解っていた |
「陛下…」 熟れた果実のような甘ったるい声に、ユーリルは目の前が真っ暗になるような思いだった。 「お慕い申し上げております、陛下」 嗅ぎ慣れぬ香水の香りに、頭までがぼんやりと酩酊しているようだ。どくどくとこめかみで心臓が脈打っているのかと思うほど、激しく鼓動が鳴り響いている。 ユーリルはぎゅっと心臓の辺りを掴むと、音を立てぬようにそっと後ずさった。薄く開かれた扉は、いつもと同じ扉であるはずなのに、なぜか今まで見知ったことのないもののように思えた。 一歩二歩と後ずさり、広い廊下の壁に背が当たる。腰から下げていた護身用の剣が壁にぶつかり、かちっと些細な音を立てた。だがユーリルには、それはまるで銅鑼の音のようだった。飛び上がるほど驚き、ユーリルは慌ててその場から駆け離れる。世界に平和が満ちてからというもの、これほどまでに全力疾走した事はない。ぜいぜいと上がる息を持て余し、ユーリルは城外に飛び出した。門番に立っていたライノソルジャーが真っ青な顔で走り抜けたユーリルを不思議そうに見ていたが、声をかけることはなかった。 ユーリルは走った。 とにかく、後も見ずに一刻も早く、一歩でも遠く、デスパレスから遠ざかることだけを考えて森の中を突き進んだ。ルーラを使わなかったのは、呪文の波長に気付かれてしまうからだ。 「っ…!」 ピッと頬に走った痛みに足を止めると、飛び出していた木の枝に頬をひっかけたようだった。皮膚が裂け、じわりと生暖かい血が滲み出る。 「……痛い……」 ユーリルはそこを指で押さえ、指に伝う血の赤に眉を寄せた。 夢ではない。 心臓が爆発しそうだった。 頭の中には思い出したくもないのに、つい先ほどの出来事が映像となって浮かび上がってくる。 薄闇に包まれた寝台の中で、見知らぬ女が組み敷かれていた。銀色の髪に伸ばされた指が触れる。爪が磨かれ綺麗な色を塗った指が銀色の長い髪に触れていた。 触るな、ともう少しで叫ぶところだった。 離れろ、ともう少しで怒鳴り込むところだった。 それは俺のだ、と甘ったるい匂いを撒き散らす女から、あの美しい髪を持つ人を引き剥がしたかった。 腰の剣を抜き、ピサロの下でしどけない姿を晒す女の喉を一息に突いてしまいたかった。 ロザリーではなかった。それどころかユーリルの知る他の、誰でもなかった。 陛下、と女はピサロを呼んだ。魔族の女だろう。人の姿であるなら、それなりに力のある魔族に違いない。ピサロとは一体どのような関係なのだろうか。いつかピサロのお世話係のホイミスライムが言っていた、ピサロのお妃候補の女だろうか。ピサロは彼女を妃に選んだのだろうか。 ユーリルは止まっていた足に気付き、ぼんやりと一歩踏み出した。 足の下でポキッと小枝が折れる音が聞こえたが、ユーリルの耳には届いていなかった。 ピサロに妃が必要なことは、ユーリルとて解っていた。ピサロは魔族の王だ。子を残し、跡を継がせる必要がある。ユーリルと永遠と添えぬことなどは明白で、それでなくとも生きるときの長さが違う。ユーリルは天空人と人間との間に生まれた混血で、ピサロは純血な魔族だ。どちらがより寿命が長いかなど、深く考えることもない。ピサロは長い時間を生きる。自分は、その間のほんの少しの時間に立ち会っているだけに過ぎないのだと、ユーリルは解っていた。 解っていた。 ピサロの側に、誰かが立つことも、解っていた。 そしてピサロが、側に立つ誰かを愛することも理屈では理解していた。 覚悟をしていた。 そのはずだったのに。 「………う、うー……」 泣くもんか、とユーリルは唇を噛み締めた。 絶対に泣くもんか、と拳を握り締めた。 頬を伝うのは、血であって、涙などではない。さっき小枝で切った頬から流れる血なのだ。 熱くなった目からぽろぽろと零れ落ちる何かを拭い、ユーリルは奥深い森の中を歩き続けた。振り返ることはしない。そうした途端、機械仕掛けのように動く足は、きっと歩みを止めてしまうだろうから。 「ううー…」 唇を片手で押さえ、ユーリルは息を殺そうと努力した。溢れる声は、嗚咽などではないと思い込もうとした。そして涙ではない何かがひっきりなしに零れる目を拭いながら、ユーリルはデスパレスから少しでも遠くなるようにと必死で歩き続けていた。 |
繭さんに「うちのユーリルはピサロの浮気現場なんぞを目撃したら泣きながら夕日に向かって走りますよ」と言ったものの、実際には森に向かって走ってました。うーん惜しい! 浮気は男の甲斐性だ!と言われますが、うちのピーは甲斐性はあるかもしれんけど、意気地がないので浮気はできません。でも何とか頑張ってしてもらいました(笑)。やっぱピーは王様だから、お后様もいずれは迎えるだろうし、そうなった場合ユーリルの立場はないよなー、とふと思った。うちのピーはユーリルが死んでからお后様を迎える予定なので(と勝手に私は設定した)こんなことはないだろうと思うんですが。 でも好きなんです、悲恋話!(笑顔) なんだか妙にすっきりした気分の作者でありました(笑)。 |