カカワトル


 ひどい嵐の夜だった。
 ククールはその日、多額の寄付と引き換えに祈祷を依頼してきたアスカンタの貴族の下へ出向いていた。一夜の宿を提供してもらい、暖かな食事と豪勢な部屋を与えられた。まるで昔に戻ったかのような室内で、修道士のための粗末な服を脱ぎ、金色の装飾が施されたバスルームで湯を使う。
 修道院に入ってから、八年。
 両親を亡くし、何ひとつ持たずに周りの人間に勧められるがまま修道院に入り、周囲の侮蔑の眼差しに耐えながらも生き、今日で十六になった。まさか誕生日にこんな豪勢な過ごせることになるなんて思いも寄らなかった。修道院では誕生日などないに等しい。むしろ誰もククールの誕生日など知らない。おそらく、腹違いの兄は知っていたであろうが、彼が祝うはずなどない。その日は彼にとって、それまでの生活すべてが破綻した日であるからだ。
 芯まで綻んだ身体を肌触りのいいガウンで包み、ククールは上機嫌で寝室に入った。
 そしてそこにいた男に目を丸くした。ククールが宿を借りることになった貴族の男だった。貴族と言えばでっぷりと肥え太り、脂ぎった声と顔をした男だと思っていたククールの予想を裏切った人で、清潔な身なりにこざっぱりとした衣装、精悍な顔だちは役者と言っても通るくらいだった。
 何か、とククールは尋ねた。
 明日の出立までの間にまだ祈祷をしてもらいたい部屋があるのだろうかと思ったのだ。
 男は、ククールに少し微笑むと、君の髪はとても綺麗だから、と囁いた。
 甘ったるい声。
 甘ったるい指先。
 甘ったるい体温。
 それらはククールを四本の柱とカーテンのあるベッドに押し込み、肌触りのいいガウンを剥いだ。暖かく、そして柔らかくなった身体のそこかしこに指や唇を這わせ、ククールを悪魔の罠に陥れた。
 窓の外でごうごうと風がうねり、雨粒がガラスに叩きつけられる。
 どれほど喚こうと悲鳴を上げようと、誰の耳にも届かなかったのか、それとも広大な屋敷であるから、人払いを命じてあったのか、誰にもその願いは届かぬまま夜は明けた。
 そそくさと身支度を整え、ククールは朝早くにアスカンタを飛び出した。
 マイエラまで帰る道中に息が切れ、川辺の教会で休ませて貰った。
 何があったのかを察するような神父の同情深い眼差しが煩わしく、夕暮れであるから一泊していったらどうかと進める言葉を振り切って教会を出た。
 一歩歩くことに身体が真っ二つになるかのような激痛を押して、夜遅くにマイエラに帰り着いた。灯りを見ただけで、修道院へ足を踏み入れてから八年間、まったく抱かなかった安堵感をこれ以上ないと言うほどに味わった。そして誰もいない橋の上で倒れ伏したのだ。その時の彼は気付いていなかったのだが、蹂躙されたそこはひどく出血していた。
 気付けば、修道院の医務室に寝かされていた。
 傍らには聖堂騎士団の青い制服を着たマルチェロが座っていた。たまたまその日の医務室当番だった彼は、出先から戻ってきた所で橋の上に倒れ、あられもない場所から血を流すククールを見つけたのだと言う。
 淡々と告げられる言葉に、ククールは言葉もなく耳を傾けるしかなかった。
 少しばかりの医学の心得のあるマルチェロが傷を癒そうと手を翳す。不本意だが、と告げられた言葉に今更傷付くことはなかったが、伸ばされた手は恐ろしかった。
 擦り切れた頬とそれ以外のすべてに回復呪文をかけてくれようとしたのだ。
 だがその手は、君の髪が綺麗だから、と伸ばされた男の手に思えてならなかった。
 無様な悲鳴を上げてベッドから転がり落ち、部屋の中を尻を突きながら後ずさるククールを、マルチェロは心底驚いた眼差しで見下ろしていた。その緑色の瞳の中に、その間めまぐるしい何かが飛来していたのだろう。計算高い頭の中で、一体何があったのか、そしてククールが何に怯えているのか過たず理解することができたのだろう。
 マルチェロは伸ばしていた手を下ろし、部屋の隅で頭を抱えてぶるぶると震えるククールに背を向けた。
 落ち着いたら言いなさい、と告げられた言葉にククールは嗚咽が止まらなかった。
 ここはアスカンタではない。
 ここは貴族の屋敷ではない。
 豪勢な調度品は何もなく、温かな食事もない。肌触りのいいガウンも、四本の柱に支えられたカーテン付きのベッドも、毛足の長い絨毯もない。
 そしてあの男はいない。
 己の身体を抱きしめて、何度も何度も小さく口の中で呟き繰り返すククールを、哀れに思ったのだろうか。似合わない情けをかけたのか、それともほんの少し血が混じっているよしみだったのだろうか。
 マルチェロは部屋を出て行くと、しばらくして戻ってきた。その手には湯気の立つカップがあった。白い陶器のカップから甘い香りが漂い、部屋の隅から立ち上がれないでいるククールの前に彼は膝を付いた。差し出されたそれは、白いカップとは対照的な黒色に満ちている。
 子供には丁度いいだろう、飲みなさい。
 驚き目を見張るククールがそれを受け取れないでいると、マルチェロはククールが座る石畳の側にそれを置いた。そして立ち上がり、離れていく。部屋の反対側にある医務室当番の机に付き、何事かを記すためにペンを走らせて行く。カリカリと羽ペンを動かす指先の形が美しいことに、ククールはその時に初めて気が付いた。
 何も言葉はかけられず、羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが響く静かな夜だった。
 ククールは石畳の上のカップを持ち上げ、両手で包んだ。陶器を通し、冷たく緊張しきっていた手のひらがじんわりと暖かく緩む。
 これがどれほど貴重な飲み物で、そして調理するのに手間のかかるものかククールは知っていた。八歳までの記憶にある限りの毎年、ククールは誕生日に必ずこれを飲んでいたからだ。その日ばかりは母親が手ずから豆を砕き、砂糖を加え、煮詰め、ミルクを差し、味を確かめてくれた。甘い飲み物がどれほどとてつもなく高価な趣向品であるかを知ったのは修道院に入ってからだった。そしてこの豆が修道院に寄付として贈られた物の中にあったのだろう事も察せられた。
 マルチェロは何を思い、寄付品の中のこれをくすねてきたのだろうか。そして何を思い、手間のかかる飲み物を拵えたのか。
 鼻先をくすぐる甘い香りと、一口飲み干した身体を温める優しい飲み物に、ククールはまた新たな涙を零した。漏れる嗚咽に、マルチェロの操る羽ペンの動きは止まらなかった。
 後にも先にも、ククールが兄と同じ部屋で一晩を過ごしたのはその日だけだった。

 カカワトル。コロンブスが発見した当初、未開の地だったアメリカ大陸に住んでいた人たちがココアの事をカカワトルと呼んだそうな。と言うわけで、作中に出てくる飲み物をタイトルにしようと思っていたんですが、「ココア」では捻りがないので色々調べたらこの単語が出てきた。そしてカカワトルが伝わった当初、スペインでは王侯貴族や一部の僧侶のみがこれを飲むことができたんだそうで、寄付として修道院に奉納されたものをこっそり飲ませる話としては丁度いいんじゃないかとタイトルにしました。
 クク主ククな私ですが、マルチェロを悪い人だとは思ってません。ククールとの確執は確かにあったんだろうけれど、普通の人が持つ優しさも持っていた人ではなかろうかと。そしてククールは絶対にこういう目にあってるだろうと思っていたのでいつかは書きたかった。完全なマルククではないし、それっぽい記述もない上に、恋愛要素まるでない話ですが、子ピサのお礼に相良さんに勝手にお捧げしたいのでありました(笑)。