いつか伝える言葉


 じーっと、穴が開くほどしつこく見つめ続けられ、とうとうピサロは広げていた本を閉じた。こめかみが引きつりそうになるのをどうにか堪え、同じテーブルの向かい側に座り、両肘を行儀悪くもテーブルに付いて頬杖にする踊り子に顔を向けた。
「……何の用だ」
 長い睫を瞬き、いやねぇ…、とマーニャは溜息を吐く。溜息を吐きたいのはこちらだ、とピサロは言葉にせずに思った。何しろ夕食後、三々五々思い思いの時間を過ごすために散っていく仲間達の中で、いつもなら一番に飛び出していくマーニャが珍しく残っているかと思えば、宿にあった本を読み始めたピサロの顔をしげしげと眺め始めたのだ。最初は声をかければ余計な揉め事に巻き込まれそうで放っておいたピサロだったが、こうも延々、無言で見つめ続けられればいい加減に我慢の限界にも達するというものだ。
 憤りも露に尋ねるピサロへ、臆さずにマーニャは呟いた。
「あんたがどの面下げてユーリルに愛の告白したのかと思うとねぇ……想像の範疇超えちゃって」
 ひくっと頬を引きつらせるピサロに、両頬を支えていた手の片方を外し、マーニャは人差し指をピサロへ向けた。
「だぁって、あんたってば仏頂面一辺倒で、笑ってるところなんて見たことないんだもの。ユーリルがあんたに惚れる理由は解るのよ。だってあの子があんたを好きだって自覚する前から、あたしはあの子の気持ちに気付いてたんだし、応援もしてきたし。だけどねぇ、あんたとあの子が恋人って枠に収まるには、どっちかから告白して意思表示しなきゃならないわけじゃない? あの子がそんな事言い出すとはとても思えないし、あんたも言い出しそうにないんだけど、どっちかって言うとあんたの方が確立高そうだから、あんただろうなぁと思うんだけど……ねぇ?」
 ねぇ、と尋ねられても困るが、これで答えなければしつこく踊り子はつきまとうだろう。ピサロは閉じてしまった本を再び開き、さして興味もない文章の続きに目を走らせた。そして事もなげに告げる。
「己の感情を意思表示してでなければ恋人と言う枠に収まらないのであれば、私とあれはそう言う関係ではない」
「……はぁい? ピーちゃん、今あんた、なんて言った?」
「私とあれはそう言う関係ではない」
「綺麗に言い直してんじゃないわよ! 何それ、何っ? どう言う事? つまりあんた、あの子に好きだとか愛してるとか君だけだよとか甘い言葉を囁いて星の数を一緒に数えたりしてないわけっ?」
「……星の数を数えねばならんのか? だとしたらかなりの時間が…」
「阿呆ッ!」
 ばしんっと思い切りテーブルに叩きつけられたマーニャの手が、次の瞬間にはピサロの手の中にあった本を素早く取り上げた。その本も手と同じほどの勢いでテーブルに叩きつけられる。
「読んでいる途中なのだが」
「誰が生真面目に星を数えろって言ったのよ! ロマンティックな夜を過ごしたんじゃないかって聞いてんの! つまり、じゃあ、何っ? あんたもしかして一度としてあの子に好きだとかそう言う事、言ったことがないってのっ? うっそ、あんたそれ最低よ!」
「……言う必要もあるまい」
 マーニャの乱暴な手によってテーブルの上に放り投げられていた本を引き寄せようとしたら、察したマーニャがその上に手のひらを叩き付けた。言外に話はまだ終わってないのよと告げる大きな眼差しが、疑るようにピサロを睨んだ。
「なんで!」
「反対に私が訪ねたいくらいだな。なぜ言う必要がある?」
「なぜ? なぜですって? あんたって本当に最低ね、ピーちゃん!」
「その呼び方は止めろ」
「いいえ、止めません!」
 マーニャはぐいとテーブルの上に身を乗り出した。広いテーブルだったので、彼女の身体は半ば乗り上げるようになっている。寝そべりつつもピサロへ顔を近づけるマーニャの格好は、なんだか場末のバーでピアノの上にしどけなく寝そべり歌を披露する女に似ていなくもない。マーニャは綺麗に磨かれた爪をピサロの目の前に突きつけた。
「良い事、ピーちゃん? あんただって解ってるだろうけど、あの子はあんたが好きなの。それはいいわね?」
「……ああ」
「で、だ。そこに行き着くまでの間にあの子がどんだけ葛藤したか知ってんのよね? イムルの宿であんたとロザリーの夢見たあの子が、どんだけ泣いたか知ってるのよね? とくとくとあたしが説明したわよね? 泣かしたら承知しないってその時に言ったわよね?」
「ああ」
「そん時あんた言ったわよね。そんなつもりは毛頭ないって」
「………言ったか?」
「言ったわよッ! それくらい覚えてろ、この鳥頭ッ!」
 銀色の髪をわさわさと掻き乱すマーニャの手を掴んで遠ざけ、眉間に皺を刻みながらピサロは思い切り溜息を吐いてみせる。
「で、それがどうかしたのか」
「で、じゃないわよ。あんたねぇ、それだけ解ってんなら、なんであの子に好きとかゆー言葉を言わないわけよ? ピーちゃんだってあの子好きでしょ? ん? 好きだからチューとかするわけでしょ? んん?」
 まるで酔っ払いに絡まれているような気分で、ピサロは溜息を吐いた。もう本日何度目の溜息か解らない。この一行に同行するようになってから、いや、この目の前の踊り子とその妹の占い師に関わるようになってから、溜息の数がぐんと増えた。
「溜息吐いてんじゃないわよ」
「呑んでるのか?」
「お酒? やぁねぇ、あたしが酔うわけないでしょ。ちょこーっと気になったから尋ねただけじゃない。なんであの子に言わないのよ」
「何度言わせるつもりだ。なぜ言う必要がある?」
「あるわよ。大ありよ。あのね、好きな相手には自分が好きだって言ってほしいわけ。気持ちを確認したいわけ。愛されてるんだなぁって実感したいわけ! それには態度もだけど言葉も必要でしょうが! そうでなくたってあんたにはロザリーって言う巨大なこぶがくっついてんでしょうが! あんたがこの旅にくっついてんのは目的が同じだからって言ってたわよね? て事は、目的達成したらあんたはさっさと消えちゃうわけだ。それまでの間しかあの子とは一緒にいないわけだ。その後、どうするつもり? チューとか散々しといて、旅が終わったらハイさようなら? ロザリーと結婚でもする? そして二人で幸せに暮らす? じゃああの子はどうなるのよ。旅の間のいい玩具?」
 ひとつ尋ねれば、十倍の言葉が返ってくる。いい加減に無視して部屋に行くか、とちらりと寝室のある二階へ目を向ければ、こらっ、と手酷く髪を引かれた。
「目ェ逸らしてんじゃないわよ」
「酔っ払いの相手をしてくれる誰かはいないものかと思ってな」
「いません。つか、酔っ払ってねぇってのよ。あのねぇピーちゃん。あたしは何も特別なことをしろって言ってんじゃないの。普通の恋人同士がやる普通のことをあの子にしてやってってお願いしてるだけ」
「……お願い。これが?」
 髪をむんずと掴み、至近距離で睨み上げ、挙句人の手から本を取り上げておいて、お願いと踊り子は言う。ハッ、と鼻先で笑ってやると、マーニャはむぅと頬を膨らませたが、そこはぐっと我慢と思ったのか、まぁいいわ、と手をひらひらと振って見せた。
「あの子はね、あれが欲しい、これが欲しいって言わない子なの。あんたに好きだって言ってほしくたって言わないわよ、お願いもしないわよ。ぐっと堪えて、そんで一人で膝抱えて我慢してる子なの。あたしはあの子に幸せになってほしいの。だから変わりにあたしがあんたにお願いしてるの。あの子にそう言う事を言ってやってって。あんた、あの子が嫌いじゃないんでしょ?」
 髪を掴みながらも、下から伺う眼差しに、ピサロはまた一度溜息を吐いた。大きな瞳が何度も瞬きをするのを見下ろし、ああ、とピサロは呻くように告げる。
「嫌いではない」
「好きなんでしょ?」
 続けざまに言われた言葉に、答えずにいると、なんで言わないの、とマーニャは頬を膨らませた。
「ずるいわよ、あんた。自分は何も言わないで、相手が言ってくれるの待ってばっかり。ああ、まぁいいわ。じゃあ質問変える。あんたは、あの子が喜ぶ顔見たくない? 見たいでしょ? だったらあの子が望むことを先回りしてしてやってよ。つまり、好きだって言ってやってってこと」
「……ところで」
「なぁに?」
「なぜお前がそこまで言うのだ」
「あら、そんなの決まってるじゃない」
 マーニャは目を丸くすると、からからと笑った。ピサロの長い髪を指先に巻きつけて遊びながら、にっこりと笑みを浮べる。
「あんたが右往左往するのが面白いからよ」
 ぴきっと頬を引きつらせたピサロを見て、嘘嘘、とマーニャはあっけらかんと言った。
「あの子に幸せになってほしいからよ。あんたはあの子を幸せにできる種を一杯持ってんだもん。発芽させてやんなきゃ、でしょ? あんたがずっと握りっぱなしにしてる種をね、意気地なしのあんたの手から落としてやるのがあたしのお仕事なわけ。要はきっかけを作りたいだけ、あの子が幸せになるきっかけね」
 ふふ、とマーニャは微笑んだ。
「あんたの側であの子が笑ってると、それだけであたし嬉しいわ」
 くるくると指先で銀色の髪をもてあそんでいたマーニャが、ふと指を止めた。髪を絡みつかせた指を己の目の前に持ち上げ、長い睫を瞬く。
「あら、枝毛」
 カットする? と尋ねるマーニャに答えようと唇を開いた時、ギィと二階の寝室のどれかの扉が開く音がピサロの耳に聞こえた。手入れはされているようだが、元々古い宿だ。床はうっかりすると軋む音を立てるので耳障りこの上ないが、足音がするのは気配を殺すのに長けている連中のいる宿には都合良い。なぜなら誰がこっそり近付いてきているか解るからだ。
「……何してんの? 二人とも」
 上からかかった声にピサロが顔を上げれば、寝室が並ぶ二階の手すりから身を乗り出し、吹き抜けの下の部分を見下ろすユーリルの姿があった。何をしているのかと問われてみれば、確かに踊り子はテーブルの上に寝そべっているし、彼女の手は自分の髪を掴んで弄り回している。ついでに、さきほど髪全体を掻き乱されたので、少々乱れ気味だ。
「何って…ねぇ?」
 色っぽい微笑みを浮べた、マーニャが足をぴこぴこと動かしながら、ピサロを見た。
「大人の会話よ。ね?」
「……確かに」
 ピサロが呻きながら言うと、あらこっちも、と反対側の肩に流れている銀色の髪をひとすくいつまみあげたマーニャが、毛先に目を細めている。
「手入れしなくちゃ駄目よ、ピーちゃん。あんた折角綺麗な髪してんのにもったいないじゃない」
「えーなにそれ、大人の会話って何? 俺も仲間に入れてほしい!」
「駄目よォ。だってあんたお子様なんだもの」
「確かにマーニャみたいに年増じゃないけどさ」
 身軽に階段を下りてきたユーリルが、ピサロの傍らの席を引いて座る。誰が年増ですって、と伸びるマーニャの手がユーリルの鼻をぎゅっと摘んだ。そして唇を尖らせると、これ見よがしにふわぁと大きな溜息を吐く。
「あーあ、なんだか眠くなっちゃった。じゃあね、ピーちゃん。あたしそろそろ寝るから、枝毛の手入れしなさいね」
「なんだ、髪の手入れ?」
「そうなの。あたし達みたいに髪が長いとね、色々大変なのよ。じゃ、おやすみィ。ピーちゃん、例のことよろしくね〜!」
 ぴょんとテーブルの上から飛び降りたマーニャが、ちゅっと音を立ててピサロの頬に唇を押し付けていく。顰め面で迷惑だと全面に押し出すも、それよりも押しの強い踊り子には叶わなかった。頬に口紅をくっきりと残され、裸に近い格好の踊り子が宿の会談を上がっていくのをピサロは睨んで見送る。
「あーあ、しっかりついちゃってるよ、口紅。後で石鹸でこすらなくちゃ駄目だね」
 ユーリルが自分に向けられているのとは反対側の頬を覗き込んでおかしそうに笑う。手を伸ばし、頬についた口紅を擦るも最初から落ちにくいように作られているそれはなかなか落ちない。駄目だね、と笑うユーリルにピサロは手を伸ばした。頬に触れる手を取り、指先にくちづけを贈る。ちらりと目を上げれば、不思議そうな顔をしているユーリルの額に唇を寄せた。風呂に入ったばかりなのか、ユーリルの身体からは柔らかな湯の匂いがする。閉じた瞼の上に唇を押し当て、ピサロは密やかに告げた。
「……ユーリル」
「え?」
 ぽつりと呟いたピサロの言葉に、ユーリルは伏せていた目を押し開く。現れる紅玉髄の瞳を見つめ、ピサロは目を細めた。
 あんたはあの子を幸せにできる種を一杯持ってるんだから。
 諭すような踊り子の言葉が蘇り、ピサロはくちづけを寄せたユーリルの手を握り締めた。ぽかんとした眼差しで見つめるユーリルにピサロは言った。
「いつか、伝えたい言葉がある」
「……いつか?」
「ああ。いつか」
「今じゃなく?」
「ああ。今ではない」
「……ふーん」
 ユーリルは少し首を傾げたが、すぐに笑みを浮べると、解った、と頷いた。
「じゃあそれまで待ってる。何か良く解らないけど」
 にこりと浮かぶ邪気のない笑みに、ピサロはつられたように少し微笑んだ。
 あの子が笑ってると、あたしそれだけで嬉しいわ。
 確かにお前の言う通りだ、とピサロは初めて踊り子の言葉に共感を抱き、微笑むユーリルの唇にくちづけを寄せた。

 実は好きなんです、ピサロとマーニャの組み合わせ。ピサロとミネアの組み合わせも好き。というかピサロVS姉妹という様式が好きなんですね(笑)。多分ピサロはミネアとマーニャには叶わない。腕力だの魔力だのではいくらでも勝てるだろうけれど、口では勝てないし、尚且つ力尽くでどうこうしようとも思わない。というか、思えない(笑)。うちのピサロは意気地なしなので、多分勝てるんだけど勝とうとしない。自分が我慢して円満にすべてが運ぶのならば我慢しようではないかと言う事なかれ主義の魔王。そんなんだからエビプリに下克上されちゃうんだよ、ベイビー(誰だよ)。
 今気付いたけど、ピサロと姉妹、そしてユーリルの関係はなんだか家族に似てなくもないかな。息子(ユーリル)べったりの姑(姉妹)。嫁にきたけど諸々の事情で肩身の狭い嫁(ピサロ)。けんつく言われても自分が我慢してればいいんだからと耐える嫁(ピサロ)。嫁いびりに喜びを覚える姑(姉妹)。……勇ピサ? ええまぁそれも好きですよ(笑顔)。