恋の奴隷


 まるで息などしていないような人の唇に、鼻先に、瞼にくちづけをする。
 気付いてふと押し上げられる白い瞼の中から現れる、赤い血の色にも似た柘榴の瞳に、にっこりと微笑んでおはようと言えば、冴え冴えとした冷たさを纏っていたその色が、ほんの僅かに柔らかく綻ぶ。ああ、と頷く人がくれる眼差しが、どれほど嬉しいか、そしてどれほど愛しいか、きっと誰にも解るまい。
「ピサロ、いい天気だよ」
 しどけなく寝乱れた銀色の髪を指先で摘み、そこへひとつのキスを落とすと、朝には弱い魔族の王様は銀色の瞼を羽ばたかせて欠伸をする。
「………もう花摘みだの魚釣りだのは、行かんぞ」
 億劫そうに漏れる声に、うんいいよ、と頷いて、再び眠りに落ちようとする瞼にもう一度キスをする。早く目覚めてと気持ちを込めてキスをすれども、その願いは届くことなく魔族の王様はまた寝息を立て始める。あんまりにも早くに起こすとまるきり寝ぼけて使い物にならないから、気を使って昼まで待ってみたけれど、これでは朝も昼も変わらない。
 むぅと唇を曲げ、ユーリルは広い寝台の上で泳いでいた枕を抱え込み、じゃあいいよ、と呟いた。
「ロザリーさんと出かけるから。花摘みに行って、魚釣りして、海に泳ぎに行くよ。ピサロは一人で寝てればいい。お土産も持ってきてあげないし、釣った魚もあげないし、海で貝を拾っても見せてあげない」
 足の先で寝入っている背中を蹴飛ばしても、寄せられた眉の皺が深くなるだけだ。うう、と唸るような声に、いいよいいよ、とユーリルは不貞腐れた様子を装った。
「一人でずーっと寝てればいいよ」
「………少し、待て…日が落ちてから…」
「日が落ちるの待ってたら一日無駄になるだろ。ピサロは寝てたら? 俺はロザリーさんと出かけるから」
 何着て行こうかなぁ、と白々しく鼻歌を歌いながら寝台を下り、部屋の豪華な調度品の引き出しを音を立ててぱたぱたと開ける。ズボンを取り出して服を着替え、それでも寝坊の魔族の王様の目は覚めない。ちぇ、と舌打ちをし、靴を履く。
 部屋を出る間際にちらりと振り返るも紗のカーテンのかかった寝台の中で、ユーリルの王様はぴくりとも動きはしない。ちぇ、とこれ見よがしな舌打ちをもう一度して、ユーリルは大きな声を張り上げた。
「あーあー、つまんないの! マーニャにいい男でも紹介してもらおうかなー!」
 寝台の上に横たわったピサロはそれでも何も反応せず、ユーリルはむっと眉を寄せた。ドアに手をかけて、顔も上げないピサロの背中に大声を上げる。
「ピサロは俺が浮気してもいいって言うんだなっ?」
 大きな枕を抱き込むようにして顔を埋めている魔族の王様は、その言葉に、うう、と呻き声を返す。多分きっと絶対に、寝ぼけた頭の中に今の言葉は入っていずに、何かわぁわぁ言っているから返事だけしておけとばかりに洩らした言葉だったのだろうけれど、なんだか、はいどうぞと言われているようでユーリルは腹が立った。
「解ったよっ! じゃあマーニャにいい男紹介してもらって浮気してくるっ!」
 思い切りばしんと扉を閉めれば、部屋の扉の番をしていた死神の騎士が骨を鳴らして笑っている。うるさいなぁっ、と文句を言いながら、複雑な模様や金や銀で細工の施された豪華な扉を思い切り蹴り上げ、憤りも露に廊下を歩き出したユーリルは、部屋の中でどすんと聞こえた大きな鈍い音に驚いた。思わず足を止めて振り返ると、慌しく扉が開き、ガウンを一枚羽織っただけの魔族の王様が素足で飛び出してくる。
 寝乱れた銀色の髪はぐしゃぐしゃで、その上息を乱してガウンもきっちり前が合わさっていない。慌てて駆け出してきたみたいで靴も履いておらず、ついでにうっかり寝台から転げ落ちたのか、ガウンから覗く膝が赤くなっている。折角の美丈夫が台無しだった。
 魔族の王様は乱れた息を二度の呼吸で元に戻し、目を丸くしているユーリルの腕を掴む。そしてちらりと横を見た。扉の番をしている死神の騎士は、できる限りそっぽを向いて、骸骨にできる範囲で素知らぬ顔をしている。ぴーぷー口笛でも吹きそうな番人を側に見ながら、魔族の王様はやっぱり呻くように言った。
「少し待て。着替えて、ロザリーヒルへ連れて行ってやる」
「連れてくだけ? 花摘みは?」
 う、と眉を寄せる魔族の王様は、またもやちらりと番人を見た。骸骨は隙間だらけの両手で耳を覆っている。
「連れて行ってやる」
「魚釣りは?」
「…付き合う」
「海は?」
「行けばいいのだろう」
 折角の綺麗な顔が苦みばしって歪み、今にも歯軋りをしそうだ。ユーリルは笑い出したい気持ちをぐっと堪えながら、自分よりも高い魔族の王様の顔を見上げて尋ねた。
「浮気は?」
 魔族の王様は、番人を見た。骸骨はとうとう背中を見せ、壁に向かって立っている。しっかりと隙間だらけの両手で耳を覆って、聞かないふり、見ないふりだ。
「……………するな」
 ユーリルはにんまりと笑うと、伸び上がって引き結ばれた唇にちゅっと軽い音を立ててキスをした。赤い目が大きく見開かれ、そしてすぐにやんわりと緩む。取り澄ましていれば冷たい印象しか抱かない瞳が、そうやって変わりゆく様がどれだけ愛おしいか、好ましいと思っているか、きっと誰にも解るまい。
 鼻先にキスを貰いながら、早く着替えろよ、とユーリルは急かす。すぐに、と頷いて踵を返した魔族の王様の背中に抱きついて、ずるずる引き摺られる真似をしながら部屋へ入る間際、ユーリルはぱちんと片目を閉じて見せる。扉の番人は居住まいを正し、厳しい顔を骸骨にできる範囲で装いながら、ユーリルのウィンクににやりと骨ばった顔を歪めて見せた。
 どれほど威張っていて魔力があって力もある魔族の王様も、愛しい恋人の前には無力な奴隷と言うお話。

 ベランダで虫かごピサロと一緒に飼ってる繭さんにエサ(ピサ勇)をくれと言われたので書いてみました(笑)。なんちゃって。そう言っといたらなんか描いてくれるかな〜とか期待して人様のせいにしてみたりして(笑)。あ、でもあれだ、就職祝い兼エサということで(笑)。
 なんだか唐突に甘いのが書きたくなって、最初はちょっとした本当に短い小話程度のにしようと思ったのに、いつの間にやらピー様がユーリルにいいようにあしらわれてる話になってしまいました。おかしいな。ちょっと可愛いわねぇこの二人、くらいの話が書きたかったんですが。いつだって書き始める前に「これが書きたい!」と思って書き始めたものが、書き終わったときにはまったく違う話になっているんです。ああ、でもピー様が慌てふためいてベッドから転がり落ちるのが、直接的な描写なくとも書けたのは満足かな。
 なんか描いてくれるかな〜と期待してたら本当に描いてもらっちゃいましたv 繭さんからの頂イラストはこちら→★