■ chilly the morning
 検察庁の中で、御剣が仕事とはまったく関係なく訪れる場所があった。頻繁に訪れるそこは、御剣が訪れる時には人がおらず、常に無人だ。消毒液の匂いが充満する室内には、簡素なベッドがふたつ、事務机がひとつ、そして大きな戸棚が二つ並べてある。どちらにもガラス戸が填められていて、鍵がかかっていた。
 検察庁の救護室に務める医師は、たった一人だ。
 一週間の内、五日間、月曜日から金曜日までは必ず救護室にいるが、土曜日と日曜日は無人になる。鍵は解放されておらず、警備員室で借りなければならないが、御剣は悪い事とは知っていながら、先日借りた鍵で合鍵を作っていた。いちいち警備員室へ出向くのが億劫だったし、頭が痛いだの腹が痛いだのと子供じみた嘘を吐く恥ずかしさもあったからだ。
 御剣が救護室を訪れるのは、身体の調子が悪いからではない。
 救護室の雰囲気が、御剣の心を癒すのだ。
 救護室のドアは横滑りのドアだ。鍵など力を込めれば簡単に壊れてしまいそうな粗末なもので、白く塗りたくられた木のドアも、年季が入っている。部屋に入ればすぐに大きな窓が見えた。その前に、机が置いてあって、戸棚は机の側の壁に並べてある。ベッドは入口から左手にあり、カーテンで仕切られていた。どこにでもある小さな救護室は、御剣が唯一覚えている学校の保健室と、似通っていた。
 窓際に置かれたベッドに腰を下ろす。
 窓の外には木が植えられており、適度に光が遮られている。その光を浴び、目を閉じると、御剣は検察庁ではなく、あの、懐かしい小学校の保健室へ時を戻し場所を移している錯覚に陥るのだ。
 グラウンドがあり、同じ学年の子サッカーに興じている。今日の体育の時間はサッカーをすると、朝、先生が言っていた。小学生用の小さなゴールにボールを蹴り込んで、自慢げに両手を振りかざしている。尖がった髪の毛は、癖気で、触るとごわごわしていそうだ。膝は昼休みに擦りむいて血が滲んだので、保健室で先生に貼ってもらっていた。もう痛くないのだろうか。結構、たくさん、血が出てたのに。
 固いベッドの上から、尖がった頭の少年がグラウンドを走る様を眺めている御剣は、赤い顔で荒い息を繰り返していた。急に寒くなったのに、夜腹を出して寝ていたから、風邪を引いたのだ。朝は平気だったのに、昼を過ぎたら急に寒気がして、頭がくらくらしてきた。保健委員に頼るのが嫌で、昼休みに一人で保健室を訪れ、ベッドで横になった。
 目を閉じてうとうとしていたが、グラウンドからの歓声に目を覚ましたのだ。顔を向ければ、元気一杯に走り回っている成歩堂の姿があった。
「御剣くん」
 保健の先生が、窓へ顔を向けている御剣の名を呼んだ。はい、と掠れた声で返事をすれば、机に向かって何かを書いていた先生は立ち上がり、ベッドの側に立つ。
「先生、ちょっと職員室へ行ってくるけれど、一人で平気? 二十分もしないうちに戻ってくるわ」
 ゆっくりと言う先生に、こくりと頷いて見せると、そう、と先生は安堵したように微笑んだ。ごめんね、できるだけ早く戻ってくるからね、とそう言って先生は保健室を出て行った。
 急に静かになった保健室に、御剣の咳と、しゅんしゅんとストーブの上に置かれたやかんがあげる盛大な湯気の音が響く。外からの歓声も、ぼんやりとした御剣の頭の中で渦巻いていた。
 チャイムが鳴って、グラウンドでサッカーをしていた子供たちがいなくなった。授業が、終わったのだ。次の時間は何だっただろうか、と御剣は頭を働かせた。昼ご飯を終わってすぐの授業が体育だったから、次は、算数だ。それが終わったら、家へ帰れる。
 御剣の熱が酷かったので、家の人に迎えに来てもらおうとしていた保健の先生も、御剣の家は父親が弁護士で、そして母親は他所へ働きに出ているのを聞かされて、それじゃあお母さんが帰ってくる時間のぎりぎりまで保健室で寝ていなさいと言っていた。その時間になったら、先生が車で送ってあげるから、と。
 まだ、時間はある。
 もう一回寝よう、と御剣が目を閉じた時、からからと、乾いた音がした。そして冷たい風が入ってくる。窓が開いた気配に、御剣が目を開けると、あ、と窓の向こうでひとつの頭が動いていた。
「ごめん! 寒かったろ。すぐ、閉めるよ」
 瞬きをして、ぼんやりと霞む視界の向こうに、尖がった頭を見つけた御剣は、ほうと熱い息を吐く。
「成歩堂……」
「すごく顔赤いよ」
 胸の辺りまである窓枠に手をかけて、成歩堂が笑っている。体操着のままで、頬には泥がくっついている。盛大にこけたのだろうか。それとも昨日降った雨で、まだグラウンドはじくじくしていて、跳ねた泥が顔についたのだろうか。
「なぁなぁ御剣、僕、ゴール決めたんだ」
 見てた。
 御剣はそう言おうとして口を開いたが、声は出なかった。ヒュウと空気のような音が漏れて、御剣はコンと咳いた。
 成歩堂は慌てて窓をよじ登って保健室の中へ入ってくる。窓をぱしんと閉め、暖かいね、と笑った。
「ヘディングも上手にできたんだ。来週の体育も、またサッカーだって。そしたら御剣も一緒にやろうな。僕、ヘディング教えてやるよ」
 へへ、と笑う成歩堂が、頬を擦る。泥を払い落として、生真面目に手を払った後、御剣の熱い額に手を乗せた。
「まだ熱いね」
 風邪がうつる。
 掠れた声でそう言うと、平気だよ、と成歩堂は胸を張っていった。つんと尖った髪の毛が、その分後ろへ反り返り、なんだか奇妙な生き物のように見えた。
「僕、風邪引かないから」
 それは馬鹿の証拠だ、と御剣が呟くと、酷いなぁ、と成歩堂は笑った。
 明るく笑う。
 西日が差し込み始めると、次の授業が始まるチャイムが鳴る。成歩堂は慌てて保健室を出て行った。嵐のようにやってきて、嵐のように去って行く。
 御剣の中で、成歩堂のイメージは嵐のようなものだった。
 そして彼の笑顔は、その嵐の中でぽっかりと覗いた青空のようだ。吹き荒れて黒い空が、急に風がやみ、穏やかな青い空になる。成歩堂の笑顔は、それと同じだ。
 御剣は、検察庁の救護室のベッドに腰を下ろし、昔を思い出す。
 幼い成歩堂の笑顔を思い出す。
 自分が、黒い噂に付きまとわれていることは知っていた。そして、それは事実で、成歩堂が弁護士になった事も知っていた。綾里法律事務所で厄介になっているのだと、風の噂で聞いた。それを聞いた時、安堵したものだ。金や権力で左右される妙な弁護士ではなく、真っ当な、正義を正義と信じ、真実を明るみに引きずり出してくれる弁護士を師と仰いだ事に、ほっとした。
 成歩堂には、間違ったところへ来てほしくはない。
 自分のように、黒い噂にとりつかれてほしくない。
 御剣の生活は、毎日が戦いだ。
 噂と戦い、証拠と戦い、弁護士と戦い、被告と戦う。検察庁の中に、友人がいるわけでもない。味方がいるわけでもない。孤独な戦いを、続けている。
 その中で、唯一心を休められる瞬間。
 それがこの、救護室での一時だ。
 ここにいる間は、検事御剣ではなく、ただの御剣になれる。
 成歩堂と友人であった、何も辛いことなどなかった幼い御剣に戻れるのだ。
 土曜日の差し込む西日を頬に浴びながら、御剣は目を閉じた。
 心に浮かぶ青空のような成歩堂の幼い笑顔に、御剣は安らぎを覚えていた。