■ Chinema paradice.

 ぱさり、ぱさり、と御剣の背中で、空気が僅かに動く気配が、時折していた。クイーンサイズのベッドの上で、成歩堂が今日の新聞を読んでいるのだ。正確には、日付がついさっき変わってしまったので、昨日の新聞を読んでいる事になるのだが、どちらも多忙を極めているせいで、御剣家の新聞は毎朝きちんとポストに届けられているのに、目を通されずにそのまま資源回収にまわされるという事もままある。成歩堂が読んでいるのなら、それで新聞の責務を果たした事になるのだから、都合はいい。
 検事の仕事も、弁護士の仕事も、土曜日と日曜日は休みだ。裁判所が休む以上、審理は月曜日に持ち越されるし、書類の仕事も裁判所の判子を貰わなければならないものが多いので、やはりそれも月曜日に持ち越される。
 そう言うわけで、土曜日の朝と、日曜日の朝は、うんと朝寝坊をしていられるのだ。
 このところずっと、忙しくて映画も見ていなかったな…、と思い出した御剣が、成歩堂法律事務所に寄った帰り、牛丼屋でレンタルビデオ屋に寄る事を提案すれば、二杯目の味噌汁を飲んでいた成歩堂が、途端に嫌な顔をした。
「それって君…もしかしてトノサマンのDVDを借りて観ようなんて言うんじゃないだろうね」
 二杯目の牛丼をかっくらっていた御剣は、ムッと眉間に皺を寄せた。ほっぺたにご飯をくっつけたままで、異議ありだ、と言うと、そう、と成歩堂は御剣のほっぺたのご飯粒を指先で摘んだ。
「ならいいんだけど…。君が急にレンタルビデオ屋なんて言うから、驚いちゃってさ。滅多に行かないだろ?」
「まぁ…それはそうなのだが。映画も嫌いと言うわけではない」
「ふぅん…。そう言えば、君と映画とか、言ったことないよね。今度の休みにでも行くかい?」
「……あまり、人が大勢いる所は好きではない」
 御剣の見栄えの良さか、それとも成歩堂の危なっかしいながらも最後には逆転無罪の判決を得る様が好ましいのか、たいてい二人が同じ法廷に立つ審理は、傍聴席も満員御礼になる。週刊誌もこぞってその話題を取り上げるせいで、変に二人の顔は売れていた。さっきだって店に入った途端、えー、と隅っこの方で黄色い声が上がっていたのを、成歩堂は気付いていた。どうせ、法律のホの字も知らないような女が、御剣の顔を見て喜んでいるのだろう。気付かないふりをしてスツールに腰を下ろし、さっさと注文してしまった。
「ふぅん…。そう言えば、休みでもあんまり出歩かないよね。じゃあ、この週末もだらだらして過ごそうか。ビデオ屋に行くんなら、一杯ビデオ借りてさ」
「む、異存はない」
 そう言うわけで、一杯の大盛り牛丼と二杯の味噌汁、二杯の並牛丼と一杯のけんちん汁をかっくらった後、どちらが奢るかで少々もめて、結局は折半にし、牛丼屋を後にしていた。
 レンタルビデオ屋は御剣の家の近くにある。検事用の恐ろしいほどにとてつもなく安い、それなのに素晴らしく豪勢な官舎が御剣には宛がわれているのだが、御剣はそこを嫌って一般のマンションを借りていた。官舎だと成歩堂がおおっぴらに出入りするわけにはいかない。守衛がいる上に、隣近所はすべて同僚だ。週末すらもそれだとげっそりする。
 都心の一LDK、トイレと風呂は別で、オートロックに守衛常駐のマンションは、それなりに家賃も高いが、趣味がトノサマン以外これと言ってない御剣には手ごろな値段だ。それに、官舎を出ているので給与の中に家賃手当てが少々つく。おかげで寝室にクイーンサイズのベッドが置けると言うわけだ。
 ビデオ屋で手当たり次第放り込んだビデオは七本。一気に見ようと思ったら頭が痛くなるような数だが、休みは二日あるのだし、見そびれたのは成歩堂が家にもって帰ってもいい。御剣と違って、成歩堂は週に一度は必ずビデオ屋へ行く。ロードショーで見逃した映画をチェックしたり、掘り出しものを探したり、息抜き代わりに映画を見ていた。
 借りたビデオの中には、成歩堂の見た物も含まれていて、これいいよ、と渡されたビデオを、御剣はデッキの中に入れていた。僕、新聞チェックするから、とベッドの上で成歩堂は、映画が始まるなりうつ伏せになって真剣な顔をしている。ベッドにもたれた御剣は、映画に目をやりながらも、時折後ろの気配を気にしていた。
 映画は、妻殺しの罪を着せられた銀行マンが刑務所で辛い生活を送りながらも、看守や所長を懐柔し、やがては脱獄すると言う話だ。成歩堂は何度も見たそうだ。
 じっと見続けて、二時間後、エンドロールが流れはじめると、がさっと御剣の後ろで新聞が音をたてた。
「良かったろ」
 首だけを曲げて振り返れば、成歩堂が頬に薄い笑みを浮かべている。風呂に入った後なので、どちらもパジャマ姿だ。成歩堂の髪は、風呂に入ったら一応しんなりと下を向くが、それでも時間がたち、乾いてくるとまた元通りに尖ってくる。記憶形状髪の毛…、と御剣はぼんやり思いながら、こくりと頷いた。
「かなり、感動した」
「だろ? 絶対に、御剣の好みだと思ってたんだよね。君、トノサマンばっかり見てないで、たまには映画見ろよ。折角英語できるんだしさ、字幕なんかなくたって解るんだろ?」
「ム、まぁ…日常会話に困らない程度には、だが」
「それでも充分だよ」
 羨ましいなぁ、と呟き、ベッドから降り立ち、次のDVDをセットする成歩堂の背中に、御剣は声をかけた。
「成歩堂」
 小さな声だが、テレビに今は音はなく、ただDVDのトレイが開く音だけがしていた。御剣の声はそれとは重ならなかったので、成歩堂の耳に間違いなく届いた。
「んー?」
 間延びした返事をしながらも、振り向かない成歩堂は、次に何を見ようかと考えている。御剣は、映画を見ている間中抱えていたクッションを抱えなおし、彼の尖った後ろ頭に問うた。
「君がアンディの立場だったら、どうする」
 投獄された男の名に、成歩堂は振り返った。機械的な音を立てて、DVDのトレイが閉じ、テレビの画面には映画会社のロゴマークが浮かび上がっていた。
「んー…そうだなぁ…」
 顎に手を当てて考え込む仕草は、法廷で見るときのものと同じだ。
「とりあえず、脱獄はしないと思うけど。あ、でもレイプされるのは嫌だなぁ…図書係ってのは、結構魅力的だけど、積み立ての計算はできないし…。何より僕は勇気がないからね。脱獄しようなんて考えられないよ」
「そうではない」
 始まった映画は、五年ほど前のものだった。サスペンスホラー映画で一躍有名になった俳優が出ている。ブルース・ウィリス。映画に疎い御剣でも、彼の名前くらいは知っていた。これはそのサスペンスホラー映画ではないが、成歩堂曰く、結構感動するアクション大作、らしい。
 ぼんやりと始まった映像を眺め、御剣は口を開いた。
「……妻が、浮気していたら…だ」
「ああ」
「君は…君もアンディと同じように、あ、いや、彼は無実の罪だったか。その、アンディがしたかもしれないのと同じように、妻を殺すのだろうか」
 そっちね…、と成歩堂がベッドから降り、御剣の隣に腰を下ろす。そちらを見れば、まっすぐな目に見つめられた。一瞬どきっと胸を高鳴らせた御剣を知ってか知らずか、成歩堂はにこりと頬を緩める。
「僕はまず、信じるよ」
「…なに?」
「僕の奥さんが浮気なんかしてないって信じて、証拠を探す。浮気をしていない証拠を探すんだ」
「だが、現場を目撃しているのだぞ。信じるも何も、君自身が、決定的な目撃証人ではないか」
「うん、でも、証人の証言には、勘違いや見間違いって多くあるだろ? 僕が見たものも、見間違いや勘違いかもしれないだろ?」
 御剣が詰めた息を吐き出し、苦笑すると、何だよ、と成歩堂が不思議そうな顔をした。
「君は、呆れた男だな」
「そうかな?」
「お人よしすぎる」
「そうでもないと思うけど…」
「だが」
 御剣はふいっと成歩堂から顔を背けると、テレビの画面に目を向けた。クッションを抱きかかえ、顰めた声を漏らす。
「君の妻になる人は、間違いなく幸せになれるだろう」
 その思いつめたような顔に、成歩堂は溜息をつく。
「………あのねぇ」
 成歩堂の右手が、ぽんと御剣の頭に置かれた。何度かそこを叩くように撫でた後、それは御剣の肩にのる。ぎゅっと抱きしめられるように肩をつかまれて、御剣は息を飲んだ。
「何年も前に法改正されて、同性結婚が認められている世の中なんだよ? アメリカじゃ同性結婚が当たり前だ。妻になる、なんて、相手を女の子に特定するような言い方、止めなよ。正確には、僕の配偶者になる人、だよ」
「そんな細かい事に拘っていると、嫌われるぞ」
「誰にだよ。少なくとも君が僕をそんなことで嫌うはずはないって知ってるけど。それよりも、ねぇ、御剣。君は、僕が誰か違う女の子を好きになって、結婚したりするって思ってるのかい? こんなに面白くておかしい人と付き合ってるってのにさ」
「…おも、面白くて、おかしい、だと? それは私のことか!」
「そうだよ」
 憤る御剣の頭を撫でて宥めながら、成歩堂は薄く微笑んだ。
「だから、二度と僕の前で、僕の妻になる人、なんて言わないこと。未来なんてわからないけど、とにかく今は、僕は君に夢中なんだからね」
「…む、夢中…か」
「そう。君が僕に夢中なのと同じようにね」
 難しい顔で眉間に皺を寄せ、顔を真っ赤にしている御剣に、成歩堂はけらけらと一頻り笑った後、額と頬と頭にキスをした。自分が父を殺したのではないかと思いつめていた十五年間、ずっと友達らしい友達はいなかったと言う御剣は、恋人のスキンシップはおろか、友達としての触れ合いにも戸惑う。二人きりの場で、ようやく自分らしい姿を見せる恋人に、成歩堂は何度もキスをしたくてたまらない。
 唇に二度、キスをした後で、御剣はやはり真っ赤な顔のままで呟いた。
「君はすごい男だ…成歩堂…」
「え、そう? それって褒め言葉?」
「ム…まぁ、そうだ」
「えへへ、じゃあ嬉しいよ。それより、映画の最初、見過ごしちゃったんじゃない? 巻き戻す?」
「ム! 貴様が横からごちゃごちゃ言うから、すっかり忘れてしまっていたではないか! 巻き戻せ!」
 赤い顔で怒鳴られても、迫力も何もないが、成歩堂は苦笑して、怖いなぁもう、と呟いた。言われるがまま巻き戻しをして、最初からまた映画を流す。
 御剣の隣で腕と腕が触れ合う距離で、並んで映画を見ながら、成歩堂は頭の中でぼんやりと、配偶者って言葉、いいよなぁ、と考え頬を緩めていた。映画に見入る御剣を、時折ちらちらと横目で眺め、やっぱりその度に頬を緩める。
 成歩堂の週末は、この上なく幸福な時間で埋め尽くされていた。