■ Here we come.
 法律事務所は、いくら個人経営の自営業だとは言っても、基本は裁判所と同じタイムスケジュールで動く。
 月曜日から金曜日までは通常業務をし、土曜日と日曜日と祝日は休業。朝は九時から始まり、夕方の五時には終業となる。だが、まだ若手弁護士とは言え、それなりに実績も知名度もある成歩堂には、休日も祝日も時間外労働も残業もまったく関係なかった。たいていの土日は仕事に当てるし、夜だって定時で帰宅できたためしがない。
 二月の第二土曜日も、成歩堂は審議の準備に追われていた。月曜日の九時から、最初の審議が行われる。案件は殺人事件。カツアゲをしていた高校生が相手を突き飛ばし、その弾みで被害者が道路脇に積み上げられていたコンクリートブロックに後頭部を強打、病院に搬送されたものの、その四時間後に脳内出血で死亡した。被害者は来年、某国立大学付属高校への入学が決まっていた中学生だった。人を殺したことに変わりはないが、被告人は反省しているし、一生償っていきたいなどと愁傷な事を言っている。一昨日の通夜で焼香し、その後、自首をしてきた。被告人は、被告人こそが被害者なのではないかと思えるほど、ぼろぼろの姿でやってきたのだそうだ。糸鋸刑事の話を聞いて、成歩堂は、それなら僕が弁護しますよ、と名乗りを上げたのだ。被告人は通夜の席で、遺族に土下座をしたのだと言う。父親に殴られ、母親に罵倒されながらも、ひたすら謝り続けたのだそうだ。本当に悪いと思っているから、謝ったんでしょう、と成歩堂が問えば、まぁ…そうッス、と糸鋸刑事は頭をがりがりと掻いて困ったように言った。まぁ被害者を病院に連れてきたのは、被告人ッスからねぇ…殺人罪じゃなく、傷害致死が妥当だと思うッス。でも担当の検事が…そのぅ、御剣検事ッスから…アンタには負けないって、昨日から張り切ってるッス。
 留置所で被告人と対面し、見た目と頭は悪くても、心根はしっかりした子だと成歩堂は思った。弁護してやろうと思える相手だったのだ。殺人罪は重過ぎる。せめて傷害致死でないと、と息巻いて事務所へ戻ってきて、それから猛然と過去の判例や、現場写真と解剖記録などの資料に目を通していた。
 そろそろちょっと休憩しようかな、と思ったのは西日がブラインド越しに事務所の中を照らし始めた頃だ。目を通すべき資料には目を通したし、これからはその資料を読んで気付いた事をピックアップしていかなければならない。根を詰める作業だ。その前に一息入れようと、成歩堂は所長室の机から立ち上がった時、邪魔するぜ、と低い声が玄関からかけられた。
「いねぇのか、まるほどう」
 慌てて所長室のドアを開くと、応接室を見渡していた神乃木が、ああ、とこちらへ顔を向ける。
「休日まで仕事か…、やり手の弁護士さんはお忙しそうだねェ」
「神乃木さん。丁度良かった」
 成歩堂は思わず浮かんだ笑みを隠し切れず、彼の名を呼んだ。所長室のドアを閉め、近付いていくと、あん、と神乃木が首を傾げる。
「一息入れようと思ってたとこなんですよね」
「クッ! そいつはつまり…この俺に、まるほどうブレンドをいれてくれ、と暗におねだりしているわけだな、コジカちゃん」
「だって僕が入れるよりも、断然美味しいじゃないですか、神乃木さんのコーヒーの方が」
「だから散々俺が言ってるだろう。コーヒーの入れ方を、最初っから最後まで、つきっきりでレクチャーしてやるってよ」
「いいですよ、別に。自分で入れるより人に入れてもらう方がいいんです。それにたまにしか味わえない方が、美味しくなるでしょ。そうだ。お客さんにもらったクッキーがあるんですけど、お茶請けにどうですか」
「それならこいつの方が、よりいいだろうぜ」
 神乃木が差し出したのは、黒い上等そうな包装紙に包まれ、深い緑のリボンのかかった長方形の箱だった。大体、横長の財布と同じくらいの長さをしているが、幅はそれの半分くらいだ。
「…これは?」
「おっと間違えた。こいつは後だ。先にこっちだ」
 神乃木は聊か慌てたように、携えていた紙袋の中から、手帳サイズの箱を取り出した。茶色の包装紙に、白いリボン。さっきの細長い箱と同じくらいに趣味のいい包装だ。
「これは?」
「単なる気紛れさ」
 神乃木は軽く舌を鳴らし、きょとんとしている成歩堂の手にそれを押し付けた。え、ええっ、と成歩堂が狼狽している隙に、その横をすり抜け、事務所の小さなキッチンへ入っていく。神乃木が、まだゴドーと言う名で検事を務めていた頃に持ち込んだコーヒーを入れるための一式がひと揃え、並べてある。小さなキッチンの小さな収納棚は、豆だのフィルターだの果てはミルクパンだので占領されていた。それらは、一時使われることなく埃を被っていた。神乃木荘龍が、ゴドーとしての検事生活を終え、殺人犯として起訴されたからだ。外に知られてはならない事だが、それよりも以前から、成歩堂は神乃木に想いを寄せていた。神乃木もそうだ。かつての恋人であり、この事務所の所長であった綾里千尋を守れなかった成歩堂を憎み、恨み、憎悪しながらも、その反面で彼は、成歩堂と同じベッドで眠っていた。葉桜院での殺人事件の真相が明らかになった時、成歩堂はその事実にひどく打ちひしがれた。一時は、事務所にあるそれらのゴドーを彷彿とさせるものを見るもの辛く、触れないままになっていたのだ。埃が積もり、錆が浮いた。揃えられた豆は風味をなくし、フィルターは湿気を帯び黴が生えた。葉桜院での事件から一年以上も放置されたそれらを、ひとつひとつ丁寧に洗い、磨き、新しく豆を買いなおしたのは、それらを放置した成歩堂自身だった。割り切れぬ気持ちもあったけれど、居場所をなくした彼が帰ってくる場所を作りたかった。
 神乃木の弁護を引き受けようと言ったのは、真宵だった。成歩堂は迷ったが、結局、彼を弁護する事にした。自分が傷付いたことはともかくとして、真宵を守ってくれたのは事実だったし、他の弁護士にこの案件を引っ掻き回されたくもなかった。
 法廷で真実を暴いた後、初めて神乃木にあった時、それはつまり留置場の面会室だったのだけれど、彼はその口元に薄い笑みを浮かべて呟いた。きたのか、と。きましたよ、と成歩堂が頷くと、神乃木は安堵したように、そうかい…、と息を吐いた。嬉しそうだったね、と真宵は言った。何だかとても悲しそうでした…、と春美が目元を擦りながら項垂れた。
 神乃木の裁判は、殺人では無罪、傷害致死での有罪となった。懲役四年。執行猶予なしの判決は、その類にしては随分と軽いものだった。裁判長の計らいもあったのだろうし、成歩堂の手腕もあったのだろう。そして、御剣の思惑もあったはずだ。
 神乃木は三年二ヶ月を刑務所で過ごした。模範囚として刑が十ヶ月軽減され、つい先日仮釈放されたばかりだった。それから彼は足繁く通っている。半年の仮釈放中の間は、職につかず、仮釈放が解かれ、正式な釈放、ひいては自由の身となったなら、成歩堂法律事務所の弁護して雇用する事がすでに決まっていた。成歩堂の強い希望でもあり、神乃木の希望でもあった。その準備をするために、神乃木は仮釈放後、何度も事務所を訪れている。綺麗に磨かれていたコーヒー器具を見て、嬉しそうに頬を笑ませていた。
 キッチンから漂ってくるコーヒーの香ばしい匂いに、それらの事をつらつらと考えていた成歩堂は、ハッと気付いて手の中の包みを見下ろした。軽く振れば、かさこそと紙のこすれるような音がする。
「神乃木さん、これって何なんですか?」
 かさかさと振りながらキッチンへ行くと、戸棚から神乃木用のカップと、成歩堂用のカップを取り出していた神乃木が、振り返らずに笑う。
「やれやれ、新進気鋭の弁護士先生は、世間のイベントには疎くていらっしゃる、か。今日は恋人たちの祭典だぜ、コジカちゃん」
「え、あ、バレンタインデー……って事はこれ、チョコレートですか? え、ええっ? あのっ、じゃあ、神乃木さんが、僕に? ええーッ?」
 素っ頓狂な声を上げて目を真ん丸にする成歩堂を、神乃木が呆れた顔で見つめる。
「そう盛大に喜んでもらえると、少々驚くな」
「あ、ありがとうございます! まさか、もらえるなんて思ってなかった」
「クッ! この俺もまさか、チョコレートを買う側に回るなんて、思ってもみなかったぜ。あのお嬢ちゃんが煩く言うんでな。買い物に付き合ったついでさ」
「あのお嬢ちゃんって言うと……」
「昨日、電話で呼び出されたのさ。『わたくしもみなさまにチョコレートをプレゼントしたいと思っているのですが…何分、一人でデパートへ行く勇気がなくって…。神乃木さまにお付き合いいただけたら、わたくし、それはもう感激いたしますわ!』ってな」
「本当、似てますね」
「弁護士は、洞察力がものを言うのさ」
 成歩堂専用のカップに深い色のコーヒーを注ぎ、神乃木はにやりと笑った。いつか、彼が検事だった立場の頃に、成歩堂に言った言葉とほぼ同じだったからだ。けれど、肩書きが変わった今、彼が口にするのも、検事ではなく、弁護士だ。
「はいはい」
 成歩堂は苦笑しながらも、神乃木が差し出すカップを受け取った。
「じゃあさっそくこれ、頂きます」
 成歩堂は茶色の包装紙をかさかさと振って見せた。ああ、と頷いた神乃木が先に、応接室の座りごこちのいいソファに腰を下ろす。その向かいに座り、成歩堂はコーヒーを飲むよりも前に包装を解いた。
「うわ、おいしそうだ」
 現れた八つのチョコレートを見て、成歩堂が目を輝かせる。もう三十路も間近だと言うのに、実は甘いものに目がない。成歩堂のそんな性格を見抜いて、今日のプレゼントを買ってきたのか、神乃木は満足そうにそれを眺めている。
「いただきます」
 ぱくんと摘み上げたチョコレートを口へ放り込み、成歩堂が口をにんまりと笑わせる。まったく綾里真宵そっくりの笑みを浮かべる。本人は無自覚なのか、一緒にいるうちに、あの霊媒少女の気質が移ってきているようだ。
 いや、もう少女と呼ぶのは失礼かもしれない。
 神乃木はふとそんな事を思って、唇を緩めた。
「……あのお嬢ちゃんは、元気かい…?」
 成歩堂は二つ目のチョコレートに早速手を伸ばしながら、あのって、と首を傾げた。
「春美ちゃんですか? 僕、春美ちゃんに会ったのって一週間くらい前ですよ」
「そのお嬢ちゃんの、従姉妹の方さ」
 それが真宵を指している事に、成歩堂はようやく気付いた。ああ、と口にチョコレートを放り込み、その甘さにまたにんまりとした後で、軽く顎を引く。
「元気じゃない時なんてありませんよ」
 仮釈放の翌日に、関係者を集めてささやかな出所祝いを催したのだが、その席に綾里真宵の姿はなかった。母親の舞子がなくなってからひと月とたたず、倉院流霊媒道の家元に就任してから、ずっと多忙な生活を送っている。出所祝いの日は、絶対に外せない霊媒があるとかで、彼女はこられなかった。就任のすぐ後は、多くの霊媒師や、地方に散っている霊道場を預かる院主が挨拶にやってくる。儀式も多くあり、その行事事に忙殺されている間に、彼女はいつの間にか幼い霊媒師の少女から、綾里本家の家元に変わっていた。たまに成歩堂も遊びにいくが、彼女がこちらへ訪れることは、激減した。変わりに、春美が足繁く通ってくる。
「さぞかし、美人になってるだろうな…」
「その内、神乃木さんも一緒に倉院の里に遊びに行きましょうよ。真宵ちゃん、飛び上がって喜ぶと思いますよ」
「……いや……ああ、そうだな…」
 神乃木は自らが入れたコーヒーを飲み、顔を伏せた。白髪がさらりと頬に落ちかかる。窓から入る西日に照らされて、それは鮮やかな赤色に染まっていた。
「まだ、ふっきれませんか? 出所してからこっち、神乃木さん、まったく真宵ちゃんの名前、呼んでないですよね。まだ、拘ってるんですか?」
 成歩堂の静かな声に、神乃木は唇を歪めた。
「…クッ…。アンタは何でもお見通しってわけか…」
「何でもってわけには、まだいきませんけど…、でも神乃木さんの事を大分理解できるようにはなったと思いますよ。この三年、ずっとあなたのことばかり考えていましたからね」
 チョコレートをつまみ、コーヒーを飲む成歩堂の顔も、西日に赤くなっていた。だが、神乃木にその色は見えない。光の加減で、今は夕暮れなんだろうなぁと解るくらいだ。
「……俺のことばかり…か。嬉しいねぇ、リュウちゃん」
「その愛称で呼ぶの、やめて下さいよ」
 本気で嫌そうに顔を顰める成歩堂を見て、カップを口元に寄せていた神乃木は弾けるように笑い出した。
「…な、なんですか、突然」
 目を丸くしてたじろぐ成歩堂に、クックッと神乃木は喉を鳴らす。いやいや、と軽く手を振った後で、神乃木は一口コーヒーを飲む。
「葉桜院あやめには、そう呼ばれて喜んでいたのを思い出してな」
「……ああ…」
 曖昧な表情を浮かべ、チョコレートに伸ばしかけていた手を、成歩堂は引っ込めた。暖房のよく効いた室内では上着は不要だ。トレードマークともいえる青いスーツは、所長室のロッカーにしまわれている。腕を覆う白いシャツの袖に、神乃木が寄越したチョコレートの周りを覆っていたカカオパウダーがくっついているのを気付き、成歩堂は指先でそれを軽く払った。
「…懐かしい話ですね」
「あれから、彼女にはあったのかい」
「……会ってませんよ。何度か、面会に行って…それきりです」
「なぜ会いに行かない。彼女もアンタを憎からず思ってるだろうに」
 クッと薄い笑みを浮かべる神乃木を、成歩堂は見つめられずにいた。顔を俯かせ、汚れが取れたはずのシャツの袖を弄り続けている。
「…会えるわけないでしょ…。ちぃちゃんと…、美柳ちなみと同じ顔をした人ですよ。頭の中では割り切っていても、きっと会ったら、酷い事を言ってしまう。彼女も解っているから、三年前に、もう会わないでおこうって、決めたんです。今でも、葉桜院にいるはずですよ。刑期を終えたら、葉桜院に戻ると言っていましたから。真宵ちゃんに連絡を取れば、消息もつかめると思いますけど」
「随分冷てェ男だなぁ、まるほどう。アンタに惚れてくれた女じゃねぇか。アンタだって、好きだったんだろう?」
 コーヒーの湯気が顔に当たる感触を楽しむかのように、神乃木はカップを口元に寄せていた。
 成歩堂は首を振って、力なく微笑む。
「……好きでしたよ……ちぃちゃんだったあやめさんを、僕は好きでした」
 コーヒーの香りを楽しむかのように目を閉じた神乃木が、息を止めている事に、成歩堂は気付いていた。不器用な人だと、成歩堂は思う。探り出したい事を、法廷でそうしたように直接正面から尋ねず、回りくどく当り障りのない話をいくつもし、ちょっとばかり突っ込んだ話をし、じわじわと話の端々にある真実を見つけようとする。
 それは優しさだ、と成歩堂は思っていた。
「でも、美柳ちなみは、あなたを苦しめた」
 神乃木が目を開く。その目は血のように赤い。刑務所を出所した彼は、その顔を多い隠すマスクを着けなくなった。酷く弱い視力を補うために、コンタクトと眼鏡を併用している。こめかみに走る傷や、その赤い目は、成歩堂にいつまでも彼に纏わる事件を忘れるなと戒めているようだった。
「あなたを苦しめた美柳ちなみと、同じ顔をしたあやめさんと、僕は普通に顔をあわせていられる自信がないんですよ」
 成歩堂は大きな息を吐いた。肺の中を空っぽにするかのような大きな溜息に、神乃木はコンタクトと眼鏡をしていてもぼんやりとしか解らない成歩堂を見た。彼の特徴的な輪郭は、たとえ幾人の人がいても成歩堂を識別することを助けてくれる。
「知ってました? 神乃木…荘龍さん」
 成歩堂が微笑んだ。
「…あなたがあやめさんに対して思っているのと同じような事を、僕はあなたと知り合ってから、千尋さんに思うようになったんですよ」
「……まるほどう」
「僕の知らないあなたを知っている千尋さんが、羨ましくて仕方がない。今でもあなたの心の大半を独り占めしている千尋さんが…憎くて……でもそんな事を思ってしまう自分の度量の狭さが、千尋さんよりも数千倍も憎い。千尋さんが大好きなはずなのに、あなたが関わると、それが逆転してしまう。いつか、僕の依頼人が言ってた言葉があるんです。死んだ人には勝てないって。いつまでたっても、何年たっても、一生かかっても、死んだ人には勝てっこないんだって。本当にそうだって思いますよ。僕は千尋さんに、一生かかっても、いや…永遠に、勝てっこないんだって」
 神乃木のぼんやりとした視界の中で、成歩堂が顔を拭うような仕草をした。泣いているのだろうか、と思った途端心臓がひやりと震えた。悲しみと、歓喜にだ。
「成歩堂」
 腰をあげ、手を伸ばした。テーブルを挟んだ向かい側にいる成歩堂を抱きしめようと身を乗り出し、曖昧な輪郭に手を当てる。成歩堂の頬は、神乃木が想像していたように濡れてはいなかった。乾いた感触が指先に返ってくるが、それでも胸に込み上げた愛しさは変わらない。
「アンタと千尋を、恋愛ってフィールドの上じゃ、比べたことなんか一度だってねぇぜ。弁護士としてなら、何度も比べたがな」
「弁護士としても、一生叶わないって思いますよ」
「…どうかな」
 神乃木はテーブルに手をついて、更に身を乗り出す。成歩堂の額にキスをすると、にやりと笑った。
「とうに越えてるかもしれねぇぜ」
「嘘だぁ」
「クッ! 本当だ、とも俺の口からは言えねぇがな」
 神乃木がまたソファに腰を下ろすと、成歩堂が軽く舌打ちするのが聞こえた。どうせなら言ってくれたらいいのに、などと呟くのが聞こえ、思わず笑みがこぼれる。子供じみた言い方に、言わずにおこうと思っていた事を、吐露してやる。
「弁護士としてはともかくとして、恋愛ってフィールドじゃあ、アンタ、とうに千尋を越しちまってるよ」
「嘘だ」
「クッ…俺は、嘘は言わねぇぜ」
 事務所へ来るときに携えていた紙袋は、ソファの上に置きっぱなしになっていた。それを掴み、ぽいと無造作に神乃木が放る。僅かに軌道がそれていて、成歩堂は自分が何もしないとそのまま床に落ちるな、と思ったので、慌てて手を伸ばして、それが床と激突するのを止めた。
「…これは?」
 いぶかしみ神乃木を見つめると、かつて法廷で幾度も目にしたように、神乃木は唇の端を持ち上げ高慢に笑っている。
「アンタの大好きな、証拠品さ」
「…証拠品? 何のですか?」
 紙袋の中から出てきたのは、神乃木が事務所へきてすぐに、成歩堂に一度は渡した茶色の包みだ。白いリボンのかかっている細長いそれを、成歩堂はしげしげと見つめた。
「アンタが千尋を越してる事を証明する、証拠品だぜ」
 見開いた成歩堂の目が、まじまじと手の中の包み紙を見下ろした。
「つまり……僕へのプレゼントですか?」
「クッ…そう言う事だ」
「でも、ほら、バレンタインのなら貰いましたよ。これ…」
 成歩堂が指を指すのは、すでに半分が彼の胃袋に消えているチョコレートだ。神乃木は大袈裟に肩を竦めて溜息を吐いた。
「やれやれ、何も解っていない弁護士さんだ」
「何ですか」
 眉間にぐっと皺を寄せた成歩堂が、面白くなさそうな顔で包みを見下ろしている。神乃木が誰かの真似をするように両腕を広げ、肩を竦めて見せると、成歩堂はようやく笑みを浮かべた。
「御剣の真似ですか」
「クッ! とにかく開けてみな。話はそれからだぜ」
 成歩堂は丁寧に結ばれた白いリボンを解いた。ひっくり返して茶色の包装紙を止めるテープを剥がす。がさがさと音をたて紙を剥がすと、中からは細長い箱が出てきた。淡い紫色の箱を開け、成歩堂は目を見張る。
「時計?」
 まったくもって、神乃木の好みの時計だった。ベルトは灰色と黒の、丁度中間のような色をしているのに、ベルトの裏地は鮮やかな色合いの不規則なストライプの生地が貼り付けられている。アナログの文字盤は一時間ごとに刻みの入ったシンプルなものだった。
「…何ですか、これ」
「アンタへの証拠品さ」
「僕への、証拠品? さっきから言ってますけど、それって一体…」
「千尋と過ごした時間は、もうすぎたってことさ」
 眉を寄せ、時計を見下ろす成歩堂を、神乃木は細めた目で見つめていた。
「これからは、アンタと共に過ごす。そう言うことだぜ」
「…そう言う事って…言われましても」
「察しの悪い坊やだな」
 神乃木は軽く首を振る。
「ゴドーとして、アンタと過ごした時間は忘れようがねェ。だが、そのほとんどは千尋が根本にあった。それは、三年前に終わった。服役していた間、俺は千尋を思ったが、アンタを思った事の方が多かった。確かにアンタの言う通り、俺は千尋を忘れられねぇ。だが、千尋は今以上、俺の中では増えない。増えようがねェ。死んじまってるからな。だがアンタは生きてる。生きて、俺の中のアンタの居場所を広げ続ける。これは、アンタと生きる時間を刻む、時計なのさ」
 時計をじっと見下ろす成歩堂を、神乃木は見つめた。微動だにしない成歩堂が、何を思っているのか、神乃木には伺い知れない。ぼやけた視界の中で、動く物はなかった。
「ゴドーはアンタに数え切れねェ嘘を吐いた。神乃木荘龍は、成歩堂龍一に嘘を吐かねェ。アンタに偽らねぇ…真実の俺を見てくれ。美柳ちなみでもねェ。葉桜院あやめでもねェ。綾里真宵でも、ましてや御剣でもねェ。俺を、見てくれ。アンタを、俺は支えたい」
 答えない成歩堂に、神乃木は焦れた。けれど無理矢理に言葉を出させようとはしなかった。ただじっと、時計を見下ろす成歩堂の輪郭を食い入るように見つめていた。
 膝の上で握り締めた拳が、じんわりと汗を帯びていた。柄にもなく緊張している。神乃木は己の姿を顧みて、少し笑みを浮かべた。必死に、男を口説いている滑稽さに、苦笑した。そして、綾里千尋以外の誰かに、必死になる自分をなぜか懐かしく思っていた。そんな気持ちは、随分昔に捨て置いてきたからだ。
 ふっと、成歩堂の吐いた息の音に、神乃木は身体を強張らせた。
「なんだか…」
 成歩堂の静かな声が、事務所に響く。
「なんだか、プロポーズみたいですよ、神乃木さん」
 顔を上げる成歩堂が、笑っているように思え、神乃木は肩の力を抜く。ソファに背を預け、そうだぜ、と取り繕った笑顔を向けた。
「俺はまったくもって、プロポーズのつもりだぜ」
「え、じゃあまさか、これって指輪の代わり…とか? うわぁ、なんか寒気がするくらい気障ですよ、神乃木さん!」
 失敬な、と神乃木が失笑すると、冗談です、と成歩堂が強張った声を漏らす。
「でも、じゃあ、だったら…。その…もうひとつ…腕時計、あるんですか? これと、同じ奴…」
「…ん? なぜだ」
「なぜだ…ってだって…プロポーズのつもりだって言ったじゃないですか。指輪の代わりだって。だったら、僕だけと言うのも…どうなのかと」
「…ああ、それはうっかりしてたぜ」
 眼鏡の奥で神乃木が目を見開くのを、成歩堂は呆れた顔で眺めていた。やれやれと溜息を吐き、早速もらったばかりの時計を左腕に巻く。時計は正確な時間を表しており、しっかりした重さが心地良い。
「…へぇ、ぴったりだ」
「クッ…! 俺の見立てが間違ったことはないぜ」
「…自分の分は忘れてた癖に」
「……それは言わねぇ約束だ」
「異議あり、約束はしてません。あ、でも、いいですよ、別に、神乃木さんの分はなくても」
「オイオイ、そいつぁあんまりじゃねぇか、コネコちゃん。必死にプロポーズした恋人に、つれないぜ」
 焦る神乃木を、まぁまぁと押し止め、成歩堂がにやりと笑った。勝気な笑みを、残念ながら神乃木が見ることは叶わなかったが、雰囲気だけは伝わってくる。
 成歩堂は時計のはまった手を伸ばし、神乃木の頬を撫でた。褐色の肌をさらりと撫でた指先は、そのまま何度か頬を往復する。
「あなたの分は、僕が買ってきますよ。……荘龍さん」
 身を乗り出した成歩堂が、ちゅっと音を立ててキスをする。唇ではなく、唇と頬のちょうどぎりぎりの場所だった。一瞬硬直した神乃木が、見る見るうちに顔を真っ赤にするのを見て、成歩堂も目を見張った。
「……ちょっと…照れるかも…かなり……」
 驚かせてやろうと思って名を呼んで、思った以上の反応が返ってきた。言葉で驚かれるよりも、言葉もなく驚かれる方が照れくさい。それも、顔を真っ赤にされてしまうとは。ばくばくと高鳴る心臓を宥め透かし、成歩堂はぎこちなく神乃木の頬から手を離す。うっかりつられて赤くなった頬をごしごしと擦ると、じゃあっ、と成歩堂は立ち上がった。
「早速、買ってきます!」
「お…オイオイ待てよコネコちゃん」
 呪縛から解けた神乃木が、慌しく部屋を出ようとする成歩堂の腕を掴んだ。驚いた成歩堂の顔を見上げ、神乃木はにやりと笑う。
「お出かけは、キスをもう一度してからだぜ、龍一」
 引き寄せられる腕に甘んじながら、成歩堂は内心で溜息を吐く。赤い目を間近に見つめ、この目が赤を映さなくて本当に良かったと思っていた。そうでなければさっきの神乃木など比べ物にならないほど、真っ赤になった自分の顔を見られてしまうからだ。
 神乃木の背に腕を回し、触れるキスを受け止める。
 ようやく、本当に神乃木が自分の恋人になったような気がした。胸の中にあった、千尋への気持ちが、見苦しい部分だけを浄化されたような気分だった。
 何度もキスを繰り返し、その広い肩に顎を乗せながら、成歩堂は、買い物に行くのは、もうちょっと後にしよう…、と思っていた。神乃木のキスで腰が抜けたことは、無論付け上がらせるだけなので、神乃木には内緒である。
 半年後、法曹界にまた一人、有能な弁護士が誕生する。そして、成歩堂と同じ弁護士席に立つ。四年前は、対峙していた人と共に闘える。頼もしく、力強く、そして何よりの幸福だ。
 抱きしめる神乃木の体温と匂いをすぐ側に感じ、成歩堂は近い将来、現実になる夢を、頭の中に描き出していた。それが成歩堂一人だけの夢ではなく、神乃木と二人で共有し、見続けている夢だと信じながら。