騒動の渦中の人になってしまったのだ。成歩堂は目を白黒させて、店員が持ってくるそれは恐ろしい量のコートに悪戦苦闘していたし、御剣は聊か迷惑そうな顔をしていたものの、結局コートを買いにきたのには違いがないのだから、と自ら積極的に袖を通していた。
 冷や汗を流して、様々な色や形のコートと、それを押し付ける店員に困惑している成歩堂を笑いながら、冥はふと傍らにかけてあったコートに目を止めた。深い紺色のコートは、冥と同じデザインのものだった。メンズとレディースの差こそあれ、対で作られたものだから、違いを探す方が難しい。それを手に取り、冥は店員の横からすっとそれを差し出した。
「着なさい、成歩堂龍一」
 有無を言わせない言葉に、成歩堂は苦笑した。言われ慣れているせいもあるのか、はいはい、と軽く返事をしただけで、試しに着せられていた豹柄のコートを脱いで、紺色のコートを受け取る。
「あら」
 店員が目を見張る。
「よくお似合いだわ」
「やはり、成歩堂には青が似合う。そう言う事か…」
 御剣はおかしそうに目を細めている。
「そして…そうね…。怜侍は、これなんてどうかしら? あなた、いつも黒だの灰色だの辛気臭い色ばかり」
「でも狩魔検事。御剣のスーツはすっごく派手だよ」
 腕をまわして見たり、身体を捩ったり。大きな鏡に我が身を映し、これにしよっかなぁ、と呟いている成歩堂が、背中を鏡に映すついでに振り返り、揚げ足を取るように言った。
 茶色のコートをハンガーから外していた冥は、ムッと唇を曲げた。一瞬、鞭でも飛んでくるのかと身構えた成歩堂に、冥はふんっと顔を背けることで異議を申し立てる。
「プライベートの事を言っているのよ! あのスーツはいわば制服。怜侍の私服はいつも辛気臭い色ばかりじゃない」
「まぁ…確かに」
 これにします、と店員に紺色のコートを渡した成歩堂が、尖がった髪を掻きながら苦笑した。
「…辛気臭い色ばかりだよね」
 そんなはずはない、と言い返そうとした御剣も、自宅のクローゼットの中にある私服のあれやこれやを思い出し、ぐうの音も出ない。黙りこくった御剣を宥めるかのように、店員は朗らかに笑って、まぁまぁ、と冥の手から茶色のコートを受けとった。それを御剣の前に広げて見せて、あらぁ、と目を見張る。
「意外と、よくお似合いですよ。でも…ショートコートよりも、お客様にはロングコートの方がお似合いかと。少々お待ちを」
 店員は店のディスプレイでポーズを取っているマネキンから、コートを脱がしてきた。それは成歩堂が選んだものよりもずっと丈は長く、膝下まである。
「これなど、いかがかしら。そちらのお客様が選ばれたものと同じデザインですけど、丈が全く違いますから、印象も随分変わるかと」
「へぇ! すごく似合ってるよ、御剣」
 店員に勧められるがまま袖を通した御剣に、成歩堂が目を見張る。鏡に姿を映した御剣に、冥も頷いた。
「今までの辛気臭いイメージを払拭できるわよ、怜侍」
 あまりいい褒め言葉ではなかったが、御剣は満足したように頷いた。
「これをもらおう」
「あ、そうだ!」
 ぽんと手を叩いたのは、コートを脱がされたマネキンを眺めていた成歩堂だった。精算を済ませようとレジへ向かう御剣と冥が、揃って振り返る。それへ微笑みかけた成歩堂の顔は、悪戯を思いついた子供のようだ。
「どうせなら、もういっそ着ていかない? 買ったばかりのコート」
「……それは……どうかと思うわよ、成歩堂龍一」
 眉間に皺を寄せたのは、冥だけではなく、御剣もだ。レジで店員が待っているのを知り、そちらへ気を取られながらも、そうだぞ、と反論を忘れない。
「私たち三人でそんな格好をしてみろ、好奇の的ではないか。いい笑いものだ」
 パンツの尻ポケットから財布を取り出し、その中からカードを取り出す御剣に、成歩堂は足早に近付いてにこっと笑った。
「いいじゃない。僕達、付き合ってるんだし。世のカップルがやってるペアルックってのを、やってみてもさ」
「……ぺあ…るっく…?」
 冥の小さな呟きはレジへ近付く男二人には聞こえなかった。けれども冥はみるみるうちに真っ赤になった顔を逸らす。それは丁度、デパートの中に入った店と店とを隔てる通路へ向けられた。そこには、向かいの店でマフラーを手に取り笑い合っている二人がいた。同じデザインで、色違いを買おうとでも言うのだろうか。女の子はスカイブルーの、男の方は深い赤のマフラーを手にしていた。
 冥は、ぐっと拳を握り締めると、カードで支払いを済ませている男二人の元へ、つかつかと歩み寄った。黒いブーツのヒールの音は、敷き詰めた絨毯に吸い込まれて聞こえなかったけれど、気配で察したのだろう。成歩堂が、ねぇいいよね、狩魔検事、と口を開きかけたところへ、冥がぐっと割り込んだ。
「早速着ていくわ、そのコート!」
 世慣れしている店員は、慌てず騒がずにっこりと、はい左様で、と頷いた。変わりに着ていたコートを紙袋の中に入れてくれた。それを渡しながら、店員は微笑を絶やさずに言った。それを思い出し、冥はむっと口を曲げる。
「それにしても失礼だわ、あの店員。何て言ったかあなた達、覚えている?」
 唐突に怒り始めた冥に、ええっと、と成歩堂は少々慌て気味だ。少し俯きながら歩いていた御剣が、ああ、と顔を上げる。
「確か、仲の良いご兄弟ですね…とか何とか。我々を兄弟だと思ったのだろう。仕方あるまい。私と冥はアメリカでも兄弟だと間違われるくらいだし、無理をすれば、成歩堂もその中に加われない事もない」
「無理をすればって何だよ、無理をすればって」
 顔を顰める成歩堂の頭を、御剣はちょんと触る。
「私と冥は、君ほど尖がってはいないということだよ」
「御剣だって意外と剛毛の癖に」
「剛毛と言うな。癖になると直らないだけだ」
「そうだよねー。だから朝大変なんだよねー。一時間も鏡と睨めっこだもんな。初めて見た時は、思わず魅入っちゃったよ。真剣に、こんな顔してさ」
 成歩堂は、ぐっと眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げて見せた。
「ドライヤーとクシ持ってんだもんな。何が始まるのかと思ったよ」
「あははっ。誰もがそう思うようね! 私もはじめて見た時には、笑いを堪えるのに必死だったわ」
「不器用だもんなー、御剣は」
「なっ、なんだとっ! 君が言うほど、私は、それほど不器用ではないッ!」
「うわっ」
 首を絞めようと掴みかかってくる御剣の手から、慌てて成歩堂はするりと逃げた。ひょいと身を屈め、御剣の手が空を切ったところで脱兎のごとく走り出す。成歩堂が目指す先は、大きなホテルから通りを隔てた向かい側にある、ちんまりとした法律事務所だ。二階に申し訳程度に、『成歩堂法律事務所』と掲げられていた。ライトが入っているタイプではないので、夜になるとすっかり闇に隠れてしまって、その存在に気付かれなくなるという、まったく看板の意味をなさない代物だ。
「こらっ、待て! 成歩堂!」
「待てと言われて待つ馬鹿がいるもんか!」
 人がいない事をいい事に、事務所の前の道で、追いかけっこを始める二人を、冥は溜息を吐いて眺めていた。
「まったく…大きな子供ね」
 冥は新しいコートのポケットから、小さな鍵を取り出すと、それをてのひらに乗せてじっと見つめた。ついでだからと、デパートの近くの店で作って、成歩堂が寄越したものだ。まだ貰って間もないので、キーホルダーも何もついていない。銀色に光る真新しい鍵をぎゅっと握り締めて、冥は微笑んだ。
「先に入っているわよ、成歩堂龍一!」
「うん! すぐに行くよ!」
「紅茶を入れて待っていてくれたまえ! すぐっ、この馬鹿をっ、掴まえて…ッ! コラーッ!」
 憎まれ口を叩く御剣の頭を、成歩堂の伸ばした手がぐしゃりと掻き混ぜた。毎朝苦労してセットしている髪だ。知っている癖に、わざとやる成歩堂の顔は、満面の笑みに彩られている。冥はくすくすと一頻り笑った後、階段を上がり、貰ったばかりの鍵で、事務所のドアを開けた。
 室内の電気をつけ、コートを脱ごうとしてふと手を止める。
 外からは騒がしい、けれども微笑み誘う賑やかな声が聞こえている。
 窓をあけ、いい加減にしなさい、と怒鳴ってやろうかしら。
 そんな悪戯心に笑みを深くすると、冥は思い付きを実行する為に、よく磨かれた事務所の窓へ手をかける。
 がらっと開いた窓の音と、降ってくる声に、吃驚した二人が動きを止めて、揃って馬鹿のように口を開き見上げるのは、そのすぐ後だった。