■ an ardent cat lover
 初夏並みの気温に恵まれた日曜日、荘龍は休みだと言うのに出勤してきている所長に付き合うべく、事務所の応接ソファに寝そべり、買ってきたばかりと思われる本を読んでいた。本来なら健全に春美を連れてのデートだったのだが、春美がお友達と渋谷へ遊びに行くと言うので、お出かけは却下されたのだ。折角サーカスのチケット手に入れたのになぁ、と成歩堂は拗ねていたが、春美とてもう中学生だ。いつまでもサーカスにきらきらと目を輝かせるような年でもない。それなら仕事しちゃおうっと、と荘龍が異議を申し立てる暇もなく所長室に篭ってしまったのだ。
 つまんねぇぜ、と荘龍が呟きながら事務所を出て行ったので、あ、機嫌損ねちゃったかなぁ、と成歩堂が少しばかり反省していると、本屋の紙袋を手にした荘龍が戻ってきた。それからどすんとソファに寝転がり、飯を食うなら言ってくれ、とずっと本に没頭している。
 成歩堂法律事務所に持ち込まれる事案は、法廷沙汰のものばかりではない。例えばちょっとした相談もある。相談料を頂いて、法律で役に立つ事を教える。それですっきりしたのなら、依頼人はもうこない。だが一応顧客ファイルやら、事案ファイルやらを作っておく必要があるので、成歩堂は苦手なパソコンと向かい合っていたのだ。だがそれも、二時間もたてば首が痛くなってくる。それにサーカスに行く前に食事をしようと思っていたのだから、成歩堂も荘龍も食事をしていない。
 お腹すいたかも、と製作中のファイルを保存し、パソコンの電源を落として、成歩堂は所長室のドアを開けた。
「荘龍さん、ご飯食べに行きません?」
「ようやく天岩戸からお出ましだぜ」
「……お腹減ってたんなら減ってるって言って下さいよ。そっち優先したのに」
「クッ…恋人が一番熱中している事を取り上げるほど、俺は下衆じゃねぇぜ」
 ソファから身を起こす荘龍に、成歩堂は呆れた顔で溜息を吐いた。
「台詞はかっこいいけど、お腹盛大に鳴ってますよ」
「カレーうどんが食いたいぜ」
「はいはい。あ、医者から刺激物はやめろって言われてたんじゃないんですか」
 本を閉じ、それをテーブルにぽんと投げ出した荘龍に言えば、眼鏡を外しながら彼は肩を竦める。
「そんな大昔のこと、俺の記憶には残ってねぇな」
「……またそんなこと言って…。あ、何読んでたんですか? 推理小説? 面白かったらまた貸して…下さい……よ…?」
 荘龍が投げ出した本を手に、タイトルを読もうとした成歩堂の顔が引きつった。微笑んでいた顔は硬直し、ぎこちなく首が右に傾いていく。
「……『正しい子供の名前のつけかた』…?」
「クッ、照れるじゃねぇか」
 年甲斐もなく頬を赤らめる荘龍を、成歩堂が強張った顔で振り返る。
「………誰を孕ませたんですか…」
「おっと、それは誤解だぜ、コネコちゃん」
「何が誤解なんですか! こんな、こんなもの買ってきて! 誰と浮気してたんだよっ! ああっ、まさかっ、まさか…真宵ちゃ……ッ!」
「あのお嬢ちゃんに手を出すなんて恐ろしいこと、できると思うかい?」
「だったら誰なんだよ! ま、まさか狩魔検事じゃあ…ッ?」
「…ああ、あの鞭のお嬢ちゃんか。好みじゃねぇなぁ」
「だったら誰と浮気してたんだよッ! 裏切り者!」
「クッ、あんたさ、コネコちゃん」
 びしりと指を突きつけられて、涙目でぎゃあぎゃあと騒いでいた成歩堂が、はい、と握り締めた拳もそのままに、ぐきりと首を傾げた。
「……あのぅ…言ってる意味がよく解らないんですけど…」
「察しの悪いコネコちゃんだぜ。俺はあんたに一途なのさ」
「だからその意味が良く解らないんですよ! だったら何でこんな本買ってきてあてつけみたいに事務所で読んでるんですかッ!」
 だんだんと地団太を踏む成歩堂の手から、ひょいと本を取り上げて、荘龍は首を振る。
「やれやれ、本当に察しの悪いコネコちゃんだ。俺がこんなものを買ってきて読んでいるということはだ」
「言う事は何なんですか!」
「そろそろ子供が欲しいって事さ。クッ、言っちゃったぜ」
「…………はい?」
 頬を赤らめ顔を背ける荘龍に、成歩堂はぐっと眉間に皺を寄せた。
「………すみません、あの、仰っている意味が良く解らないんですけども…」
「ますます察しの悪いコネコちゃんだぜ。つまり俺は、あんたに俺の子供を生んでくれって言ってんのさ」
「…いや、あの、だから…その、本当に、仰っている意味がまったく解らないんですけど……」
「なぜだ!」
 ばんっと成歩堂は目の前に『正しい子供の名前のつけかた』を突きつけられて、思わず仰け反った。
「遠まわしなプロポーズだとなぜ気付かない!」
「気付くかッ! てゆーか、第一僕は男ですよ! あんた何回も僕とセックスしてるんだから、そこらへん解ってるんじゃないんですかッ!」
「クッ、それがどうした」
「男は妊娠しません!」
 人差し指を突きつけ、まるで法廷さながらに怒鳴る成歩堂に、ふっと荘龍は肩を竦めた。
「常識に囚われてちゃ、ちっとも前に進めないぜ」
「いやいやいやいや! そこだけは常識に囚われててください」
「……つまり何か。あんた、俺のプロポーズを断るってのかい」
 むっと唇を引き結ぶ荘龍に、うわぁ、と成歩堂は顔を顰めた。あの表情をする荘龍は、非常にとっても機嫌を損ねている。これ以上、不機嫌にさせると一言も口を利かないか、拗ねて部屋の隅っこでいじけるか、いやまぁこれはまだいい。それどころか真昼間の鍵のかかっていない事務所で押し倒されて裸にされて、いかがわしい事をさせられるかもしれない。いやだなぁ、と成歩堂はあとずさる。
「何を逃げようとしてるんだい、コネコちゃん」
「いえ、何か…身の危険を……」
「クッ、よく解ってるじゃねぇか、コネコちゃん。察しの良いアンタは嫌いじゃねぇぜ?」
「そ、それはどうも…。てゆーか、荘龍さん、ちょっと落ち着いて話しあいません? いや、だから、こっちこないで…」
「後悔、後に立たずさ、コネコちゃん」
「それを言うなら先だーッ!」
 がばっと抱きつかれ、ぎゃーっと成歩堂が悲鳴を上げる。成歩堂が騒いでいる隙に、荘龍は己のネクタイで成歩堂の両手を戒めた。そのままぽいとソファに投げ、バウンドしている成歩堂の身体に圧し掛かる。冷や汗をだらだらと垂れ流している成歩堂は、荘龍に圧し掛かられて頬を引きつらせた。
「覚悟しな、コネコちゃん。今夜は寝かせねぇぜ」
「異議あり! まだ昼だ!」
「そうさ。つまり、明日の朝まで子供ができちゃうような事を、し続けるのさ」
 己のシャツの胸元を緩める荘龍に見下ろされ、成歩堂はざあっと全身から血の気が失せていくのを感じた。シャツの前ボタン全部を外した荘龍の指が、成歩堂に伸びる。赤いネクタイをぐっと掴まれ、一瞬息が詰まる。そこにキスをされた。
 長々と、唾液の滴る濃厚なキスをされ、ようやく解放された成歩堂は、ぷはっと息を吐く。そして大声で叫んだ。
「変態―ッ!」
「誰がだ!」
 ごすっと額を人差し指で突かれ、成歩堂はぐっと黙った。
「…悪いコネコちゃんには、お仕置きが必要だぜ」
 にやりと笑う荘龍が、頬を膨らませている成歩堂に覆い被さる。
 ひくりと頬を引きつらせた成歩堂が、大声で助けを呼んだのは、その僅か一秒後の事だった。