■ cherry blossom a cherry blossom
「うわぁ!」
 事務所の窓際に並べてある鉢植えに、順に水をやっていた春美の声に、応接ソファに座り、コーヒー片手に書類に目を通していた荘龍が顔を上げた。明日の審議に控え、所長室に篭りっきりの成歩堂の邪魔をするのは悪いだろうと、さしあたって重要な案件を抱えているわけではない荘龍は、朝からずっと至福のコーヒータイムを楽しみ続けているのだった。昼には倉院の里から春美がやってきた。うんうんと唸っている成歩堂に与える飯を買いがてら、二人で蕎麦を食べに行ってきた。すでに馴染みの蕎麦屋の親父は、荘龍の横で嬉しそうにカウンターの上を眺めている春美に、まるで親子だねぇ、と笑ったものだ。何を思ったのか、春美は恥ずかしそうに頬を染めていた。可愛いものは嫌いではない。だから荘龍は春美も嫌いではなかった。子犬のように事務所を駆けずり回り、なるほど君、荘さま、と後を追いかけてくる春美を嫌いになれるはずもなかった。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん。えらく威勢のいい声だったが?」
 眼鏡をついと押し上げながら問うと、ゾウさんジョウロを手に窓の外を覗き込んでいた春美が、あっ、と声をあげ振り返る。恥ずかしそうに手の中のゾウさんジョウロを抱きかかえている。
「あのですね、桜が、そのぅ…とても綺麗だったもので、つい」
「桜…? ああ…もうそんな季節か」
 カレンダーを見れば、すでに季節は三月の終わりに近付いている。あと十日もすれば春美が通う中学校でも入学式があり、続々と新入生が入ってくるのだろう。ついこないだまで、小学校に通っていたと思った春美が、もうすぐ中学三年生だ。葉桜院からすでに五年が、そして荘龍が成歩堂法律事務所に勤め始めてから二年がたっている。相変わらず倉院の里独自の装束を着てはいるが、春美の容貌は子供子供した顔だちから、随分と大人っぽくなっていた。それでもまだ、荘龍からしてみれば、小さなお嬢さんに変わりはないのだが。
「倉院の里じゃあ、桜は咲いてねぇのかい」
「いえ、木はございます。でも、まだ今年は咲いておりません」
「ああ…あそこは、山奥だからな…」
「ようやく梅が咲き始めたばかりです」
 じっと窓の外へ顔を向けているので、荘龍は唇を歪めた。解りやすい様は、昔と全く変わっていない。
「…見に行くかい?」
「えっ!」
 春美がぱっと振り返り、目を丸くする。
「よろしいのですか?」
「ああ、構やしねぇさ。特に急ぎの仕事も、生憎俺にはねェんでな…。所長さんはなんて言うか解りゃしねぇが」
「行きますよ!」
 ばんっと盛大な音を立てて、所長室のドアが開く。尖がった髪を更に尖がらせて、ついでに目も尖がらせ、成歩堂が苛立った様子でそこに立っていた。
「おいおい、コネコちゃん。遊ぶのは、仕事が終わってからだぜ」
「チョー異議あり! 煮詰まっちゃって、もーっ、どーにもならないんですよッ! 大体なんだってイトノコ刑事はこんなずさんな捜査してんですかッ! あの人よくクビにならないもんですよねっ!」
 どかどかと足音も荒く、成歩堂は荘龍の横に立った。俺に怒られても…、と思いながら、荘龍は飲みかけのコーヒーを無言で渡す。それを法廷での荘龍よろしくごくごくと飲み干した成歩堂が、ぷはーっ、と息を吐いた。
「だから気分転換に僕も行きます! お花見でしょ?」
「花見なんて洒落たもんじゃねぇぜ。ただそこの公園に美人を見に行くだけさ」
「荘さま、それを花見と言うのです! それより、早く参りましょう! わたくし、もうとっても心がうきうきしております、ええ、そりゃもうとっても!」
 相変わらず身体をぴょこぴょこと動かして、嬉しさを全身で表す春美に、成歩堂と荘龍は顔を見合わせ軽く肩を竦めた。とにかくこれだけは、と言って春美のウサギ柄魔法瓶水筒に、荘龍お手製のコーヒーを詰めた。何か摘めるものがほしいよね、と成歩堂が事務所を出てすぐ近くにある和菓子屋でお饅頭を買った。
 いくら花見のシーズンでも、平日のそれも日中は空いていた。いるのは子供を連れた母親くらいで、時折きゃーっと甲高い子供の歓声が上がった。
「…うわぁ…とても綺麗ですね」
 春美が目を輝かせて満開の桜を見上げている。ちらほらと落ちてくる花びらを掴もうと、両手を伸ばしているのが微笑ましい。
「足元を見ねぇとスッ転ぶぜ、お嬢ちゃん」
「平気ですわ! わたくしもう、お子様ではありま…うわぁあっ!」
「…だから言っただろうに」
 べしゃっと顔面から降り積もった桜の上に倒れ込んだ春美に、荘龍が呆れた声を漏らす。成歩堂は慌てて駆け寄り、大丈夫かい、と突っ伏している春美の側にしゃがみ込む。
「……は、恥ずかしいです…わたくし…わたくし……中学三年生になると言うのに…まるでお子様みたいに……ううっ…」
「…そうやってずっと突っ伏してる方が恥ずかしいと思うよ」
 成歩堂が苦笑しながら言えば、荘龍も春美のウサギ柄魔法瓶水筒を肩にかけ、腕を組んだ。
「確かに恥ずかしいだろうな。お嬢ちゃんの可愛らしいウサギ柄のパンツが丸見えだぜ」
「きゃあああ! そっ、それを早く言ってくださいませっ!」
 ばっと起き上がった春美が、ぱぱっと装束の裾を払った。真っ赤な顔で荘龍を睨み上げ、ふんっと顔を背ける。
「荘さまはとっても非常にとてつもなくすごく意地悪です!」
「春美ちゃん、大丈夫だよ。丸見えってほど見えてなかったから…」
「それでも荘さまは意地悪です!」
「クッ! 何なら俺のパンツも見せてやろうか?」
「何馬鹿なこと言ってんですかっ! わいせつ罪で捕まりますよ!」
「冗談だ」
「当たり前ですっ!」
 成歩堂はがばっと立ち上がって、荘龍の目前に人差し指を突きつけた。
「大体ですねぇ、荘龍さんはいつもいつもいつもいつもいつも言いすぎなんですよ! 僕はいいんですけどねっ、春美ちゃんや真宵ちゃんにまで同じ調子で喋るのやめて下さいよっ! あとっ、依頼人にはもっと優しくするようにしてくださいっ! こないだの依頼人だって、荘龍さんがそう言うずけずけした言い方するから、泣いちゃったんですよっ!」
「クッ……怒られちゃったぜ」
「反省してくださいっ!」
「おいおい、コネコちゃん。折角花見にきたってのに、そうがみがみ怒鳴るもんじゃねぇぜ。もっと風情を楽しみな、風情を」
「そうですわ、なるほど君! 風情を楽しみましょう、風情を!」
 立ち上がった春美に握り拳つきで訴えられて、成歩堂はがっくりと肩を落とした。結局春美は、何だかんだと言いながら荘龍に懐いているので、詰られが虐められようがからかわれようが、荘龍の味方なのだ。はいはい、と成歩堂は呟いて、公園にある湖のほとりの一部にある桜並木に向かった。
「もうちょっと行ったら芝生があるんだ。そこでお饅頭食べようよ」
「わぁ! わたくし、賛成です!」
 春美はぴょこんと飛び上がり、片眉を上げている荘龍の腕を取った。
「さぁ早く参りましょう、荘さま!」
 ぐいぐいと引っ張る春美に急かされるがまま、荘龍も成歩堂の後を追った。満開ではなく七分咲き程度だったが、それでも続く桜並木は美しい。それを見上げながら、春美がくすりと微笑んだ。
「ん? どうしたの、春美ちゃん」
 振り返る成歩堂に、春美はあっと口元に手を宛てる。そして恥ずかしそうに肩を竦めた。
「いえ、お蕎麦屋さんのご店主さまに、わたくしと荘さまが親子みたいだと言われたのを、急に思い出しました」
「へぇー」
 成歩堂が目を丸くする。そして春美と荘龍を見比べた。
「言われてみれば、見えない事もないなぁ」
「オイオイ、成歩堂。それはつまりこの俺が、お嬢ちゃんくらいの子供がいてもおかしくねぇ年だと言いたいのか」
「あれ、だっておかしくないでしょ? んーと、確か荘龍さん今年で…」
「クッ、人は年齢で全てを判断できるわけじゃねぇぜ」
「もう言われたくないような年なんですね」
 ぴくりと眉を動かした荘龍は、おもむろに手を上げた。笑っている成歩堂の頭をぺしんと叩く。
「余計な一言は命取りだぜ、コネコちゃん」
「痛いなぁ、もう。口で言えば解るんですってば」
「クッ、おいたの好きなコネコちゃんにはおしおきが必要かと思ってな」
「必要じゃありませんよ。まったく…」
 ぶつくさと呟く成歩堂の声を、春美の穏やかな声が遮った。
「荘さま、わたくし、嬉しゅうございました」
 成歩堂と荘龍は一瞬顔を見合わせ、間にいる春美を見下ろした。春美の目は、頭上に咲き誇る桜ではなく、桜並木に見とれながら歩く親子に向けられている。幼い少女を肩車して歩く父親と、若い母親だ。どこにでもいるありふれた家族を、羨ましそうに見る春美の意図が成歩堂には即座には理解できなかった。
「わたくし、父を知りませんから。荘さまにもっと早くお会いしていれば良かったと思います。なるほど君と会ったばかりの頃でしたら、あのようにわたくしも肩車をしていただけたかもしれませんから」
「…ああ」
 成歩堂がぽんと手を叩く。そりゃそうだよね、と言いかけて口を噤み、そっか、と殊更優しい顔を装った。
「じゃあ丁度いいじゃない。荘龍さんが父親代わりって事で。ほらだって、春美ちゃんってば荘龍さんの子供でも可笑しくない年だし」
「年を強調するのは失礼だぜ、成歩堂」
「年齢に敏感に反応する人って、老化現象著しい自分をかなり気にしてる人だって言いますよね」
「クッ、煩い口を黙らせるには、どうしたらいいか教えてやろうか、コネコちゃん」
「どうせキスで口を塞ぐのが俺のルールだぜ、とか恥ずかしい事言うんでしょ。もう聞き飽きましたよ。ね、春美ちゃん」
「はい。聞き飽きました」
 にこりと微笑む春美に止めを刺され、荘龍はぐっと喉を鳴らした。眉間に皺を寄せ、難しい顔でずんずんと歩く速度を速める。あ、待って下さい、と春美が慌てて腕にしがみつき、成歩堂は苦笑しながら、子供みたいだなぁ、とその後を追う。
「荘龍さんってば、からかわれるとすぐ黙っちゃいますよね」
「なるほど君とまったく反対ですね。なるほど君はからかわれると、たくさんお話になりますもの」
「…ああ、そう言えばそうだな…」
「余計な事は言わなくていいんだよ、春美ちゃん!」
「荘さまばかりからかわれるのは、公平ではありませんもの」
「あのねぇ、いくら弁護士だからって、こんな時まで公平でなくてもいいの! あっ、荘龍さん、何笑ってんですか!」
「いやぁ…? アンタ達、まるで兄弟みたいだぜ」
「…え、それではなるほど君も荘さまのお子様と言う事に!」
「……いくら何でもこんなでかいガキはいらねぇぜ。それに」
 荘龍はそう言うと、成歩堂の頭をぐるりと撫でた。わっ、と慌てる成歩堂に、荘龍がぐっと顔を近づける。
「自分のガキ相手に、オイタはできねぇぜ」
「……はっ、春美ちゃんの前で何言うんですかアンタは!」
「クッ、いいじゃねぇか。仲良きことは美しきかな…ってな」
「訳が解りませんよ!」
 握り拳つきで怒鳴る成歩堂に、軽く荘龍が肩を竦める。
「まぁいいじゃねぇか……それに…っと」
「きゃっ!」
 突然立ち止まった荘龍が、腕にしがみついていた春美の身体をいとも容易く抱き上げた。そしてそのまま、肩に担ぎ上げる。
「きゃあああ! そ、荘さま! ななな何をなさいます!」
 荘龍の肩の上で、じたばたと春美が両手両足を振り回した。
「肩車をしてほしいんだろ、お嬢ちゃん。俺にはそう聞こえたぜ?」
「た、確かにそう申しましたけども! でもそれはうんと小さい頃のお話です! わたくしもう、中学生です!」
「固いことは言いっこなしだぜ、お嬢ちゃん。それに、遠慮もなしだぜ」
「……腰、大丈夫なんですか」
 顔を真っ赤にして荘龍の頭にしがみついている春美と、涼しい顔をしているものの、その実結構辛そうな荘龍を見比べて、一人冷静に成歩堂が首を傾げた。
「ぎっくり腰になんてならないで下さいよ。あれって結構後に響くんですよね」
「そ、そうです! 荘さまはもう随分お年を召していらっしゃるのに!」
「…お嬢ちゃん。それじゃあまるで俺は死にかけのジジイみたいじゃねぇか」
「死にかけとまではいかなくても、もう青年とは言えない年ですよね。中年って言うか」
「クッ! うるさい口は塞ぐに限るぜ」
「うわっ」
「まぁ!」
 ぐいと成歩堂の頭を引き寄せ、荘龍はゆがめた薄い唇を押し付けた。肩車をされている春美も、荘龍の肩の上で目を丸くして、そして顔を真っ赤にしてそれをしっかり目撃する。
「熱烈なベーゼですわ!」
「なっ…なっなっなっ!」
 春美よりもよっぽど顔を赤くした成歩堂が、口を手で押さえている。
「何するんですか! 異議あり! チョー異議あり!」
「クッ、最近チョーが流行ってんのかい、コネコちゃん。すでにチョー死語だぜ」
 春美を肩に乗せたまま、荘龍がさっさと歩き出す。ちょっと荘龍さんっ、と後ろから成歩堂が怒り心頭の顔で追いかけてくる。
「外じゃやめて下さいって言ってるでしょッ!」
「外じゃなかったらいいのかい?」
「そりゃまぁ…二人きりなら……ってそうじゃなくてッ! 人目を気にして下さいって言ってんですよ!」
「努力してやろう」
「努力じゃなくて尽力してください!」
「クッ! 些細な違いをとやかく言うようじゃ、一流の弁護士にはなれねぇぜ」
「そうですわなるほど君! 一流の弁護士にはなれませんわよ!」
「…なんで春美ちゃんにまで…」
 がっくりと肩を落とす成歩堂を見て、春美と荘龍は声を上げて笑った。それにまた成歩堂が顔を赤くする。
「うわぁ!」
 春美が両手を挙げ、歓声をあげる。目をきらきらと輝かせ、荘龍を殴るために手を振り上げる成歩堂を振り返った。
「見てくださいませ、なるほど君! わたくし、桜に手が届きそうです!」
「あ、本当だ」
 今まで怒っていたのが嘘のように、成歩堂がころっと笑う。
「良かったね、春美ちゃん!」
「はい! わたくしもう、大感激です! そりゃもう大感激ですとも! 荘さま、あそこのベンチまで、なるほど君と競争ですわ!」
「こ、この状態で走れってのかい」
「さぁ早く! なるほど君には負けませんわ!」
 ぺしぺしと頭を叩かれて、荘龍は舌打ちをひとつして足を速める。きゃあーっ、と春美が歓声あげる。走ったわけではなかったが、肩の上にいる春美には、ほんの少し頬に当たる風が強くなったのだろう。きゃあきゃあと歓声を上げる春美を、たまに擦れ違う親子連れや、こんな時間に何をしているんだろうと思うサラリーマンが振り返る。
 そんな視線をまるで気にせず、春美はきゃあきゃあと嬉しそうに笑っている。
 それを追いかけながら、成歩堂の口元にも笑みが広がっていた。