忘れられない


 静かな生と死とを季節ごとに繰り返す山奥の村に、不意に魔族の気配が訪れた。ここしばらく見えることのなかった気配に、ユーリルは掘り起こしたばかりのじゃがいもの土を払う作業をしていた手を少し止めた。
 何も知らない顔をしていなければならない、と自分に言い聞かせる。
 先日、デスパレスの閨で垣間見た悪夢のような一時など、自分は何も見なかったのだと何度も繰り返し思い込んだ。
 いつも通りの笑顔を、と思い振り返ったユーリルは、そこにあった思いも寄らぬ人物の姿に、手にしていたじゃがいもを取り落とした。
 長くうねる黒い髪に、尖った耳。白い身体は陶磁のように美しく、そして彼と同じ色の赤い瞳が長い睫の奥で瞬いている。
 咄嗟に腰に手をやるが、剣など持たぬようになってから随分と久しい。武器になるようなものは鍬や鍬しかない。魔族相手に呪文だけでは心許ない、とユーリルは眉を寄せた。その表情をどう捉えたのか、女は紅に赤く染まった唇をほんのりと緩めた。
「そなたが、勇者殿か」
 熟れた果物のような甘い声に、ぞっと背筋が凍る。
 間違いがない。
 あの日、閨でピサロの体躯の下にあり、甘ったるい声を上げていたのはこの女だ。
 脳裏が真っ赤に染まり、手に剣があれば間違いなく切りかかっていたに違いなかった。
 ピサロに触れた指を切り落とし、ピサロを見た目を抉り出す。彼が触れた場所すべてを切り刻み、声も出ぬように喉を突く。
 そうできれば、どれほどにいいだろうと、ユーリルは拳を握り締めた。
「……誰」
 敵対心を隠さぬ様子に、女はおかしそうに目を細めた。にぃと歪む山猫のような目に、ユーリルは知らず足を一歩引いた。
「これが世界を救った勇者殿とは……なんとみすぼらしい…。陛下がそなたような小僧を相手になさる理由が解らぬ」
 土になど触れたこともないような瑞々しく白い指先に、彩を乗せた形良い爪。白粉を叩かずとも白い肌に映える襟ぐりの大きく開いた群青のドレスを纏い、額と首とに豪奢な飾りをつけている。女は、まるでこの地を統べる女王かと思うほど堂々とし、揺るぎない自信に満ちていた。
 対して、自分はどうだろうか。
 土に汚れた手は擦り傷や胼胝で固くなっている。爪は割れ、この所ずっとかかりきりだったじゃがいもを掘り起こす作業のせいで、爪の間には土が入り込み洗っても取れない。頬や髪にも土くれはつき、そして汗に塗れて汚いことこの上ない。つぎはぎだらけ、擦り切れだらけの襤褸を纏った身体に、飾りと呼べるものがあるとすれば左耳のピアスのみ。女が女王であるのなら、自分は女王の庭を美しく整えるだけが能の小男のようだった。
 ユーリルが黙って睨みつけていると、女は一層深い笑みを浮べた。
「陛下がお気に召されていると噂の勇者殿を一目と思ったが、その必要などないようだ。ユーリルとか申したか。そなた、これより先、デスパレスに足を踏み入れることをわたくしが許さぬ」
 不意にまたひとつ、魔族の気配が山奥の村を訪れた。村の入り口近くに移動呪文で現れ、律儀にも中へは歩いて入ってくる。そうするのは一人しかいない。ユーリルが顔を向けると、珍しく甲冑を脱いだピサロナイトの姿があった。
 アドンはユーリルと差し向かいに立つ女に言った。
「こちらにおられましたか。城へお戻り下さい。迎えの者が参っております」
 女はゆるやかな仕草で少し振り返ると、その場に跪くアドンを見下ろし、満足気に頷いた。
「そなたがきたか、アドン」
「陛下は執務から離れることが叶いませんので」
「良い。陛下が、腹心のそなたを向けられたのであろう」
 赤い唇の端を持ち上げる女の笑みに、ユーリルは強張った声を投げた。
「……なんで、あんたにそんな事言われなくちゃいけないんだ。デスパレスはピサロのもので、あんたのものじゃない」
 アドンは驚いたように顔を上げ、女はそれこそ聞きたかった言葉だとばかりに微笑んだ。
「じきにわたくしのものになる。わたくしが陛下の妃となれば、そなたなどもう用なし。陛下は、そなたが訪れることを望んではおられない。なぜとは問うてくれるな、勇者殿。わたくしには陛下がそなたに飽きた理由など、とんと検討はつかぬ」
 女の言葉を聞いたユーリルの表情をどう捉えたのか、アドンがそれとなく口を挟んだ。
「お戻り下さい。迎えの者が城にて往生されておりました」
「ほう、そなたは勇者殿の味方をするか」
 おかしそうな女の言葉に、いえ、とアドンは頭を垂れる。その仕草に、この女が魔族の間でも特に位の高い家の生まれなのだろうと思わせた。
 ピサロが飽きた理由など判らないと言いながらも、頭から爪先までとっくりと眺めやる眼差しの底意地の悪さに、ユーリルは唇を噛み締めた。
 そのなりではピサロにも飽きられるだろうと言外に告げる本意に気付いたのだ。
 だが、涙など沸いてこない。
 それよりも怒りが勝る。
 こんな女をピサロが生涯側に置くことになるのかと思うと、それだけはどうしても避けねばと言う気持ちになる。
 ピサロの側には自分が相応しいと、そんな風に思うわけではない。むしろ、自分ほど似つかわしくない相手はいないと思っている。では誰が、となれば、ピサロの側に立つに相応しいのはロザリーだとユーリルは考えていた。
 穏かで芯が強く、ピサロの陽となり影となり彼を支えてゆける懐の深さがある。わけ隔てなく誰になりとも接することができ、自分の尺度よりもピサロの尺度を優先する。慈愛深く、ピサロを愛し、そしてピサロに愛されている。その上で、横からちょっかいを出してきたような自分にすらも与える優しさを彼女は持っていた。そしてそれを、容認する度量もだ。
 この女など及びもつかぬ相手を、なぜピサロは選ばないのだとユーリルは悔しくなった。
 ロザリーが相手なら、諦めもつく。それにはずっと覚悟をしてきたからだ。
 だが、こんな見も知らぬ相手にピサロの隣に立たれるなど我慢ができなかった。
 ぎゅうと拳を握り締めれば、女は反応のないユーリルに興味が失せたのか、少しばかり意外そうな顔をした。
「そなた、姿ばかりでなく耳も悪いか」
「悪くない。だけど、あんたには何も言う事がないだけだ」
「ほう、言うてくれる。陛下の寵を頂いたからと妃のつもりでおるか、勇者殿。見目も生まれも悪いそなたに立后は叶わぬぞ」
「するつもりもない」
 ユーリルは吐き捨てた。
「ピサロには、俺よりももっと似合いの人がいる。あんたなんかその人の足元にも及ばない。一度くらいピサロと寝たからって、図に乗らない方がいい。それに、そうやって布れ回るのも止めたほうがいい。あんた、一晩きりの相手かもしれないからさ」
 ユーリルが少し唇の端を持ち上げて見せれば、女はカッと頬を赤くした。綺麗に整えられた爪をぐっと握り込み、ユーリルを憎々しげに睨み付ける。その赤い瞳に、ユーリルも唇を噛み締めた。
 しばし、沈黙の睨み合いが続いたが、先に目を逸らしたのは女の方だった。
「わたくしが妃に立てば、この村など滅ぼしてくれる」
 それを捨て台詞に、女は短い詠唱の言葉を口にした。すぐさま女の身体は燐光に包まれ、一瞬の後に魔力が爆発したかと思うほど辺りを光が照らし、すぐに掻き消える。移動呪文でデスパレスに戻ったようで、どれだけ気配を探ろうとも当たりに女の気配はなかった。
 どっと息を吐いてその場にへたり込めば、じっと黙って控えていたアドンが慌てたように駆け寄った。
「ユーリル様」
 気遣うように触れる手に、思わずユーリルは縋りついた。
 心臓がばくばくといつになく激しく脈打ち、呼吸もままならない。今になって女に抱いていた恐怖心がぶり返してきて、座っているのに足はがくがくと震えていた。溢れる涙を拭えずにいるユーリルに、アドンが驚いたように目を見張っていたが、やがて穏かな笑みを頬に浮べた。
 差し伸べられた手が、濡れる頬を拭った。頬にこびりついていた土と涙とが交じり合い、それはアドンの手を汚したが、彼は気にも留めなかった。
「ご立派でしたよ、ユーリル様」
 暖かさに満ちた言葉に、ユーリルは大きく息を吐き出した。そしてぎこちない笑みを浮べる。
「び、びっくりした……い、きなり、あの人がきて…それで、ピサロの、お、奥さんになるって…お后様になるって、言って、城にもうくるなって……」
 アドンは哀れなものを見るように目を眇め、ユーリルが縋りついている手を握り締めた。ユーリルはアドンを見上げて声を詰まらせた。
「ピ、サロは………結婚するの?」
 ひどく言い辛そうに躊躇うアドンを見上げていると、アドンはひとつ深い息を吐き、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……いずれは」
「…あ、の人と…?」
「それは、解りません。ですが、あの方はお家柄も良く、またお父君も魔界で権力を持つ方であられますから……」
「ロ、ロザリーさんは…? ロザリーさんだと俺は思ってた。ロザリーさんと結婚するんなら、ロザリーさんはピサロにぴったりだって! だって、ずっとそう思ってたのに、そう思って、ちゃんと笑ってお祝いを言えるようにって練習したのに! どうしてだよ、なんでロザリーさんじゃないんだよッ?」
 ぽろぽろと涙を零して縋りつくユーリルの背を、アドンは抱きしめた。ユーリルはアドンの腕の中で目を丸くした。今まで彼は、そんな事を一度もしなかったし、するとも思っていなかったのだ。アドンはピサロの騎士であり、ユーリルとも一定の距離を保っていた。友人であるような、それでいて部下であるような、不思議な位置を己の場と決め、それ以上進まず、また退さず、ユーリルと接してきたからだ。
 驚き目を見張るユーリルをぎゅうと強く抱きしめ、アドンは低く告げた。
「ロザリー様もまた、お后候補のお一人です」
 耳の側で囁かれた言葉に、ああ、とユーリルは眉を寄せた。
 覚悟していた事態が訪れたのだと、悲しみに満ちた心に絶望が差す。覚悟していたはずなのに、何度もその時を思い描き覚悟を決めたはずだったのに、心は悲しみを叫んでいた。
 もう涙は留まらず、アドンの肩をしとどに濡らす。
 やはり、と言う思いもあったが、それをアドンに告げられたことに悲しみが増した。できるなら、ピサロに言ってほしかった。でなければ、候補に挙がっているロザリー自身に、面と向かって伝えてほしかった。
 ピサロと同じ髪、ピサロと同じ瞳、そしてピサロに似通った顔、ピサロと同じ香りを纏うアドンの腕に抱かれ、ユーリルは目を伏せた。アドンの肩に顔を押し付ければ、暖かな手が髪を撫でる。
 声を殺して泣くユーリルに頬を寄せ、アドンが切なげに囁いた。
「……今は、私をピサロ様と思って詰って下さい。ピサロ様にお伝えにならない言葉を、私の胸にしまいます」
 そして彼を忘れよと、彼は言う。いずれどなたかを妃に迎える魔王をこれ以上想うなと彼は言う。
 優しい言葉に、ユーリルは首を振った。
 詰る言葉などひとつもない。
 伝えられない思いはたくさんあるが、言葉にすれば余計にたまらなくなる。そして何より、忘れられるはずもない。最初の恋であり、最後の愛であり、そしてすべてだったあの人を忘れられなどしない。
 ただただ縋りつくユーリルにアドンはどう思ったのだろうか。より一層抱きしめる手に力が籠もり、ユーリルにはそれが有難かった。
「……私が、お側におります…」
 アドンの腕に抱かれ、アドンのぬくもりを感じ、ユーリルはピサロを想う。
 そしてただ一人、事情も知らされず置いていかれるばかりの我が身に哀れを覚え、ユーリルはまた少し涙と嗚咽とを零した。

 とゆーわけで、『解っていた』続編です。悲恋シリーズです。ユーリルを泣かすとなると途端にイキイキし始める私ですが、今回はサキさんのリクエストでーす。悲恋! 悲恋っていいですよね! 悲しい恋ですよ! 叶わないんですよ! 報われないんですよ! なのに忘れられないんですよ! ああもうそう言うのすごい大好物。ピサ勇ってラブラブが多いので悲恋ってあんまし見ないんですよね。うーん、やっぱり最初の出会いが出会いだからかなぁ。あの時点ですでに「ピサ勇は悲恋だ!」と刷り込みされた私は一体……。ピサ→勇で、ピサ←勇なんですよ。両思いなのに叶わない恋。両思いだけど伝えない恋。いいなぁ、うっとりだ…幸せ貧乏だ…!
 んでもってすっごく書いてて楽しかったのがお后候補の女の方。名前決めてない。いっそマルチェッラにでもしてやろうか(マルチェロの女性形)。また出す機会でもあれば名前考えたいと思います。
 あ、そうそう。うちのアドンの容姿はピサロ似ですよ! 元影武者説を思い切り引き摺ってます! そうでなけりゃこの話なりたたないので(笑)。
 npngのサキさんから超素敵イラストを頂きました! こちらからどうぞ。