■ Little Night.
 人は死ぬと、お星様になるそうだ。
 タチミサーカスで出会った、まるで妖精のように可愛らしい少女が、夢を見るようにそう言って、金色の巻き毛を弄っていた。パパはお星様になったのよ、と微笑むミリカに、成歩堂は困ったように頬を掻いていた。ぽりぽりと人差し指で頬を掻く仕草は、困ったときの癖みたいなものだろう。もう何度となく見てきていた。
 狩魔冥が撃たれ、そして綾里真宵が誘拐された事件はすべて無事に解決した。大きな事件、小さな事件、その大小を問わず悲しい事件を通り越す度に、何か心にひとつずつ傷をつけているような気がする。裁判が終わった直後はどこか心ここにあらずと言った様子の成歩堂を案じていた真宵が、それとなく御剣に話を持ちかけたのだ。パーッと騒げるところに、いかない、と。両手を合わせ、首を傾げる真宵に、なぜ私が、と言いかけた御剣を制するがごとく、だって、と真宵の足元にちょこりと立って嬉しそうに頬を上気させていた春美が声を上げた。
「なるほど君は、みつるぎけんじさんがご一緒にいらっしゃると、それはもう嬉しそうに笑われますもの!」
「だから、ねっ? 御剣検事、あたし達と一緒に、サーカス見に行こうよ! あのね、マックスがチケット送ってくれたんだよ! それも最前列! 御剣検事、サーカスなんて見たことないでしょ? すっごく楽しいんだよ!」
「……サーカスと言うのは…」
「マックスが空を飛んでミリカちゃんが猛獣を操って芸をさせてそれからお人形のネロ君が喋ってさらにはトミーさんがくだらないギャグを言うの!」
「…おもしろいのか?」
「もっちろん!」
「みつるぎけんじさんは、サーカスを御覧になったことはないのですか?」
 淡い桃色の上着を着た春美が進められた大きなソファに埋まるように座りながら、問いかけた。
 水曜日の午後。学校を終わった春美を連れて、真宵は検察局へやってきていたのだ。受付に座るいやに化粧の濃いお姉さんに、御剣検事を呼び出してください、と言えば、何この子、と言う露骨に嫌そうな顔で、ご予約ですか、お約束はありますか、と尋ねられた。約束も予約もしていなかった真宵がそう言えば、それではお引取り下さい、とにこやかに言われる。なによそれっ、あたしは御剣検事のトモダチなんだからっ、と叫ぶ真宵の大声を聞きつけて、大慌てで御剣が自室から飛び出してきたのだ。まぁここでは何だから、と部屋へ連れて上がる御剣を、化粧の濃いお姉さんは茫然と見つめていた。あれはきっと御剣検事狙いだね、と真宵はふふんと顎を逸らして御剣にくっついてエレベーターに乗り込んだのだ。
 御剣の秘書はとても優しくて、真宵にコーヒーを、春美にはカフェオレを入れてくれた。まぁまぁ可愛らしい娘さんね、と笑う秘書を追い払い、ようやく、それで、と御剣は額を押さえながら、真宵と春美が成歩堂もつれずやってきた理由を問い質したのだ。それが、サーカスへのお誘いだ。
「幼い頃に…一度だけある」
「へぇ! だったら話は早いよ御剣検事!」
「何がどう早いと言うのだ」
「御剣検事は昔を懐かしむためにサーカスを見るべきだよ! よく言うじゃない、幼少に帰るって! いいもんだよ、昔を懐かしむのも!」
「どう良いのか私は皆目検討も付かないが。それに私は仕事がある。突然明日のチケットを持ってこられても困るのだが」
「だってこれ、夜のチケットだよ。御剣検事、いっつも五時十五分には業務が終わるって言ってたじゃない」
「よっぽどの事がなければ、だ。残業と言うのが大人の世界にはあるのだ」
「残業なんてすっとばしちゃえ!」
「そうできるのなら私もそうしたいが、如何せんそうもできない事情があるのだ」
「なにそれー」
「みつるぎけんじさんは……」
 御剣と真宵が小さな机を挟んで言い合いをしていると、真宵の隣に座っていた春美がぽつりと呟いた。ん、と顔を向ける真宵は、俯いて肩を震わせている春美に目を丸くする。
「は、はみちゃん! どうしたの!」
「みつるぎけんじさんは、なるほど君がお嫌いなのですね…」
「え、い、いや…嫌いとかそう言う問題ではなく…仕事がだな…」
「みつるぎけんじさんは、なるほど君がお嫌いだから、サーカスにはご一緒していただけないのですね…」
「いや、そうではないと言っているではないか。別に嫌いじゃないぞ、成歩堂は!」
「だったら、どうしてご一緒していただけないのですか。落ち込んでいるなるほど君を、みつるぎけんじさんは、癒して差し上げたいとは思わないのですか。それはやっぱり、なるほど君をお嫌いだからですか?」
「そうではない! そうではないぞ、春美君。ただ仕事が終わらなくてだな」
「お仕事など、愛の前には必要のないものです」
 にこりと笑う春美の顔には、俯いて震える声を漏らしていたときに連想した涙は、ひとつも浮かんでいなかった。赤いほっぺはまぁるく可愛らしく白い頬に浮かんでいる。その豹変振りに、と言うよりは、最初から演技をしていたらしい春美に、御剣はぽっかりと口をあけてしまっていた。真宵も呆気にとられていたが、すぐにはっと我に帰り、御剣の前でバンと大きくテーブルを叩き付けたのだった。
「だからっ、行こうよ御剣検事ッ!」
 そう言うわけで、御剣は生まれて初めて人に意見を押し切られると言う経験をして、翌日の仕事を五時十五分の定時きっかりに終わらせたのだった。
「へぇ、珍しいね御剣。君が定時で仕事を終えられるなんて」
 成歩堂法律事務所で待ち合わせの時間にやってきた御剣を見て、成歩堂は目を丸くしながら、けれど嬉しそうに頬を掻いて笑った。
「どう言う意味だ」
「どう言う意味って…だって君、忙しいんだろ? よく時間が取れたなぁと思って。でも嬉しいよ。そうだ、まだ少し時間があるから、どこかで軽く食事でもしていかない? 和洋中華どれがいい?」
「ラーメン! ラーメンラーメンラーメンラーメン!」
「私は和食がいい」
「わたくしは、そのぅ…お子様ランチなるものを、一度食べてみたいのですが。旗が立っている奴です!」
 見事に協調性のない面々のせいで、結局ファミリーレストランでの夕食となった。平日の夕食時は、家族連れよりも学生の方が目立つ。それに混じって思い思いのものを食べ、それからタチミサーカスへやってきたのだ。
 マックスが用意してくれたのは最前列のど真ん中。ステージが一番良く見える場所だった。何度目か解らないサーカスに、真宵と春美はきゃあきゃあと歓声を上げ、成歩堂も楽しそうに目を輝かせている。ステージからの光に照らされる横顔をちらちらと盗み見ながら、御剣の気持ちも浮き足立っていた。
 途中、真宵がステージに引っ張りあげられマックスと共演するというハプニングもあって、非常に楽しい一時を彼らは送る事ができた。公演が終わって、楽屋裏へ挨拶へ行けば、タチミサーカスのメンバーが快く迎えてくれる。
 御剣は奇奇怪怪な初対面のメンバー達に目を白黒させていたが、食堂の一番奥に置かれていた黒い縁取りの写真たてを見て、すっと目を細めた。
 資料で見た事がある顔だった。
 丸っこい顔に、頭頂部だけに残った金色の髪。燕尾服の襟元までが写真に収まっている。近付き、それを手に取ると、ああ、と派手な化粧をしたままのトミーが顔を向けた。
「そいつぁこのタチミサーカスの団長さ! とは言っても、もう死んじまったけどね!」
「…裁判の資料で写真を見た事がある。たしか、あの少女の父親だそうだな」
 真宵と春美に囲まれ、今日の衣装を誇らしげに見せているミリカに目をやり、御剣が目を細めた。
「ああ、ミリカね!」
「早くに父親を亡くすというのは、不幸なことだな」
 沈んだ声に、トミーは顎に手を当てる。
「まぁそりゃそうだけどね、あいつぁ気にしてねぇさ。なんせ父親は星になったって思い込んでっからさ! あいつに一般常識は当てはまらねぇんだよな!」
 がはははと笑うトミーは、成歩堂を見つけると、何かギャグを言わそうと近寄って行く。それによしてくださいよぉ、と弱りきった声を漏らしていた成歩堂が、あっ、と声を上げて御剣の側へ飛んできた。
「それ、タチミサーカスの団長さんだね。あれ、君、団長さんの事知ってたっけ?」
「ああ。資料で見た」
「そっか…ミリカちゃんには可哀相な事件だったよね。あれで彼女、天涯孤独になっちゃったからさ。ああ…そうだ。今度お墓参りでも行こうかな。君も一緒にどう?」
「私が行ったところで、故人は喜ばないだろう」
「んーまぁそうかもしれないけれどさ…えっと、お墓、どこなんだろう」
 成歩堂は何の躊躇いもなく、きゃあきゃあと女の子の会話で盛り上がっているミリカの元へ行くと、あのさ、と切り出した。
「団長さんのお墓って、どこにあるのかな。お墓参りしたいんだけど」
「あっ、それいいね!」
 パッと顔を輝かせるのは真宵だった。春美は直接事件に関わっていないので、団長って誰だろうと言うような顔をしている。
「ミリカちゃんやみんなは元気ですよって報告に行きたいよね!」
 ぱんと両手を合わせる真宵に、ミリカは不思議そうに首を傾げる。
「お墓って、なぁに?」
「…え?」
 顔を引きつらせた真宵が、救いを求めるような顔をして成歩堂を振り返る。
「えっと…お墓って…そのぅ…死んだ人を埋めておく場所って言うか…」
 無邪気に笑っているミリカに成歩堂は何と答えていいものやら解らない。率直にお墓の説明をすれば、ミリカは目をくるりと丸くした。
「パパはお星様になったのよ」
「…あー…うん、そうだね」
「だから、お墓なんて言うもの、必要ないのよ。だってパパは毎晩お空にいるんだもの。ミリカ、だから悲しくないの」
「…あー…うん、そうだね」
「淋しくなったら、お空を見上げればいいだけだから。ね?」
「…あー…うん、そうだね…」
 弱りきった成歩堂が、頬をぽりぽりと掻いていた。どうしよう、と言うような顔で辺りを見渡せば、トミーがひょっこりと顔を出し、団長の墓の場所なら、後でおしえてやるよ、と彼にしてはいやに小さな声で耳打ちして行った。
 ミリカが違う話に熱中し始めたので、成歩堂はそっとその場を離れ、トミーに団長の墓の場所を聞いたが、なんとなくもう墓参りに行こうなんて気はなくなりかけていた。ミリカの無邪気な笑顔に、気をそがれたと言うのだろうか。まだ人が死ねばお星様になると信じているらしいミリカの純粋さが、たまらなく辛く思えてくる。
 明日もサーカスの公演はあるのだから、長居しちゃ悪いよ、と成歩堂は真宵と春美を促して、タチミサーカスを後にしていた。
 成歩堂たちがサーカスに熱中している間に、夜はとっぷりとくれ、雲ひとつない夜空には無数の星が広がっている。満天の星空と言う奴だ。うわぁ綺麗だねぇ、と歓声を上げる真宵と春美の二人が、駅への道をのんびりと歩きはじめる。その後に続きながら、成歩堂はふうと溜息を付いた。
 横を歩いていた御剣が、静かに顔を向ける。
「どうしたのだ。溜息など」
「…あ、いや…。ちょっとね…ミリカちゃんがね」
「ああ…あの人が死ねばお星様になるなどと言う戯言を言っていた少女か」
「戯言って…御剣、君は夢がないなぁ」
「夢で腹が膨れるものか」
「いや、膨れないんだけど。あのね、ミリカちゃんはおとぎの国で生きてるんだよね。世間知らずって言うか。団長さんが死んだってのを、本当の意味で知るのは、いつなんだろうなぁ…なんてさ」
 また人差し指で頬を掻き、成歩堂は困ったように微笑んでいる。御剣はその横顔を眺め、僅かに目を細めた。
「……人がいずれ星になるのなら」
 あっケーキ屋さんだよおいしそうっ、と歓声を上げている真宵達に、御剣の声はかき消されそうになった。えっ、と足を止めた成歩堂を振り返り、御剣はもう一度繰り返す。
「人がいずれ星になるのなら、私の父はもう星になったのだろうか」
 星明りと、遠くにある街灯の光に照らされた御剣の顔は、暗く影になっていて良く解らない。成歩堂は一歩足を踏み出し、手を伸ばせば触れられるところに、歩み寄った。僅かに俯いた整った顔が、泣いているように見え、思わず頬を撫でる。ぴくりと肩を震わせた御剣は、だが抗わず触れる暖かな手に甘んじていた。
「……お星様になるって事はさ、この空に浮かんでる星の、どれかって事でしょ」
 成歩堂の指先が、御剣のこめかみを辿る。
「だったらさ、御剣のお父さん、きっとお星様になって、御剣のことを見守っててくれるよ」
 ね、と言って、成歩堂の唇が御剣の唇にちょんと触れる。ただ触れて離れるだけの幼いキスに、御剣は動じなかった。
「それでは、こうして貴様が私に触れているというのも、父には見えているのだろうな」
 ぐっと喉を鳴らした成歩堂に、御剣は少しばかり唇の端を持ち上げてみせる。
「そ、そりゃ、まぁ…ねぇ?」
 動揺した成歩堂に背を向けて、御剣は歩き始める。もう随分と先にまで歩いて行ってしまった真宵と春美が両手を振り回して、早くぅ、と叫んでいたのだ。片手を上げて答えながら、歩く御剣の背中が言った。
「死んだ人間が星になるというのを、信じるわけではないが」
 慌ててその隣に並び、成歩堂は、うん、と相槌を打つ。
「もしそうであったなら、私は、いいと思う」
「…へぇ」
 目を瞬かせる成歩堂に、なんだっ、と御剣が僅かに顔を赤くして怒鳴る。飛んできた唾を、片手で拭いながら、成歩堂はにやりと笑った。
「それならさ、もし、僕が君より早く死んじゃったら、ちゃあんとお星様になって、毎晩御剣を見守っててあげるよ」
 悪戯っこのような笑み、御剣はふんと顔を背ける。
「貴様に見られているのかと思うと、落ち着いて仕事もできん」
「何それ、感じちゃう?」
「馬鹿を言え」
「なんだよ、可愛くないなぁ、御剣は」
「男が可愛くてどうするのだ」
「いやー御剣は可愛いよ? 特にベッドの中ではね」
「…セクハラだ。起訴してやる」
 ずかずかと足音も荒く歩く御剣の後を追いながら、成歩堂が、ごめんごめん、と慌てて謝ってくる。半端な笑みを張り付かせている顔が、白々しい。尖がった頭をいっそ叩いてやろうかと思ったが、御剣は気が変わり、つれないの、と言いながら前に立って歩き出した成歩堂のその尖がった頭を見た。
 悪戯を思いついた子供のように、御剣は笑みを浮かべていた。
「それに私は」
 潜めた声に、ん、と成歩堂が気付く。
 振り返った顔に微笑みかけてやる。ここぞとばかりに、飛び切りの笑みで。
「星になって空から見守られるよりも、生きて側で見られる方がいい」
 ぽかんと、成歩堂が呆気に取られていた。
 立ち止まって固まっている男の横をすり抜けて、御剣は足早に待ち侘びている真宵と春美の下へ歩み寄る。すまない、と一応詫びれば、みつるぎけんじさんはなるほど君と何を話しておられたのですか、と春美の純粋な瞳に見上げられてしまった。うむ、と適当に言葉を濁し、歩き出した御剣の背中に、ごすんっと重いものがぶち当たる。
「うわっ、なるほど君!」
 後ろから羽交い絞めに抱きしめられているのだと気付いたのは、真宵が目を丸くして、だけど口元は笑いながら、御剣の背中に目を向けていたからだった。
「おい、重いぞ成歩堂」
「どうしたのなるほど君。すごく嬉しそう」
「何か良い事があったのですか?」
 僅かに顔をずらせば、近い場所に成歩堂のにやけた顔があった。思わず眉を寄せる御剣に、成歩堂は大声を張り上げた。
「真宵ちゃん! 春美ちゃん! ケーキを食べに行こう! 僕のオゴリで!」
「えっ、本当!」
「うわぁ、良ろしいのですか!」
「いいよ〜ッ! すっごく高くて美味しいの食べよう!」
 御剣の肩を抱き寄せながら、歩き始める成歩堂に、おい、と御剣は肩を掴む手を叩く。
「離せ」
「いや」
「不愉快だ」
「僕はそうでもないし」
「貴様は楽しいかもしれんが私は楽しくなどない」
「またまたぁ」
 にこにこと、まるで聞いていない成歩堂に、御剣は諦めた。抱き寄せる肩を好きにさせると、前を歩いている真宵が振り返り、にやにやと物言いたげな顔をしていたが、気にしない事にする。
 駅が近付き、薄暗い道にも明かりが届き始めた。
 切符を買ってきてよ、と成歩堂から財布を受け取り、真宵と春美が駆け出していった。のんびりとその後を追いながら、成歩堂がちゅっと不意をつくように御剣の頬に口付ける。
「なんだ」
 仏頂面で問えば、えへへ、と成歩堂は頬を染めた。
「僕も、側にいる方がいいなぁ」
 柔らかな眼差しに、御剣はどう切り替えしてやろうかと逡巡した。
 けれど、触れてくる唇の優しさに、嫌味だの否定の言葉だのは消えてしまう。
 そうだな、と頷く御剣の背を成歩堂が抱き寄せた。
 触れ合う温もりを、御剣も引き寄せた。
 駅からの明かりが届かない薄暗闇の中、唇を重ねるふたつの影を、満天の星空が見下ろし、見守っていた。