■ Better Days

 明日の裁判に備えての書類を作成していた成歩堂は、痛みを訴え始めた首と肩とをほぐすため、ぐるりと右腕を回した。青いスーツは皺にならないようにハンガーにかけ、ロッカーにしまわれている。法廷ではきっちりと絞めているネクタイも、今は結び目も随分と下がってだらしが無かった。シャツのボタンも二つ目まで開けている。客のこない法律事務所の主の姿など、こんなものだ。
「んー…」
 ぽきぽきと骨の鳴る音を身体の内と外、両方から聞きながら、成歩堂は椅子から立ち上がった。かつては綾里千尋が座り、そして傍らの観葉植物チャーリー君を愛でていた場所だ。どっかりと腰を下ろす事には、さすがにもう慣れたものの、時折まだ、微かな罪悪感に苛まれることがある。
 恩師が息を引き取ったこの場所で、自分は笑い仕事をし、食事をして居眠りをする。いくら真宵の霊媒を用いて千尋と何度もコンタクトを取っているとは言っても、なぜか後ろめたさを感じてしまう瞬間があった。
 それは本当に、何でもない瞬間だ。
 煙草を吸う直前、椅子から立ち上がる時、ふとブラインド越しに見える窓の向こう側の景色に目を細めた時。
 ああ、なんだかすごく、申し訳ないな、と頭の隅にそんな言葉が浮かんでくるのだ。
 取り立てて何が原因と言うわけでもないから、成歩堂はそれを自分の気持ちを整理する為に『疲れている証拠』と、簡易に片付けていた。
 まだ首周りがすっきりせず、ぐるりと首を回したら、首の付け根がピリッと電流が走ったように痛んだ。いてて、と顔を顰め、そこに手を当てる。
「…疲れてんのかな、やっぱ」
 立て続けに弁護の依頼が入り、成歩堂は一人で奔走していた。成歩堂法律事務所の所長で、事務所にたった一人きりの弁護士資格を持つ男だ。たとえ真宵が、副所長と名乗りを上げて雑務を買って出てくれても、補い切れないものがある。
 今、成歩堂が手がけている書類の作成もそのひとつだ。これはもう裁判に提出すると決まった瞬間、公式文書になる。うっかり間違いを書いてしまっては、公的文書偽造の罪に問われかねない。まぁあの真宵なら、あっ、間違っちゃったよ、ごめんなさい! とあっけらかんと笑うのだろうが、そんな恐ろしい体験を、法廷ではしたくなかった。
 今回の仕事は、窃盗の容疑をかけられた男の弁護だった。
 盗まれたものが黄金のキリスト像とかで、金額にすれば億を下らない品なのだそうだ。被害届を出した金持ちの家へ行き、詳細を聞いた。被害者は被告人の雇い主で、被告人は被害者宅の植木の剪定をするまだ若い職人だ。成歩堂と同じか、ひとつふたつ下くらいだろう。誠実そうな若者だからと油断したのが間違いだったと、被害者は何度も繰り返し成歩堂に訴えた。キリスト像が戻ってこない事には、おちおち夜も眠れない、とおよそ信仰に縁遠そうな男は、血色のいい肌を引きつらせて喚き捲くった。
 ははぁん、と成歩堂は顎に手をあて考えたものだ。これは単なる言いがかりだな、と。被告人を逮捕した糸鋸刑事ですらそう言うのだから、弁護はとても容易い。それでも、どんな落とし穴が待っているか解らない。相手があの亜内検事でもだ。準備は着々と、そして確実に進めなければならなかった。
 夜通し書類を作成した成歩堂の様子を見て、九時に出勤してきた真宵が食事を買ってくるよと出かけて行った。あたしにはこれくらいしかできないからさ、と言いながら、事務所のお財布を手に飛び出していく。ついでにコーヒーと煙草も買ってきて、と言いかけた成歩堂の前で、事務所のドアは乱暴に音を立ててしまった。人の役に立てる事が何よりも嬉しいと言う真宵は、成歩堂の言葉を聞くよりも一足早く出て行ったようだった。
 帰ってきたらもう一度お使いに行ってもらわなきゃ、と所長室の机から立ち上がり、事務所の居間へのドアを開けた。息抜きにコーヒーでも飲もうと思ったのだが、あいにく今事務所にはドリップ式の豆しかない。正直、成歩堂はこれが苦手で、千尋のようにうまくはいれられない。敬遠しがちになる豆の代わりに、インスタントを常備しているのだが、それが昨夜で切れてしまったのだ。しくじったなぁ、と顔を顰める成歩堂の耳に、ガチャリと事務所の玄関のドアが開く音がした。チリンと小さな鈴をドアに取り付けてあるので、それの音とドアの閉まる音とが重なって、居間の奥の簡易キッチンにまで聞こえてきた。
「丁度良かったよ、真宵ちゃん。コーヒーと煙草も買ってきて……」
 成歩堂のために弁当を買ってきてくれたのだろう真宵の笑顔を想像し、振り返った成歩堂はそこで動きと言葉を止めた。目を真ん丸に見開いて、ぽっかりと口を開ける成歩堂を、深い緑のシャツを着た男がおかしそうに眺めている。
「クッ! あの和装のお嬢ちゃんなら、今頃交番でお巡りさんと仲良くしてるだろうぜ」
「ご、ゴドー検事ッ!」
 成歩堂が思わず大声で叫ぶと、ゴドーは軽く顎を引いた。
「狭い部屋で大きな声を出すもんじゃねぇな。鼓膜が破れちまうぜ」
「う、あ、え、ええっと……な、何か御用ですか…?」
 ゴドーの手に下がっているコンビニのビニール袋と、肩から下げられているショルダーバッグが気になる。ゴドーの風貌からはとても想像できないような可愛らしいショルダーバッグだ。いっそ春美が持っていた方がしっくりくるような、淡いピンクの葉ながら模様から目が剃らせない。成歩堂は冷や汗を垂らしながら、どうにかこうにかそう言葉を搾り出した。
「何か用がないと、ここには来ちゃいけねぇのかい、コジカちゃん」
 無精髭のように見えて、実は丁寧に手入れされた髭を、ゴドーは指先でちょいと撫でた。ショルダーバッグを居間のソファに置き、手に下げていたコンビニのビニール袋をずいと差し出す。
「受け取りな、まるほどう。お嬢ちゃんからの預かり物だぜ」
「お嬢ちゃんって真宵ちゃんのことですか? なんでまたゴドー検事が…あっ、それよりもさっき、真宵ちゃんが交番にいるとか言ってませんでしたっ? また何かしたんですかっ?」
 ビニール袋を受け取り、その中身が真宵に頼んだ弁当だと知ると、成歩堂は血相を変えた。あたふたと所長室へ戻り、上着の袖に手を通そうとしている。ゴドーは唇の端を持ち上げ、それを止めた。
「俺の話は最後まで聞け。それが俺と付き合う最低限のルールだぜ」
「……付き合うも何も、あなたが無理矢理押しかけているだけですけど」
「あのお嬢ちゃんなら、俺が保護した迷子を交番に届けに行っただけだ。変わりにまるほどう、アンタにこれを届けるってェ交換条件でな」
「…これって…弁当…ですか?」
「それが鉢植えにでも見えるかい?」
 慌てたせいで所長室の机の上に放り投げてしまった弁当を持ち上げて、成歩堂は眉を下げた。特に真宵に何かがあったというわけでもないようだし、迷子を交番に届けるくらいなら時間もかからないだろう。いや、真宵のことだから、迷子の子の親が見つかるまで一緒にいてやるかもしれない。最寄の交番の巡査とは、顔なじみでもあることだから、きっと美味しいお饅頭を食べてから帰ってくるだろう。
 そこまでようやく考えられてから、成歩堂はほっと肩の力を抜いた。
「お腹空いてたんです」
「だろうな。なんだか背中が寂しそうだ」
 弁当を手に、居間へ移動する成歩堂のあとを追って、ゴドーもやってくる。所長室のドアを閉める直前に、ゴドーは振り返り、観葉植物を傍らに従えた机を一瞬眺めたが、成歩堂に気付かれる前にそっとドアを閉めていた。
「あれ、でも、ゴドー検事、本当にどうしたんですか? 迷子を保護したって…その子の家が、この近くとか?」
 勧められるよりも前に、ゴドーはソファに腰を下ろす。事務所の主よりも貫禄を漂わせ、いや、と彼はショルダーバッグの口を開けた。
「ここへはちょいと、私用でな…」
「私用…?」
「ここにくるといつもインスタントだ。いっそ魔法瓶に持参でもしてやろうかと思ったが、いちいちそれをやるのも面倒臭ェ。どうせなら一式全部揃えちまえと思ったのさ」
「……一式って…まさか」
 成歩堂はコンビニ弁当の蓋を開け、ぷんといい香りを漂わせるエビフライを箸で摘み上げた。うまそうじゃねぇか、と顎をしゃくるゴドーへそれを差し出したが、あっさりいらないと断わられた。もぐと口の中にエビフライを突っ込んだ成歩堂に、ゴドーはにやりと笑いかける。
「ゴドーブレンドに必要なもの一式さ。昨日、思い立って買いに行ってきた。祝日に出かけるなんざ、正気の沙汰じゃねぇと思い知ったぜ。昨日の俺は、さながらカップの中の闇に落とされた一粒の砂糖だった」
「………つまり、人ごみに辟易したって事ですね。どこ行ったんですか、買い物って」
「ハンズだ」
「……へぇ」
 インテリアからお菓子まで、色々なものが揃うデパートの名を上げられて、成歩堂は不思議な気分になった。ゴドーの見てくれは、あの生活観溢れる場所にはそぐわないし、周りからも随分浮き立っていたことだろう。想像するとちょっぴり可笑しくて、成歩堂は唇を歪めた。
「何をにやついているんだ」
「いえ、別に?」
 仮面マスク事件の後、何かと理由をつけてはゴドーは成歩堂法律事務所を訪れていた。法廷で必要な資料を借りに。検察局から発行された資料を渡しに。裁判長からの伝言を伝えに。糸鋸刑事が今日は非番で使えないからと文句を言いながら、やってくる。刑事は検事の使いっぱしりじゃないんだけど…、と思いながらも、成歩堂はその訪問を拒まない。口実の用事を済ませると、ゴドーは決まって長居をしていく。コーヒーを飲んだり、事務所の本棚にある本を読んだり、あたかも自分の家にいるかのように振る舞う。最初は警戒していた成歩堂も、段々とそれに慣れてきて、いつしか二人は同じベッドで目を覚ますような仲になってしまった。とは言え、別に同棲しているとかそう言うのではない。成歩堂はゴドーの家に行った事がないし、ゴドーを自分の家へ招こうとも思わない。いくら唇を重ね、身体を重ねても、所詮は弁護士と検事だ。互いの家を行き来すれば、どんな支障が出るかくらい、成歩堂も理解していた。
「インスタントが嫌だからって、一式買い込んだわけですか…。春美ちゃん、なんて言うかなぁ。結構、楽しみにしてたのに。あなたにコーヒー入れてあげるのを」
 意外と春美がゴドーになついていて、ゴドーがくるとそれはもう嬉しそうに頬を真っ赤にして、春美自らがゴドーにコーヒーを入れる。無論、それはインスタントだ。成歩堂が一度ゴドーにインスタントコーヒーを出したら、こんな薄っぺらい水のようなものが飲めるかと一喝された上に、頭からその薄っぺらい水のようなものをぶっかけられたと言うのに、春美がいそいそとコーヒーカップを持ってくると、ありがとうよお嬢ちゃん、と軽くカップを持ち上げ礼を言う。その違いは何だ、と人差し指を突きつけたい気持ちを、成歩堂は幾度となく堪えていた。
 ゴドーはくるりと事務所の中を見渡すと、胡麻の散った白飯に箸をつける成歩堂に尋ねた。
「そう言や、あのお嬢ちゃんはどうした」
「ああ、春美ちゃんですか? 小学校ですよ。倉院の里に戻ってますけど」
「へぇ…そうかい。すると、この事務所には俺とまるほどう、二人だけって事になるな」
 じっと見つめるマスク越しのゴドーの視線に、成歩堂はごくっと喉を鳴らした。
「…まぁ、そうですよね」
 ゴドーはおもむろに手を伸ばす。向かってきた褐色の指先に、成歩堂が思わず身を引くと、ゴドーは唇の端を持ち上げた。おかしそうに息を詰めて笑い、その手は頬に触れる。
「器用に頬に米粒をつけるもんだ」
「う、え、あ、ありがとうございます」
 頬についたご飯粒を、ゴドーはつまみとった。それを己の口の中へいれ、ふん、と鼻を鳴らす。
「コンビニ弁当も随分マシになったもんだ。さて、二人きりと言う事は、だ」
 ゴドーはすっと立ち上がり、上着を脱ぎ始める。
「ええっ! ちょっ、ゴドー検事! まだ朝ですよ! それにいつ真宵ちゃんが帰ってくるか…!」
 おたおたと顔を真っ赤にする成歩堂を見下ろしたゴドーが、大きな溜息を吐き、肩を竦める。
「二人用のフィルターで間に合うな、と言うつもりだったんだが」
 ショルダーバッグを指差され、成歩堂はますます顔を赤くする。これでは、暗に期待していると告げているようなものだ。ゴドーとのセックスは嫌いではなくむしろ好きな方だが、明日の審議に備えての準備もあるし、それに昨日は徹夜だった。そんな状態でコトに及ばれたら、きっと、終わった途端に寝入ってそのまま明日まで起きない。
「そうも期待されると、ちょいと困っちまうぜ」
 ゴドーはにやりと笑った。軽く首を傾げるようなその仕草は、法廷で何度も見ていたが、こうして目の前でされると、受けるイメージも変わる。ただただ高慢な奴と思っていたのに、今では何だか、それすらも格好良く見えてくる。畜生、と成歩堂は顔を顰めた。
「おいおい、何を顰め面してるんだ。心配しなくても、何もしやしねぇさ。とりあえず、今はな。アンタにオイタするよりも、もっと重要な仕事が俺にはあるんでね」
 笑いながらゴドーはシャツの袖ボタンを外す。深い緑色のシャツを捲りながら、勝手知ったる様子で、キッチンへショルダーバッグを抱え、入って行った。
「おい、まるほどう! この辺のいらねェもん、全部捨てるぜ」
「え、ちょっ、ちょっとゴドー検事! そのカップは!」
 白地に派手な原色でイラストがプリントされているのは、トノサマンとヒメサマンのペアカップだ。お子様向けの番組なので、カップもやや小さめだが、陶器でしっかりとしている。ヒメサマンのマグカップは真宵の、そしてトノサマンのカップは御剣のものだ。ゴドーはそれを事もあろうにぽいとゴミ箱に放り投げた。うわぁあ、と慌てふためいた成歩堂がゴミ箱をガッと掴み寄せ、中を覗き込むと、クッ、とゴドーが片手を見せる。褐色の指先には投げ捨てられたはずの、ふたつのカップが引っかかっていた。
「あ、あれ?」
「…クッ! アンタはもう少し、落ち着いた方がいいな。弁護士とは思えねェ姿だ。それに、こんなお子様向けのカップが、アンタの趣味だとは思わなかったぜ」
「い、異議あり! それは真宵ちゃんと御剣のカップであって、僕のはそっちの横にある緑のカップです! ちなみにその隣のピンクのは春美ちゃんのです!」
 ゴドーは一瞬口を引き結んだ。成歩堂がゴミ箱にしがみついたまま、人差し指を突きつけて必死の形相で弁解するのに圧倒されたのでもないようだ。考え込むように、ゴドーは手の中の二つのカップを見つめていたが、やがてその薄い唇に笑みを浮かべる。
「…妬けるねェ」
「……え?」
 半ば倒れかかったゴミ箱を元の場所へ戻し、成歩堂は立ち上がり膝をぱんと払う。小さな呟き声に、顔を向ければゴドーは手にしていたカップをゆっくりと戸棚へ戻した。
「御剣ってのは、確か、検事だったな」
「あ、そっか。ゴドー検事はご存知ないんですよね。あいつ今、海外の法律システムを研究するとか言って、色々飛んで回ってるみたいなんですよ」
「あいつ…か。嫌に親しく呼ぶじゃねぇか。……知り合いか?」
 ゴドーが静かな口調で話しながら、ショルダーバッグから取り出したコーヒー豆をシンクの上に並べていく。いくつもいくつも、次から次へと出てくるコーヒー豆が、銀色のシンクを隠していく。あの小さなショルダーバッグの中に、どうやったらこれだけの量が入るんだろう、と成歩堂はゴドーの手が取り出す数々の豆に目を奪われていた。
「え、あれ、話したこと、ありませんでしたっけ? 御剣と僕、幼馴染みなんですよ。とは言っても、小学生の頃ですからね。仲良くしてたのも、一年に満たない期間だし。でもまぁ、なんて言うのかな……うん。弁護士になろうって思ったきっかけを、作ってくれた奴だから、僕はずっとあいつのこと考えてたんですけどね。あいつってば僕が弁護士になったのも法廷で顔をあわせるまで知らなかったくらいですからねぇ。鈍感って言うか…無頓着って言うか、薄情って言うか、失敬な奴ですよ」
 ぺらぺらと調子良く話していた成歩堂が、あれ、と目を瞬いた。
「…ゴドー検事?」
 成歩堂の話を聞きながら、片頬に笑みを浮かべ、コーヒーのフィルターや湯を入れるための細口ケトルを取り出していたゴドーの手が、いつからか止まっていた。浮かんでいた笑みも消え、じっとシンクの隅に、申し訳なさそうにちんまりと置かれている鉢植えのサボテンの辺りに顔を向けていた。
「ゴドー検事? どうかしたんですか?」
 成歩堂の手が、ベストに覆われた肩に触れる。ゴドーはハッと振り向き、ああ、と居住まいを正した。
「…どうかしたのかい、コネコちゃん」
「いや、どうかしたのはゴドー検事の方じゃないですか。ボーッとしちゃって。何かあったんですか? 体調でも悪いとか」
 クッとゴドーは喉を引きつらせるように笑い、成歩堂の尖った髪に手を置いた。後ろ髪をぐいと引いて、うわ、と成歩堂が目を丸くするのへ微笑みかける。
「心配してくれるのかい、コジカちゃん。いい子じゃねぇか」
「いや、あの、心配って言うか……それより、この体勢は……いやいや、前から思ってたんですけど、僕をコジカちゃんって呼ぶのもどうかと……」
「じゃあ他の女子供同様に、コネコちゃんと呼んでやるぜ?」
「……コジカもコネコも変わらない気がするんですが…」
 冷や汗を流す成歩堂の腰を引き寄せ、ゴドーは余裕綽々の顔を近づけた。顔の半分を覆う機械仕掛けのマスク越しに、わずかだがゴドーの目が見える。眇められた目に、成歩堂は眉を寄せた。
「いい子には、ご褒美が必要だな」
「え、いや、あの…ッ」
 近付く唇に、思わず成歩堂はぎゅっと目を閉じた。てっきり唇に触れるものだと思った柔らかい感触は、そうではなく、閉じた瞼に押し付けられる。眉間の皺にも、それは触れた。
「ご…ゴドー検事…? ちょっとこれ、恥ずかしいかも…」
 成歩堂の後ろ髪を掴んでいた掌は、いつの間にかシャツ一枚を纏った背中を支えていた。まるきり女を相手にするような仕草に、成歩堂は苦笑する。ゴドーはその顔をじっと見つめていたが、引き結んだ唇を今度は頬に押し付けた。
「信じられるか、まるほどう…」
 こめかみの辺りにある唇が、皮膚をかすめながら声を発した。ゴドーに抱きしめられ、成歩堂は落ち着かない手を握ったり開いたりしていたが、ゴドーの言葉に、え、とすぐ側にある彼の顔を見ようとした。だがそれを拒むように、ゴドーは額にキスをする。
「……アンタといると、不安で仕方ねェ」
「…不安? ゴドー検事でも、何か不安になることでもあるんですか。いっつもあんなに自信満々なのに」
「アンタに、こんなに惚れちまうなんてなぁ…」
「……ゴドー検事…?」
 ゴドーから伝わる体温を?ぎ離すように、成歩堂は腕を突っ張った。ゴドーは一歩足を引き、それにつれて彼の腕も離れていく。自嘲めいた笑みの浮かぶ口元に、成歩堂は何か胸が痛むのを感じた。
「ゴドー検事? どうかしたんですか…?」
「違う」
 薄い唇が、震えるように開いた。
「俺は……俺の名前は…ゴドーじゃねぇ……俺は……」
 成歩堂がじっと見つめていると、ゴドーはハッと息を吐き、顔を背けた。それでも成歩堂が、ゴドーが喋る次の言葉を待っていると、彼は成歩堂の方へ顔を向けた。そして、手を伸ばす。ちょいちょいと、上を向いた掌が成歩堂を呼び寄せた。促され近付くと、ゴドーの手が頬に触れる。褐色の指先が、ゆっくりと頬を辿り、鼻筋に触れ、唇を抑える。瞼を通り、額を、髪の生え際を撫で、眉をなぞった。
 まるで、探るように。
 何か、ゴドーから言い知れぬ悲しみのようなものが伝わってきて、成歩堂はただじっと、彼の手に甘んじていた。
 顎に掌を這わせ、ゴドーがふっと笑みを浮かべる。
「…アンタに、関わるんじゃなかったぜ……」
 ゴドーの手は、力なく落とされた。彼自身の身体の脇に、ぶらりと垂れ下がった手は、褐色で逞しい。緑の袖を捲り上げ、肘の下からが露になっている。腕の内側に、いくつも跡がある。触れると硬くしこっていて、ゴドーはそれを点滴の後だと言った。昔に大病を患ってな、と何気なく話していたのを、成歩堂は覚えていた。
 ゴドーには謎がある。
 謎があるというよりも、彼自身が大きな謎だ。本名も、国籍も、年齢すらもわからない不詳の人は、それでも優しい事を成歩堂は知っている。迷子になった小さな子供を放っておけないこともそうだし、春美の入れたコーヒーならたとえインスタントでもきちんと飲み干す事もそうだ。知らない事も多いが、知っている事も多い。成歩堂が惹かれたのは、ゴドーのほんの一部だ。それでもいいと、思っていた。
 成歩堂は一歩近付き、手を伸ばした。マスクに覆われていない褐色の頬に指を触れさせると、成歩堂はにこりと微笑む。
「僕は好きですよ、あなたが」
 ゴドーが息を飲んでいるのを知り、成歩堂はさらに言葉を重ねる。
「僕はあなたの名前を好きになったんじゃない。あなた自身を好きになったんだ。検事でもなく、弁護士でもなく、ただのあなたと言う人を、好きになったんです。それに、これでも結構、傷付きやすいんですよ。関わるんじゃなかったとか、そう言うこと、言わないでもらえます? 僕はあなたに会えて、結構、幸せなんですから」
 両手でぎゅっとゴドーを抱きしめる。成歩堂が、ぽんぽんとあやすようにゴドーの背中を叩くと、ゴドーは恐々とした手付きで、成歩堂の背を抱いた。
「…キスしていいかい、コジカちゃん。今すぐアンタを押し倒したい気分だぜ」
「ま、待った! 押し倒すのはなし!」
「なぜだ」
 ゴドーの頬に浮かんでいる笑みに安堵しながらも、成歩堂は忙しく頭を働かせた。
「ええっと、まだ昼にもなってないし、それに真宵ちゃんがいつ帰ってくるか解らないし、新しいお客さんもくるかも。ここは法律事務所だから、結構、頻繁に人が…」
「異議あり、だな。まず昼という時間の定義があやふやすぎる。時間は正確に表現しな。あのお嬢ちゃんだが、あと一時間は帰ってこねぇぜ。交番にお子様を届けに行くついでに、交番の隣のデパートでやってる、なんとかってお子様番組の展示会に行くと言っていた。あのデパートからここまで徒歩で帰ってくるのに二十分。あのお嬢ちゃんが夢中になってるテレビ番組の展示会を見るのに一時間。交番でも時間をとられている事を考えれば、二時間は帰ってこない計算だ。俺がここにきてからすでに四十分近くたっているが…、まだあのお嬢ちゃんが帰ってこられる時間でもねぇ。あと何だったか。法律事務所だから新しい客がくるかもしれねぇとか言ってたな。これも異議あり、だ。俺がこの事務所で呑気にコーヒータイムを満喫していた今まで、新規の客が飛び込んできたことは、一度たりともねぇな。どうだ、反論できるか?」
「今まで一度もなかったからと言って、これからもない、とも限りませんよね」
「確かにな。だが、確率は限りなくゼロに近いな」
 自信満々に告げるゴドーに、成歩堂は首を傾げる。
「なぜですか」
「…クッ! 俺が玄関の鍵をかけておいたからさ」
「なッ!」
 目を見張る成歩堂の顔を見つめ、ゴドーはクックックッと喉を引きつらせた。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしていた成歩堂が、ようやく、ゴドー検事ッ、と声を張り上げた。
「何て事をするんですかッ! 油断も隙もない! 一体いつの間に…ッ!」
「アンタがここで、空っぽのインスタントコーヒーの瓶を眺めている間さ。おっとそうだった。俺とした事がうっかりしてたぜ。アンタにゴドーブレンド一号をご馳走してやるつもりだったのを、すっかり忘れちまってたぜ」
「ゴドーブレンド…一号?」
 眉を寄せる成歩堂に、そうさ、とゴドーはシンクの上に置いてあった細口ケトルに水を注ぐ。コンロにかけた後で、豆をあれこれと眺め、いくつかを手に取った。手動のミルがショルダーバッグの中から現れて、まだ出てくるのかっ、と成歩堂は思わず目を見張った。
「そう…この場所で俺が初めて入れるブレンドだ。ゴドーブレンドと言うよりも、むしろ、まるほどうブレンドか…」
「……何か、笑えますね、そのネーミング。て言うよりも、むしろネーミングセンスに笑ってしまうと言うか………」
 首を捻る成歩堂に、ゴドーがにっこりと微笑みかけた。皮肉な笑みではない、いやにさっぱりとしたそれは笑顔だ。
「ここで裸にひん剥かれて犯されたいかい、コジカちゃん」
「いいえっ、遠慮しときますッ!」
 ぶるぶると首を振る成歩堂に、ククッとゴドーは笑う。ちらりとこちらを見やる仕草が何やらおそろしく、成歩堂はゴドーから距離を取りながら、慌てて違う話題を考えた。
「えっと、あっと、ああっ、そうそうっ! ゴドー検事! ゴドー検事がいつも法廷で使ってるカップ! どこで買ったんですかっ!」
「ん? カップ?」
 しゅんしゅんと湯気を上げるケトルを、ゴドーは慣れた手付きで持ち上げた。すでにいい香りが漂う豆の上に、ほんの少し垂らす。蒸らす時間は十五秒だとゴドーは決めていた。
「そうです。あの何度も僕にぶつけられた可哀相なカップ。その割に全然割れなくって上部ですよね。まぁどちらかと言えば、カップよりも僕の頭の方が割れそうでしたけど」
「………嫌味を言ってるつもりかい、コジカちゃん」
「ええ、まぁ。多分、あんまり効いてないとは思いますけど、一応」
「まったく効かないね」
「だったらまた別の手を考えます。とりあえず教えて下さいよ、どこで買ったのか。あ、でもあんまり高いのだと困るかなぁ…」
 ううん、と唸る成歩堂の声を聞きながら、ゴドーはケトルを傾けた。細く出る湯を、円を描くように豆に注いでいく。綺麗に盛り上がった泡に、満足しながら、まだうんうんと唸っている成歩堂に問う。
「なぜカップのブランドが知りたいんだ。同じのを法廷で使うつもりならやめておけ。裁判長に勘繰られるぜ。それと、アンタの幼馴染みとやらの検事さんにもな」
「法廷でコーヒーなんて飲みませんよ。なぜだか裁判長は僕にだけは風当たりきつんですから。そうじゃなくって、うちの事務所にも置いておこうかと思って、ゴドー検事用のマグカップ」
 ゴドーの手の中にあるケトルが、ほんの一瞬、傾く角度を浅くした。じっと見ていなければ解らなかっただろうその一瞬を、成歩堂は見てしまった。ふ、と唇の端に笑みを浮かべ、かわいくないの、と成歩堂は内心で笑う。
 そしてわざとらしく声を張り上げた。
「真宵ちゃんがそう言うの気にするんですよねー。頻繁にくる人のは専用のカップを用意するべきだ!って。ゴドー検事の分も用意しなくちゃって騒いでたから、法廷で使ってるのが一番かなぁと思って色々探してみたんですけど、なかなか似たのもなくって」
「……あのお嬢ちゃんか」
 ゴドーはケトルをコンロの上に置き、フィルターを通して流れて行くコーヒーの黒い液体を眺めていた。
「…真宵ちゃんが何か?」
「いや、何も。おい、まるほどう。カップを用意しろ。ふたつだ。まるほどうブレンド一号が入った」
「はいはい。あ、ゴドー検事、僕のカップはその緑の奴です」
 ゴドーの目の前の棚にあるカップを指差す成歩堂に、ゴドーはそれを取り出した。客用のカップは、受け皿と一緒にしまってある。ピンク色の花柄のカップを取り出す成歩堂に、ピンクはよしてくれ、とゴドーが先手を打つ。ちぇ、と成歩堂は口を尖らせて、代わりに青い花柄のカップを取り出した。
「はいどうぞ」
 渡されたカップを受け取るゴドーに、成歩堂はにっと笑いかける。
「ゴドー検事って、素直じゃないですよね」
「俺が素直だったら不気味じゃねぇか」
「素直ってのは、それだけで可愛く見えますよ。例えば…そう、春美ちゃんみたいな」
「あのお嬢ちゃんか。やってくるなり『うわぁ、ゴドーけんじさんがおいでだったのですね! わたくしとっても嬉しいです! わたくしの入れたコーヒーを、ゴドーけんじさんに是非とも飲んで頂きたいと思って、わたくし、たくさん練習いたしました!』って叫んでりゃあ、そりゃあ可愛らしく見えるだろうぜ」
「……さすが…似てますね」
「クッ、検事の仕事は観察することから始まるんだぜ」
「はいはい。それより、帰るまでにちゃんとあのカップ、どこで買ったか、自白してくださいよ。でないと次はトノサマンカップで飲んでもらいますからね」
「あんな趣味の悪いカップで飲めるか」
「はいはい。ああ、そうだ……。いいですよ、ゴドー検事」
 カップに注いだコーヒーを手に、居間へ戻る途中で、成歩堂がそう言った。は、と眉を寄せるゴドーに、成歩堂は目を細めて笑う。
「ほら、言ってたじゃないですか。キスしてもいいかって。だから、いいですよって」
 ゴドーはカップをテーブルに置き、おもむろに伸ばした両手で、ソファに腰を下ろした成歩堂の頬をはさみこんだ。そのままぐっと人差し指と親指で、見た目よりも随分柔らかい頬をつまみ、ぐいと両側へ引っ張った。
「いへっ! はにふるんへふか!」
「いいですよ、じゃねぇぜ、まるほどう」
 ぶにぶにと頬を引っ張られ、成歩堂は慌てて頬を掴むゴドーの手に手を添えた。それをおかしそうに眺め、ゴドーは手を離してやった。どすんと音を立ててソファに座ると、すかさず足を組む。
「アンタに拒否権なんてないのさ」
「だからって何を藪から棒に唐突に! しかもこう言うシュチエーションですよ! 普通キスするって思うじゃないですか!」
「オイオイオイ、まるほどう。この俺に、世間一般の理屈や常識が通用すると思うのか。俺は俺のしたいときにやりたい事をする。これが」
「俺と付き合うためのルールだぜ、でしょ」
 解ってますよ言いたいことは、いたいなぁもう、無理矢理引っ張らなくてもいいじゃないですか、だいたいゴドー検事は遠慮がないって言うか手癖が悪いって言うか気障ったらしいって言うか、まったくもう。
 ぶつぶつ呟く成歩堂に、ゴドーはクッと笑う。
「そう膨れるな、コジカちゃん。可愛い顔が台無しだぜ」
「台無しにしたのはあなたでしょうが」
「ともかく、まるほどうブレンド一号に、乾杯だな」
 カップを持ち上げるゴドーに促され、成歩堂もコーヒーを手にした。熱いカップを口元に運び、ゴドーのマスク越しの目を見つめながら、一口、彼流にいうところの、闇よりもなお深く暗い闇を啜る。
 そして次の瞬間、二人はぶほっと思い切り、含んだばかりのコーヒーを噴き出していた。
「に、にがッ…! 苦いですよ、これ! 苦いだけじゃない! 酸っぱい! 何入れたんですか、ゴドー検事! すっぱにがい!」
「………おかしいな。適当にぶち込んだら大概はうまくいくはずなんだが…」
「ゴドー検事! 適当にぶち込まないで下さい! こんなの飲めませんよ! もっとまともな美味しい奴、入れなおしてください!」
「まぁそう言うな。これはこれで味わいがある…。名付けてまるほどうブレンド一号、御剣への嫉妬と憎悪の味、だ」
「はいはい。御剣に嫉妬しても何も出ませんよ。だいたいあいつとは一年近く会ってないんですから」
「電話はしてるんだろう」
「そりゃまぁ」
「土産も届く」
「ええ」
 クッとゴドーは肩を竦め、『すっぱにがい』コーヒーを飲み込んだ。
「だったら尚更、御剣への嫉妬と憎悪と復讐の味、だ」
「…復讐が増えてるよ……」
「何か言ったかい、コジカちゃん」
「いえ、別に」
 成歩堂は首を振り、『すっぱにがい』コーヒーを飲む。顔をしかめ、舌を出し、やっぱ飲めたもんじゃありませんよ、と呟いた。
「じゃあ、こいつを飲み干したら、今度はゴドーブレンド九十九号を入れてやろう。これは最高傑作だぜ。その前に…」
 ゴドーがカップを置いて立ち上がる。テーブルに手をつき、向かいに座っている成歩堂の顎をついと持ち上げた。え、と薄く開いた唇に、熱い舌を差し込む。『すっぱにがい』コーヒーの味が充満する口の中を思う様嘗め回し、ゴドーはにやりと笑った。
「口直しだぜ、コジカちゃん」
 成歩堂は思い切り顔を顰めていた。これでもかというくらいの渋面に、ゴドーが顎を引く。どうした、と尋ねる前に、成歩堂は口を押さえ、だだだっと物凄い勢いで洗面所へ駆け込んでいく。
「お、オイオイオイ、どうしたコネコちゃん」
「す……すっぱにがいーッ!」
 うえぇえ、と口を濯いでいる成歩堂を見て、やれやれ、とゴドーは肩を竦めている。その顔は晴れやかで、心の底から楽しそうな、そんな雰囲気がした。