■ always walking
 ぽた、ぽた、と眠気を誘う速度で落ちる液体の音に、静かにドアの開く音が混じった。目を瞑り、動かせない右腕からじわじわと体内に浸透する薬液を受け入れていた荘龍は、空気の動く微かな気配に、ふっと目を開く。
 毒を盛られ、昏睡し四年。目覚めてから一年を復讐に費やし、その後の三年と少しを達した復讐の罪を償うために服役した。神乃木荘龍から検事ゴドーになり、そしてまた神乃木荘龍に戻った。弁護士として、今は成歩堂法律事務所にいる。自分のために生きる生活を送っている。綾里千尋を失ってから初めて、幸せだと感じるようになった。
 だが、失った視力は戻らず、毒の影響はまだ残る。定期的に点滴を受けねばならず、与えられる薬の量も膨大だ。おかげで月に数度、病院へ通わなければならなかった。点滴は暇な時を見つけて自らが針を刺していた。
 あえて照明を落としていた部屋の中に、廊下から明かりが差し込んでいた。それを背に、独特のシルエットをした男が部屋の中へ入ろうとしていた。
「…もう時間か」
 掠れた声を漏らせば、あ、とそのシルエットが立ち止まる。
「すみません。起こしちゃいました?」
 片手に黒いバインダーを持った成歩堂が、静かにドアを閉めてやってくる。消された灯りをつけずに、荘龍が座るソファへ近付いてくる。ブランドの隙間から入ってくる西日で、法廷の控え室はオレンジ色に染まっている。コツコツと、硬い床を叩く靴底の音は、ついさっきまでは鮮明に聞こえていた点滴の音を掻き消した。
「いや。…それは?」
 成歩堂の手のバインダーを動かせない方の指先だけで示す。成歩堂は、ああ、と指摘されようやく気付いたように、手に持っていたバインダーを荘龍へ渡した。荘龍が点滴を受ける光景はもう何度も目にしているので、成歩堂も今更何も言わない。
「大学の法医学部の人が届けてくれたんです。解剖結果に訂正があるそうですよ。教授の証書つきです。荘龍さんが言った通りでした」
「……ふん」
 組んだ膝の上にバインダーを置き、左手でファイルを捲った荘龍が鼻で笑う。
「何ですか?」
 眉を寄せる成歩堂は、部屋の隅にあるコーヒーメイカーから紙コップを取り上げた。飲みます、と一応義理で差し出すものの、荘龍が自分の手以外で入れたコーヒーを飲むはずがないと知っていた。首も振らず、答えもしない荘龍に、そうでしょうね、と呟き、成歩堂はソファに腰を下ろす。
「アンタ、これに目は通したのか」
「いえ、まずは担当弁護士さんにと思って。僕は今回、ただの助手ですからね」
「クッ…所長弁護士さんが気を使ってくれるぜ」
 差し出されたバインダーを受け取り、成歩堂はちらりと荘龍の横顔を見た。ソファの背もたれに身体を預け、天井を眺めている。見ても、と確認を取る成歩堂に、ああ、と荘龍は頷きもせずに答えた。
「一度目の司法解剖は、監察医によって書き換えられた」
 殺人事件の裁判だったが、被害者の死亡時刻に改ざんされた様子があった。荘龍が懇意にしている大学病院の医師に紹介してもらい、大学法医学部の教授に二度目の解剖をお願いした。それがついさっき届いた。成歩堂の目にも明らかなほど、大学法医学部の教授が割り出した死亡時刻と、監察医の出した死亡時刻とは大きな開きがあった。そして、法医学部の教授の示す死亡時刻に、今回の荘龍の依頼人は現場から飛行機を使っても二時間近くかかる場所にいた。
「無罪、ですね」
 長い溜息を吐く荘龍に、成歩堂は思わず笑みを馳せる。それを荘龍が戒める。
「お前はただの弁護士だろう、成歩堂。無罪と判断するのは、あの髭面の忌々しい裁判長だぜ」
「…そうですね」
 浮き足立つ成歩堂が、ふっと息を抜き、荘龍と同じようにソファの背もたれに身体を預けた。背もたれに乗せられていた荘龍の左腕に、頭を乗せる。
「おい」
 迷惑そうな声に、成歩堂は唇の端を持ち上げる。
「僕は僕がしたいときに、僕のしたいことをするんですよ」
「…クッ! 僕のルール、とでも言うつもりか」
「そうですよ、コネコちゃん」
 ニッと笑う成歩堂の勝気な笑みに、荘龍も唇を緩める。成歩堂の左手が荘龍の頬を撫で、顎をついと持ち上げた。荘龍の薄い唇に、成歩堂の唇が重なる。僅かに濡れた音を立て、成歩堂の顔が離れると、荘龍は成歩堂の頭がもたれる左腕をぐいと動かした。
「わっ」
 がくんと成歩堂の頭が、落ちる。目を丸くする成歩堂の鼻に荘龍が軽く噛み付く。
「なにするんですかっ!」
「スキンシップさ、コネコちゃん」
 息の触れ合う距離で笑う荘龍に、成歩堂が肩の力を抜く。もう一度キスをしようと腕を伸ばしかけたが、あ、と呟く成歩堂に止められる。
「点滴、終わってますよ」
 ぐいと荘龍の顔を押しやって、成歩堂が点滴のパックを指差す。ぐっと喉を鳴らす荘龍が不精不精のように針を抜き、空のパックを下ろした。慣れた手つきでチューブをくるくると巻いて、部屋の隅に置いてある荷物の中に突っ込んだ。ぞんざいな仕草は拗ねているから構えという無言の主張なのだが、優秀な弁護士であり、荘龍の可愛いコネコちゃんである成歩堂は気付かない。いや、気付かないふりをしている。
 ふん、と鼻を鳴らし、荘龍は成歩堂の手から、彼が見ていた黒いバインダーを取り上げた。
「あっ、ちょっと荘龍さん!」
「さっさと法廷に行くぞ。時間だ」
「ったく、乱暴なんだから…。口で言えば渡しますよ」
「クッ、助手は担当弁護士のやる事に口出しはしないもんだぜ」
「こう言う時だけ担当弁護士とかって威張るんだから…」
「何か言ったかい?」
「いいえ、別に」
 むすっと頬を膨らませる成歩堂の頭を、荘龍は乱暴に撫でた。そして唇の端を持ち上げて、自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。
「さぁ、無罪を勝ち取りに行くぜ、コネコちゃん」
 待って下さいよ、と成歩堂がソファにかけてあった上着を手に追いかけてくる。ちょっと荘龍さんっ、と慌てる成歩堂の声を背に聞きながら、荘龍は戦いの場へと向かい歩いて行った。追いかけてくる成歩堂の存在を、何よりも心強く思い、荘龍は前を見据える。
 成歩堂に言った通り、無罪を勝ち取るために、荘龍は前へ前へと歩き続けた。