空から下を見ることは、二度とないと思っていたのに、思いがけずも早くそうなってしまったことに、目を覚ますたびに戸惑いを覚える。
 傍らにシンシアがいて、にこにこと以前と変わらず微笑んでいる。
 お寝坊さんね、と笑いながら鼻をちょんと指先で押し、早く顔を洗っていらっしゃい、と急かされる。ああそうだ、父さんにお弁当を持っていかなくちゃ、と身を起こし、ようやくそこがかつて自分が住まった山奥の村でない事に気付く。
 花の香りに満ち、清らかな風が吹き、豊かな土に実り多い作物。見たこともないような美しい鳥に、野生の獣達が群れ集う。光溢れる空は青く、どこまでも抜けるように澄み渡っている。
 ここは、天上の楽園だ。
 死した者の中で、心清らかな者だけが辿りつける場所だとシンシアは言った。
 俺がここにやってきたのは、もう何十年も前のことだけれど、いつになってもこの場所に慣れることができない。
 俺とシンシアの他にもたくさんの清き人たちが生活していて、それは何も人間だけには留まらず、エルフや天空人、鳥や虫、魚に獣、一種を除いたすべての生物の清き者達がいた。
 天上の楽園に招かれないのは、闇により産み落とされたものだ。
 魔物であれ、魔族であれ、俺は一度としてここで、闇を纏うものを目にした事はない。
 誰か一人でもいい。
 魔物でも魔族でも、誰か本当に一人だっていいのだ。天上の楽園に招かれれば、彼がどうしているかを直接聞くことができたのに、といつも悔しくなる。
 俺は何も望んでここへきたわけじゃない。
 闇を纏う魔物を屠り、たくさんの命を奪い、魔物の血に染まり闇を浴びた身であるのに、勇者であったと言うそれだけで、俺はここに招かれた。
 そして二度目の生を授けられ、尽きぬことのない永遠の時を過ごすのだと言う。
 時の流れがない中で、みんながみんな、幸せそうに笑顔を浮かべて暮らしている。
 だけど俺は、いつだって何か物足りないような気分になる。
 だからこっそりと家を抜け出して、人が暮らす集落も走り抜け、辺りに広がる深い森の中へ入る。森の中は生い茂る木々の葉が光を遮り、まるで地の底のように暗い。そしてその奥にある世を映す泉で、俺は下界を見るのだ。
 あの人がいやしないだろうかといつも目を凝らす。
 昼の光の中であれ、夜の月光の中であれ、何に紛れることもなく輝く銀色の髪が、どこかに映りやしないだろうかと胸を高鳴らせ、そして夕暮れにはがっくりと肩を落として家路に着く。
 天上の楽園からは魔界を垣間見ることすらもできない。許されない。
 下界を映す泉に指先を浸す。歪む水面の上で、生きる人間の姿を俺は見る。
 どれだけ丁寧に満遍なく世界を見渡しても、そこにあの人の姿はない。
 魔界の奥深くに帰ったのだろう、魔族の王の姿はない。
 一目でいい。
 もう一度見ることができたのなら。
 何十年もたった今の彼の姿を目に焼き付けることができたのなら。
 この動かない時の中ですら、俺は灯火を見つけ、生きていけるというのに。
 そっと手を伸ばし、かつてのデスパレスがあった辺りを泉に映してみる。
 すでに住むもののない廃墟となったそこには、時折魔物の姿がある。だが住むものこそないものの、魔王の城である事には変わりないデスパレスに長居するのは居心地が悪いのか、それとも何らかの理由によって戒められているのか、住み着いている魔物はいないようだった。魔物よりも野生の動物の方が多い。あの人がいたあの頃は整然と、そして粛々と整えられていた城は子狐の冒険心を満たす場になっていた。
 玉座は荒れ果てていた。
 活気付いていた厨房は火が途絶え久しい。
 愛らしくも口喧しい従者が泳ぐように空中を浮遊した王の居室に、漂うものは割れた窓より入る光だけ。
 王の居室の調度品はそのままではあるが、手入れがされていないのでひどく廃れている。
 恭しく頭を下げては入室の許可を求めた甲冑姿の彼の声も、あの優美な指先が執務机に頬杖をつき、熱心に捲っていた書物が立てるはらはらと言う音も、時折吐く暖かな息吹も、名を呼ぶ声をも、何もそこには響かない。
 執務室にあったたくさんの書物はごっそりと消え去り、埃塗れの巨大な執務机と、置き忘れられ、色の変わったマントだけが彼がいた証だった。
 手を伸ばし、俺は触れることのできないそれに指を這わせる。水の冷たく頼りない感触だけが指を濡らす。そして胸の奥をびゅうびゅうと乾いた冷えた風が吹きぬける。
「ピサロ」
 こっそりと、口の中だけで呟く彼の名に答えるものはいない。
 せめて、何の気配もない城に花だけでも添えたいと、泉の中に俺は摘んだ花を落とす。落ちた先で花開けばいいと、摘むのはいつも蕾ばかりで、結局それは泉の底に沈み、朽ちていくだけだ。
 花を摘んでは見せた俺を、彼は子供を見るような仕方のないような目で見つめていたけれど、その瞳に篭る気持ちは暖かかった。
 それを思い出すと、冷たい泉の奥底で朽ちる蕾が憐れに思える。
 それでもやめられない。
 一目でいい。
 本当に、一目でいいのだ。
 あの銀色の輝きを、赤い光彩を放つ意思の強い瞳を、恐ろしいまでに整った美貌を、そして俺を見るときには少しばかり温かみが増えるかすかな笑みを。
 それが誰に向けられるものでもいい。
 こっそりと天上から覗くことができたなら、もうそれだけで地獄に落とされてもいいと思うのに、俺の願いはいつだって叶わない。
 だから俺は、いつも蕾の花を落とす。
 あなたに、いつか届けばいいと祈りを込めながら、蕾を落とす。
 それが開くことは決してないと、知ってはいるけれど。





 楽園と言う名の檻の中、記憶の中にしか居ぬあなたを思えども、見えず時は永久に廻り、尽きぬ恋情に身は焦がれる。

 たまにはこーゆー話も書きたくなる。書くだけ書いてアップせずに放置してるモノローグみたいなのは結構一杯あります。ファイル整理の時に削除しちゃったりするんですが、勿体ないかなぁと今更アップしてみました。
 それはともかく恋歌のように一句詠んでみましたが(一句なのか?)。恋歌があれば返歌もあるわけで。まだ形にはなってませんが、その内書き終えられたらアップしたいです。