■ Hospital date
 あまり病院は好きじゃない。
 自分自身にいい思い出がないし、病院自体がいい思い出に繋がる事も滅多にないからだ。
 例えば五年前は葉桜院の近くの吊橋から川に落ちてそのまま入院しちゃったし、もっと前だと、真宵ちゃんを誘拐したコロシヤサザエモンに狩魔検事が狙撃されて、見舞いに行った事がある。盛大に鞭で打たれたけど。真宵ちゃん、ひいては僕のために誰かが死んじゃったらどうしようって、そりゃもう心配だった。狩魔検事には伝わらなかったけど。あの人、今でもぴんぴんしてるけど。もうちょっとお淑やかになった方がいいと思うな。だってもうそろそろいい年に…。真宵ちゃんだって随分落ち着いたって言うのに、会う度に鞭を振り上げるのってどうかと思うよ、狩魔検事。特に空港ではやめた方がいいな。被告人になっちゃうよ、弁護してあげないから。
 って、そうじゃない。
 だから、つまり、病院は好きじゃないってことが言いたかったんだ。
 僕、成歩堂龍一は、三ヶ月に一度は必ず入院する恋人…って恋人なのかあの人? いや、なんか違うような…どっちかって言うと…上司…? いや、でも一応所長は僕だし…あの人雇われ弁護士だし…給料渡してるの僕だし……だったら部下…? でも普通、部下ってあんなに態度でかいのかなぁ…。それにたまに、給料よりコネコちゃんがいいぜ、とか訳の解らない事言うし…。肉体関係があるのは確かだけど…それに気持ちが伴っているのかと言えば…僕は好きだけど、でも、いや…なんて言うか…それは……。
 あ、いかんいかん。昨日ユーサク君に会ったせいで、ついつい口調がユーサク君になってしまう。
 とにかく、三ヶ月に一度は必ず入院する、成歩堂法律事務所の雇われ弁護士、神乃木荘龍さんの見舞いをするべく、大学病院を訪れていた。見舞いと言うのは正しく言えばちょっと語弊がある。荘龍さんが入院しているのは、何もどこかを悪くしたとか、とうとうコーヒーの飲みすぎで胃に穴が空いたとか、あまりにも傍若無人な俺ルールに耐えられなくなった僕に背後から刺されて緊急入院とか、そんなわけじゃない。
 長年わずらっている視神経やその他諸々の検査入院だ。
 毎日欠かさない薬や、定期的に投与する点滴だけでは、弁護士と言う激務をこなせないらしい。三ヶ月に一度は検査入院をして、悪化していたりしないかとか、調べるそうだ。入院の期間は一週間。荘龍さんが僕の事務所で働くようになってから、最初のうちは、そりゃもう心配して真宵ちゃんや春美ちゃんと一緒に毎日のように見舞いに行ったものだけど、今じゃすっかり慣れてしまった。真宵ちゃんなんて、行ったってどうせコーヒーが飲めないから苛々してるし八つ当たりされるからやだよ、と頬を膨らませて近付こうとしない。春美ちゃんは、まぁ…なんていうか、あの子は一種の荘龍さんの信者みたいなもんだから。水筒の中にカフェオレを作って持って行っている。なぜにカフェオレなのかと言うと、春美ちゃんがカフェオレしか飲まないからだ。婦長さんに見つからないうちに全部飲み干してくださいませっ、と可愛らしいウサギさん模様の、子供用の小さな水筒を押し付けられた荘龍さんは、感激のあまり咽び泣いたって話だ。ほんとかなぁ。
 また話が逸れた。
 ともかく昨日、荘龍さんから着替えがなくなったし、暇だから顔見せにこいって電話があったんだ。公判中で忙しいんですけど…、と言いかけた電話は問答無用に叩き切られた。相変わらず人の話を聞いてない人だ。一人で行くのもなんだか味気ないしなぁ、と思って振り返ったら、すでに真宵ちゃんはいなくなっていた。入院中の荘龍さんから電話があると、すぐに逃げ出すんだ。病院に行きたくないからって…まったく、助手のくせに。
 折角だし春美ちゃんを連れて行こうかと思ったんだけど、春美ちゃんは小学校の遠足に出かけるとかで、すげなく断わられてしまった。いくら荘さまのためとは言え、水筒はお渡しできませんっ、と例のウサギの水筒をぎゅっと抱きしめて睨み付けられた。そんな顔しなくたって取らないよ。
 仕方なく、荘龍さんの服だの下着だの、あとは暇つぶしに推理小説なんかも袋に入れ、所長弁護士自ら病院へやってきたわけだ。あ、ちなみに推理小説は嫌味ったらしく毒殺事件を取り扱ったものにしてやった。ふん。せめてもの仕返しだ。どうせ、ちっとも、針の先ほども効きやしないんだけど。
 病院で擦れ違う看護婦さんはほとんど顔見知りで、あらこんにちはー、などとのどかに挨拶をしてくれる。それへ丁寧に答え、荘龍さんの病室のドアをノックすると、入るな、と応えがあった。
 それってどーなの。
 人に来させといて、どーなのそれ。
 一瞬本気で帰ってやろうかと思ったが、後で機嫌を取るのが面倒なので、そっとドアを開けて顔を突っ込んだ。
「あのぅ…僕ですけど」
「よし、入れ」
 本当、どーなのそれ。
 呆れつつ溜息を漏らしつつ、僕は派手な音を立てないようにドアを閉め、狭い個室に足を踏み入れた。いい天気だってのに、カーテンを締め切って何をやってんだかこの人は、と思ったけど、どうやら目の検査をしたばっかりで、光は厳禁らしい。目にもきっちり包帯が巻いてあった。初めて見る人が見たら、痛々しいの一言に尽きるんだろうけど、僕からしたら、悪さができない丁度いい機会だ。
「はいこれ。着替え持ってきましたよ。」
 どすんとわざと足の上に置いてやると、荘龍さんはにやりと笑った。
「久しぶりじゃねぇか、コネコちゃん」
「…昨日もきましたよ。用事は一度に済ませてくださいよ。僕が病院嫌いなの知ってるでしょ?」
「俺は好きだぜ? 何せ成歩堂が俺に優しくなるからなァ」
「はいはい」
「御剣とのデートはどうだったんだい」
 昨日の審議のことだ。デートなんて言ってるのは、やっかんでるだけだ。
「ええ、そりゃもう楽しかったですよ」
 袋の中から着替えを取り出して、ベッドの下の引き出しにしまって行く。全部しまい終えたところで、荘龍さんが黙ったままなのに気付いた僕は、ふっと顔を上げた。
「…どうしたんですか?」
「本当にデートしてたのか」
「………何言ってんですか」
 ぴしぴしと伝わってくる怒りのオーラに、僕はもう呆れるしかない。
「無罪判決で審議が終わって、その後裁判所の前の喫茶店でご飯食べましたけど、それだけですよ」
「……デートじゃねぇか。この俺が、こんな牢獄のような場所でじっと耐えているってぇのに、アンタは御剣と楽しくデートか、コネコちゃん。つれねぇ恋人だぜ」
「…あのねぇ、荘龍さん」
「言いつけてやる」
「はい?」
「お嬢ちゃんに、言いつけてやるぜ、コネコちゃん。『わたくし、なるほど君がそんなに無節操な方だとは思いませんでした! ええ思いませんでしたとも! 荘さまと言う方がいらっしゃるのに、真宵様にまでお手を出して、その上みつるぎけんじさんともデートをなさっていただなんて! わたくし、なるほど君を軽蔑いたします!』って言われちまうぜ?」
「似てるのは解りましたから、無意味に拗ねないで下さいよ」
「拗ねちゃいないさ」
 ベッドに起き上がっていた荘龍さんが、ごろんと横になって、こちらに背を向けた。
「……それのどこが拗ねてないって言うんですか!」
「クッ…どうせ俺なんて…」
「……始まったよ…」
「十年前に死んでりゃ良かったのさ。そうすりゃ今頃俺は千尋とあの世で…」
「で、僕は御剣と仲良く楽しい日々を暮らす事になるんでしょうねぇ。あーそれも良かったかもなぁ。御剣はいい男だし、僕のこともちゃんと解ってくれてるし。まぁトノサマンマニアなのはちょっと理解に苦しむところだけど、それ以外は満点だし。お金持ちだし、優しいし」
「………クッ」
「狩魔検事と仲良くしてたかもしれないなぁ。あの子、美人だし、それに賢いしね。鞭が難点だけど、それさえ克服すればあとはパーフェクトだし。こないだも電話してきてくれたんですよねぇ。日本ではインフルエンザなんて理解に苦しむ病気が蔓延しているようだけれど、成歩堂龍一、あなたの馬鹿みたいに健康な身体には何の支障もないのだけれど、馬鹿には馬鹿なりに移る馬鹿な病原体もいるでしょうから、十分気をつけなさい、ってね。いい子ですよ、狩魔検事」
 向こうを向いた荘龍さんはもう何も言わず押し黙っている。やれやれと溜息を付いて、ベッドに腰を下ろし、ぽんぽんと白い髪を撫でてやった。
「泣かないの」
「クッ、俺には泣くなんて機能、備わっちゃいねぇぜ」
「機能って…機械? いや、そうじゃなくて。拗ねないの。あ、そうだ思い出した。荘龍さん、検査入院の度に真宵ちゃん呼び寄せて八つ当たりするのやめて下さいよ! 真宵ちゃん、すっかり怯えちゃって絶対病院には行かないって言ってるんですからね! 書類ひとつ届けるのだって僕がこなくちゃならなくなるでしょ!」
「……あのお嬢ちゃんが入ると、アンタがこねぇじゃねぇか…」
「アッ、だから真宵ちゃんに八つ当たりしてるんですか! もういい加減にしてくださいよ! 僕もその内愛想尽かしちゃいますよ! イトノコ刑事に書類届けてもらうようにしますよ!」
「あんなのと会ったら、治る病気も治らねぇぜ」
「病気じゃないでしょ。検査入院でしょ。ほら、いい加減に機嫌を直す! 僕はもう帰りますよ。また別の案件が舞い込んできたんで、今、事務所てんてこ舞いなんですよ」
「知ってるか、成歩堂。てんてこ舞いの語源と言うのは…」
「訳の解らない話で僕を引き止めようとしない!」
 座っていたベッドから立ち上がると、横を向いていた荘龍さんが急にむっくりと起き上がった。目を覆う包帯のせいで、まったく何も見えていないらしく、いつもなら伸びてくる手も大人しくシーツの上に投げ出されている。ちょっと可哀相かなぁ、と仏心を出した僕は、身を屈め、目を覆う包帯の上に唇をくっつけた。
「それじゃ、いい子で大人しくしててくださいよ。明日は忙しくて、こられないんですから」
「………クッ」
「うわっ」
 肩に置いていた手のせいで、僕の場所がわかったのか、荘龍さんの両手がおもむろに伸びて腰をぐいと掴んだ。抱き寄せられて、咄嗟にバランスが取れず荘龍さんの胸に倒れ込んでしまう。ああもうこの人ってば本当にもう…。
 やれやれと溜息を吐いたけれど、気付いているのか気付いていないのか。解らない顔で荘龍さんはぎゅっと僕の身体を抱き寄せた。
「………よし」
 肩の辺りに顔を埋めていたかと思ったら、急にぱっと両手を離した。何なんだ、と訝しみながら腰を上げると、おい、とまた呼び止められる。もういい加減にしてくださいよ、と言おうと口を開きかけると、荘龍さんは見えない目で僕を見て、ニッと笑った。
「気を付けて帰りなよ、コネコちゃん」
「荘龍さんも、精々寝首かかれないように気を付けて下さいよ」
「クッ、俺はまだアンタに心配されるほど落ちぶれちゃいねぇぜ」
「恋人を心配して悪いんですか」
「いやぁ?」
 にやにやと頬に手を当てる荘龍さんの表情に、ちょっと調子に乗らせすぎちゃったかと後悔したが、どうせ明日は忙しくてこれないのだし、まぁいいかなと思い直す。
「あ、そうだ。成歩堂」
 ハッと頬を撫でていた手を止めた荘龍さんは、枕の下に手を突っ込むと、何か細長い板のようなものを差し出した。白くて、プラスチックみたいな材質でできていて、ちょっと薄汚れている。板の端っこには穴が空いていて、裏返すと黒い大きな文字で、面会謝絶……。
「こ、これは……?」
 嫌な予感に汗がだらだらと伝うのを、僕は感じていた。
「悪いが、ちょっとドアにかけといてくれ。アンタがくるってんで、外しといたんだ」
「めっ、面会謝絶だったんですかッ! 何やってんだ、アンタ!」
「クッ、偏にアンタを思う愛の強さ…」
「もう大人しく寝ててくださいッ!」
 だっと荘龍さんの手から面会謝絶の札を受け取ると、僕は脱兎のごとく走り出した。ばしんっと思い切りドアを閉めて、もうもうもうっ、とぶちぶち文句を言いながらドアの横の釘みたいなところに、面会謝絶の札をかける。看護婦さんが二人、後ろを通りながらくすくす笑っていた。彼女らも、荘龍さんや僕とは長い付き合いで、僕が荘龍さんにからかわれる様をもう何度も目撃している。今回も荘龍さんの策略に僕が乗ってしまったのを、彼女らは知っているのだ。
 くそっ。
 僕だってまだ女の子に魅力を感じないわけじゃないんだから。なのにいらない恥をかかせてくれちゃって。あの人ってばあの人ってばまったく…。
 真っ赤な顔で面会謝絶の札を下げ、僕は溜息を吐く。
 でも、なんでかあの人が、いいわけで。
 だから嫌いな病院にも足繁く通ってくるわけで。
 どうなのそれって…どーなの、もう…。
 病院の廊下から溜息混じりに見上げた空は、真っ青で、呑気に白い雲がぷかぷかと浮かんでいた。